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灰となる薄幸、心を焦がす余燼

灰となる薄幸、心を焦がす余燼

By:  酒井聴子Kumpleto
Language: Japanese
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私と一条慎也(いちじょう しんや)が籍を入れずに夫婦として暮らして九年目の春、彼の父親が亡くなった。 遺言の第一条は、慎也と水野有希(みずの ゆき)、二人の間に子供をつくること。 その子が生まれて一ヶ月を迎えた時、それが慎也の父親の遺産を正式に相続できる日となる。 この現実を、私は自分と慎也の寝室で二人が抱き合っているのを見てしまった時、慎也自身の口から知らされた。 あの夜、事が済んだあとで、彼は煙草に火をつけて、低く呟いた。 「理央(りお)、もう少しだけ待っててくれ。遺産が手に入ったら、必ず君を迎えに行く」 それからというもの、慎也が有希と家で会うたびに、玄関には小さな鈴の飾りがそっと掛けられた。 父親が亡くなってから今日まで、その鈴が鳴ったのは九十九回。 そして九十九回目のあと、私の耳に届いたのは―― 有希の妊娠と、二人の婚約披露宴の日取りの知らせだった。 娘は披露宴の招待状を見て、不安げに小さな声で私に訊いた。 「どうして、この招待状の中にパパの名前があるの?」 私はなんとか微笑みを作り、彼女の乱れた三つ編みを直してやる。 「パパは愛する人と結婚するの。ママも君を連れて、おうちに帰るよ」 慎也は知らない。私は、あの婚姻届に、一度たりとも執着したことはなかったのだ。

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Kabanata 1

第1話

私と一条慎也(いちじょう しんや)が籍を入れずに夫婦として暮らして九年目の春、彼の父親が亡くなった。

遺言の第一条は、慎也と水野有希(みずの ゆき)、二人の間に子供をつくること。

その子が生まれて一ヶ月を迎えた時、それが慎也の父親の遺産を正式に相続できる日となる。

この現実を、私は自分と慎也の寝室で二人が抱き合っているのを見てしまった時、慎也自身の口から知らされた。

あの夜、事が済んだあとで、彼は煙草に火をつけて、低く呟いた。

「理央(りお)、もう少しだけ待っててくれ。遺産が手に入ったら、必ず君を迎えに行く」

それからというもの、慎也が有希と家で会うたびに、玄関には小さな鈴の飾りがそっと掛けられた。

父親が亡くなってから今日まで、その鈴が鳴ったのは九十九回。

そして九十九回目のあと、私の耳に届いたのは――

有希の妊娠と、二人の婚約披露宴の日取りの知らせだった。

娘は披露宴の招待状を見て、不安げに小さな声で私に訊いた。

「どうして、この招待状の中にパパの名前があるの?」

私はなんとか微笑みを作り、彼女の乱れた三つ編みを直してやる。

「パパは愛する人と結婚するの。ママも君を連れて、おうちに帰るよ」

慎也は知らない。私は、あの婚姻届に、一度たりとも執着したことはなかったのだ。

……

今日、慎也に食事に誘われた。

彼はまだ会議が終わっておらず、私は先に予約してあった個室に入った。

彼を待つ間、スマホを取り出して帰省の航空券を検索する。ちょうど夏休みの旅行シーズンに重なっていて、一番早い便も十日後しかない。

十日後は、私の誕生日。

そして、あの二人の婚約披露宴の日でもある。

まあ、そんなめでたい日に邪魔をすることもないだろう。

突然、慎也が勢いよくドアを開けて入ってきた。私は驚いて、スマホの画面を慌てて消した。

個室は広いのに、彼はわざわざ私の隣に座り、親しげに手を取った。

その瞬間、九年前に彼が私にプロポーズした夜を思い出した。

あの晩、彼は窓から私の部屋に忍び込み、私の手をゆっくりと唇に引き寄せ、優しくキスを落とした。

その頃の慎也は、まだどこか青くさくて、声も震えていた。

「俺たち、たとえ何度生まれ変わっても、一緒にいよう」――そんなふうに誓ってくれたっけ。

なのに今、彼の指には見慣れない指輪がはめられている。

このブランド、私は知っている。慎也の身分でも、一生に一度しか手に入らない特別なリングだ。

そんなに待ちきれないのね、有希と永遠を誓うのが。

リングの金属面がレストランの照明を反射して、目の奥がじんと痛くなる。

私の視線に気づいたのか、慎也は気まずそうに笑い、指輪を外した。

「ごめん……外すの忘れてた」

私は淡々とした声で答える。

「外す必要なんてないわ。それ、もともとあなたのものでしょう」

慎也は一瞬、動きを止めた。その時、彼のスマホが鳴り始める。電話を取った途端、彼の表情がみるみる曇っていく。

「追突?大丈夫か?君が平気って言っても、医者は何て?……待ってて、すぐ行くから!」

電話を切って、私の方を向く。どうしようもなく困った顔。

「有希が車で追突事故に遭ったみたいで……今、妊娠中だし、誰かがついてないと心配なんだ。悪いけど、今日の食事は一人でお願いできる?必ず埋め合わせするから」

急に、どうでもよくなってしまった。

私は静かにバッグをまとめ、立ち上がる。

「ちょっと用事を思い出したから、先に失礼するわ」

慎也は慌てて私の腕をつかむ。

「怒ってるのか?理央、頼むから、もう少しだけ大人しくしててくれよ。すぐに終わるから!」

私は何も言わず、その手を振りほどいて個室のドアへ向かう。

「理央!理央、待って!」

深く息を吸い、振り返る。

「慎也、私は急いでるの。

もう、待てない」

――もう、いいわ、慎也。

私は足早に通りに出て、顔を上げる。

誰にも見えない涙が、ひとすじ光った。

十日後だよ、慎也。

――これで、お互い別々の道を歩いていこう。

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第1話
私と一条慎也(いちじょう しんや)が籍を入れずに夫婦として暮らして九年目の春、彼の父親が亡くなった。遺言の第一条は、慎也と水野有希(みずの ゆき)、二人の間に子供をつくること。その子が生まれて一ヶ月を迎えた時、それが慎也の父親の遺産を正式に相続できる日となる。この現実を、私は自分と慎也の寝室で二人が抱き合っているのを見てしまった時、慎也自身の口から知らされた。あの夜、事が済んだあとで、彼は煙草に火をつけて、低く呟いた。「理央(りお)、もう少しだけ待っててくれ。遺産が手に入ったら、必ず君を迎えに行く」それからというもの、慎也が有希と家で会うたびに、玄関には小さな鈴の飾りがそっと掛けられた。父親が亡くなってから今日まで、その鈴が鳴ったのは九十九回。そして九十九回目のあと、私の耳に届いたのは――有希の妊娠と、二人の婚約披露宴の日取りの知らせだった。娘は披露宴の招待状を見て、不安げに小さな声で私に訊いた。「どうして、この招待状の中にパパの名前があるの?」私はなんとか微笑みを作り、彼女の乱れた三つ編みを直してやる。「パパは愛する人と結婚するの。ママも君を連れて、おうちに帰るよ」慎也は知らない。私は、あの婚姻届に、一度たりとも執着したことはなかったのだ。……今日、慎也に食事に誘われた。彼はまだ会議が終わっておらず、私は先に予約してあった個室に入った。彼を待つ間、スマホを取り出して帰省の航空券を検索する。ちょうど夏休みの旅行シーズンに重なっていて、一番早い便も十日後しかない。十日後は、私の誕生日。そして、あの二人の婚約披露宴の日でもある。まあ、そんなめでたい日に邪魔をすることもないだろう。突然、慎也が勢いよくドアを開けて入ってきた。私は驚いて、スマホの画面を慌てて消した。個室は広いのに、彼はわざわざ私の隣に座り、親しげに手を取った。その瞬間、九年前に彼が私にプロポーズした夜を思い出した。あの晩、彼は窓から私の部屋に忍び込み、私の手をゆっくりと唇に引き寄せ、優しくキスを落とした。その頃の慎也は、まだどこか青くさくて、声も震えていた。「俺たち、たとえ何度生まれ変わっても、一緒にいよう」――そんなふうに誓ってくれたっけ。なのに今、彼の指には見慣れない指輪がはめられている。
Magbasa pa
第2話
娘が病気になり、会社に休みを申し出て、彼女を病院へ連れて行った。タクシーに乗ったとき、つい癖で、いつもの住所を口にしてしまった。降りてから気がついた——そこは一条家が経営する病院だった。娘は隣で採血されていて、小さな顔をぎゅっとしかめている。私は心配でたまらず、彼女の頭をそっと撫でて、優しく声をかけた。その時、不意に院内がざわつき始めた。顔を上げると、見慣れた姿がこちらへ歩いてくる。――慎也だ。数日前、有希が事故に遭ったせいで、一条夫人はすぐに彼女を病院で静養させると決めた。今、有希はこの病院の最上階で入院しているはずだ。慎也はこちらに気づいたようで、驚いた顔をして私たち親子に近づいてきた。「楠乃(くすの)はどうしたんだ?それに……なんで俺に一言も連絡しなかった?」私は鼻で笑い、スマホを取り出して慎也とのトーク画面を見せつけた。画面には、三時間前に送ったメッセージがはっきりと表示されている。慎也は気まずそうに視線を逸らし、何も言わない。少し間を置いて、突然話題を変えた。「ちょうどよかった……母さんが君に、ちょっと上まで来てほしいって」私は娘を抱き上げ、慎也に案内を促した。有希の病室は最上階、一条家専用の個室だ。部屋に入ると、有希が大きなお腹を抱えて、ベッドから降りようとしているところだった。慎也は慌てて彼女に駆け寄り、優しく支える。その表情には、彼女を気遣う思いに満ちていた。一条夫人が私を冷たい目で睨みつけていた。この家の両親は、昔から私のことを認めたことがない。私は「私の故郷では、籍を入れずに一緒に暮らすのが普通なんです」と何度も説明してきた。それでも一条家の両親は、私のことを「無責任だ」「ふしだらな女だ」と決めつける。さっきまでの冷ややかな態度が嘘のように、一条夫人は有希に向かってにっこりと微笑んだ。「有希はこの前、大変な思いをしたけど……幸い母子ともに無事だった。なら、これからのことも、ちゃんと決めないとね」そう言って慎也の肩を軽く叩き、私には冷ややかな視線を投げる。「ふしだらな女が産んだ子なんて、ろくなもんじゃない。一条家の名に泥を塗るだけだ。外では、有希のお腹の子だけが慎也の子供だって言うんだよ」慎也は顔をしかめ、「母さん、それはさすがに
Magbasa pa
第3話
私は黙ってブレスレットを外し、それを強く掌の中に握り込んだ。しばらく重苦しい沈黙が流れる。ふいに私は目元を和らげて、その翡翠のブレスレットを有希に差し出した。慎也は終始、うつむいたまま何も言わない。――滑稽な話だ。さっきまで私は、このブレスレットを見て慎也が思い出し、有希を止めてくれるかもしれない、なんて期待していた。考えすぎだった。私は微笑んで言う。「とても似合っているよ」楠乃をもう一度抱き直し、その体をぎゅっと引き寄せて背を向けた。「理央……」慎也が呼び止めようとするが、一条夫人がそれをさえぎった。「早く帰しなさい!こんな縁起でもないもの、ここにいたら子どもに悪影響しかないんだから……」有希が驚いた声を上げる。「慎也、お腹の子が……動いたみたい!」「え、本当?……ちょっと触らせて」私は足早にその場を離れ、後ろの声はどんどん遠ざかっていった。家に戻っても、楠乃はまだ「パパがいなくなった」という悲しみから抜け出せず、小さな顔をしかめていた。頬にはまだ涙の跡が残っている。彼女は私の手をぎゅっと握り、しゃがれた泣き声で言う。「パパと、もう一回だけお誕生日したい……」私は心配で、彼女の汗ばむ前髪をそっと耳にかけ、膝の上に抱き上げて、優しく言い直す。「『パパ』じゃなくて、『おじさん』よ、楠乃。もうパパじゃないの。ママが一緒におうちに帰ろうね、いい?」「でも、ここは楠乃のおうちじゃないの?」娘の声は泣きすぎてかすれていた。「ここは一条おじさんの家。ママと楠乃のおうちじゃないの。もう少しだけ待ってて。ママがちゃんと連れて帰るから」楠乃は涙に濡れた瞳で、リビングの隅に置かれたグランドピアノをじっと見つめていた。それは去年の誕生日に慎也が贈ったもの。そのときは一日中、大喜びでパパにピアノを教えてとせがみ、「私、世界一幸せな楠乃お姫様!」と何度もはしゃいでいた。慎也もやさしいまなざしで、その様子を見守っていた――まなざしには、父親の愛情があふれていた。でも、その幸せな日々も、もう過去のものになってしまった。「もう一回だけ、パパとお誕生日できる?」小さな娘は、まだうまく「おじさん」と呼び変えることができない。私は叱ることなく、そっと頭を撫でて答えた。「うん
Magbasa pa
第4話
楠乃の誕生日当日、彼女は朝早く目を覚まし、いちばんお気に入りのプリンセスドレスを選んでいた。前回の教訓を活かし、私は三日前から慎也にメッセージを送っておいた。しかし、返事はなかった。楠乃は、ピアノの前で「きらきら星」を練習し終えると、期待に満ちた瞳で私を見上げた。この曲は、去年慎也に教えてもらった、思い出の一曲だった。この二日間、彼女は何度も繰り返し練習していた。私と目が合った瞬間、楠乃はすべてを悟ったようだった。小さくうつむき、ゆっくりとピアノのふたを閉める。「パパ、忙しいから来られないんだよね」彼女はケーキの箱を開け、そっと一切れを切り分ける。「大丈夫だよ、ママ。二人で分けたら、もっとたくさんケーキが食べられるもん」楠乃のけなげな強がりは、私の胸に刃のように突き刺さった。私はなんだか自分がとても情けなくなってしまい、娘のささやかな願いさえ叶えてやれない自分がもどかしかった。ため息をついて、慎也とのチャットを開く。『楠乃は、あなたと一緒に誕生日を過ごしたいだけ』『それだけの願いすら、叶えてくれないの?』五分ほどして、メッセージの通知音が鳴った。『悪いけど、先に始めてて。誕生日はあとで埋め合わせるから』怒りがこみ上げてきた、その時だった。相手側でメッセージが削除され、すぐに新しいメッセージが届いた。『今すぐ行く』
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第5話
私は思わず目を輝かせて、楠乃を抱き寄せた。「一条おじさん、ちゃんと覚えててくれたよ。すぐ来てくれるって!」楠乃はたちまち元気を取り戻し、またピアノのふたを開けて、幼い指で鍵盤を鳴らし始める。「『きらきら星』を弾けたら、賢い楠乃だって、パパが言ってくれたの!」「パパ、きっとすごく驚くよ!」知らせを聞いてからというもの、楠乃はずっとそわそわしながら、何度も何度も嬉しそうに私に話しかけてきた。顔いっぱいに幸せな笑顔を浮かべて。三十分ほど経った頃、玄関のチャイムが鳴る。楠乃は飛び跳ねるようにドアに駆け寄り、そのまま慎也の胸に飛び込んだ。「パパ!」だが、慎也の隣には有希が立っていて、その後ろからは上流階級の知り合いたちがぞろぞろと押しかけてきた。「一条家の未来の新居に、なんでこんな他人の子がいるの?」「それに、この女も一体どうやって入り込んだんだ。早く追い出しなさいよ!」「ほんと、縁起でもない……」誰も彼もが好き勝手に言いたい放題、私への冷たい視線や噂話が容赦なく耳に飛び込んでくる。すぐに、警備員たちがこちらへ向かってきて、私を無理やり外へ引きずり出そうとした。胸の奥で、嫌な予感が一気に膨らむ。――慎也、あなたは本気で、私たち母娘をここから追い出すつもりなの?鼓動がどんどん早くなる。私は周囲の喧騒など聞こえないふりで、ただ彼の方をじっと見て、静かに呼びかけた。「慎也……?」しかし、慎也は反射的に楠乃を腕から押し離し、鋭い目で彼女を睨みつけた。「勝手に俺を『パパ』なんて呼ぶな!」そして私からも慌てて目をそらし、集まった人々に向かって言い放つ。「この人とは、顔を合わせたことはあるけど、特に知り合いじゃない。どこから来たのかも知らないし……勝手に入り込まれて迷惑してる」有希、その翡翠のブレスレットを手遊びしながら、どこか満足そうに微笑んでいる。それが本当にわざとなのかどうか、私にはわからなかった。心の中の重い石が、とうとう音を立てて沈んだ気がした。まるで内臓まで引き裂かれるような、痛みが全身を走った。――九年という月日が、たった一言「知らない人」で終わるなんて。楠乃は、押し出された勢いで数歩よろめき、すぐに目が真っ赤になった。彼女は必死に鼻をすすり、怯えた声で言い直す
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第6話
周囲が急に静まり返り、その場にいた全員が一瞬、息を呑んだ。このよく分からない女が、御曹司に手を上げるなんて――命知らずにもほどがある、と誰もが思ったに違いない。慎也は額を押さえ、唇を固く結んでいた。有希は慌ててお腹を抱え、目を剥いて顔を歪ませ、もはや取り繕う気配すらなく、両手を振り回しながら叫び出した。「どうしてそんなことができるの!? 慎也を殴るなんて……許せない!みんな、この女をやっつけて!」号令がかかると、屈強な警備員たちが一斉に私に襲いかかってきた。力の限り抵抗したが、女の力ではどうしても敵わず、すぐに押さえつけられて床に叩きつけられた。私は精一杯体を丸めて、せめて急所だけは守ろうとした。「やめて!ママをいじめないで!」楠乃が絶叫しながら、私のもとへ駆け寄ってきた。小さな体で私に覆いかぶさるようにして、雨のように降り注ぐ拳を全身で受け止めようとしていた。私はかすれ声で楠乃の名を呼んだが、彼女を突き放す力も残っていない。仕方なく、気がつけば身を翻して、楠乃を自分の体の下にかばい込む。やっとの思いで片目だけ開け、遠くにいる慎也を探した。彼は唇を震わせていたが、結局何も言えなかった。私は諦めたように目を閉じ、容赦のない暴力が全身に染み渡っていくのを、ただ無抵抗に受け入れるしかなかった。もはや、心が動かなくなった。――慎也、もう、私たちの間には何も残らない。娘の泣き声はどんどん大きくなり、その叫びが、ようやく慎也を我に返らせた。「もうやめろ!有希、止めてくれ!」慎也が怒鳴ると、有希は渋々手で合図し、ようやく暴力が収まった。私は荒い息をつきながら、何度も立ち上がろうとしたが、手も肘も床で擦りむけて血が滲んでいた。その傷は、慎也の額の傷よりも、よほど痛々しかった。最後には、楠乃が私を支えてくれた。幸い、私が守ったおかげで大きな怪我はなかったようだ。有希は人々に囲まれて、まるで主役のように立っていたが、その表情にはまだ怒りと不満が色濃く残っていた。まるで自分が一番可哀想だと言わんばかりの顔で。私は体が鉛のように重くて、思うように動かなかった。それでも力を振り絞って楠乃の手をしっかりと握る。これから先、私たちはお互いだけが唯一の支えになるのだ。私は最後に一度だけ、
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第7話
『慎也、もう二度と会うことはない』スマホを置き、私は苦笑いを浮かべた。――私と慎也の始まりがどれだけロマンチックだったか、その終わりはこれほどまでにあっけない。もしかしたら、根本的に価値観の違う二人は、最初から一緒になれるはずもなかったのかもしれない。ようやく、私の本当の人生が始まるんだ。彼からの返事はなかった。きっと、ただの気まぐれか駄々だとしか思っていないのだろう。それでいい。もうこれ以上、彼らと無駄な繋がりを持つ必要もない。私はそっと目を閉じ、静かに眠りに落ちていった。明日、慎也がこのメッセージを見る頃には、私と楠乃の飛行機はすでに空の上だろう。その頃。慎也はベッドの上でスマホを見つめ、数秒間呆然としていた。そして、次の瞬間、居間のテーブルを思い切り蹴飛ばした。慎也はすぐさま運転手に電話をかけ、怒鳴り声に近い勢いで叫んだ。「今すぐ空港まで車を回せ!」運転手は戸惑いながら答える。「坊ちゃん、本日は『奥様』を病院にお連れするご予定では……?」「何が『奥様』だ。有希なんて、俺の妻じゃない。妻は理央だけだ!」「俺の言うことが聞こえないのか?空港に行くんだ!」車内で慎也は落ち着きなく何度も電話をかけたが、相手はずっと通話中で繋がらない。慎也は「もっと急げ!」と何度も運転手を急かし、車はエンジン音を轟かせながら、花畑の脇を猛スピードで走り抜けていった。その花畑には、満開のバラが広がっている――私が一番好きだった花だ。慎也の脳裏には、九年前、彼が私を追いかけていた頃の思い出がよみがえる。あの頃、慎也は私を追いかけるために、毎日違う色のバラの大きな花束を彼女の家の前に届けていた。一週間、七日間、すべて違う色で。――まさか、いつか自分が二度と花を届けられなくなる日が来るなんて、あの頃は思いもしなかった。すべてが終わったら、ちゃんと私と楠乃に償ってくれるはずだと、信じていた。だが、私たちは彼が何もかも終わるのを、決して待ってはくれなかった。その時、不意にスマホが鳴る。着信音は、私の歌声だった。去年の誕生日、私はちょっと強引に彼の携帯に自分の鼻歌を録音させたのだ。車内でその音が鳴った瞬間、彼は思わず座席から跳ね起き、慌ててディスプレイを覗き込む。だが、表示され
Magbasa pa
第8話
彼は結局、何の成果も得られずに空港を後にした。どれだけ一条家が権力や財力を誇ろうとも、到着済みの飛行機を無理やり引き返させ、乗客全員を再び搭乗させることなど、現実にはできないのだ。慎也はオフィスの椅子にもたれかかり、スマホで私とのトーク履歴を開いた。過去のメッセージを、ひとつひとつ丁寧に遡っていく。そこには、楠乃の日常の些細な面白話や、家の大きな窓越しに撮った夕焼けの写真などが並んでいた。メッセージを読み返しているうちに、いつの間にか口元がわずかにほころぶ。まるで、あの頃に戻ったかのような気持ちになる。だが、有希が現れた以来、私たちのやりとりは急に色あせてしまった。もう私は、何気ないことを送ることもなくなり、彼の返事も『うん』『了解』などの一言だけになった。最新のメッセージは、私からの別れの言葉だった。さらに遡れば、楠乃の誕生日の話題しか残っていない。あの時、彼は仕事で頭がいっぱいで、私が何度も知らせるまで、楠乃の誕生日すら忘れていた。それでも「あとで埋め合わせるから」と約束してくれたのに。少しくらい待てなかったのか?慎也はコートを乱暴に脱ぎ捨て、不機嫌そうに考え込む。その目障りな別れのメッセージを見つめながら、慎也は険しい表情で私に次々とメッセージを送った。『理央、お前は本当に頭がおかしいんじゃないか?』『また何を拗ねて、こんな大騒ぎしてるんだ?』『今なら許してやるから、さっさと戻ってこい』『有希とは結婚しない。お前だけが俺の妻だ。それ以外、何もいらない』だが、何度送ってもエラーになってしまい、相手からの返信はない。ブロックされたのかもしれない。「……どういうことだ?」信じられず、何度もアプリを再起動し、スマホの裏蓋まで開けて中身を確かめてみたが、どこにも異常はなかった。ただ、彼のメッセージだけが、二度と相手に届かなくなっていた。もう耐えきれなくなった慎也は、階段を駆け下り、車を飛ばして家路へと急いだ。「絶対に、今度こそちゃんと話をつける!」彼の頭の中では、家のドアを開ければ、いつものように私が迎えてくれる――そんな光景しか浮かばない。彼を待ちながら、軽やかに微笑み、そっと頬にキスしてくれる私の姿。信号待ちでふと窓の外を見ると、道端で若いカップルがいた。
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第9話
慎也はひとつ咳払いし、心の中で私と再会する場面を何度も思い描いていた。きっと私は泣きながら彼の胸に飛び込んできて、彼はそれを少しだけ厳しい顔でたしなめる。「もうこんな大騒ぎはやめろよ。何でもっと素直に言えないんだ」私は泣きながら謝り、最後には彼が寛大にキスで許してやる。彼はそんな筋書きを信じて疑わなかった。だが、慎也が玄関の扉を開けた瞬間、そこにいたのは思い焦がれていた人ではなく、有希だった。彼の顔色は一瞬で曇った。有希はそんな様子にも気づかず、嬉しそうに彼の腕にしなだれかかる。「やっぱり、慎也はわかってくれると思ってた」「結婚って人生の大事なことなんだもん、途中でやめたりできないよね」彼女は嬉しそうな顔で慎也の腕を取って、家の中へと引っ張った。「見て、あの女の荷物、全部捨てさせたの。一つ残らずよ」「あなたにあんな態度とるなんて、自業自得でしょ。身ひとつで出ていって当然よ」その瞬間、慎也の怒りは爆発した。彼は有希の手を振り払う。「よくもそんなことを――!」勢いよく寝室に駆け込み、ドアを開けて部屋中を見回す。そこには、もはや私が生きていた痕跡は一切残っていなかった。浴槽の縁に置きっぱなしだったはずの、使いかけのボディソープさえも。――あれは、私が初めて使った時、彼が「いい匂いだ」と言ってから、ずっと使い続けていたものだった。慎也はその浴槽の縁を力いっぱい握りしめ、指の関節が白く浮き出るほどだったが、そんなことにも気づかない。有希は彼のただならぬ様子に怯え、声を震わせる。「し、慎也……?」次の瞬間、慎也の手が有希の頬を打った。「出て行け!俺の名前を軽々しく呼ぶな!」狂気を孕んだ笑みを浮かべながら、有希をじりじりと部屋の隅へ追い詰めていく。「俺が本気でお前と結婚したいと思ってるとでも?」有希の顔から血の気が引く。「ど、どういう意味……?」慎也は冷たく鼻で笑い、有希をまるで虫けらのように見下ろす。「俺たちはただの茶番だった。全部、親父の遺産のためさ」「そのくらい、分かってると思ってたが?」「今こうなったのも、お前のせいだ」彼は有希のすぐ近くまで顔を寄せ、吐き捨てるように言う。「お前のせいで、俺は大事な人を失った」「同じ痛みを、お前にも味あわ
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第10話
飛行機を降りた瞬間、私はふと足が止まった。思えば、私が慎也と付き合い始めたとき、両親は大反対だった。理由はただひとつ。一条家のような大きな家柄が、籍を入れないまま一緒に暮らす習慣を認めるわけがないと思ったからだ。けれど、この風習は何年も何年も、私たち家族が守り続けてきたものだった。愛は、結婚届一枚で縛れるものじゃない。両親もそうだった。籍を入れなくても、二人は生涯を共にし、深く愛し合ってきた。それでも、私の若い情熱を受け止めてくれた両親は、慎也を温かく迎え入れ、私が家を出るのを許してくれた。私の実家は海沿いにあり、家に帰るには必ず浜辺を通らなければならない。楠乃と並んでゆっくりと砂浜を歩いていると、小学校の時の担任の先生に出会った。先生はすっかり白髪が増えていたけれど、明るい笑顔は昔のままだった。「おかえり、久しぶりだね」と温かく迎えてくれた。――こんなに素敵な家族、こんなに優しい町。私はいったい、どうしてあの時、こんなに温かい町や家族を捨てて、あの消耗するだけの都会に行こうとしたんだろう。ふかふかのベッドに身を沈め、スマホを開いてニュースを眺める。そこで目に飛び込んできたのは、『一条家 婚約解消 #速報』というトップニュースだった。私は眉をひそめる。慎也は、今さら何をやっているんだろう。有希と結婚したいなら、勝手にすればいい。なのに今度は破談――何を考えているのか、私にはもう分からない。まあ、もう私には関係ないことだ。どうせ彼にはいつも自分の考えがあるし、それが私のためであるはずがない。ベッドで寝返りを打ち、満足げにため息をつく。一条家には人が多く、決まりごともやたらと厳しかった。毎回、一条家の本家に顔を出すたび、私は席の脇に立ち、男たちの食事や酒の世話をしなければならなかった。皆の食事が済んだあと、私はそっと食卓の隅に座り、残された料理を静かに口に運ぶ――それが「当たり前」になっていた。一方で、今、実家の台所では、両親が嬉しそうに腕を振るっている。――ただ、私に温かいご飯を食べさせてやりたい。そのことを思うと、自然と目頭が熱くなった。――あの時、両親の言うことを聞いていればよかったのかもしれない。そうすれば、無駄に十年も心をすり減らすことはなかったのに
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