私と一条慎也(いちじょう しんや)が籍を入れずに夫婦として暮らして九年目の春、彼の父親が亡くなった。 遺言の第一条は、慎也と水野有希(みずの ゆき)、二人の間に子供をつくること。 その子が生まれて一ヶ月を迎えた時、それが慎也の父親の遺産を正式に相続できる日となる。 この現実を、私は自分と慎也の寝室で二人が抱き合っているのを見てしまった時、慎也自身の口から知らされた。 あの夜、事が済んだあとで、彼は煙草に火をつけて、低く呟いた。 「理央(りお)、もう少しだけ待っててくれ。遺産が手に入ったら、必ず君を迎えに行く」 それからというもの、慎也が有希と家で会うたびに、玄関には小さな鈴の飾りがそっと掛けられた。 父親が亡くなってから今日まで、その鈴が鳴ったのは九十九回。 そして九十九回目のあと、私の耳に届いたのは―― 有希の妊娠と、二人の婚約披露宴の日取りの知らせだった。 娘は披露宴の招待状を見て、不安げに小さな声で私に訊いた。 「どうして、この招待状の中にパパの名前があるの?」 私はなんとか微笑みを作り、彼女の乱れた三つ編みを直してやる。 「パパは愛する人と結婚するの。ママも君を連れて、おうちに帰るよ」 慎也は知らない。私は、あの婚姻届に、一度たりとも執着したことはなかったのだ。
view more慎也が来たと知ると、私の顔はすぐに曇った。さすが私の娘だけあって、楠乃も全く同じ表情――親子はやっぱり似るものだ。私は無言で立ち上がり、ゆっくりと服を着替える。慎也が私の居場所を突き止めることくらい、最初から分かっていた。でも、思ったより早く現れてしまい、心の準備が追いつかなかった。大きく息を吐いて、部屋のドアを開ける。言葉を選ぶ間もなく、近所の人たちのひそひそ話が耳に飛び込んでくる。「ほら、あれがネットで話題になってた一条家の若旦那じゃない?」「そうそう、長年付き合ってた恋人を捨てて、新しい女と結婚するって噂だったけど、今度はまた婚約破棄らしいよ」「ほんと、何を考えてるのか分からないね」私にも、慎也にも、その声はしっかり届いている。慎也は顔をしかめ、周囲に向かって怒鳴った。「くだらない噂を流すな!お前たち、何様のつもりで俺に口出ししてるんだ!」ご近所さんたちも負けていない。「何を偉そうに言ってるんだい、この若造が!」「ここは一条家の敷地じゃないんだよ!」「ここで騒ぎを起こしたら、ただじゃ済まないからね!」慎也は歯を食いしばり、私の方へと助けを求めるような視線を向けてきた。私はそんな彼をじっと観察する。わずか数日で、彼はすっかり痩せこけ、顔色も冴えなかった。かつての「御曹司」の面影はどこにもなく、まるで成績の上がらない保険の営業マンのようだった。私が黙ったままでいると、慎也が口を開く。「まさか、こんな連中と一緒になって暮らすつもりか?」「そのうちお前まで腐るぞ!」「一緒に帰ろう。ちゃんと話がしたいんだ」彼は私の手を取ろうとしたが、私は一歩引いてそれをかわす。私はまるで他人を見るような目で彼を見つめた。「慎也、何を言ってるの?」「私があなたと一緒に戻ると思う?」慎也の顔が真っ赤に染まり、やっとの思いで言葉を絞り出す。「ごめん、理央……本当に、悪かった」「有希はもう家から追い出した。だから――」「頼む、理央。お前がいないとダメなんだ」「結婚するなら、お前以外の女は絶対にいない」私は思わず吹き出し、同情の笑みを浮かべて彼を見つめる。「慎也、どうして自分にそんな自信があるの?」「誰が、あなたと結婚したいって言ったの?」涙がにじむ
飛行機を降りた瞬間、私はふと足が止まった。思えば、私が慎也と付き合い始めたとき、両親は大反対だった。理由はただひとつ。一条家のような大きな家柄が、籍を入れないまま一緒に暮らす習慣を認めるわけがないと思ったからだ。けれど、この風習は何年も何年も、私たち家族が守り続けてきたものだった。愛は、結婚届一枚で縛れるものじゃない。両親もそうだった。籍を入れなくても、二人は生涯を共にし、深く愛し合ってきた。それでも、私の若い情熱を受け止めてくれた両親は、慎也を温かく迎え入れ、私が家を出るのを許してくれた。私の実家は海沿いにあり、家に帰るには必ず浜辺を通らなければならない。楠乃と並んでゆっくりと砂浜を歩いていると、小学校の時の担任の先生に出会った。先生はすっかり白髪が増えていたけれど、明るい笑顔は昔のままだった。「おかえり、久しぶりだね」と温かく迎えてくれた。――こんなに素敵な家族、こんなに優しい町。私はいったい、どうしてあの時、こんなに温かい町や家族を捨てて、あの消耗するだけの都会に行こうとしたんだろう。ふかふかのベッドに身を沈め、スマホを開いてニュースを眺める。そこで目に飛び込んできたのは、『一条家 婚約解消 #速報』というトップニュースだった。私は眉をひそめる。慎也は、今さら何をやっているんだろう。有希と結婚したいなら、勝手にすればいい。なのに今度は破談――何を考えているのか、私にはもう分からない。まあ、もう私には関係ないことだ。どうせ彼にはいつも自分の考えがあるし、それが私のためであるはずがない。ベッドで寝返りを打ち、満足げにため息をつく。一条家には人が多く、決まりごともやたらと厳しかった。毎回、一条家の本家に顔を出すたび、私は席の脇に立ち、男たちの食事や酒の世話をしなければならなかった。皆の食事が済んだあと、私はそっと食卓の隅に座り、残された料理を静かに口に運ぶ――それが「当たり前」になっていた。一方で、今、実家の台所では、両親が嬉しそうに腕を振るっている。――ただ、私に温かいご飯を食べさせてやりたい。そのことを思うと、自然と目頭が熱くなった。――あの時、両親の言うことを聞いていればよかったのかもしれない。そうすれば、無駄に十年も心をすり減らすことはなかったのに
慎也はひとつ咳払いし、心の中で私と再会する場面を何度も思い描いていた。きっと私は泣きながら彼の胸に飛び込んできて、彼はそれを少しだけ厳しい顔でたしなめる。「もうこんな大騒ぎはやめろよ。何でもっと素直に言えないんだ」私は泣きながら謝り、最後には彼が寛大にキスで許してやる。彼はそんな筋書きを信じて疑わなかった。だが、慎也が玄関の扉を開けた瞬間、そこにいたのは思い焦がれていた人ではなく、有希だった。彼の顔色は一瞬で曇った。有希はそんな様子にも気づかず、嬉しそうに彼の腕にしなだれかかる。「やっぱり、慎也はわかってくれると思ってた」「結婚って人生の大事なことなんだもん、途中でやめたりできないよね」彼女は嬉しそうな顔で慎也の腕を取って、家の中へと引っ張った。「見て、あの女の荷物、全部捨てさせたの。一つ残らずよ」「あなたにあんな態度とるなんて、自業自得でしょ。身ひとつで出ていって当然よ」その瞬間、慎也の怒りは爆発した。彼は有希の手を振り払う。「よくもそんなことを――!」勢いよく寝室に駆け込み、ドアを開けて部屋中を見回す。そこには、もはや私が生きていた痕跡は一切残っていなかった。浴槽の縁に置きっぱなしだったはずの、使いかけのボディソープさえも。――あれは、私が初めて使った時、彼が「いい匂いだ」と言ってから、ずっと使い続けていたものだった。慎也はその浴槽の縁を力いっぱい握りしめ、指の関節が白く浮き出るほどだったが、そんなことにも気づかない。有希は彼のただならぬ様子に怯え、声を震わせる。「し、慎也……?」次の瞬間、慎也の手が有希の頬を打った。「出て行け!俺の名前を軽々しく呼ぶな!」狂気を孕んだ笑みを浮かべながら、有希をじりじりと部屋の隅へ追い詰めていく。「俺が本気でお前と結婚したいと思ってるとでも?」有希の顔から血の気が引く。「ど、どういう意味……?」慎也は冷たく鼻で笑い、有希をまるで虫けらのように見下ろす。「俺たちはただの茶番だった。全部、親父の遺産のためさ」「そのくらい、分かってると思ってたが?」「今こうなったのも、お前のせいだ」彼は有希のすぐ近くまで顔を寄せ、吐き捨てるように言う。「お前のせいで、俺は大事な人を失った」「同じ痛みを、お前にも味あわ
彼は結局、何の成果も得られずに空港を後にした。どれだけ一条家が権力や財力を誇ろうとも、到着済みの飛行機を無理やり引き返させ、乗客全員を再び搭乗させることなど、現実にはできないのだ。慎也はオフィスの椅子にもたれかかり、スマホで私とのトーク履歴を開いた。過去のメッセージを、ひとつひとつ丁寧に遡っていく。そこには、楠乃の日常の些細な面白話や、家の大きな窓越しに撮った夕焼けの写真などが並んでいた。メッセージを読み返しているうちに、いつの間にか口元がわずかにほころぶ。まるで、あの頃に戻ったかのような気持ちになる。だが、有希が現れた以来、私たちのやりとりは急に色あせてしまった。もう私は、何気ないことを送ることもなくなり、彼の返事も『うん』『了解』などの一言だけになった。最新のメッセージは、私からの別れの言葉だった。さらに遡れば、楠乃の誕生日の話題しか残っていない。あの時、彼は仕事で頭がいっぱいで、私が何度も知らせるまで、楠乃の誕生日すら忘れていた。それでも「あとで埋め合わせるから」と約束してくれたのに。少しくらい待てなかったのか?慎也はコートを乱暴に脱ぎ捨て、不機嫌そうに考え込む。その目障りな別れのメッセージを見つめながら、慎也は険しい表情で私に次々とメッセージを送った。『理央、お前は本当に頭がおかしいんじゃないか?』『また何を拗ねて、こんな大騒ぎしてるんだ?』『今なら許してやるから、さっさと戻ってこい』『有希とは結婚しない。お前だけが俺の妻だ。それ以外、何もいらない』だが、何度送ってもエラーになってしまい、相手からの返信はない。ブロックされたのかもしれない。「……どういうことだ?」信じられず、何度もアプリを再起動し、スマホの裏蓋まで開けて中身を確かめてみたが、どこにも異常はなかった。ただ、彼のメッセージだけが、二度と相手に届かなくなっていた。もう耐えきれなくなった慎也は、階段を駆け下り、車を飛ばして家路へと急いだ。「絶対に、今度こそちゃんと話をつける!」彼の頭の中では、家のドアを開ければ、いつものように私が迎えてくれる――そんな光景しか浮かばない。彼を待ちながら、軽やかに微笑み、そっと頬にキスしてくれる私の姿。信号待ちでふと窓の外を見ると、道端で若いカップルがいた。
『慎也、もう二度と会うことはない』スマホを置き、私は苦笑いを浮かべた。――私と慎也の始まりがどれだけロマンチックだったか、その終わりはこれほどまでにあっけない。もしかしたら、根本的に価値観の違う二人は、最初から一緒になれるはずもなかったのかもしれない。ようやく、私の本当の人生が始まるんだ。彼からの返事はなかった。きっと、ただの気まぐれか駄々だとしか思っていないのだろう。それでいい。もうこれ以上、彼らと無駄な繋がりを持つ必要もない。私はそっと目を閉じ、静かに眠りに落ちていった。明日、慎也がこのメッセージを見る頃には、私と楠乃の飛行機はすでに空の上だろう。その頃。慎也はベッドの上でスマホを見つめ、数秒間呆然としていた。そして、次の瞬間、居間のテーブルを思い切り蹴飛ばした。慎也はすぐさま運転手に電話をかけ、怒鳴り声に近い勢いで叫んだ。「今すぐ空港まで車を回せ!」運転手は戸惑いながら答える。「坊ちゃん、本日は『奥様』を病院にお連れするご予定では……?」「何が『奥様』だ。有希なんて、俺の妻じゃない。妻は理央だけだ!」「俺の言うことが聞こえないのか?空港に行くんだ!」車内で慎也は落ち着きなく何度も電話をかけたが、相手はずっと通話中で繋がらない。慎也は「もっと急げ!」と何度も運転手を急かし、車はエンジン音を轟かせながら、花畑の脇を猛スピードで走り抜けていった。その花畑には、満開のバラが広がっている――私が一番好きだった花だ。慎也の脳裏には、九年前、彼が私を追いかけていた頃の思い出がよみがえる。あの頃、慎也は私を追いかけるために、毎日違う色のバラの大きな花束を彼女の家の前に届けていた。一週間、七日間、すべて違う色で。――まさか、いつか自分が二度と花を届けられなくなる日が来るなんて、あの頃は思いもしなかった。すべてが終わったら、ちゃんと私と楠乃に償ってくれるはずだと、信じていた。だが、私たちは彼が何もかも終わるのを、決して待ってはくれなかった。その時、不意にスマホが鳴る。着信音は、私の歌声だった。去年の誕生日、私はちょっと強引に彼の携帯に自分の鼻歌を録音させたのだ。車内でその音が鳴った瞬間、彼は思わず座席から跳ね起き、慌ててディスプレイを覗き込む。だが、表示され
周囲が急に静まり返り、その場にいた全員が一瞬、息を呑んだ。このよく分からない女が、御曹司に手を上げるなんて――命知らずにもほどがある、と誰もが思ったに違いない。慎也は額を押さえ、唇を固く結んでいた。有希は慌ててお腹を抱え、目を剥いて顔を歪ませ、もはや取り繕う気配すらなく、両手を振り回しながら叫び出した。「どうしてそんなことができるの!? 慎也を殴るなんて……許せない!みんな、この女をやっつけて!」号令がかかると、屈強な警備員たちが一斉に私に襲いかかってきた。力の限り抵抗したが、女の力ではどうしても敵わず、すぐに押さえつけられて床に叩きつけられた。私は精一杯体を丸めて、せめて急所だけは守ろうとした。「やめて!ママをいじめないで!」楠乃が絶叫しながら、私のもとへ駆け寄ってきた。小さな体で私に覆いかぶさるようにして、雨のように降り注ぐ拳を全身で受け止めようとしていた。私はかすれ声で楠乃の名を呼んだが、彼女を突き放す力も残っていない。仕方なく、気がつけば身を翻して、楠乃を自分の体の下にかばい込む。やっとの思いで片目だけ開け、遠くにいる慎也を探した。彼は唇を震わせていたが、結局何も言えなかった。私は諦めたように目を閉じ、容赦のない暴力が全身に染み渡っていくのを、ただ無抵抗に受け入れるしかなかった。もはや、心が動かなくなった。――慎也、もう、私たちの間には何も残らない。娘の泣き声はどんどん大きくなり、その叫びが、ようやく慎也を我に返らせた。「もうやめろ!有希、止めてくれ!」慎也が怒鳴ると、有希は渋々手で合図し、ようやく暴力が収まった。私は荒い息をつきながら、何度も立ち上がろうとしたが、手も肘も床で擦りむけて血が滲んでいた。その傷は、慎也の額の傷よりも、よほど痛々しかった。最後には、楠乃が私を支えてくれた。幸い、私が守ったおかげで大きな怪我はなかったようだ。有希は人々に囲まれて、まるで主役のように立っていたが、その表情にはまだ怒りと不満が色濃く残っていた。まるで自分が一番可哀想だと言わんばかりの顔で。私は体が鉛のように重くて、思うように動かなかった。それでも力を振り絞って楠乃の手をしっかりと握る。これから先、私たちはお互いだけが唯一の支えになるのだ。私は最後に一度だけ、
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