ラシュトを振り返った僕たちはすぐさま迎撃体勢をとった。そこにいるのは、どう見ても人間の少年。けれどネイヴァンが言ったとおり、人間ならば砂浜からの帰還に数時間は掛かるはず。
十分やそこらで戻ってこられたということはやはり、
「きみは、人間ではないんですかっ……?」
ラシュトは口角を引き上げ、悪戯っぽく笑った。
「怖いお兄さん、僕から見たらあなただって、純粋な人間には見えないよ?」
「黙れクソガキ!」
ネイヴァンが吼えるが、少年は意にも解さず楽し気に続ける。
「そうそう、まだ答えを聞いてなかったね。どんなふうに殺されたいか教えてくれる?」
「それはこちらの台詞だ。希望どおりの殺し方をしてやろう。こちらには名のある脚本家兼演出家と、魔物を開きなれた調理人、そして万能な調理助手《アシスタント》がいる」
「おおっと。あなたたちやっぱり、死刑囚じゃなかったんだね。じゃあそうだなぁ……こんなプロットにしてよ。まずは冒頭で、パーティ全員毒蛇に噛まれて死ぬ、って」
次の瞬間、ラシュトの姿がぐにゃりと歪み、肉が変質する嫌な音が響いた。皮膚が硬質化し、暗い色の鱗が連なっていく。彼の身体は分裂するように長く伸び、それが何本にも分かれていく。
無数の黒い蛇。くわあ、と開かれた口には巨大な牙。そして牙の先から滴る毒液。
硬い鱗を持った蛇たちが地面を這う。
ズズズ……ズズズ……。
この音……!
僕は気づいた。蛇の鱗が岩に擦れる音。これは昨夜聞いた音と同じ。
あれは何かを引き摺った音じゃなく、無数の蛇が、岩壁に開いた隙間を潜った音だったんだ。
ラシュ
翌朝、僕たちは日の出と共に再びエルネットを訪れた。 早朝の澄んだ空気に包まれた坂の上のレストランは、朝日にきらきらと照らされて、昨夜とはまた違った魅力を放っていた。 店内に入ると、柔らかな光がレースカーテン越しに差し込み、ホール全体が明るかった。僕たちは、昨夜確認できなかったキッチンへと向かう。 キッチンは、エルドリスのプロ意識が反映された空間だった。調理器具は種類ごとに壁掛けのフックに掛けられ、棚の上にはスパイスや調味料がラベルを前に揃えて並んでいる。カトラリーや食器類も美しく整頓され、几帳面な性格が見て取れた。 魔導冷蔵庫を開けてみると、異様な臭いがふっと鼻を突いた。見えるのは、黒い粘質なものが蒸発したような跡と、植物らしき繊維、そして、瓶詰めの真っ黒な何か。おそらく肉や野菜などの食材と、手作りのソースか何かなのだろう。僕は無言で冷蔵庫の扉を閉じた。 ネイヴァンに呼ばれて振り向くと、キッチンの隅に、鈍い光沢を放つ金属製のドアがあった。「何のドアでしょう?」「貯蔵庫か、冷凍室ってところだな」 ドアはしっかりと施錠されていた。ネイヴァンが力づくで開けようとするので、僕は慌てて止める。「駄目ですよ! ドアを壊したら、本当に強盗みたいです」 ネイヴァンは肩を竦めて「不法侵入してるんだからいい子ぶるなよ」と笑ったが、僕が食い下がると、渋々諦めてくれた。開いていたドアからこっそり入って探索するのと、中のものを壊すのとでは全然違う。 一階をあらかた見終えた僕たちは、キッチンとホールの間にある階段に目を向けた。そして軋む階段を静かに上っていく。 二階は姉妹が暮らしていた居住空間のようだった。廊下の左右に二つずつドアがあり、まっすぐ進んだ先にはリビングダイニングが広がっていた。シンプルながら居心地の良さそうな
僕たちは『ル・シュクレ・ルナ(月のお砂糖)』の店主が書いてくれた番地を頼りに、中心地から西へ向かって歩き始めた。沈みゆく夕日を追いかけながら、僕の胸は緊張で鼓動を速めていた。 目指す場所は、緩やかな坂の先にあるようだった。坂を上るごとに中心地の喧騒は遠のいていき、住宅の姿もまばらになる。 そしてその建物は現れた。三角屋根の二階建てレストラン。壁はクリーム色の漆喰で、窓枠と扉はセージグリーンの木材。外壁の一部には蔦が這い、花のないプランターが窓辺に吊るされている。木製の看板には今もはっきりと店名が残っている。手入れはされていないが、朽ちた印象はなく、むしろ時間の止まったような美しさがあった。 入り口の扉のノブを、ネイヴァンが掴む。そのまま彼が押すと、扉は軋むこともなく静かに開いた。「鍵は、掛かっていないんですね……」 人がいなくなって三年が経っているのだ。空き巣や悪戯な子どもにでも入られて、店内は荒らされているかもしれない。そう一瞬覚悟したが、杞憂だった。 中は整然としていていた。二人掛けのテーブル席がふたつと、四人掛けのテーブル席が五つのホール。放置された年月相応の塵や埃は積もっていたが、それ以外はいたって普通。営業終了後に閉店作業を終えた店、という感じ。まるで昨日まで営業していたかのような。 椅子はきちんとテーブルに引き込まれ、赤と白のチェック柄のクロスの上には人数分のランチョンマットが置かれている。 キッチンと繋がった提供用カウンターの脇には、次の営業に備えてか、カトラリーの入った編みカゴが積んである。その横にはワインレッドのメニューブックも数冊立て掛けられていた。 壁には牧歌的な風景画と、夜間用のランタンが交互に掛かっている。 フォーマルすぎずカジュアルすぎない、居心地の良さそうな店内だと思った。 僕は提
西の空が真っ赤に染まったころ、小瓶一杯にルミリカの蜂蜜が集まった。 僕たちはネイヴァンの空間旅行《ホップステップ》を使い、セリカの町の菓子店『ル・シュクレ・ルナ(月のお砂糖)』の前へと戻ってきた。 扉を開けて入ると、西日の差し込む店内に充満する砂糖菓子の甘い香りが、鼻腔を満たした。扉の開く音を聞きつけて奥から駆け出てきた店主の女に、僕とネイヴァンは小瓶を掲げて見せる。「ただいま戻りました。花蜜たくさん取れましたよ!」 店主の目が、信じられないというふうに見開かれた。「すごい……! あの、おふたりとも、怪我はしなかったですか!?」 しなかった、といったら嘘になるが、花蜜を集める間に回復魔法で治療したので、現状はしていない。そういう意味で頷くと、店主の緊張した肩からふっと力が抜けるのがわかった。 それから僕たちは手短に、事の顛末を話した――死刑囚島《タルタロメア》のことは少しぼかして、『魔物しかいない島へ飛ばした』という言い方をしたが。 なにはともあれ、これで町の人たちは安心して森へ入ることができる。店主も『蜜月の琥珀糖』のための花蜜採取を再開できるわけだ。「本当にありがとうございます。さっそく町の人たちに、森が安全になったことを伝えなきゃ」 顔を綻ばせる店主へ僕は尋ねる。「あの、それで、『蜜月の琥珀糖』はどれくらいでできるでしょうか」「えっと、そうですねぇ……」 店主は西日で赤くなった窓辺に近づき、空を見上げた。「今夜は晴れそうですので、今夜から取り掛かれそうです。『蜜月の琥珀糖』を作るには、その名のとおり月の力が必要でして。硬
その赤褐色の瞳には小さな驚きが見てとれた。僕が視線を逸らさずいると、ネイヴァンは目を伏せ、おどけたように口元を緩めた。「なんでわかった?」「勘です」 としか答えようがないのが事実。第六感的なものが捉えた小さな違和感。それはきっと、彼を近くで見続けていなければ気づけない。 死刑囚島《タルタロメア》での濃密な三日間と昨日からの旅路が、僕の中でネイヴァン・ルーガスという男の解像度を上げた結果だ。「育てたら、『30分クッキング』のいい食材になると思うんだけどなぁ」「駄目です」 僕は真っ直ぐにネイヴァンを見据えて言う。「ちゃんと、あのルミエラビットのそばに転送してください」 ネイヴァンは肩をすくめて、「はいはい」と片手をひらひら振った。「空間旅行《ホップステップ》」 熊の魔物の幼体が、物も言わず消えた。 僕は改めてネイヴァンの瞳を見据える。その奥の真実を。あの子をきちんと母の元へ送ったのか。 ネイヴァンは今度こそ、目を逸らさなかった。 それでも言わずにはいられない。「ネイヴァンさん、あんな猟奇的な番組を作っているからって、あなたまで猟奇的になっては駄目です。人の心を失わないでください。……あなたは、ぜんぶ人間でしょう?」 魔物の血が混じった僕と違って、という言葉は言わないでおく。自分のコンプレックスを抉るだけだ。「ああ、わかったよ」 彼はひとひらの笑みもなく答えた。そのことに僕は、安堵を覚えるのだった。
「ネイヴァンさん、あの白い花……さっきまでなかったですよね?」 咲き誇る小さな白い花たちを指差して尋ねた。花びらは真っ白で、中央が薄青い。儚くも鮮明な存在感を放っている。確かにさっきまで、あそこには土の地面しかなかったはずだ。あんなに目立つ白が、記憶に残らないはずがない。 視線を移したネイヴァンが、怪訝そうに目を細める。ちょうどその瞬間、向かい風がふわりと吹いた。 淡く甘い香りが漂ってくる。その嗅覚への刺激が、僕の記憶をくすぐった。 この香りは一度嗅いだ。 そうだ。森に入って最初の分かれ道を過ぎたあと、道沿いに広がっていた小花たち――「ッ……!」 突如、背後から鼻と口が塞がれた。指の長い大きな手。驚いて目だけをぐるりと動かして見上げると、ネイヴァンが怖い顔をしている。「吸うな。この香りが幻覚の発生源かもしれない。できる限り浅く呼吸しろ」 囁くような声が耳元に落ちる。僕は言われるがまま、できるだけ胸を膨らませないよう呼吸を抑えた。 次の瞬間。 近くの茂みが不穏に揺れたかと思うと、漆黒の毛並みを持つ巨大な熊型の魔物が飛び出してきた。金色の目と白い牙が光り、全身の毛は鋭い針のように逆立っている。普通の熊と大きく異なるのは、その額に槍のような一角が突き出していること。刺されればひとたまりもない。「ちょ、ちょっと、嘘つきっ! 全然弱くなさそうです! 一撃必殺されちゃいますよ!」 僕が叫ぶと、ネイヴァンも口元を歪めて舌打ちをした。「おかしいな。読みが外れたか……?」 僕たちは互いに距離を取り、戦闘
両頬を一回ずつ打たれたネイヴァンは、目をしばたいて上体を起こした。「マジかよ、ファーストキスだってぇ?」「そうですっ!」 と僕は彼を睨み上げる。 初めてはいつか、心に決めたヒトと……と思っていたのに、僕の純潔は前触れもなく散ったのだ。しかも、あんな舌を入れるキス……。 生々しい感触を思い出し、羞恥と怒りで俯いていると、ネイヴァンはそれを落ち込んでいると見たらしく、見当違いのフォローをしてきた。「そう気を落とすなって。幻覚の中でのキスなんざノーカンだろ。ほら、現実の唇が触れたわけではないんだし」「そりゃそうかもしれませんけど、体がどうであれ、気持ちの問題ですっ」「怒るなって。な? 俺で勉強できたと思ってさ」「な、なにが勉強ですか!」「いや俺、上手かっただろ? とろけた顔してたじゃねえか」「ああ! ああ! もうそれ以上言ったら拘束します! 第七監獄《グラットリエ》の空いてる房にぶちこみます!」 ネイヴァンは両手を挙げて降参ポーズを取ったが、口元は妙に緩んでいた。反省の色が薄すぎる。 だが、怒ってばかりもいられない。幻覚を解いたとはいえ、ここが敵のテリトリーであることに変わりはないのだ。いつなんどき敵が襲ってくるともわからない。「……で、ここはどこなんでしょう。僕たちに幻覚魔法を掛けていた魔物はどこにいるんです?」「さあな。見たところ、人の歩く道からはずいぶん離れているようだが」 ネイヴァンの言うとおり、僕たちは手つかずの自然に囲まれていた。草は高く伸び放題で、周囲の樹々からは邪魔な蔓があちこち垂れている。獣道すら見当たらない。「僕たち、幻