「礼なんていらない。もともと両親のものを取り戻せたのは、君のおかげよ」その一言が耳に入った瞬間、瑠璃はまるで自分が大きな罪を背負っているかのような気持ちに襲われた。生きて戻ってこられたのは確かに復讐のためだった。隼人がすべてを失い、みじめな姿になったのを見て、確かに胸はすっとした。けれど、復讐の火が祖父にまで及ぶことだけは、どうしても望めなかった。瞬が去った後、瑠璃は隼人に電話をかけた。彼女からの連絡に隼人は驚いた様子だったが、結局は時間通りに指定された場所に姿を現した。合流した後、隼人の運転で一台の車が向かった先は、とある老人ホームだった。「おじいさま、今ここに住んでるの?」瑠璃は受け入れがたい思いで尋ねた。「環境も設備も整ってるよ」隼人は前を歩きながら答えた。だが瑠璃は知っていた。どれだけ快適な場所に住み、美味しい食事があっても、年老いた人にとっては、そばに子や孫といった家族がいることに勝るものはないのだと。おじいさまに残された人生をここで一人過ごさせるなんて、瑠璃には耐えがたかった。「瞬が、おじいさまに目黒家の本宅を返すって約束してくれたの」隼人はどこか意味深な笑みを浮かべた。「本気であいつがそれをするって思ってるのか?千璃ちゃん、まだ少し甘いな」「……」瑠璃は不満げに隼人を睨み返し、何か言いかけたが、その時、少し離れた中庭で運動をしている祖父の姿が目に入った。以前に比べ、祖父の様子は随分元気そうだった。祖父もまた瑠璃に気づき、優しげな眼差しを向けてきた。「おじいちゃんと先に話してて。ちょっと電話してくる」隼人は、まるで瑠璃とおじいさまを二人きりにさせるためのように、あっさりその場を離れた。運動を終えた祖父は、にこやかに手を振った。「瑠璃、よく来たね」その一声に、瑠璃の胸が締めつけられ、今にも泣き出しそうな衝動がこみ上げてきた。「おじいさま、ごめんなさい」彼女は素直に謝った。「ばかな子だね。わしに謝ることなんてないよ」祖父は微笑みながら手を差し伸べた。「こっちにおいで」目を赤くした瑠璃は、その手をしっかりと握りしめて、隣に腰を下ろした。春先の日差しはまだ暖かくなかったが、祖父の穏やかな眼差しが、瑠璃の心を温めた。「おじいさま、瞬が本宅を返してくれるって言
なぜだか、瑠璃の心がふと揺らいだ。離婚協議書に隼人のサインがあるのを見ても、ほっとする気持ちはまるで湧いてこなかった。むしろ、それが目に刺さるように感じられた。幼い頃の美しい思い出、若い日の淡い恋心、そしてうまくいかなかった結婚生活——それらすべてが、この一瞬で終わりを告げたのだった。法律事務所のドアを出た時、隼人は名残惜しそうに瑠璃を見つめながら言った。「千璃ちゃん、最後に一度だけ、抱きしめてもいい?」断るべきだったのに、瑠璃はなぜか、自然と頷いてしまった。隼人は静かに微笑み、両腕を広げて彼女を抱きしめた。彼は目を閉じ、この最後の温もりを貪るように味わった。そして目を開けた時には、視界がぼやけていた。本当なら、幸せになれたはずだった。それなのに、自分の手でその幸せを壊してしまった。彼女を深く傷つけておきながら、なおも許しを求めようとするなんて、自分はなんて卑劣なんだろうと思った。「君ちゃんと、あと数日だけ一緒に過ごしてもいいかな?」瑠璃はそっと頷いた。「いいわ」「ありがとう」彼は苦笑した。その余韻に浸る間もなく、道の端に瞬の車が止まった。彼は窓を下ろし、瑠璃に声をかけた。「ヴィオラ、行こうか?」瑠璃は未練を残すことなく、隼人の腕の中から離れた。沈黙している彼に一瞥をくれると、そのまま瞬の車に乗り込んだ。瞬の深い眼差しが、隼人の顔を一瞬だけとらえたあと、車はその場を離れた。バックミラーの中で、どんどん遠ざかっていく隼人を見つめながら、瑠璃は手にした離婚協議書をぎゅっと握りしめた。その手に、だんだんと力が入っていった。その場に残された隼人は、瑠璃の姿が見えなくなると、スマホ電話を取り出して番号を押した。彼の声は冷たく、しかし強い調子だった。「今、四宮瑠璃と離婚届にサインした男だ……」……ぼんやりとした気持ちのまま、瑠璃は店に戻ってきた。瞬も一緒にオフィスに入ってきた。隼人との離婚協議書を読み終えた瞬の黒い瞳には、どこか安堵のような笑みが浮かんでいた。「ついでに役所に行って離婚届を出すに行ければよかったのに」と、穏やかな口調で言った。瑠璃ははっとして、少しぼんやりした目で答えた。「今日は週末で、役所は営業してなかったの」瞬は小さく頷きながら、彼女の様子
彼女が最も無力だったあの瞬間、隼人は冷たい目でそれを見ていた。――あの瞬間、瑠璃は完全に目を覚ました。自分が信じて疑わなかった一途な恋心なんて、所詮は儚い幻想だったのだ。本当の愛は、こんなにも冷たく、暗いものではないはずだ。沈黙がしばらく続いたあと、瑠璃は再び口を開いた。「隼人……もし本当に私に罪悪感があるなら、早く離婚届にサインして」――離婚。その二文字を再び聞いた瞬間、隼人の心はまるで崖の底に突き落とされたようだった。彼女の瞳には、一片の迷いもなかった。もう彼を慕って見上げるような目で見ることはない。優しく「隼人」と呼ぶことも、もう二度とない。そしてそのすべてを壊したのは――他でもない自分自身だった。沈黙の中、瑠璃は決意を込めて言った。「明日、九時に弁護士事務所で会いましょう。サインしに来て。君ちゃんの親権は、良心があるなら私に譲って。譲らないつもりなら、私は法廷で争う」隼人はその言葉をひとつひとつ噛みしめるように聞きながら、ふっと口元を引きつらせ、こっそりと喉を詰まらせた。痛みをぐっと飲み込み、彼は顔を上げて穏やかに微笑む。「離婚したら……お前、本当に幸せになれるの?」「うん」迷いのない彼女の返事に、隼人の心は鋭く締めつけられた。隼人はほんの数秒黙り込んだあと、小さく頷いた。「……わかった。お前の望みどおりにする。君ちゃんの親権も、争わない」まさか隼人があっさりと承諾するとは思わず、瑠璃は少し目を見張った。瑠璃は隼人を疑うような目でじっと見つめた。けれど、彼はそんな彼女に向かって、ふっと微笑んでみせた。「千璃ちゃん……お前がそれで本当に幸せになれるなら、俺は受け入れる」その真摯な言葉に、瑠璃の胸も少しだけほっとした。背を向けようとした時、隼人が茫然とした目で彼女を見つめているのが視界に入った。瑠璃は微笑みながら静かに言った。「かつて、私は誰にも止められないほどあなたを愛してた。でも結局、強すぎる愛は自分を傷つけるだけだったの。隼人、私はあなたを本気で愛した。そして、今は心の底から憎んでる。でもそれでも――ありがとう。私の人生で忘れられない記憶をくれたこと、そして……君ちゃんをくれたことに」そして、最後にもう一度だけ確認した。「明日の朝九時。弁護士事務
隼人の話を静かに聞き終えた瑠璃は、感情を抑えたまま彼の腕を振り払い、くるりと向き直った。「言い訳するにしても、もう少しマシなのにしてよ」彼女の目には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいた。「私を愛してる?あなたの愛って、蛍に私を踏みにじらせて、傷つけることなの?」隼人は眉をひそめ、瑠璃の手を取ろうとする。「千璃ちゃん、最後まで聞いてくれ」「ピンポーン!ピンポンピンポン!」ちょうどその時、ドアベルが激しく鳴り響いた。隼人は眉間にさらに皺を寄せ、不機嫌そうにドアを開けに向かう。だが扉を開けた瞬間、彼の表情は冷たく引き締まった。「お前、ここに何の用だ」瞬はドアの前に立ち、包帯の巻かれた隼人の手に一瞥をくれたあと、部屋の中に視線を向けた。「ヴィオラ、俺だ。いるのか?」隼人の目はますます冷たくなり、瞬の前に立ちはだかる。「瞬、ここに『ヴィオラ』なんていない。今すぐ帰れ」しかしその言葉が終わる前に、瑠璃が彼の後ろから姿を現す。「瞬?どうしてここに?」彼女は驚いた様子だった。「君が心配でさ」瞬は柔らかな声で、穏やかな微笑みをたたえながら言った。「昨晩、マンションに戻ってこなかったじゃないか」隼人は不快そうに割り込む。「ここは俺の妻の家だ。なぜ彼女がマンションに戻る必要がある?」瑠璃は隼人を一瞥し、静かに口を開いた。「君ちゃんが私に一緒にいてほしいって言ったからよ。あの子を悲しませたくなかったの」瞬はうなずき、理解を示した。彼の黒い瞳が、ほんの一瞬だけ隼人の顔をかすめるように流れた。そしてすぐに、優しい笑みを浮かべながら瑠璃を見つめた。「チケットはもう取った。離婚が成立したら、君ちゃんも一緒にF国へ行こう」その言葉に、瑠璃の表情が一瞬揺れる。隼人は突然彼女の手首を掴み、彼女を自分の後ろに引き寄せた。冷たい空気がその場を包み込む。隼人は瞬に向かってきっぱりと告げた。「これが最後の警告だ、瞬。目黒グループでも、目黒家の屋敷でも、全部お前にくれてやる。でも——千璃ちゃんだけは絶対に渡さない」その口調は淡々としていながらも、強い決意と支配力が滲んでいた。瞬に返す言葉を与えぬまま、隼人は瑠璃の手を引いて家の中に戻り、ドアをバタンと閉めた。彼は彼女の両肩をしっかりと掴み、必死に訴えるよ
隼人がただじっと彼女を見つめ、手を放そうとしなかった。瑠璃は不満げに眉を寄せ、力いっぱい彼を押し返そうとした。だが、彼の腕に手が触れた瞬間、隼人は突然うめくように低く呻いた。その眉がきりりと吊り上がる。――そうだった、彼の腕にはまだ傷があったのだ。どうすべきか迷っていたその時、君秋が部屋にやって来た。ぱちぱちと瞬く大きな瞳で、目の前の二人を見上げ、小さな眉をひそめて首をかしげた。「パパ、ママ……何してるの?」「……」瑠璃は呆れて隼人を見やり、すぐに笑みを浮かべて言った。「君ちゃん、ママと一緒に寝に行こうか?」だが、君秋は小さく首を振った。「今日は、パパのほうがママと一緒に寝なきゃダメだと思うよ。君ちゃんはひとりで寝られるもん!」「……」瑠璃は返す言葉もなかった。隼人はかがんで、可愛らしい子の頭を優しく撫でた。「君ちゃんは優しいね。安心して、ママはちゃんとパパのそばにいてくれるよ。これからずっと一緒だ」「隼人……」瑠璃は彼を睨みつけた。だが隼人は、どこかいたずらっぽい笑顔を浮かべて返した。「ねえ、瑠璃、お風呂入って早く寝ようよ。うちの息子が心配しないようにさ」「……」結局、君秋の手前、瑠璃はそのまま泊まることにした。隼人は潔くベッドを譲り、自分はソファへと身を横たえた。深夜――瑠璃は眠れず、ただ静かにベッドに横たわっていた。目を閉じても、隼人と結婚していた頃の記憶が脳裏に浮かぶ。とりわけ、このベッドの上で彼に無理やり抱かれた夜の記憶は、いまだに鮮明だった。何事もなく一夜が明け、朝早く、瑠璃は起きて君秋の朝食を作りにキッチンへ向かった。ふと目に入ったテレビでは、昨夜の事件がニュースで報じられていた。華と弥助が誘拐を企てたものの、自ら火の中へ飛び込む形となり、結果――全身の70%を超える重度の火傷を負った。もはや元の姿には戻れず、これからの人生は獄中で終えるしかない。瑠璃がそのニュースを見ていると、階段から足音が聞こえた。振り向くと、隼人がアイボリーのニットを着て階下へ降りてくるところだった。朝日を受けた彼の横顔はとても穏やかで、眩しいほどだった。目が合った瞬間、彼は口元に微笑を浮かべた。「千璃ちゃん、あの時のことを覚えてる?お前がどうし
瑠璃は不満そうに目を上げたが、思いがけず隼人がすぐ目の前に迫っていた。彼の息がほんのりと彼女の頬を撫で、整った顔立ちが穏やかに視界に映り込んできた。心臓が、一拍だけ速く跳ねた。彼の顔色が本当に悪く、力もない様子に見えたため、瑠璃は熱を帯びた頬をそっとそらしつつも、彼を拒まなかった。彼女は君秋の小さな手を取り、柔らかく語りかけた。「君ちゃん、ママと一緒に帰りましょう」「うん!帰る!パパとママと一緒におうちに帰る!」君秋は大きな目を輝かせ、元気にうなずいた。隼人は瑠璃の温もりを感じながら、白い唇の端にほっとした微笑みを浮かべた。邸宅に戻ると、瑠璃は隼人を支えながら部屋へと連れて行った。ベッドに彼を座らせると、彼女はすぐさま踵を返した。「千璃ちゃん……」彼の低く静かな声が、窓の外の夜風のように彼女の耳に届いた。「行かないでくれ」瑠璃は足を止め、振り返って彼の目を見た。そこには、切実な願いが込められていた。だが彼女の表情は淡々としていた。「隼人。あなたを病院に連れて行って、また家まで送ったのは……あなたに未練があるからじゃない。ただ……もうあなたと何の因縁も残したくなかったからよ」隼人の目から、瞬時に光が消えた。これが、かつて自分が瑠璃に与えた痛みだったのか。その一言は、彼の心を容赦なく打ち砕いた。言葉にならない後悔と苦しみが、胸を焼いた。彼は静かに目を伏せ、唇に自嘲の笑みを浮かべた。瑠璃はもう一度背を向け、ちょうどそのときスマートフォンが震えた。今回は――瞬からだった。通話を繋ぐと、先ほどまでの冷たい声色とは違い、彼女の顔にはわずかな笑みが浮かんだ。「瞬、大丈夫よ。心配しないで。君ちゃんが寝たら、すぐ戻るわ」その会話を聞いていた隼人の胸の奥に、燃え上がるような独占欲が湧き上がった。彼女が部屋を出ようとしたとき――隼人はついに動いた。背後から足音が迫り、瑠璃が振り返った瞬間、目の前に彼の険しい表情が急に迫ってきた。一瞬の驚きで動けず、後ろへ下がった彼女の背が壁にぶつかった。「ドンッ」隼人の手が壁につき、彼女を閉じ込めるように囲い込んだ。「行かせない」その声は低く、命令のようだった。深く鋭い目からの独占欲が、彼女の瞳をまっすぐに見据えていた。瑠璃は反発す