LOGIN長谷川郁梨(はせがわ かおり)は折原承平(おりはら しょうへい)と結婚して三年、どれほど尽くしても、彼の心が自分に向くことはなかった。そして郁梨はついに悟った。彼の胸の奥には、今も忘れられない女性がいるのだと。 我に返った郁梨は、迷いなく離婚協議書を突きつけ、その場を立ち去った。 離婚してからというもの、承平の暮らしはどこか空虚だった。ようやく承平は気づいたのだ、郁梨が、自分にとってなくてはならない存在だったことに。いつも隣にいたはずの彼女がいないだけで、何もかもがうまくいかない。 その頃、郁梨は芸能界で一躍注目を集めていた。人気俳優との共演が話題となり、ファンの間では二人を応援する声が絶えなかった。 そんな様子を目の当たりにして、折原社長は嫉妬で気が狂いそうになった。 彼女のSNSを覗き見し、彼女の出演作に投資して撮影現場に顔を出し、洗濯や料理まで買って出る始末。 だが、既に大女優になった郁梨は、そんな彼を冷ややかに見下ろし、吐き捨てるように言った。「今さら何しに来たの?帰って」
View More「郁梨!」倒れかけたその瞬間、承平は反射的に身を乗り出し、彼女をしっかりと受け止めた。腕の中に落ちてきた身体は、あまりにも軽く、今にも消えてしまいそうだ。承平は彼女を強く抱きしめ、目尻から零れ落ちた涙を見た途端、胸が痛みで締めつけられた。「ごめん、郁梨、本当にごめん!」折原家の人々は慌てて郁梨を病院へと運び込んだ。承平の祖母は心配のあまり、今にも倒れそうになり、蓮子が必死に彼女をなだめて家へ連れ戻した。栄徳は病院に残り、息子とともに郁梨のそばにいた。彼は、承平が郁梨の手を握りしめ、真っ赤に腫れた目からぽろぽろと涙を落とす姿を見つめながら、複雑な思いで胸を詰まらせていた。やがて栄徳は承平の隣に歩み寄り、わざとらしく咳払いをして口を開いた。「男のくせに、何を泣いているんだ。医者が言っただろう、郁梨はただ弱っているだけだ。二日も三日も眠らず、ろくに食事もしていなかった上に怪我までしていたんだ。体がもつはずがない」承平は父の方を振り向き、戸惑いを滲ませながら尋ねた。「どうして二日二晩なんだ?昨夜は帰って寝たはずじゃないのか?」栄徳は冷ややかな目で息子を見やり、呆れたように言った。「あの子が眠れたと思うのか?昨日、おばあちゃんが口を出さなければ、郁梨は絶対に家に帰らなかっただろう」そうだ。おばあちゃんを心配させたくなかったからこそ、彼女はしぶしぶ帰ったのだ。承平は郁梨の手を強く握りしめ、胸の奥に重い後悔が渦巻いた。栄徳は深くため息をつき、静かに言葉を続けた。「承平、私がどうして郁梨をこんなに気に入っているのか、知っているか?」承平は困惑したように首を振った。ずっと理解できなかった――なぜ家族が郁梨にここまで満足しているのか。最初はおばあちゃんの面倒をよく見ているからだと思っていた。だが、それだけでは説明がつかないことに、次第に気づいていった。「光啓の件で、おばあちゃんは心労のあまり倒れた。あの時の私は、健康な息子を失っただけでなく、母親までも失うかもしれないと思ったんだ。お前のおじいちゃんは早くに亡くなったから、母親が私にとってどれほどの存在なのか、お前にはわからないかもしれない」栄徳はそこで一度言葉を切り、視線を郁梨へと向けた。その目には、感謝と安堵の光が宿っていた。「お前が結婚すると言った時、私は思ったよ。あ
行き交う人の波が途切れることなく続き、無関係な通行人たちも、この式場の前にこれほど多くの人が集まっているのを見て、思わず何度も足を止めて見入った。亡くなったのが教師だと聞き、彼らは口々に語り合った。生前どれほど生徒たちに慕われていたのだろう、と。そうでなければ、これほどの人数が見送りに来るはずがないと。そしてその教師には一人娘が残されており、その娘は女優だと聞くと、誰もが深く息をついて嘆いた。運命は郁梨の首を締めつけた。彼女はまだ母に孝行を尽くす間もなく、その母は先に逝ってしまったのだ。まる一日、郁梨は絶え間なく腰を折って礼を述べ続けた。わずかに残っていた体力は、すでにすっかり尽き果てていた。それでも歯を食いしばって耐え、母の骨壺を抱きしめたまま霊園へ向かい、埋葬を終えた。その頃には、郁梨の傍らに残っていたのは折原家の人々だけだった。承平の祖母はもともと蓮子に支えられていたが、突然その手を振りほどき、如実の墓碑の前で深く腰を折った。郁梨は慌てて承平の祖母を支え起こした。承平の祖母はそのまま郁梨の手をぎゅっと握りしめ、はっきりとした口調で言った。「如実さん、どうか安心してお休みください。これから郁ちゃんは、私の実の孫も同じです。誰にも郁ちゃんを傷つけさせません。たとえ実の孫であっても許しませんよ!」郁梨はたちまち嗚咽をこらえきれず、震える声で呼びかけた。「お祖母様……」承平の祖母はそっと彼女の手の甲を叩き、心配いらないと穏やかに目で伝えた。栄徳も如実の墓前に進み、深く頭を下げた。「如実さん、郁梨は本当に良い子です。これからどんなことがあっても、折原家は必ず彼女を守ります。どうか安心してお休みください」続いて蓮子も口を開いた。「如実さん、郁ちゃんはあなたがこの世でいちばん気がかりだった方でしょう。これからは私が責任をもって世話をします。絶対に辛い思いはさせません。誓います」そう言い終えると、蓮子は承平の方へ視線を向けた。承平は墓碑に刻まれた如実の名前を見つめ、かつてのように柔らかく微笑む姿を思い出した。自分はあの時、お義母様に誓ったのだ――決して郁梨を裏切らないと。その約束だけは守った。だが、それでも郁梨にこれほどの苦しみを味わわせてしまった。お義母様が空の上で見ているなら、きっと自分を責めているに違いない……そう思う
如実は午前八時に火葬された。見送りに来た教え子たちは皆、涙にくれるばかりで、「琴原先生!」と何度も叫びながら、ひざまずいて頭を下げる者もいれば、抱き合って声を上げて泣く者もいた。ただ郁梨だけは、静かに母の火葬を見つめ、黙って涙をこぼしていた。まるでこの世から切り離されたかのように。幼い頃、分別のなかった自分は、母を恨んだことがあった。母が教え子たちばかりを可愛がり、自分を愛してくれないと感じていたのだ。自分こそが実の娘なのに、と。けれど大人になる前に、郁梨はもう悟っていた。少しずつ母を理解できるようになっていたのだ。母は偉大な人だった。その愛で多くの人を導き、育ててきた。母のもとにはよく教え子たちから電話がかかってきた。「琴原先生、第一志望に合格しました」と報告する声を聞くと、母は喜びと感動で声を震わせ、電話の向こうの生徒と一緒に泣き笑いしていた。郁梨は一度、抑えきれずに母に尋ねたことがある。「お母さん、こんなに尽くして……報われることなんてあるの?」その時のことを、彼女は今でもはっきり覚えている。母は静かに笑って言った。「もう報いはもらっているのよ。私の教え子たちは、医者になった人もいれば、科学者や芸術家になった人もいる。中には私と同じように、今は誰かを教える立場になった人もいる。みんながそれぞれの場所で光を放ち、社会の役に立っている。それこそが、私のいちばんの報いなの」その時、郁梨の目に映った母の姿は、まるで神聖な光をまとっているようだった。お母さん、見えているの。お母さんへの報いは、これだけではなかったの。誰一人としてお母さんのことを忘れていないわ。皆、お母さんに別れを告げに来てくれたの。お母さんがしてきたことは、すべて価値のあることだったの。郁梨は必死に自分に言い聞かせた。もしかしたら母は、ただ場所を変えて、またどこかで子どもたちを教えているのかもしれないと。――火葬が終わると、郁梨は母の骨壺を抱いて霊堂へ戻り、そっと祭壇に安置した。そのあと静かに一歩下がる。承平は最初から最後まで彼女の傍に寄り添い、共にそこに立っていた。二人は黒い服に身を包み、弔問に訪れた人々からの慰めを受けていた。緒方は花束を祭壇の前に供え、如実に向かって深々と頭を下げたあと、郁梨の前に進み出た。「ご愁傷様です」郁梨と承平は
「今さらそんなこと言って、何の意味があるの?郁ちゃんはもう、今回は本気で離婚を決めてるわ。誰が何を言っても、きっと無駄よ」「説得なんてする必要ある?あんな男、誰だって離婚したいんだよ」蓮子はじろりと栄徳を睨んだ。「この前、自分で言ったじゃない。離婚したら、郁ちゃんは家族がいなくなるって」栄徳はしばらく黙り込み、やがて重たく口を開いた。「……もう、あの二人を引き止める顔なんて、私にはない」蓮子は一瞬きょとんとしたあと、静かに沈黙した。二人とも、本心ではこの若い夫婦に別れてほしいとは思っていない。だが、その口からどうしても「やめておけ」とは言えなかった。承平が犯した過ち――それは、どんな相手でも到底許せるものではなかった。他人の痛みを知らずに、軽々しく「許してやれ」などと口にする資格が、誰にあるというのか。その夜。承平は霊前で、ひと晩中ひざまずいていた。何度も何度も悔い、謝り、許しを乞い、これからを誓い続けた。そんなことをしたところで、何になるのかは自分でもわからなかった。だが、他にできることなど、何ひとつなかった。その夜、郁梨は温かな布団の中で、一晩中泣き明かした。最期に会うことすら叶わなかった母のことを思い、すべての真心が、無残に踏みにじられた痛みを、何度も胸の中でなぞっていた。――夜が白み始めたころ、郁梨は疲れきった体を引きずるようにして、ふらつきながら階段を下りていった。足の裏には無数の傷があり、一歩踏み出すごとに、まるでガラスの破片を踏みしめているかのような痛みが走った。それでも、耐えなければならなかった。今日だけは、どうしても乗り越えなければ。リビングのソファでは、栄徳が横になっていた。音に気づいて目を覚まし、すぐに身を起こす。昨夜は何度も寝返りを打って眠れず、郁梨が夜中にまた霊前へ行くのではないかと気がかりで、いっそこの場所で眠ることにしたのだった。「郁梨、こんなに早くから起きてるのか?」ソファから起き上がった栄徳の髪はぐしゃぐしゃで、それを見た郁梨の胸がじんと熱くなった。「お義父様、どうしてこんなところで寝てたのですか……?風邪引いちゃいますよ」一晩休んだとはいえ、郁梨の声はまだかすれていた。それでも、昨日よりは少しマシだった。栄徳は手ぐしで髪をぐしゃっとかき上げ、「エアコンつけてたし、大丈夫だ」と
reviews