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第0520話

Auteur: 十六子
彼女が最も無力だったあの瞬間、隼人は冷たい目でそれを見ていた。

――あの瞬間、瑠璃は完全に目を覚ました。

自分が信じて疑わなかった一途な恋心なんて、所詮は儚い幻想だったのだ。

本当の愛は、こんなにも冷たく、暗いものではないはずだ。

沈黙がしばらく続いたあと、瑠璃は再び口を開いた。

「隼人……もし本当に私に罪悪感があるなら、早く離婚届にサインして」

――離婚。

その二文字を再び聞いた瞬間、隼人の心はまるで崖の底に突き落とされたようだった。

彼女の瞳には、一片の迷いもなかった。もう彼を慕って見上げるような目で見ることはない。

優しく「隼人」と呼ぶことも、もう二度とない。

そしてそのすべてを壊したのは――他でもない自分自身だった。

沈黙の中、瑠璃は決意を込めて言った。

「明日、九時に弁護士事務所で会いましょう。サインしに来て。君ちゃんの親権は、良心があるなら私に譲って。譲らないつもりなら、私は法廷で争う」

隼人はその言葉をひとつひとつ噛みしめるように聞きながら、ふっと口元を引きつらせ、こっそりと喉を詰まらせた。

痛みをぐっと飲み込み、彼は顔を上げて穏やかに微笑む。

「離婚したら……お前、本当に幸せになれるの?」

「うん」

迷いのない彼女の返事に、隼人の心は鋭く締めつけられた。

隼人はほんの数秒黙り込んだあと、小さく頷いた。

「……わかった。お前の望みどおりにする。君ちゃんの親権も、争わない」

まさか隼人があっさりと承諾するとは思わず、瑠璃は少し目を見張った。

瑠璃は隼人を疑うような目でじっと見つめた。けれど、彼はそんな彼女に向かって、ふっと微笑んでみせた。

「千璃ちゃん……お前がそれで本当に幸せになれるなら、俺は受け入れる」

その真摯な言葉に、瑠璃の胸も少しだけほっとした。

背を向けようとした時、隼人が茫然とした目で彼女を見つめているのが視界に入った。

瑠璃は微笑みながら静かに言った。

「かつて、私は誰にも止められないほどあなたを愛してた。でも結局、強すぎる愛は自分を傷つけるだけだったの。隼人、私はあなたを本気で愛した。そして、今は心の底から憎んでる。でもそれでも――ありがとう。私の人生で忘れられない記憶をくれたこと、そして……君ちゃんをくれたことに」

そして、最後にもう一度だけ確認した。

「明日の朝九時。弁護士事務
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