LOGINほどなくして、アイボリーから電話が来た。私が彼に売ったブドウ畑を見に来ないか、と。そこに驚きを用意したらしい。――断る理由なんて、どこにもない。私は喜んで向かった。黒いランボルギーニ。艶があって、夜の光を吸い込むかのような車体。アイボリーはその横にもたれていた。頭の先から足元まで、相変わらずいつものスーツ。落ち着き払っていて、心の内は読めない。彼は私を街でも屈指の高級レストランへ連れて行った。赤ワインを二杯飲んだあたりで、彼は一つのファイルをすっと私の前に滑らせた。――契約書。「お前の元夫が握ってた裏の商売を、俺が引き継いだ」デザートでも差し出すかのような軽い口調。「結論から言うと、夫としては失格だが、商売人としてはそこそこ腕がある。これが顧客リスト。政治家、セレブ、インフルエンサー……いろいろ載ってる」彼はページをめくって、二枚目を指でとんと叩いた。「そしてこれは、拠点の一覧だ。不動産、栽培拠点、秘密のラボ……お前が望むなら、これを使って自分の王国を建てればいい」私は彼を見た。「アイボリーさん……そこまでしなくても。あなたはもう十分、私を助けてくれた」彼は淡く笑ったまま、涼しい顔を崩さない。「いや、オリヴィア。まだ足りない。迷うのは分かる。でも、あんな扱いを受けたあとで、彼が血眼で築いたものを奪うのは、やりすぎじゃない」そして、さらっと続ける。「もしお前が慈悲深いなら、彼に清掃の仕事でも与えてやればいい。便器でも磨かせろ」私は書類をめくりながら、慎重に口を開いた。「私は……この手の商売に触れたことがない」「何事も初めてはある」彼は片目をつむるかのように瞬きして、「信じてるよ、オリヴィア」それからグラスの縁を越えるような、囁き声で言った。「罪悪感なんて持つな。ただ、もっと幸せに生きろ。お前は長いこと……生き延びてただけだった」胸の奥が、ふっと揺れた。酸っぱくて、でも温かい。ずっと私は、こんなふうに私を理解できるのはエリオットだけだと思い込んでいた。でも今、私のひび割れの奥に指を届かせてくれるのはアイボリーだ。そして言う。――お前には、もっといいものがふさわしい。……彼の言うとおりだった。私は何年も、耐えて、許して、自分を小さく折り畳んでいた。エリオット
ライラは歩道に崩れ落ちた。スカートはぐしゃぐしゃで、完全に打ちのめされたという顔をしている。涙の跡が頬を這い、嗚咽が裁判所の階段に反響する。「ずっと無垢のフリをしてきた」私は冷たく言った。「でも、あなたは無垢なんかじゃない。嘘をついて、自分のしたこと全部を私のせいにした。今さら騒いでるのは、もう隠せないって分かったからでしょ」エリオットはライラを抱き寄せ、私を見る目に嫌悪と失望を滲ませる。まるで私が彼を裏切ったかのように。「お前がここまでするとは思わなかった」怒りのあまり歯を噛み締める。「録音を送っただけじゃ足りず、今度はわざわざ人まで連れてきたのか?暴漢使って、嘘を本物に見せたいだけだろ」「嘘かどうかなんて」私は肩をすくめた。「ライラを縛って嘘発見器にかければ分かる」私はジェイソンに視線を向ける。「連れてきた?」彼は短く頷いた。「連れてきた。安心しろ。逃げ道は作らせない」「助かる」私は淡々と言い、セレナを見る。「ジェイソンと一緒に。最後まで片をつけて」ライラの身体が震え始めた。抑えが効かないほど、細かく、激しく。そのとき私は初めて、エリオットの顔に別の表情を見た。困惑。迷い。そして――恐怖。……いいね。裏社会の嘘発見器は、コードと優しい質問じゃない。痛みだ。制御されて、正確で、逃げ場のない痛み。嘘をついた人間が、同じ顔のまま戻ってこられるわけがない。それに、私は予感していた。圧がかかれば、ライラは吐く。吐き出す秘密が、山ほどある。ジェイソンが彼女を車へ引きずっていく間、エリオットと両親は硬直したままだった。誰も手を出せない。アイボリーという名前が、刃物のように空気を切っている。エリオットの視線が私にぶつかる。その目は、まるで初めて会う女を見るみたいだった。……たぶん本当に、知らないんだろう。私自身も、もう昔の私を知らない。でも――くそ。最高だった。……翌日から私はホテルへ移り、そのまま二か月、姿を消した。オーウェンもいない。エリオットもいない。ライラもいない。いるのは私と、私のビジネスと、あのブドウ畑だけ。エリオットは知らなかった。あの土地はすでに新しい経済開発区に組み込まれていたことを。その情報はずっと前から、私が握っていた。離婚届にサインが入った瞬間、私は振り返
エリオットはぴたりと足を止めた。勝ち戦の将軍のような顔で、口元を歪める。「ほらな。やっぱり。お前、気にしてないフリしてただけだ」「違うよ」私は静かに言った。「伝えたいことがあるだけ――明日、コートハウスで会いましょう。弁護士も連れてくる。あなたが気が変わる前に、きれいに終わらせたい。離婚は、ちゃんと済ませるから」彼の口元がぐにゃりと歪む。「わかった。行ってやる。お前みたいなの、こっちだって早いうちに捨てたいからな」吐き捨てるように言い、彼は脆くて可哀想なふりをしたライラを乱暴に引っ張って出ていった。私は動かない。何も言わない。ただ椅子に戻って座った。まるで、何も起きなかったかのように。セレナがためらいがちに口を開く。「もし……つらいなら」柔らかい声。「無理しなくていいです。泣いてもいいですよ。感情を出していいんです……たとえ相手がクズでも」私は首を振った。「つらくない。ただ悔しいだけ。もっと早くこうしなかった自分がね。昔の私は、弱すぎた」セレナは恐る恐る笑う。「じゃあ、本当に……」私は言い切った。「今は、解放されたって感覚しかない」「それならよかったです」セレナは歯を見せて笑った。「正直、さっきはあのクソ男に情が湧くんじゃないかって心配してました」私は笑った。心からの笑いだった。トーンが低くて、肩の力が抜けるやつ。――エリオットから解放された以上、もう庇う理由はない。まして、ライラを見逃す理由なんてない。あの録音を捏造だと言い張るなら、なおさら。私はスマホを手に取った。ライラに体験してもらう番だ。男を奪うって、どういうことか。血眼になって奪い取った男なら、ちゃんと自分で守ればいい。そして私が何年も冷遇されてきた絶望を――今度は、彼女が引き受ければいい。……翌日。私はアイボリーと二度目の面会を入れた。エリオットとライラが「録音は偽物だ」と言うなら、逃げ場のない形で叩きつける。誰が聞いても、言い逃れできない証拠を。「お願いが図々しいのは分かってる」私は護衛に言った。「でも……もっと確かなものって、ある?」男はにやりと笑う。「確かなもの?なら俺が一緒に行けばいい」少し意外だった。彼は身を寄せ、得意げに言った。「俺の顔見たら、あいつ絶対バグるからな」―
エリオットの目が沈み、顎が割れそうなくらい固くなる。「本気でそうするつもりか?俺はわざわざ謝りに来たんだぞ。そもそも俺は何も悪いことしてない。調子に乗るなよ」私は小さく笑った。「愛が故来た、みたいに見せないで。あなたの本当の目的なんて、分かりきってる。私を連れ戻して、またあなたとあなたの家族に無料でメイドをやらせたいだけでしょ」その言葉が刺さった。エリオットは拳を握り、怒りで肩まで震える。その瞬間、ライラがタイミングを見計らって前へ出て、最後の大芝居を始めた。「全部、私が悪いの」か細い声だった。「私がいなければ、エリオットもオーウェンも私を気にしなくて済んだ。エリオットを責めないで……彼は私を助けたかっただけ。彼の中で私は、ずっと友だちなの」ライラはエリオットへ向き直る。悲劇のヒロインのように震える声。「お願い、オリヴィアに怒らないで。喧嘩しないで。あなたが苦しいのは全部、私のせいなの……」――はいはい。いつものお涙頂戴だ。今夜は十八番を全部盛りで来るらしい。「あなたが彼を許してくれるなら」彼女は悲壮に囁く。「私はすぐに出ていく。永遠に、あなたたち二人から……そしてオーウェンからも離れる。たとえ一生、孤独と闇の中で生きることになっても……私は構わない……」そして芝居を完成させるためか、信じられないことに――彼女は私の手に触れようとした。「お願い……」指先が私の手をかすめる。まるで高潔な犠牲のバトンでも渡すつもりかのように。エリオットは即座に彼女へ飛び、壊れ物のように抱きしめた。「どうしてそこまで自分を傷つけるんだ」強く抱く。「オリヴィアが俺から離れるって決めたなら、それは彼女の問題だ。お前のせいじゃない。俺が勝手に、お前の面倒を見るって決めただけだ」そして私に振り向く。歯を食いしばって。「今日の決断、後悔するなよ。俺はもう振り返らない。謝るのもこれで最後だ。お前は本当に話にならない」私はゆっくり笑った。「エリオット。私のこと舐めてるの?」彼の身体が、びくりと固まる。「あなたもライラも、もう私の人生にはいない」私は淡々と言った。「今さら、私があなたたちを大事にする理由がある?結婚してたときでさえ、あなたは私を大事にしたことがあるの?」エリオットが口を開きかけた。罵声でも上げるつもり
「少しは楽になりました?」セレナがトレイを手に、私のオフィスへ入ってきた。トレイの上には水のグラスが一つ置いてあった。「うん、だいぶよくなったわ。ありがとう」私は小さく笑ってグラスを受け取る。セレナは少し迷ったあと、気まずそうに口を開いた。「……ごめんなさい。うっかり聞こえてしまいまして。さっき、旦那さんと揉めてました?」「そう。まあ、いつもどおり。いつもどおりの喧嘩」私は肩をすくめる。「原因は――あの女」遠回しに言う余裕なんて、今日はもう残ってなかった。セレナは眉を上げて、すぐに軽く笑った。「人生でクソ女に遭遇しない人なんていませんよね」「私のは、ちょっと格が違う」ため息をついて水を一口。喉の奥が少しだけ落ち着く。「自分でやったこと全部、私のせいにするの」「タチ悪すぎ」セレナが低く悪態をついた。目が冷える。「それで、旦那さんは?あなたのこと信じないんですか?」「もちろん。彼にとって私はずっと悪者よ」私は苦く笑う。「たぶん、私が強すぎて扱いきれないんでしょ」「バカ言わないでください」セレナは顎を上げた。「あなたは有能で、自立してて、仕事だって成功してます。そんな人と結婚できた時点で、彼は陰でガッツポーズしてもいいくらいですよ」思わず、乾いた笑いが漏れた。「正直に言いますが」セレナは肩をすくめる。「そんな扱いされてるなら、あなたの男を見る目がちょっと……悪気はないですけど」「いいの」私は静かに言った。「本当だし。男を見る目は、まあ最悪……友だちを見る目もね」それに――と、心の中で自嘲する。母親としての目も、たぶん壊滅的なんだろう。そうじゃなきゃ、実の息子に寝物語の悪役みたいに扱われたりしない。「そういうこと考えるの、やめません?」セレナが優しく声をかけた。「何か食べます?お持ちしますので」「いい。まだお腹空いてない」私はバッグから薬瓶を取り出し、錠剤を一粒落とした。セレナがラベルを見て、ぴたりと動きを止める。「……抗うつ剤ですか?」私の指が一瞬固まった。――見られた。空気が急に重くなる。長いこと隠してきたものを、日なたに引きずり出されたみたいな感覚。私は無理やり笑った。「うん……内緒にしてくれる?」「もちろんです」セレナは頷いて、ふっと息を吐く。「た
私は、自分の限界を甘く見ていた。カジノに戻った途端、堰を切ったように感情が押し寄せる。脚から力が抜けて、視界が暗くなった。世界がぐるりと回る。意識が途切れる直前、ひとりの女の子が顔中焦り色を浮かべながら駆け寄ってくるのが見えた。――笑える。赤の他人のほうが、私が一生かけて守ってきたあの人たちより、よほど私を気にかけてくれるなんてね。……目を開けたとき、トラックにでも轢かれたように全身が痛かった。喉はからからで肌は熱く、身体の奥が火照っている。「……ここは?」掠れた声で問い、ベッド脇の女の子を見る。「倒れたんです」彼女は小さく言った。「高熱が出てました。でも、もう落ち着きました」彼女は近づき、私の額の濡れタオルを取り替える。笑みが柔らかい。「あなたは……?」「カジノでディーラーしています」彼女は言った。「何度かお見かけしました。セレナです」私は彼女を見つめた。若くて、温かくて、汚れがない。「ありがとう」低く言う。「ここまで運んでくれて……助かった」彼女の素直な顔を見ていると、長いこと思い出していなかった誰かが浮かぶ。――私自身。すべてが地獄に落ちる前の、私。その瞬間、胸の奥で何かが静かに切り替わった。罪悪感と羞恥と沈黙の下に、何年も埋めてきた問いが、また浮かび上がってくる。――あの夜、いったい何が起きたの?ライラが「オリヴィアによって悪魔に差し出された」と言い張った、あの夜。私はずっと、真相は闇の中だと思っていた。監視映像は、理由もなく消えたから。……でも私は、一度も彼のところへ行かなかった。この出来事の核にいる人物のもとへ。私はスマホを取り出して秘書に電話した。「アイボリーさんのアポを取って……そう、仕事じゃない。個人的な用件。昔の、ある件について。決まったら時間と場所を送って」……四十八時間と経たずに、私はアイボリーと会う約束を取り付けた。正直、凶暴で禍々しい、悪魔みたいな男を想像していた。けれど部屋に入ってきた男は、まるで高級スーツの広告から抜け出してきたような男だった。三十代半ばで背が高く、体つきはすらりとしている。黒髪はきれいに整えられ、腕時計は――たぶん私の結婚指輪より高い。端正で魅力的で……思わず警戒心を解いてしまうタイプ。「ブルックス