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第890話

Author: 栄子
重苦しい空気が病室を支配していた。

裕也は水を一杯注ぎ、真奈美に差し出した。「さあ、水を飲んで」

彼女はコップを受け取った。「ありがとう」

裕也はベッドの脇に座り、真奈美を見つめた。その目には、彼女への同情の色が浮かんでいた。「本当に申し訳ない」

真奈美は顔を上げて彼を見た。「いつ知ったの?」

「勲と俺は、最初から知っていた」

真奈美はきょとんとした顔になった。

「ただ、あの頃のあなたは大輝さんのことしか頭に無かったから、もしあなたのお兄さんが水面下で彼と会っていたことを知ったら、二人の関係はもっと悪化してしまうだろうと考えたんだ。それで、勲と相談して、あなたには黙っていることにした」

真奈美は再び涙で目が潤んだ。「あなた達の言う通りよ。あの時、たとえあなた達がそうだと教えてくれても、私はきっと理解できなかった。あの頃の私は本当にわがままで、兄がいつも親ぶって私の自由を束縛しているように感じていた。

彼は私と大輝は合わないと言ったけれど、あの頃の私は聞く耳を持たなかった。それが今になってようやく、兄がずっと私を守ってくれていたことが分かった、だけど私は......」

自分の行いを思い出すと、真奈美は自分を許すことができなかった。

彼女は顔を覆い、堪えきれずに泣きじゃくった。「兄に申し訳ない、本当に申し訳ない......」

「そんなことを言うな。彼はあなたに幸せになってほしいと願っていただけだ。兄として、あなたに合う人を見つけてほしいと思っていた。大輝さんは性格が強引すぎる。そして、あなたも気が強い。そんな二人が一緒に暮らせば、お互いに譲り合うことができずに、色んな問題が起きるのは当然だ」

聡は、真奈美には彼女の気性を理解し、心の内を汲み取ってくれる男性が合うと考えていた。

大輝は昔から頑固で短気なことで有名だった。聡は、真奈美が彼と一緒になったら苦労するのではないかと心配していたのだ。

そして今、二人は結婚したものの、わずか2ヶ月も経たないうちに、真奈美は心身ともに傷ついてしまった。これは、聡が最も恐れていたことだった。

それが現実になってしまったのだ。

「人生とはそういうものかもしれない。誰にでも乗り越えなければならない試練がある。過去の出来事で自分を責めてはいけない。今の生活が辛いなら、そこから抜け出す努力をするんだ。未来はまだ
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