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第253話

Author: 連衣の水調
最近の客も、皆あのピアニスト目当てだなんて。

「ああ、あの方でしたら、今はお見合いの真っ最中ですわ」

胤道はメニューをめくる手を止め、黒い瞳をすっと細めた。

「お見合い?」

「ええ」

店員は嘲るような笑みを隠そうともしない。

「ピアノの腕は確かですけど、お顔はあれですし、おまけに目も見えないでしょう?

まともな殿方が相手にするはずもありませんから。だから清掃のおばさんが紹介してあげたんですの。

七、八歳も年上らしいですけど、あの方のご事情では、選り好みなんてできませんからね」

胤道の黒い瞳に、氷のような光が宿る。その視線に射抜かれ、店員は背筋が凍るのを感じた。引きつった笑みを浮かべる。

「お客様、どうかされましたか?」

「その女はどこだ」

店員は一瞬呆気に取られたが、すぐに店の隅を指さした。

「あちらの席です」

静華とその男は死角になる席にいた。意識して見なければ、気づかないような場所だ。胤道の視線は、その男に注がれた。

見るからに冴えない男、という表現がしっくりくる。

胤道は鼻で笑った。静華はたとえ目が見えなくとも、「男を見る目」くらいは持っているはずだ。

だが次の瞬間、目に飛び込んできたのは、心から楽しそうに笑う静華の姿だった。肩を揺らして笑い、焦点の合わない瞳ではあったが、その顔に浮かぶ喜びは隠しようもなかった。

その瞬間、胤道の眉間に深い皺が刻まれる。今の自分ですら、静華のあんなに屈託のない笑顔を見たことがない。

……

「あのおばさん、ああいう方だったのね。本当にせっかちなんですから」

静華は水を一口飲んだ。

「まだ考えてないって言ったのに、すごく熱心で。まさか今日、もう高木(たかぎ)さんを呼んでしまうなんて思いませんでしたわ」

「僕も参りましたよ」

男は肩をすくめた。

「今日だけで十回以上も電話がかかってきて。でも、お気持ちは分かるんです。

年頃になると、周りから恋人を作れって急かされるんですよね。一生一人でいるつもりかって心配されて」

静華は頷き、再びグラスに手を伸ばしたが、位置を見誤って倒してしまった。こぼれた水が、あっという間にスカートを濡らしていく。

「森さん、大丈夫ですか!」

男は息を呑み、慌ててティッシュで静華のスカートを拭き始めた。

「この後、演奏があるんでしょう?スカートが濡れた
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