LOGIN生涯で唯一愛した女性、沙雪の面影を重ねて、似ているだけの別人、麻奈と結婚してしまった神崎蒼生。沙雪への思いと、麻奈への罪悪感から嘘を重ねながら、それでも麻奈の持つ明るさと健気さに惹かれて行く自分を抑えられない。一方で、そんなこととは知らず、愛されている確信の中で、目標だったフルマラソンの四時間以内完走のために準備を始める麻奈。二人のすれ違い、誤解と純愛の物語。
View More「どうして?」
都会のビル群の中でもひときわ高く聳え立つ白いホテル。最上階の豪奢なスイートルームに麻奈《まな》の声が響き渡った。 梅雨の時期には珍しく、夜空には明るい月が昇り、都会のけたたましい灯りから逃れた星々が小さく瞬いていた。 細い肩を震わせて、麻奈は話す声まで残響となって残るほど広い寝室の片隅に呆然と立ちすくむ。左手には今日はめられたばかりのプラチナの指輪が光っている。 逞しい腕で優しく麻奈を抱き寄せた夫は、麻奈がそれに応えて指を背中に這わせた途端に体を震わせ、「ごめん、これ以上は……」とだけ言い残して寝室を出て行った。 柔らかく落とされた照明の中で、この部屋と隣室を隔てる扉の金具が鈍く光っている。つい今しがた戸惑うようにそっと閉められた硬い扉。 「どうして…?」 麻奈のつぶやきがもう一度部屋に落ちた。薄く寝化粧をほどこした清楚な顔立ち。その特徴である大きな目に涙を浮かべて、麻奈は閉められた扉を見つめる。 扉の向こう、リビングのソファの上で、神崎蒼生《かんざきあお》は扉に背を向けたまま歯を食いしばって震えていた。 「……沙雪《さゆき》」 唇の間から微かに振り絞るような吐息が漏れた。 ホテルはようやく落ち着きを取り戻しつつあった。国内大手である神崎グループの御曹司、神崎蒼生の結婚式は無事にお開きを迎え、贅を凝らした薔薇の花束とも見紛うような多勢の招待客も、個々帰途についた。 ほんの数時間前、麻奈はその主役だったのだ。もちろん主眼は新郎である蒼生だったし、招待客のほとんどは蒼生が社長を務める神崎テクノロジーズの関係者だった。その彼らの話題の中心は、今までどんなに条件のいい令嬢との縁談も断って来た蒼生が、これといった後ろ盾もない、ごく平凡な会社員だった麻奈と突然の結婚を決めたのは何故か、という興味だった。 「でも、人の噂なんか関係ない。私はあなたを愛してるんだもの、蒼生」 麻奈は目を伏せると、左手に光るプラチナの指輪にそっと唇を寄せる。 この結婚に対する周囲の噂は聞いていた。釣り合わない格差婚。だが、それはこの結婚が偶然の出会いから生まれた思いがけないシンデレラストーリーだったというだけのこと。 安易に体を重ねた結果の不本意な授かり婚。それも違う。何故なら、蒼生は交際中に一度も麻奈を抱こうとしなかったのだから。 「大切に思ってくれていたから、でしょう?」 麻奈は小さく微笑んで扉に向かってそっと話しかけた。体を重ねたことこそなかったが、それでも蒼生は何度も麻奈を抱きしめてくれたし、優しいキスだって何度も交わした。時には、蒼生の体が男の欲望に抗うように小刻みに震えるのを感じたこともあった。蒼生はその度に歯を食いしばり、拳を握りしめて大きく息をついてから、麻奈の大好きな優しい笑顔を浮かべて「おやすみ、次はいつ会える?」と言ったのだ。 愛されている。 麻奈は確信していた。 私は蒼生に愛されている。 「……それなのに、どうして?」 麻奈はもう一度呟いた。こんなことって。今日、蒼生は、微笑みながら彼女の左手に輝くプラチナのリングを嵌めたばかりなのに。永遠の約束。愛の証を。 「開けて、蒼生」 麻奈は隣室へ通じる硬いオークの扉をそっと叩いた。 「私、何かした? 嫌なことをしたのなら謝るから。だから、開けて」 だが、隣室は静まり返り、扉は冷たく閉じたまま、何の気配もなかった。 麻奈は小さく息を吐き出すと、オークの扉を背にしてそれにもたれた。 どうしてこんなことになったのだろう。蒼生は何が気に入らなかったのだろう。こんな蒼生は初めて。 麻奈は扉にもたれたまま目を閉じる。脳裏に蒼生と出会った日のことが浮かぶ。 桐谷麻奈《きりやまな》は、小さな会社の総務課社員として平凡な毎日を送っていた。 悩みといえば、もう二十代最後の歳を迎えたのに恋人もいないことくらい。それだってたいしたことではなかった。 「彼氏いない歴何年になったんだっけ」 通っているジムの鏡に自分の姿を映しながら、時々つぶやくくらいのこと。そんなことより毎日体を鍛え、ランニングに力を傾けたい。走ることが好きだから。 「今度のマラソン、絶対に4時間を切るわよ。大丈夫、それだけの経験を積んだんだから」 鏡に向かって自分を鼓舞しながら、麻奈は半年後に迫った市民参加もできる大きなマラソン大会を想定する。そのためにどんなトレーニングが必要か、何をこなして行けばいいのか、頭の中で計画を立てている時に不意に話しかけられた。 「すみません、マシンの使い方を教えていただけませんか」 それが蒼生との出会いだった。 「どのマシンを使いますか?」 気軽に返事をしながら、麻奈は振り返った。こんなことが時々ある。常に忙しそうに誰かを指導しているトレーナーより声をかけやすいのかもしれない。 「……あの、腹筋を……鍛えたいな、と」 おどおどと返事をしながら、蒼生は少し顔を赤らめた。視線は麻奈から外れ、天井あたりをさまよっている。 ……あ、可愛い。 それが第一印象。麻奈より一回りほど大きな体なのに、不思議と蒼生からは圧のようなものを感じなかった。背が高く、広い肩幅の均整の取れた体つきだが、鍛えているわけではないことはすぐにわかる。意志の強そうながっちりした顎や涼しげな切れ長の目は、人を惹きつけるのに充分な魅力があった。 「腹筋を? マシンを使うのは初めてですよね?」 麻奈は、蒼生の隣にあるマシンに手をかける。 「……はい」 照れくさそうに頷く蒼生に麻奈は笑顔を返してから、丁寧に使い方を説明し始めた。 ……あの時、あなたは本当に一生懸命だったのよね。 静まり返ったスイートルームに一人立ち尽くして、麻奈は床を見つめたままくすりと笑った。 ……真剣な顔で使い方を聞いて、すぐに自分でやってみて。初めはあまり負荷を大きくしちゃいけないって言ったのに、それもよく聞いてなくて。だからすぐにバテちゃって。 目を閉じた麻奈の顔に優しい笑みが広がった。 ……それから、「あなたのトレーニングの邪魔をしてしまった。ごめん。お詫びにお茶でもいかがですか?」って。ありがちなお誘いね、なんて思ったけど、OKしちゃった。蒼生、私、あなたのこと、最初から素敵だなって思ってたのよ。 麻奈はもたれていたオークの扉から体を起こした。 ……あれがきっかけで付き合うようになって、あなたは私と結婚したいと言った。生涯の伴侶として。 麻奈は自分に首を振った。あまりしつこくしちゃダメ。そっとしておいた方がいいのかも。……きっと……何か理由があるはず。 麻奈はうつむいてしばらく考えていた。細い眉が顰められ、唇が震える。やがて目を閉じると、微かに首を傾げて小さくうなずいた。 「蒼生、今夜のこと、きっと……何か理由があったのよね。いつか聞かせてね。それじゃ、また明日。おやすみなさい」 麻奈は閉められたままの扉にそっと話しかけると、そこを離れ、ベッドに横になった。両手を広げて天井を見る。何かを吐き出すように大きく息をつく。 「……広いわね。こんなに大きなベッド、初めて」 広すぎるベッドの中で一人目を閉じると、麻奈は何度も寝返りを繰り返しながら、時々ため息をつく。が、やがてゆっくりと眠りに落ちて行った。 ——それじゃ、また明日、おやすみなさい。 扉越しに響いた麻奈の優しい声。隣室の大きなソファにうずくまったまま、蒼生はそれを聞いていた。 「……沙雪」 硬く食いしばられた蒼生の唇から、もう一度吐息が漏れる。 「……沙雪。お前じゃない。彼女は……違う」 わかっていたのに。麻奈は麻奈であって、沙雪ではないことくらい。別の人だとわかっていたのに。 蒼生は震える手で頭を抱えた。柔らかなソファに体を沈めたまま、しっかりと目を閉じる。全身の震えが止まらない。 ……愛している。お前を。 誰とも結婚しない。興味も持たない。もう誰かを愛する必要なんてない。 そう決めていた。 ——あの日、麻奈を見かけるまでは。 蒼生の肩が大きく震え、長いため息が漏れた。扉を隔てた隣室からは、麻奈が寝支度をする気配が伝わって来る。 「……ごめん」 ソファに沈み込み、頭を抱えて丸くなる。麻奈。お前は、あまりにも沙雪に似てたから。 吸収合併を決めた会社との最終調整に出かけた時だった。麻奈は、横断歩道の前で信号が変わるのを待っていた。車の後部座席からちらりと見えたあの姿。初めは沙雪かと思った。 「止めてくれ」 「どうしました? 時間がありませんよ」 思わず運転手に命じ、同行した秘書の早野優斗(はやのゆうと)が蒼生に首を振った。 首を傾げる早野に悟られないよう、蒼生はもう振り返ることもしなかったが、あの一瞬が頭に焼きついて離れなくなった。 ……制服を着ていた。どこかの会社の社員だ。沙雪なのか?ここに……同じ街にいるのか……? それからは、外へ出るたびにその姿を探すようになった。もう一度、しっかりと見たかった。本当に沙雪じゃないのか。似ているだけの別人なのか。だが、あの姿を見かけることはもうなかった。 「だいたい制服を着て外にいたということは、あの日たまたま外に出ただけで普段は内勤なんだろう。……もう見かけることもないかもしれない」 会議が思ったよりも早く終わり、自宅へ向かっている最中に小さく自分だけにつぶやいたとき、麻奈が通りに面した小さなジムの中へ吸い込まれるのを見た。今度は制服ではなく、通勤用のカジュアルなスーツにスポーツバッグを肩にかけて。 「……いた」 それからのことは自分でも信じられない。慌てて運転手に車を停めさせ、自分は降りると、訝しげな顔をする早野と車だけ先に帰らせた。 黒塗りの高級車が自分を置いて去るのを確認すると、蒼生は踵を返して麻奈が入って行ったジムの前に立った。一般向けの小さなジムだ。一度中を覗いた後、蒼生は目についた近くの衣料品店で適当にスポーツウェアを買い込み、今度はジムの中へ入ると受付で入会手続きを済ませた。 「ご利用はいつから?」 支払い用に提示したブラックカードを目を丸くして見つめるスタッフに、蒼生は言った。もの問いたげに顔をあげるスタッフか、目を逸らして。 「今すぐ」 更衣室でシルクのオーダーメイドスーツを脱ぎ捨て、スポーツウェアを纏うと、蒼生はマシンの並ぶトレーニングルームへと足を踏み入れた。 麻奈がそこにいた。 ——沙雪。 鏡に向かって一心に何かを考えている麻奈の少し憂いを含んだ顔は驚くほど沙雪に似ていた。ほっそりした体。流れる黒髪。肌は少し焼けている。 ……違う。沙雪じゃない。別人だ。 失望とも安堵ともつかないまま微かなため息をつく。 ……だけど似ている。沙雪が健康になったらきっとこんな感じだ。彼女は少し体が弱かったけれど。 「すみません。マシンの使い方を教えていただけませんか」 気がついたら声をかけていた。 「どのマシンを使いますか?」 麻奈は振り返った。ポニーテールの黒い髪が揺れ、蒼生をまっすぐに見て首を傾げる。 ……聞こえてしまった。 蒼生は慌てた。どうしたらいいんだ。何をやってるんだ、俺は。変質者だと思われたりしないか? 麻奈が微笑んだ。 ……ああ、沙雪に似ている……。 それ以上見ていられなくなって、蒼生は目を逸らした。顔が赤らむのがわかる。自分のしていることが信じられない。 返事を待つようにまた首を傾げた麻奈に答えなければならなくなって、蒼生はまた慌てた。 ……マシンって? 何があるんだ? だいたいこんな所、来たことがない。どこを鍛えれば不自然じゃないんだ? 「……あの……、腹筋を……鍛えたいな、と」 ようやく絞り出した答えに、麻奈は頷いてもう一度微笑んだ。その笑顔に沙雪が重なる。 「じゃあ簡単に説明しますね」 「……麻奈」 ホテルのリビングで、蒼生はうずくまったままソファを握りしめた。 ……抱けない。 麻奈を抱こうとすれば沙雪がよぎる。麻奈は沙雪ではない。わかっている。わかっているのに重ねてしまう。 蒼生は拳を握りしめた。 沙雪は俺を愛していない。麻奈は俺を愛している。俺を愛する女に、俺を愛していない女を重ねて抱くのか? できるか? そんなことが。 「……麻奈、ごめん」 交際をしながら、結婚を決めてから、もう何度謝っただろう。 「結婚するべきじゃなかった」 その後悔も、何度も何度も繰り返した。だが。 「……失いたくないんだ。もう……失いたくない」 蒼生の顔が苦しげに歪んだ。 「沙雪。俺は……もう失いたくない」 月が沈み、朝の光が差し込むまで、蒼生は歯を食いしばり、体を震わせていた。数日後。麻奈は、山吹色のシューズを履くと、高級住宅街の道路へ走り出た。少しずつ力を増す陽射しに目を細める。「……もう夏になるのね」 あちこちの大きな家の庭に植えられた樹々の緑が揺れる。陽の光を受けて輝く緑を眺めながら走っているうちに、両側に瀟洒な家が建ち並ぶまっすぐな道へ出た。「……結婚して一年……いろいろあったけど、飛び出してから半年、戻ってきて数ヶ月。結局今は落ち着いちゃった。私、幸せ……かな、かなり」 少し走ると、上品な石作りの大きな屋敷の前へ出た。門の前で打ち水をしていたその家の女主人らしき年配の女性が麻奈にちらりと目をとめる。「……おはようございます」 走りながら麻奈は意識して笑顔を作った。が、女性は頭を下げた麻奈には気づかないふりをしてぷいと横を向いてしまった。……仕方ないわよね。 返されなかった挨拶のことは気にしないことにして麻奈は走り続ける。ただ、ペースが少し速くなった。ストライドを大きく取り、ぎゅっと唇を固く結んで前を向く。石作りの家はあっという間に麻奈の背後で小さくなった。……私はこの辺りの上品な奥様たちから見れば異物みたいなものだから。名前を知られた家の出でもないし、大人しくしているならまだしも、毎朝変な格好で道路を走っているんだもの、あの人たちから見ればどう扱っていいのかわからない存在なのよね、きっと。「仕方ない。ただ、私はそんなことをしないようにって思うだけ。……それしかない」 走りながら角を曲がると、大きな庭に囲まれた平屋建てのこぢんまりとした家が現れた。敷地をぐるりと囲んだ開放的なフェンスから綺麗に整えられた庭が見える。「おはようございます」 門の前で掃除をしていた女性が麻奈の姿を認めるとにこやかに声をかけた。「おはようございます」 麻奈も笑顔を見せる。この家の女主人は最初から麻奈を見ると笑顔を浮かべて声をかけてくれる。……うん。こんな奥様になりたいな。 軽く頭を下げると、麻奈は彼女の前を走り抜けた。……あの家の奥様だけ。私に何の偏見もなく声をかけてくれるのは。 こういう高級住宅街は、いわゆる一般の街に比べて町内会や自治会の力や結束が強い。力
第105話 いずれは…… 初夏の香りが辺りを包んでいた。空には明るい月が昇り、星々が小さく瞬いている。麻奈と蒼生が暮らす神崎家のある高級住宅街では既にいくつかの明かりが消え、夜を一層際立たせていた。 「今日の水羊羹、どうしたの? お前、いつもは和菓子を買ったりしないのに」 ベッドの中で蒼生がそっと麻奈を抱き寄せた。愛しげに麻奈の頬に唇を乗せる。 「うん、今日は暑かったからそんな気分だったの」 愛し合ったばかりの蒼生の体には少し熱が残っている。麻奈は蒼生の余韻でまだ震えている体を蒼生に寄せ、その胸に顔を埋めた。今日、徹生の家であったことを思い出す。 ……仕方ないわよね。お義父さんは最初から私と蒼生の結婚を反対してたんだもの。 「……麻奈?」 蒼生の声ではっと我に返る。心配そうに自分を覗き込むその目に麻奈は笑いかけた。蒼生の目はこんなに優しいのに。昼間見たあの目に優しさなんてかけらもなかった。 「あのね、蒼生」 麻奈は蒼生の首に両腕を巻きつける。 「……子供……欲しい……?」 「子供?」 蒼生は目を丸くして麻奈を見つめた。しばらくその顔をじっと見ていたが、やがて少し照れくさそうに目を逸らした。 「……いや……俺としては……」 天井を見つめたままぼそっと言う。 「……お前にそっくりな女の子とか……まあ男の子でもいいんだけど……とにかく、俺とお前の子がいたら、なんて考えたりはするよ」 「蒼生は欲しいの?」 麻奈は顔を上げて蒼生を見つめる。今度は蒼生の両腕がしっかりと麻奈を抱きしめた。 「……うん。いたら嬉しい。だけど、お前がそうじゃないなら、無理にとは言わない」 「……そうね。まだしっかり考えてなかったけど……」 子供は欲しいと思う。だが、自分には目標もある。マラソンで4時間を切ること。子供ができたら、それは少なくとも数年先に伸ばさなく
明るい陽射しが長い廊下いっぱいに降り注いでいた。『神崎徹生』と分厚いヒノキの表札が掛けられたいかめしい屋敷の奥、金銀の蒔絵が施された襖の後ろ、固い廊下の板の間の上に麻奈は正座していた。真っ直ぐに背筋を伸ばし、目の前の大きな座椅子に座る老人を見つめている。「旦那様が奥様にどうしてもお話ししたいことがおありだそうで……」 工藤から申し訳なさそうにそう言われて、麻奈はすぐにやって来た。徹生と直接言葉を交わしたこともなかったし、結婚式では不愉快そうにこちらを睨みつけただけだったから、あまり好かれていないことはわかっていた。でも、仮にも親子になったのだから、いつまでもそんな関係でいてはいけないだろうと考えた。それに、蒼生との間にも何か確執がありそうだ。自分が仲介できるとは思っていなかったが、それでもどんな人物かを知っておくのは今後のためにもいいだろうと思ったのだ。「……お前」 唸るような声を漏らした徹生に麻奈はしっかりと目線を合わせる。「勝手に出て行って勝手に戻って来たそうだな」「申し訳ありませんでした」 座っている廊下に手をついて麻奈は頭を下げた。徹生のいる部屋の外側の廊下。座布団はおろか、畳の部屋の中にも入れてもらえない。その外にある廊下に正座している。……普通だったら怒って帰っちゃうけど。 頭を下げながら麻奈は目の前の磨き込まれたヒノキをじっと見る。……仕方ないわね。結婚してすぐに別居しちゃったし、それでまた戻って来ちゃったし。お義父さんは事情を何にも知らないわけだし。気に入らないのもわかる。「蒼生は……」 徹生はケヤキの大机に置かれた灰皿を引き寄せるとタバコをくわえ、火をつけた。「蒼生は許したのか」……仲直りしたの。お互いの気持ちを確かめて、もう一度やり直そうって決めたの。 麻奈は顔を上げた。「はい」「だったら……」 タバコを深々と吸い込み、煙を吐き出しながら徹生は麻奈を見やった。「心を入れ替えてこの家に尽くせ。妻とはそうあるべきものだ」 麻奈の拳がぐっと握られた。唇が少し震えたが、少し視線を落として細く息を吐く。「……蒼生さんを大切に、お仕事の支えに
茹だるような熱気が地面から立ち上っていた。高く登った月にはぼんやりと靄がかかり、空全体が煙ったように澱んでいる。植えられた待宵草の白い花が灯をつけたように庭の底から浮かび上がった。 庭に面した長い廊下を徹生は歩く。スリッパなどは履かない。無垢のヒノキの感触が好きなのだ。素足のまま、ほとんど音も立てないで寝室へ向かう。ちらりと庭に目をやると、待宵草の花へと視線を滑らせる。可憐な白い花。朝になれば萎れてしまう儚い夢。……淑子(としこ)が来たのもこんな夜だった。 寝室の襖を開けると、広い和室の真ん中にポツンと寝床が敷いてあった。真っ白なシーツ。柔らかな夏用のブランケット。——ふつつか者ですがどうぞよろしくお願いいたします。 床の前で三つ指をつき、深々と頭を下げた淑子。横結びに垂らした柔らかな黒髪が真っ白な寝巻きに映えていた。伸びやかな、それでいて華奢な体。思わず見惚れるほどに美しい顔。優しげな大きな瞳で徹生を見上げ、目が合うとそっと俯いて、待つように目を閉じた。 だが徹生は知っていた。さっきまで白無垢に身を包み、徹生の隣で三々九度の杯を干したその女には別に愛した男がいることを。徹生との結婚を嫌がり、その男と駆け落ちを企んで失敗し、逃走から二日後には連れ戻されて結局ここへ来たことを。……家庭教師だったどこかの院生と聞いた。淑子を諦める代わりにどこか地方の大学の教職を差し出され、それを受けて姿を消した。残された淑子は俺のところへ来るしかなかった。決められた縁談相手の俺へ嫁ぐしか。 柔らかな布団に徹生は身を沈める。夏用の薄いブランケットで体を包むと、高い天井を睨んだ。徹生の喉が微かにひくひくと動き、小さなため息が漏れる。……俺は容赦しなかった。どうせその男と何度も愛し合った後なんだろうと。気に染まない結婚相手に義務で体を任せるだけの時間だ。早く終わらせてやった方がいい。 かまわなかった。他に愛した男がいようといまいと、俺の妻になったからには子を成してもらわねばならない。跡継ぎが必要だ。そのための女。裕福な実家と権力のある父、その後ろ盾を持った俺の妻に相応しいだけの条件を持った女。 苦痛と痛みに顔を歪め、徹生の体の下で声を漏らすまいと歯を食いしばった淑子を思い出す