偽りの幻影

偽りの幻影

last updateLast Updated : 2026-09-20
By:  砺波真帆Updated just now
Language: Japanese
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生涯で唯一愛した女性、沙雪の面影を重ねて、似ているだけの別人、麻奈と結婚してしまった神崎蒼生。沙雪への思いと、麻奈への罪悪感から嘘を重ねながら、それでも麻奈の持つ明るさと健気さに惹かれて行く自分を抑えられない。一方で、そんなこととは知らず、愛されている確信の中で、目標だったフルマラソンの四時間以内完走のために準備を始める麻奈。二人のすれ違い、誤解と純愛の物語。

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Chapter 1

第1話 初めての夜

「どうして?」

 都会のビル群の中でもひときわ高く聳え立つ白いホテル。最上階の豪奢なスイートルームに麻奈《まな》の声が響き渡った。

 梅雨の時期には珍しく、夜空には明るい月が昇り、都会のけたたましい灯りから逃れた星々が小さく瞬いていた。

 細い肩を震わせて、麻奈は話す声まで残響となって残るほど広い寝室の片隅に呆然と立ちすくむ。左手には今日はめられたばかりのプラチナの指輪が光っている。

 逞しい腕で優しく麻奈を抱き寄せた夫は、麻奈がそれに応えて指を背中に這わせた途端に体を震わせ、「ごめん、これ以上は……」とだけ言い残して寝室を出て行った。

 柔らかく落とされた照明の中で、この部屋と隣室を隔てる扉の金具が鈍く光っている。つい今しがた戸惑うようにそっと閉められた硬い扉。

「どうして…?」

 麻奈のつぶやきがもう一度部屋に落ちた。薄く寝化粧をほどこした清楚な顔立ち。その特徴である大きな目に涙を浮かべて、麻奈は閉められた扉を見つめる。

 扉の向こう、リビングのソファの上で、神崎蒼生《かんざきあお》は扉に背を向けたまま歯を食いしばって震えていた。

「……沙雪《さゆき》」

 唇の間から微かに振り絞るような吐息が漏れた。

 ホテルはようやく落ち着きを取り戻しつつあった。国内大手である神崎グループの御曹司、神崎蒼生の結婚式は無事にお開きを迎え、贅を凝らした薔薇の花束とも見紛うような多勢の招待客も、個々帰途についた。

 ほんの数時間前、麻奈はその主役だったのだ。もちろん主眼は新郎である蒼生だったし、招待客のほとんどは蒼生が社長を務める神崎テクノロジーズの関係者だった。その彼らの話題の中心は、今までどんなに条件のいい令嬢との縁談も断って来た蒼生が、これといった後ろ盾もない、ごく平凡な会社員だった麻奈と突然の結婚を決めたのは何故か、という興味だった。

「でも、人の噂なんか関係ない。私はあなたを愛してるんだもの、蒼生」

 麻奈は目を伏せると、左手に光るプラチナの指輪にそっと唇を寄せる。

 この結婚に対する周囲の噂は聞いていた。釣り合わない格差婚。だが、それはこの結婚が偶然の出会いから生まれた思いがけないシンデレラストーリーだったというだけのこと。

 安易に体を重ねた結果の不本意な授かり婚。それも違う。何故なら、蒼生は交際中に一度も麻奈を抱こうとしなかったのだから。

「大切に思ってくれていたから、でしょう?」

 麻奈は小さく微笑んで扉に向かってそっと話しかけた。体を重ねたことこそなかったが、それでも蒼生は何度も麻奈を抱きしめてくれたし、優しいキスだって何度も交わした。時には、蒼生の体が男の欲望に抗うように小刻みに震えるのを感じたこともあった。蒼生はその度に歯を食いしばり、拳を握りしめて大きく息をついてから、麻奈の大好きな優しい笑顔を浮かべて「おやすみ、次はいつ会える?」と言ったのだ。

 愛されている。

麻奈は確信していた。

 私は蒼生に愛されている。

「……それなのに、どうして?」

 麻奈はもう一度呟いた。こんなことって。今日、蒼生は、微笑みながら彼女の左手に輝くプラチナのリングを嵌めたばかりなのに。永遠の約束。愛の証を。

「開けて、蒼生」

 麻奈は隣室へ通じる硬いオークの扉をそっと叩いた。

「私、何かした? 嫌なことをしたのなら謝るから。だから、開けて」

 だが、隣室は静まり返り、扉は冷たく閉じたまま、何の気配もなかった。

 麻奈は小さく息を吐き出すと、オークの扉を背にしてそれにもたれた。

 どうしてこんなことになったのだろう。蒼生は何が気に入らなかったのだろう。こんな蒼生は初めて。

 麻奈は扉にもたれたまま目を閉じる。脳裏に蒼生と出会った日のことが浮かぶ。

 桐谷麻奈《きりやまな》は、小さな会社の総務課社員として平凡な毎日を送っていた。

 悩みといえば、もう二十代最後の歳を迎えたのに恋人もいないことくらい。それだってたいしたことではなかった。

「彼氏いない歴何年になったんだっけ」

 通っているジムの鏡に自分の姿を映しながら、時々つぶやくくらいのこと。そんなことより毎日体を鍛え、ランニングに力を傾けたい。走ることが好きだから。

「今度のマラソン、絶対に4時間を切るわよ。大丈夫、それだけの経験を積んだんだから」

 鏡に向かって自分を鼓舞しながら、麻奈は半年後に迫った市民参加もできる大きなマラソン大会を想定する。そのためにどんなトレーニングが必要か、何をこなして行けばいいのか、頭の中で計画を立てている時に不意に話しかけられた。

「すみません、マシンの使い方を教えていただけませんか」

 それが蒼生との出会いだった。

「どのマシンを使いますか?」

 気軽に返事をしながら、麻奈は振り返った。こんなことが時々ある。常に忙しそうに誰かを指導しているトレーナーより声をかけやすいのかもしれない。

「……あの、腹筋を……鍛えたいな、と」

 おどおどと返事をしながら、蒼生は少し顔を赤らめた。視線は麻奈から外れ、天井あたりをさまよっている。

……あ、可愛い。

 それが第一印象。麻奈より一回りほど大きな体なのに、不思議と蒼生からは圧のようなものを感じなかった。背が高く、広い肩幅の均整の取れた体つきだが、鍛えているわけではないことはすぐにわかる。意志の強そうながっちりした顎や涼しげな切れ長の目は、人を惹きつけるのに充分な魅力があった。

「腹筋を? マシンを使うのは初めてですよね?」

 麻奈は、蒼生の隣にあるマシンに手をかける。

「……はい」

 照れくさそうに頷く蒼生に麻奈は笑顔を返してから、丁寧に使い方を説明し始めた。

……あの時、あなたは本当に一生懸命だったのよね。

 静まり返ったスイートルームに一人立ち尽くして、麻奈は床を見つめたままくすりと笑った。

……真剣な顔で使い方を聞いて、すぐに自分でやってみて。初めはあまり負荷を大きくしちゃいけないって言ったのに、それもよく聞いてなくて。だからすぐにバテちゃって。

 目を閉じた麻奈の顔に優しい笑みが広がった。

……それから、「あなたのトレーニングの邪魔をしてしまった。ごめん。お詫びにお茶でもいかがですか?」って。ありがちなお誘いね、なんて思ったけど、OKしちゃった。蒼生、私、あなたのこと、最初から素敵だなって思ってたのよ。

 麻奈はもたれていたオークの扉から体を起こした。

……あれがきっかけで付き合うようになって、あなたは私と結婚したいと言った。生涯の伴侶として。

 麻奈は自分に首を振った。あまりしつこくしちゃダメ。そっとしておいた方がいいのかも。……きっと……何か理由があるはず。

 麻奈はうつむいてしばらく考えていた。細い眉が顰められ、唇が震える。やがて目を閉じると、微かに首を傾げて小さくうなずいた。

「蒼生、今夜のこと、きっと……何か理由があったのよね。いつか聞かせてね。それじゃ、また明日。おやすみなさい」

 麻奈は閉められたままの扉にそっと話しかけると、そこを離れ、ベッドに横になった。両手を広げて天井を見る。何かを吐き出すように大きく息をつく。

「……広いわね。こんなに大きなベッド、初めて」

 広すぎるベッドの中で一人目を閉じると、麻奈は何度も寝返りを繰り返しながら、時々ため息をつく。が、やがてゆっくりと眠りに落ちて行った。

——それじゃ、また明日、おやすみなさい。

 扉越しに響いた麻奈の優しい声。隣室の大きなソファにうずくまったまま、蒼生はそれを聞いていた。

「……沙雪」

 硬く食いしばられた蒼生の唇から、もう一度吐息が漏れる。

「……沙雪。お前じゃない。彼女は……違う」

 わかっていたのに。麻奈は麻奈であって、沙雪ではないことくらい。別の人だとわかっていたのに。

 蒼生は震える手で頭を抱えた。柔らかなソファに体を沈めたまま、しっかりと目を閉じる。全身の震えが止まらない。

……愛している。お前を。

 誰とも結婚しない。興味も持たない。もう誰かを愛する必要なんてない。

そう決めていた。

——あの日、麻奈を見かけるまでは。

 蒼生の肩が大きく震え、長いため息が漏れた。扉を隔てた隣室からは、麻奈が寝支度をする気配が伝わって来る。

「……ごめん」

 ソファに沈み込み、頭を抱えて丸くなる。麻奈。お前は、あまりにも沙雪に似てたから。

 吸収合併を決めた会社との最終調整に出かけた時だった。麻奈は、横断歩道の前で信号が変わるのを待っていた。車の後部座席からちらりと見えたあの姿。初めは沙雪かと思った。

「止めてくれ」

「どうしました? 時間がありませんよ」

 思わず運転手に命じ、同行した秘書の早野優斗(はやのゆうと)が蒼生に首を振った。

 首を傾げる早野に悟られないよう、蒼生はもう振り返ることもしなかったが、あの一瞬が頭に焼きついて離れなくなった。

……制服を着ていた。どこかの会社の社員だ。沙雪なのか?ここに……同じ街にいるのか……?

 それからは、外へ出るたびにその姿を探すようになった。もう一度、しっかりと見たかった。本当に沙雪じゃないのか。似ているだけの別人なのか。だが、あの姿を見かけることはもうなかった。

「だいたい制服を着て外にいたということは、あの日たまたま外に出ただけで普段は内勤なんだろう。……もう見かけることもないかもしれない」

 会議が思ったよりも早く終わり、自宅へ向かっている最中に小さく自分だけにつぶやいたとき、麻奈が通りに面した小さなジムの中へ吸い込まれるのを見た。今度は制服ではなく、通勤用のカジュアルなスーツにスポーツバッグを肩にかけて。

「……いた」

 それからのことは自分でも信じられない。慌てて運転手に車を停めさせ、自分は降りると、訝しげな顔をする早野と車だけ先に帰らせた。

 黒塗りの高級車が自分を置いて去るのを確認すると、蒼生は踵を返して麻奈が入って行ったジムの前に立った。一般向けの小さなジムだ。一度中を覗いた後、蒼生は目についた近くの衣料品店で適当にスポーツウェアを買い込み、今度はジムの中へ入ると受付で入会手続きを済ませた。

「ご利用はいつから?」

 支払い用に提示したブラックカードを目を丸くして見つめるスタッフに、蒼生は言った。もの問いたげに顔をあげるスタッフか、目を逸らして。

「今すぐ」

 更衣室でシルクのオーダーメイドスーツを脱ぎ捨て、スポーツウェアを纏うと、蒼生はマシンの並ぶトレーニングルームへと足を踏み入れた。

 麻奈がそこにいた。

——沙雪。

 鏡に向かって一心に何かを考えている麻奈の少し憂いを含んだ顔は驚くほど沙雪に似ていた。ほっそりした体。流れる黒髪。肌は少し焼けている。

……違う。沙雪じゃない。別人だ。

 失望とも安堵ともつかないまま微かなため息をつく。

……だけど似ている。沙雪が健康になったらきっとこんな感じだ。彼女は少し体が弱かったけれど。

「すみません。マシンの使い方を教えていただけませんか」

 気がついたら声をかけていた。

「どのマシンを使いますか?」

 麻奈は振り返った。ポニーテールの黒い髪が揺れ、蒼生をまっすぐに見て首を傾げる。

……聞こえてしまった。

 蒼生は慌てた。どうしたらいいんだ。何をやってるんだ、俺は。変質者だと思われたりしないか?

 麻奈が微笑んだ。

……ああ、沙雪に似ている……。

 それ以上見ていられなくなって、蒼生は目を逸らした。顔が赤らむのがわかる。自分のしていることが信じられない。

返事を待つようにまた首を傾げた麻奈に答えなければならなくなって、蒼生はまた慌てた。

……マシンって? 何があるんだ? だいたいこんな所、来たことがない。どこを鍛えれば不自然じゃないんだ?

「……あの……、腹筋を……鍛えたいな、と」

 ようやく絞り出した答えに、麻奈は頷いてもう一度微笑んだ。その笑顔に沙雪が重なる。

「じゃあ簡単に説明しますね」

「……麻奈」

ホテルのリビングで、蒼生はうずくまったままソファを握りしめた。

……抱けない。

 麻奈を抱こうとすれば沙雪がよぎる。麻奈は沙雪ではない。わかっている。わかっているのに重ねてしまう。

蒼生は拳を握りしめた。

 沙雪は俺を愛していない。麻奈は俺を愛している。俺を愛する女に、俺を愛していない女を重ねて抱くのか? できるか? そんなことが。

「……麻奈、ごめん」

 交際をしながら、結婚を決めてから、もう何度謝っただろう。

「結婚するべきじゃなかった」

 その後悔も、何度も何度も繰り返した。だが。

「……失いたくないんだ。もう……失いたくない」

 蒼生の顔が苦しげに歪んだ。

「沙雪。俺は……もう失いたくない」

 月が沈み、朝の光が差し込むまで、蒼生は歯を食いしばり、体を震わせていた。

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第1話 初めての夜
「どうして?」 都会のビル群の中でもひときわ高く聳え立つ白いホテル。最上階の豪奢なスイートルームに麻奈《まな》の声が響き渡った。 梅雨の時期には珍しく、夜空には明るい月が昇り、都会のけたたましい灯りから逃れた星々が小さく瞬いていた。 細い肩を震わせて、麻奈は話す声まで残響となって残るほど広い寝室の片隅に呆然と立ちすくむ。左手には今日はめられたばかりのプラチナの指輪が光っている。 逞しい腕で優しく麻奈を抱き寄せた夫は、麻奈がそれに応えて指を背中に這わせた途端に体を震わせ、「ごめん、これ以上は……」とだけ言い残して寝室を出て行った。 柔らかく落とされた照明の中で、この部屋と隣室を隔てる扉の金具が鈍く光っている。つい今しがた戸惑うようにそっと閉められた硬い扉。「どうして…?」 麻奈のつぶやきがもう一度部屋に落ちた。薄く寝化粧をほどこした清楚な顔立ち。その特徴である大きな目に涙を浮かべて、麻奈は閉められた扉を見つめる。 扉の向こう、リビングのソファの上で、神崎蒼生《かんざきあお》は扉に背を向けたまま歯を食いしばって震えていた。「……沙雪《さゆき》」 唇の間から微かに振り絞るような吐息が漏れた。 ホテルはようやく落ち着きを取り戻しつつあった。国内大手である神崎グループの御曹司、神崎蒼生の結婚式は無事にお開きを迎え、贅を凝らした薔薇の花束とも見紛うような多勢の招待客も、個々帰途についた。 ほんの数時間前、麻奈はその主役だったのだ。もちろん主眼は新郎である蒼生だったし、招待客のほとんどは蒼生が社長を務める神崎テクノロジーズの関係者だった。その彼らの話題の中心は、今までどんなに条件のいい令嬢との縁談も断って来た蒼生が、これといった後ろ盾もない、ごく平凡な会社員だった麻奈と突然の結婚を決めたのは何故か、という興味だった。「でも、人の噂なんか関係ない。私はあなたを愛してるんだもの、蒼生」 麻奈は目を伏せると、左手に光るプラチナの指輪にそっと唇を寄せる。 この結婚に対する周囲の噂は聞いていた。釣り合わない格差婚。だが、それはこの結婚が偶然の出会いから生まれた思いがけないシンデレラストーリーだったというだけのこと。    安易に体を重ねた結果の不本意な授かり婚。それも違う。何故なら、蒼生は交際中に一度も麻奈を抱こうとしなかったのだから。「大切に思ってくれ
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第2話 初めての朝
 翌朝。麻奈は目を覚まして起き上がった。白い朝の光が、カーテンの隙間から寝室いっぱいに射し込んでいる。一瞬自分がどこにいるのかわからなくて、麻奈は何度か瞬きをした。 「……あ」 そうだった。昨日、蒼生と結婚したんだわ。 左手に光る結婚指輪を陽にかざし、麻奈はベッドを振り返る。そこには、ただ白いシーツが小さな皺を作って広がっている。 ……本当は蒼生と二人で目覚めるはずだったのに。あの人の腕の中で、優しい朝のキスを交わすはずだった。 一瞬、麻奈はうなだれかけた。が、それを振り払うように頭を振り、表情を変えてベッドの上で体を弾ませ、床にストンと着地した。 「昨日は蒼生も緊張してたのかも。招待した人はほとんどが蒼生の会社関係だったし、蒼生のお父さんだっていらしてたし」 軽いストレッチをしながら、麻奈は自分にうなずいた。 「今日は朝のランニングもお休みする予定だし、着替えたら朝ごはんの前に少し筋トレでもしようかな。きっとスッキリするわ」 白いナイトドレスを翻し、寝室のクローゼットを開ける。 そこには、早野が運び込んでくれたスーツケースが二つ並んでいた。今日は新婚旅行の初日。忙しい蒼生はなかなか休みを取れなかったから、土日を挟んで都合4日の旅。 海を見たいと言った蒼生に合わせてグァムにした。本当はハワイに行きたかった。麻奈はいつかホノルルマラソンに出たいと思っていたから、そのコースを確かめてみたかったのだ。 「でも、ハワイにはまた行けるわ。グァムは近いし、ゆっくり楽しめそう」 スーツケースを引っ張り出し、部屋着にと入れておいた動きやすいシャツとヨガパンツを身につける。長い黒髪を後ろで一つに束ねると、麻奈は床に座って軽いトレーニングを始めた。 カチャン。 微かな音と共にオークの扉が開いた。麻奈は振り返って、そこに立つ蒼生の姿を見ると、息を飲んで動きを止めた。 蒼生は憔悴しきっていた。目の下には隈ができ、ウェーブのかかった柔らかな髪は、汗でべっ
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第3話 シフォンのワンピース
 ベッドの中から物憂げに麻奈を見ながら、重そうな瞼を半分閉じてそう言うと、蒼生は背中を向けてシーツに潜り込んでしまった。 「……え?」 麻奈は目を丸くして蒼生を見つめた。何を言われたのかわからない。 「私らしくないって……どういうこと?」 「いや、ごめん。……気にしないで」 背中を向けたまま、蒼生はぼそっと呟くと、そのまま寝息を立て始めた。 ……どういう……こと……? これが私よ。 麻奈は壁にかけられた鏡に映る自分を確かめた。 ……出会ったのはジムなのに。確かに、デートの時はずっとおしゃれしてたけど……。 麻奈は鏡に映し出されたベッドの膨らみを、背中越しにしばらく見ていた。 「……何か……気に入らなかったのかしら」 ホテルのスタッフが運んで来た朝食を前に麻奈は考え込んだ。目の前に置かれたサラダボウルから新鮮なレタスとトマトを取り分け、口に入れる。真っ赤に熟れた甘いトマトを齧りながら、自分の着ているものを見る。 「……この……格好かな……」 トマトを飲み込むと、麻奈はレタスを口に運ぶ。シャキシャキと軽い音を立てて噛み砕き、こくんと飲み込むと、今度はパンをくわえる。こんがりと焼けたパンは小気味よい音を立てて割れ、パンくずがシャツの上に落ちた。 「やあね、私、こういうとこダメなのよ」 片手でパンくずを払い落としながら、麻奈はふと手を止める。 「……神崎の若奥様になるんだから……少しはお淑やかにしなきゃいけないのよね……」 蒼生が気に入らなかったのは、自分のこういうところなのかもしれない。麻奈はふっと息をついた。 付き合っている時はそれほど気にしていなかった。蒼生はいつも優しかったし、麻奈もデ
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第4話 フライト
そのまま浴室へ向かう蒼生を麻奈は微笑んで見送った。 「やっぱりこのワンピースにしてよかった。さっきは汗くさいからって近寄らなかったのに、今はキスしてくれたもの」 くるりと回って、身体の周りにふわりと広がるスカートをつまむと、麻奈は鏡を見て自分に笑いかけた。 11時きっかりに早野はスイートルームのドアをノックした。二人を空港まで送り届ければ、早野も四日間の休日となる。のんびり昼寝でもしようと考えながら、早野は姿勢を正して部屋へと足を踏み入れた。 「おはようございます、社長。おはようございます、奥様」 丁寧に頭を下げる早野に、蒼生は軽くうなずいた。 「それじゃ行こうか」 少し掠れたその声に早野は顔を上げる。 ……随分お疲れのご様子だな。あまり寝ておられないのか。 合図で入って来た四人のホテルスタッフに、蒼生たちのスーツケースや荷物がある場所を指し示しながら、早野は蒼生と麻奈をさりげなく視界に入れた。 ……まあ、新婚初夜だったんだから、社長がお疲れなのもわかる。下世話な話だが。 蒼生の隣に立つ麻奈を見た時、何か違和感のようなものを感じた。 ……随分他人行儀だな。 麻奈は蒼生の隣にただ立っていた。両手は所在なげにぶらんと下がっている。すぐ隣に蒼生の腕があるのに、絡ませるでも握るでもない。少し遠慮がちに蒼生と早野を交互に見ている。 ……俺の前だから遠慮をしている、というわけでもなさそうだ。 早野は蒼生を見て首を傾げる。 ……どこと言って後ろ盾もない、一般の女性。お父上の反対を無理に押し切って急いで結婚
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第5話 南国へ
「そうして。あんまり寝てないもの」 目を閉じてすぐに寝息を立て始めた蒼生の隣で、麻奈は窓から外を見たり、自分のシートを少し倒したり戻したりしながらくすりと笑った。 「快適。3時間半なんて短すぎるわ。もっと遠くだったらよかったのに」 飛行機は離陸の準備に入る。ゆっくりと動き出し、次第に速度を早めて、やがてふわりと地面を離れる。この瞬間が麻奈は大好きだった。マラソンをスタートするあの高揚感。あれと同じだ。 「3・2・1、……GO!」 こっそりとカウントダウンをする。飛行機はみるみる上昇し、やがて雲を下にして機体を水平に落ち着けた。窓の外には眩しい初夏の太陽が輝いている。 「お飲み物はいかがですか?」 品の良い笑顔を見せて搭乗員が話しかけた。 「ありがとう。シャンパンを……少し」 麻奈も笑顔を返す。足を伸ばし、背伸びをする。隣では軽いブランケットをかけた蒼生が静かな寝息を立てている。麻奈はシャンパングラスを受け取ると、蒼生をそっと眺めた。 「……素敵。私の旦那様」 つい笑顔が溢れる。私たち、新婚旅行へ行くのよ。海と空と太陽を見に行くの。 昨夜のこと、今朝のこと。胸の奥で形にならない靄のような何かが微かに蠢いたが、それを無理に押し込め、真っ青に輝く空に目を向ける。 ……きっとすぐに解決するわ。何でもないことだったって笑っちゃうくらい簡単なことかもしれないじゃない。 麻奈は泡立つシャンパンを口に含んだ。心地よく泡が弾け、芳醇な香りが鼻へ抜ける。 「美味しい」 グラスをそっと両手に包むと、麻奈は軽く冷たいガラスにキスをして、窓の外に広がる景色を眺め続けた。 「うわあ……」 麻奈の唇からため息が漏れ
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第6話 ヴァシュロン・コンスタンタン
麻奈の唇に自分の唇を重ねる。そのまま腰から背中へと手を滑らせる。 「……蒼生」 麻奈の体が微かに震えてそれに応える。夕方の陽に麻奈の肌が白く浮き上がり、長い髪が蒼生の腕をくすぐった。 ……沙雪。 光の中で黒い髪をなびかせて笑う沙雪の影が蒼生を包み込んだ。 「……俺は軽いものを食べたいな。チーズとかハム……とか」 麻奈を腕から離すと、蒼生は部屋へ戻ろうと背中を向けた。何かを振り払うように勢いよく両腕を揺らす。 「ルームサービスを取るよ。それともラウンジへ行く?」 「……蒼生」 麻奈の腕が蒼生の腰に回された。 「……私……もう少しこのままでいたい」 背中に額をつけると、麻奈は腕に力を込めた。 「このまま抱きしめていて」 蒼生の体が震えた。唇を強く噛み締める。自分の体に回された麻奈の腕にそっと手を置く。 「明日の朝はバルコニーで朝食を取ろう。海を見ながら、焼きたてのクロワッサンとコーヒー。サラダやフルーツ。きっと美味しいよ」 背中を向けたまま、蒼生は麻奈の腕をそっと外し、その手に唇を押しつけた。 「四日間、思いっきり贅沢をさせてあげるよ。麻奈がずっと忘れられなくなるくらいに」 麻奈の手を一度ぐっと握りしめると、蒼生はそのまま部屋へ戻って行った。蒼生に口づけられた手をもう片方の手で抱えて、戸惑うように蒼生を見つめる麻奈をバルコニーに残して。 「ロブスターやマヒマヒの刺身を頼んだから、白ワインにしたよ。いいかな?」 麻奈が部屋へ戻ると、蒼生がにこやかに振り返った。 「そんなに待たなくて済むそうだよ」
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第7話 眠り
麻奈はまだ熱い首筋にそっと手をやった。 「……でも……。違うみたい」 残った感触を確かめるように一度首筋を指でたどると、麻奈は両手を組んで小さくうなずいた。考え過ぎよね、きっと。 「やあね。ルームサービスを頼んでおいて、あんなことするなんて」 ……もしもっと先まで進んじゃってたら、どうするつもりだったのかしら。 ルームサービスを案内する蒼生の広い肩幅に目をやると、麻奈はくすりと笑った。 ……このままじゃ俺は壊れる。 蒼生はリビングのソファにもたれて、ぼんやりと窓の外に広がる闇を見つめていた。 隣の寝室では、二つ並んだダブルベッドの片方で麻奈が寝息を立てている。白ワインを飲ませ、結婚祝いだからとシャンパンも追加した。 「ポル・ロジェっていうの? 美味しい」 麻奈は嬉しそうに飲み干して、チャモロふうのココナツサラダをつつき、「白ワインは? シャブリ? それは知ってるわ」と嬉しそうに笑ってそれもほとんど飲み干した。 自分のワインをほとんど飲む間もなく、慌てて蒼生が持って来させた赤ワインとチーズを見てくすくす笑うと、「チーズと赤ワインって合うのね」と言いながら、ボルドーのグランクリュ、シャトー・マルゴーを半分ほど飲んだところで、やっと眠そうに頭を垂れた。 それを待っていた蒼生は、すぐに麻奈をベッドへ運び、毛布をかけたところだ。 ……俺が壊れるだけじゃない。麻奈の心もきっと壊れてしまう。 麻奈の飲み残しのシャトー・マルゴーをひと口味わいながら、蒼生は天井を仰いで目を閉じると、深いため息をつく。 ……いつまでもごまかしてはいられない。何とかしないと。 思えば、麻奈に会うまではそれほど頻繁に沙雪を思い出していたわけではなかった。父親に早く結婚しろと縁談を持ちかけ
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第8話 朝
 翌朝、蒼生が目を覚ました時、部屋には人の気配がなかった。射し込む朝日に昨夜飲んだままの空き瓶が輝いている。 傍らの食べ残しのチーズや野菜は乾き始めていた。「麻奈?」 体を起こした時、蒼生は自分にかけられたブランケットに気がついた。麻奈がかけてくれたのだろう。「麻奈? どこだ?」 はだけたシャツのボタンをかけながら、立ち上がって部屋を見回す。彷徨う蒼生の目はテーブルの上に置かれたメモで止まった。「……麻奈?」 出て行ったのだろうか。俺が抱かないから? 蔑ろにされたと思って? 急いで拾い上げたメモを読む。『ランニングに行って来ます』「……ランニング……?」 再びソファに沈み込むと、蒼生は手の中のメモを見つめた。「昨日あれだけ飲んだのに?」 左手の腕時計を確かめる。6時。「……あんなに飲んで、酔い潰れて、今朝6時にランニングに行った……?」 立ち上がってバルコニーへ出ると、階下のビーチを探す。   朝日を受けて笑うようにさざなみを寄せ合う青い海と白い砂の境界線に、豆粒のような人影が見える。「麻奈……か?」 ビーチに目を走らせたが、他に走る人はいない。走る人影とすれ違いざまに、何か言葉をかける早起きの二人連れが見えた。老夫婦らしい。走っている人影は立ち止まることなく、気さくに手を振っている。「……麻奈だ」 蒼生はバルコニーに置かれたラタンの椅子にどっかりと腰を下ろした。「沙雪じゃない」 くっ、と喉から声が漏れた。蒼生は肩を揺らして笑いを堪える。「まさか、新婚旅行にランニングシューズを持って来るとは」 ソファの肘掛けに顔を伏せ、込み上げる笑いを飲み込むと、蒼生は顔を上げてもう一度詳細を走る人影を眺めた。「……麻奈は、麻奈……か」 両手を広げてじっと見る。この手に感じた暖かさも、微かな震えも、俺に預けた体の重さも、全部麻奈のものだ。沙雪じゃない。「……俺は沙雪を知らないからな」 ぽつりと呟くと、蒼生は立ち上がった。眼下の麻奈にちらりと視線を送ると、部屋へ戻る。リビングテーブルの上に散らかった食べ残しや、ワ
last updateLast Updated : 2026-08-08
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第9話 シャワー
「おはよう。蒼生、起きたのね」 「おはよう、麻奈」 蒼生は立ち上がった。 「コーヒーを淹れたよ。飲む?」 「ありがとう。でも、まずお水がいいわ」 麻奈はきびきびと冷蔵庫まで足を運び、そこにあるミネラルウォーターを掴むと、すぐに封を開けて一口飲んだ。 「ああ、美味しい」 にこりと笑うと、麻奈は首にかけたタオルで顔を拭いた。 「朝食の前にシャワーを浴びて来るわね」 笑顔を残して麻奈はシャワールームへ消えて行く。それを見送って、蒼生はまたソファへ沈み込んだ。 シャワーの栓を捻ると、すぐに温かいお湯が麻奈の体をめがけて降り注ぐ。肌の上で転がる水滴となり、滴り落ちて行くそれを麻奈は眺めていた。 「……あの人……ジムに行ってないのかしら」 今朝、ソファの上でシャツをはだけたまま眠っている蒼生を見つけた。ブランケットをかけようと覗き込んだとき、均整の取れた蒼生の体をつい見てしまった。ほどよく筋肉がつき、逞しくはあったが、どう見ても鍛えているようには思えなかった。 「腹筋を鍛えたいって言ってたのに。そのためにジムへ来たんでしょ? それなのに、私と付き合うようになってから一度もジムへ行ってないみたい」 麻奈はシャワーの下で石けんを取った。 「もともとあんまり体を鍛えたりはしない人みたい。じゃあ……どうしてジムへ来たのかしら」 髪を洗い、体を洗い流しながら、蒼生と出会った日のことを思い起こす。 「偶然ジムで出会ったのよね。……そのはずだけど」
last updateLast Updated : 2026-08-08
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第10話 バルコニーで
自分の表情を見られまいと、蒼生は背を向けてバルコニーのガラス戸を開けた。 「天気がいいな。ここで朝食を食べたら、雨が降る前に買い物へ行こうか。免税店がある」 「何を買うの?」 麻奈も蒼生の後をついてバルコニーへ出る。ちょうど吹いて来た風に長い髪が揺れ、ラベンダー色のワンピースがふわりと広がった。 「……君の欲しいものなら何でも」 薄紫色に揺れる布地に手を伸ばす。それに包まれた体を抱き寄せると、蒼生はしっかりと抱きしめた。 「何が欲しい?」 自分の胸に頭を押しつけさせて、蒼生は目を閉じる。 ……今の俺を見たら、沙雪はきっと怒るだろうな。「何やってるの?」って。 腕の中からくぐもった声が聞こえた。 「アイスクリーム」 ……え? 蒼生は思わず目を開けた。見下ろすと、照れたように笑顔を浮かべる麻奈の顔があった。 「……アイスクリーム?」 「私ね、そんなに欲しいものはないの」 麻奈は笑った。蒼生の胸に頭を預け、両手を腰に回す。すっかり緊張を解いているのがわかる。麻奈はゆったりと蒼生に体を委ねた。 「服も靴も、もうたくさん貰ったから。今はちょっと甘いものが欲しい」 蒼生の腕に抱かれてくすくす笑う。風に揺れるラベンダー色のワンピースが蒼生の太腿にまとわりついた。 「……麻奈、お前……」 ……可愛い。 突然湧き上がった思いに蒼生は戸惑う。ああ、この笑顔、沙雪……、いや、麻奈か? 「お前?」 突然麻奈が蒼生をつついた。つつきながら唇に笑みを滲ませる。 「さ
last updateLast Updated : 2026-08-09
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