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第65話

Author: 連衣の水調
胤道の視線を受けながら、りんは覚悟を決めたように口を開いた。

「……あなたのお母さんは、ちゃんと海外にいるのよ。今すぐ会うなんて、さすがに無理があるわ」

「……そう」

静華は思わず、ほっと息を吐いた。

張りつめていた神経がふっと緩み、そのときになってようやく、自分の指先が震えていることに気づいた。

胸の奥に張りついていた恐怖――それが現実ではなくてよかった。

「とにかくいつか母と会わせて。あなたたちも安心して。私はもう『野崎の妻』という立場にしがみつくつもりなんてないわ」

静華は自嘲気味に唇を引き上げた。

胤道の妻になるために、家族は壊れ、人生は狂わされた。

そんなもの、もうとうの昔に意味を見失っている。

「母に会えたら、言われなくても自分から離婚届を出しに行くわ」

胤道の黒い瞳に、不機嫌の色が広がった。

「その話は後にしろ。……りん、送っていく」

そう言って、彼は早足で病室を出た。

りんはその背中を追いながら、胸の中に不安を抱えていた。

彼が明らかに不機嫌なのが、見て取れたから。

「……胤道」

「説明しろ」

胤道は足を止めた。

顔の半分が廊下の陰に隠れ、そこから発せられる言葉には、圧迫感が滲んでいた。

りんの目に、たちまち涙がにじむ。

「胤道……まさか森さんの言葉を信じてるの?彼女に『お母さんと同じ結末』なんて言うと思う?あれは、彼女が私を陥れようとしてるだけよ!」

胤道はすぐには返事をせず、ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

立ち上る煙の向こうで、低く問うた。

「じゃあ、なぜお前たちの話題が彼女の母親に移った?」

「それはっ……! それは……」

りんは脳内を高速回転させながら、涙に濡れた瞳で弁解を続ける。

「離婚したら森さんにはもう親族がいなくなるから、私、ちょっと可哀想だなって思って……それでつい、彼女の母親のことを口にしたの。まさか、あんなに怒るなんて……!」

ここで言葉を濁し、りんはぽつりと呟いた。

「あの人はもうずっと前に亡くなってるじゃない……森さんが知らないなんて信じられない……私には、彼女が離婚したくないから、口実にしてるようにしか見えないのよ」

胤道は静華のことを誰よりも理解していた。

もし彼女が梅乃の死を知っていたのなら、今さらこんな取り乱し方はしない。

きっと無理にでも心に
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