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第166話

Author: 風羽
夜の帳が深く垂れこめ、まるで愛の鎮魂歌のように静かに響いていた。

京介はその場に立ち尽くし、去っていく舞の背中を黙って見送った。

——手放したのは、他ならぬ自分だったはずなのに。

どうしてこんなにも胸が詰まる?どうしてこんなにも、熱いものが目頭に滲むのだろう?

覚悟はできていたはずだった。別れの言葉も行き先も、全部決めていたはずなのに。

……でも本当は、別れに準備なんてできるものじゃないのかもしれない。ただ、痛みしか残らない。

……

クラブを出ると、雨が静かに降っていた。

黒のシャツに黒のパンツ、そして同色のロングコートを羽織った京介の姿は、夜の闇に溶け込んでいくようだった。

ロータスの後部座席に身を沈めると、彼は運転手にこう指示した。

「……舞のアパートまで」

出発前にどうしてもしておきたいことがあった。

彼は白いカラーの花束を新しく買い替え、舞の好きだったマンデリンのコーヒーを丁寧に淹れた。

その香りが部屋いっぱいに広がる中、京介はカップを手に持ったまま、室内を何度も往復した。

明日の荷物は、小林さんがすでにきちんとまとめてくれている。

——なのに、なぜだろう。何かが足りない気がしてならなかった。

……何が抜けているんだ?

答えにたどり着いたのは、だいぶ後になってからだった。

足りなかったのは心だった。

彼の心は、もうここに置き去りにされていた。どこへ行こうとも、もう取り戻すことはできない。

深夜、彼は中川に電話をかけた。

寝入りばなの彼は急いで支度をし、会社から車を走らせ、アパートとやって来た。

玄関を開けた京介は、鍵を一つ、中川に手渡す。

「しばらく出る。せめて週に一度は掃除してくれ。花は白いカラーで頼む。舞が好きだから」

中川は一瞬ためらった。

「舞さん……もう戻って来られないんですか?」

京介は黙ってコーヒーを飲み続けたまま、ぽつりとつぶやいた。

「……ずっと来ていない」

中川は何も言えなかった。鍵を受け取ると、静かに帰っていった。

その夜、彼は一睡もせず、ずっとソファに座っていた。

ただ一つの希望にすがって——

舞がふいにドアを開けて、「何でいるの?」と笑いながら言ってくれる——そんな奇跡を。

……でも、ドアは開かなかった。

彼女はもう、二度と戻っては来ない。

ガラス窓には濡れた梧桐の
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