LOGIN両手で、自分の髪を力いっぱい掴んでいる。ひと房、またひと房と、髪の毛が根元から引き抜かれていく。それでも、痛みなど感じない。三人は家へ戻る。家の中には、カビ臭さが充満している。暮らしは完全に泥沼と化している。父はベッドに寝たきりだ。食事も、排泄も、何もかもがそのベッドの上。母には介護を頼む金などない。だから、自分で世話をするしかない。一日目。父がベッドの上で漏らす。悪臭が部屋中に充満する。母はぬるま湯の入った洗面器を抱えて部屋に入る。父の体をうつ伏せにひっくり返す。シーツに残った汚れを見つめる。以前のように文句を言ったりはしない。雑巾を手に取り、力任せに拭く。父の皮膚が赤くなり、擦れて剥けていく。痛みに父が呻く。けれど、母は聞こえないふりをする。まるで機械のように、何度も同じ動作を繰り返す。「あなたは、これを受けるべきなのよ。私たちはみんな、受けるべきなの」拭きながら、母は小さな声で呟き続ける。半月後。家のお金は完全に底をつく。親戚も友人も、誰一人として電話に出なくなる。母は、外へ働きに出るしかなくなる。近所の飲食店へ行き、皿洗いをする。毎日十時間、立ちっぱなし。両手を油まみれの汚水に浸し続ける。爪の間は黒い汚れで埋まる。腰は痛みで伸ばせない。それでも、ひと月に稼げるのは五万円ほど。その金は、父の薬代と、一番安い米を買うだけで消えていく。綾音の脚は、日に日に痛みが増していく。薬を買う金がないせいで、切断した脚の筋肉はさらに痩せ細っていく。あの二万円ほどの輸入品の膝サポーター。それは部屋の隅に投げ捨てられている。埃をかぶったままだ。綾音は毎日、車椅子に座っている。その手には、あの日記帳。そして、透明なテープで何度も繕われた合格通知書を見つめている。見るたびに、泣き出す。目が腫れ上がり、視界がぼやけるまで泣き続ける。ある夜。母が皿洗いから帰ってくる。疲れ果て、ソファに崩れ落ちる。部屋の奥から、父の「あ……あ……」という呻き声が聞こえる。また漏らしたのだ。けれど、母は動かない。ただぼんやりと天井を見つめている。突然、立ち上がる。そして、私が使っていた窓のない物
母が床にへたり込み、泣きながら笑っている。綾音は車椅子に座ったまま、虚ろな目で天井を見つめている。私は、可哀想だなんて思わない。ただ、思う。これは全部、自業自得だ。この人たちは、自分たちの手で私を壊した。そして、自分たちの手で、この家まで壊した。父が目を覚ます。手術から三日目のことだ。目を大きく見開いている。眼球だけが、硬直したように眼窩の中を動く。起き上がろうとする。けれど、自分の右半身がまったく動かないことに気づく。まるで、重たい石の塊になったようだ。口を開き、母を呼ぼうとする。けれど口元は自分の意思に反して、片側へ大きく歪む。唾液が口の端から流れ落ちる。白い枕に、ぽたりと落ちる。喉から出せるのは、「あ……あ……」という掠れた声だけだ。母は病院のベッド脇に座っている。けれど、その唾液を拭おうともせず、無表情で父を見つめている。医師が回診にやってくる。ペンライトで父の瞳孔を照らす。「命は助かっていますが、これからは介助が必要になります。ご家族の方、明日までに今後の入院費を用意しておいてください」医師はそれだけ言うと、立ち去っていく。母は立ち上がる。そして会計窓口へ向かう。口座に入っていた百万円は、すでにほとんど引き落とされている。残っているのは、20万円あまり。それは、私が命を削って稼いだお金。それなのに、今では父の一週間分の薬代にすら足りない。母は督促状を手に、病室へ戻ってくる。そして、その紙を父の顔に叩きつける。「もう、お金がない。退院するよ」父の眼球が激しく動く。喉の奥から、焦ったような唸り声が漏れる。退院したくない。父にも分かっている。ここを出れば、待っているのは死だけだ。けれど、母はそんな父を無視する。そのまま手の甲に刺さっている点滴の管を引き抜く。血が滲み出る。それでも止血テープ一枚すら貼らず、振り返って荷物をまとめ始める。退院の日、外は雨が降っていない。空は重く、どんよりと曇っている。母は病院から借りた車椅子を押している。その車椅子には、父がぐったりと座っている。頭は片側に傾き、唾液が胸元へ滴り落ちている。綾音も車椅子に座っている。自分で車輪を回し、その
彼女はドア枠にぶつかる。それでも、足を止めない。そのままリビングへ向かう。リビングのダイニングテーブルには、すっかり冷え切ったままの角煮が置かれている。表面には白い脂が固まり、硬い膜のようになっている。醤油の色は黒ずみ、まるで乾いた血のようだ。父が部屋から飛び出してくる。呆然としている妻を見る。母を引き止めようと、一歩踏み出す。その瞬間。父の足が止まる。両手で胸を強く押さえる。顔が一瞬で紫色に変わる。目が白目をむく。喉からガッ、ガッと、首を絞められた鶏のような音が漏れる。必死に息を吸い込む。額には青筋が一本、また一本と浮かび上がる。そして――まるで根元から切り倒された木のように。父の体が、真っすぐ後ろへ倒れていく。ドンッと、後頭部がリビングの硬い床に激しく叩きつけられる。救急車のサイレンが、静まり返った住宅街を切り裂く。赤と青の警告灯が、激しく明滅している。医師と看護師が担架を抱えて階段を駆け上がってくる。意識を失った父を担架に乗せ、そのまま運び下ろしていく。母は呆然としたまま、その後ろをついていく。綾音も自分で車椅子を動かし、必死にエレベーターへ乗り込む。市立病院。救急処置室の赤いランプが灯る。しばらくして、医師が何枚かの書類を手に出てくる。「急性の脳出血です。かなり危険な状態です。すぐに手術が必要になります。ご家族は、まず五十万円の入院保証金をお支払いください」医師は書類を母に渡すと、すぐに処置室へ戻っていく。母は手元の支払い用紙を見つめる。そして、自分の体を慌てて探る。家を飛び出してきたため、バッグを持っていない。手元にあるのは、スマホだけだ。母はスマホを開き、ネットバンクのアプリを起動する。口座からお金を引き出そうと、残高を確認する。その瞬間。母の動きが止まる。口座に、見覚えのない入金がある。――百万円。振込日時は、今日の未明。振込名義には、フードデリバリー月次精算と表示されている。母の指が、画面の上で止まる。ふと、先ほど警察官から渡された袋を思い出す。ポケットから、画面が粉々に割れたスマホを取り出す。生前の私が、最後まで胸に抱えて守っていたスマホだ。母は指紋認
「あなたたちは、愛理を道徳で縛った。私まで縛った!」綾音は、床に落ちている血のついたトイレットペーパーを指差す。「これが何なのか、ちゃんと見て!私たち家族は、愛理に寄生して、血を吸い続けていた化け物よ!私たちが……みんなで愛理を殺したのよ!私たちは全員、人殺しよ!」その言葉は。何度も何度も、両親の頭を叩き潰すような重い衝撃となって落ちる。父は二歩、後ずさる。背中がドア枠にぶつかる。唇が震えている。それでも、一言も声が出ない。父はずっと、綾音が私を憎んでいると思っていた。私を我慢させ、犠牲にするのは、綾音のためだと思っていた。けれど――違う。すべては、両親が自分たちを正当化するための、身勝手な言い訳だった。ただ、家の中に溜まった苦しみも重圧も、誰からも愛されていない私にぶつけることに慣れていただけだ。母は床に這いつくばっている。綾音が崩れ落ちる姿を見つめる。そして、何度も継ぎ合わせた大学の合格通知書を見る。その瞬間、母の心を守っていた最後の壁が、完全に崩れ落ちる。彼女は床に伏せたまま、何度もえずく。胸の奥に溜まった後悔を、全部吐き出そうとする。けれど、何も吐き出せない。突然。小さな振動音が、部屋を覆っていた死のような静寂を破る。ブー……ブー……音は、母のポケットから聞こえてくる。母はえずくのをぴたりと止める。震える手をポケットに入れ、スマホを取り出す。画面が光っている。新着メッセージの通知だ。母が画面を開く。そこには、未再生の留守番電話が一件。発信者は――私の携帯番号。時刻は、昨夜10時15分。ちょうど私が交差点でダンプカーに撥ね飛ばされる、一分前だ。母の手は、スマホを落としそうなほど激しく震えている。親指が画面の上で止まる。なかなか、再生ボタンを押せない。父と綾音も、画面を食い入るように見つめている。部屋の空気が、まるで凍りついたように動かない。母はごくりと唾を飲み込む。目を閉じる。そして、震える指で再生ボタンを強く押す。スマホのスピーカーから流れる音量は、かなり大きい。最初に聞こえてくるのは、耳を刺すようなノイズ。続いて、激しく吹き荒れる風雨の音。風があまりにも強く、マイクが「ゴ
綾音が最後の一行を読み終える。その声は完全に掠れている。彼女は勢いよく日記帳を閉じる。両手で顔を覆い、肩を激しく震わせる。母は床に跪いている。日記に綴られた内容を聞きながら、突然手を振り上げる。そして、自分の頬を力いっぱい叩く。「お母さん……愛理が仮病だなんて、言うべきじゃなかった……抱きしめてあげる……今すぐ抱きしめてあげるから……」母は何もない空間に向かって、両手をめちゃくちゃに伸ばす。何かを掴もうとするように。私は天井の下を漂っている。狂ったような彼女の姿を見つめる。何もない空間を抱きしめようとする、その仕草を見つめる。私は冷たい目でそれを見ている。生きている間は、私に一度だって目を向けようとしなかったくせに。死んでから、こんなに涙を流して何になるというのだろう。綾音は顔を覆っていた手を下ろす。そして日記帳を膝の上に置く。閉じようとした、そのとき。指がふと止まる。日記帳の裏表紙、その隙間に何か硬いものが挟まっている。少し厚みがある。彼女は隙間に指を入れ、ゆっくりとそれを引き抜く。それは透明なクリアファイルだった。中には一枚の厚紙が入っている。綾音はその厚紙を取り出す。薄暗い部屋の明かりが紙面を照らす。そこには光が反射している。何重にも貼り重ねられた、無数の透明テープ。そのテープの下には、無数の紙片がある。細かな紙片を、一つ一つ丁寧につなぎ合わせている。隙間など一つもない。引き裂かれた一つ一つの断面まで、きれいに合わせてある。赤い印章も、完全につながっている。太字の黒い文字も、きちんと読める。それは、あの名門校の合格通知書。私の合格通知書だ。三か月前。母は綾音の部屋の前に立っていた。そして私の手から、この合格通知書を乱暴に奪い取る。私の目の前で、何度も何度も引き裂いた。紙片が床一面に散らばる。そのあと私は床に跪く。散らばった紙片を、一枚ずつ拾い集める。そして、この窓のない部屋に閉じこもる。一晩かけて。一本の透明テープを使い、少しずつ、少しずつ元に戻していく。紙には、乾いた水滴の跡がいくつも残っている。私の涙が落ちて、テープの端にあった文字を滲ませた跡だ。綾音は、継ぎ
父は手探りで壁のスイッチを押す。頭上の薄暗い電球が二度ほど点滅し、ようやく明かりが灯る。光は弱い。部屋は狭く、身体の向きを変えるのもやっとだ。壁際には、硬い板張りのベッドが一台置かれている。その上には、すっかり硬くなった古い掛け布団が一枚敷かれている。衣類をしまうタンスもない。隅には、ぼろぼろの段ボール箱がいくつか積まれている。その上には、何度も洗濯して色あせた配達員の制服が二着、無造作に置かれている。ここが、私が十年以上暮らしてきた場所だ。この家で私は、まるで日の当たる場所に出ることすら許されない影のように生きている。母が、よろめきながら入ってくる。ベッドのそばまで歩く。そして、脚から力が抜け、その場に跪く。俯いた視線の先に、ベッドの下の暗がりが見える。母は手を伸ばし、ベッドの下を探る。そして、大きな黒いゴミ袋を引っ張り出す。袋の口は、固結びでぎゅっと縛られている。母は力任せに袋を破り開ける。中から出てきたのは、何本ものトイレットペーパー。一番安くて、粗末なばら売りの紙だ。包装すらされていない。紙は黄ばんでいて、触れると紙やすりのようにざらついている。すでに半分ほど使われたロールもある。それが袋の中に乱雑に積まれている。母の手が、ぴたりと止まる。使いかけのロールを、彼女は呆然と見つめる。震える指で、その血痕に触れる。そして、数時間前のことを思い出す。あの冷たい遺体安置室で。白い布をめくり、私の太腿の内側にある、血肉がむき出しになった傷を見た。そのときようやく、母はあの傷がどうしてできたのかを理解する。私は、生理用品を買うお金すら惜しんでいた。毎月、生理になるたびに、安いトイレットペーパーを当てて過ごしている。電動自転車に乗り、街中を十数時間も走り回る。血と汗が混ざる。紙との摩擦で皮膚が擦り切れる。私は道端に自転車を止め、歯を食いしばりながら袖で血を拭い、それでもまた配達へ戻っている。母は血の付いたトイレットペーパーを握りしめる。口を開く。喉の奥から掠れた息が漏れる。その紙を胸に強く押し当てる。涙が、埃まみれの床に次々と落ちていく。そこへ、綾音が一人で車椅子を押しながら入ってくる。車椅子の車輪