INICIAR SESIÓN瀬里奈が目を覚ました時、外はまだ薄暗かった。夜通し降っていた雨は弱くなっていたが、窓ガラスには細い雨粒が残っている。隣のベッドを見る。蒼介は眠っていた。いつも隙のない男が、今は静かに目を閉じている。呼吸は深く、表情も驚くほど穏やかだった。昨夜、自分は隣に人がいることを意識してなかなか眠れなかったのに。瀬里奈は少しだけ不思議に思い、それから視線を逸らした。見ているのも失礼な気がした。けれど、その直後。「起きていますよ」「……え?」瀬里奈が振り返ると、蒼介はもう目を開けていた。「すみません。起こしましたか?」「いいえ。よく眠れました」その言い方が妙に満足そうで、瀬里奈は少しだけ首を傾げた。昨夜は同じ部屋にいることを意識して、なかなか眠れなかった。それなのに蒼介は、まるで自宅で眠ったような顔をしている。「私は少し寝不足です」「私のせいですか」「……そういう聞き方をされると答えにくいです」瀬里奈が視線を逸らすと、蒼介は追及せず、口元だけをほんの少し緩めた。……朝食を終えたあと、蒼介は瀬里奈へ一枚の古い写真を見せた。若い頃の職人と、その隣
葛城の改修案は、その後数回の打ち合わせを経て、ほぼ採用されることになった。古い階段やロビーの意匠は残し、防災設備や客室機能は新しくする。「昔の西園寺ホテルを消さずに、これからも使える形にする」という瀬里奈の希望にも合っていた。ただ、ひとつだけ問題が残った。「この屏風です」葛城が古い写真を机に置く。旧館ロビーに長く飾られていた、金地に松と水辺を描いた大きな屏風。昔の写真にも何度も写っているが、7年前の火災で傷み、今は倉庫に眠っている。「同じようなものを新しく作ることはできます。でも、それでは意味がない」「修復できる方は?」「描いた職人はご存命です。ただ、もう仕事は受けないそうです。何度お願いしても断られました」瀬里奈は写真を見つめた。「一度、直接お願いしてみたいです」葛城も同行することになった。榊原を通じて連絡を取り直すと、修復は引き受けられないが、話だけなら聞くという返事があった。訪問の日時を決め、宿と往復のタクシーを手配して、1泊2日の地方出張が決まった。……出発の朝、瀬里奈は新幹線に乗る前に蒼介へメッセージを送った。【お話ししていた屏風の件で、長野へ行ってきます。明日戻る予定です。葛城さんとは現地で合流します】少しして返事が来た。【分かりました。気をつけて】瀬里奈は短い返信を確認すると、スマートフォンをバッグ
ホテルの改修計画について、葛城悠真と初めて顔を合わせる予定の日。瀬里奈は蒼介とともに西園寺ホテルのロビーを歩いていた。そこへ、聞き慣れた声が飛んできた。「瀬里奈」足を止める。振り返ると、怜士が立っていた。その隣には梨花もいる。瀬里奈の胸の奥が、わずかに固くなる。「何かご用ですか」怜士は一瞬、瀬里奈を見つめた。船を降りた頃とは違う。ホテルの会見で、自分の言葉で記者に答え、今は鷹司蒼介と並んで歩いている。それがどうにも気に入らないようだった。「記者会見までやるとは思わなかった」「必要でしたので」「随分、変わったな」瀬里奈は返さなかった。怜士は鼻で笑う。「でも勘違いするなよ。婚約を破って、すぐ鷹司に助けてもらって。どうせ俺への当てつけだろ」「違います」「じゃあ何だ。海外で長くやってきた男が、何の得もなくお前にここまでしてやると思ってるのか?」怜士の目が蒼介へ向く。「こいつは西園寺ホテルに価値があるから近づいたんだ。お前が利用されてるだけだ」瀬里奈の指先が冷える。腹は立った。けれど、ここで
瀬里奈のスマートフォンに表示された記事を、蒼介も黙って読んだ。【西園寺ホテル、鷹司グループ傘下へ――創業家令嬢、婚姻直後に“事実上売却”か】記事には、二階堂怜士との婚約を解消した直後に鷹司蒼介と結婚し、その直後から鷹司グループの支援を受け始めた、と並べられている。事実だけを拾えば、間違いではない。けれど書き方ひとつで、意味はまるで違って見えた。瀬里奈がホテルを取り戻したのではなく、二階堂から鷹司へ渡しただけ。そう読ませる内容だった。「事実と違う部分には訂正を求めます。正式発表も早められます」蒼介が静かに言った。瀬里奈は画面を見たまま、少し考えた。以前なら、こういう問題が起きれば誰かが決めていた。父がいれば父が。二階堂家が関わるようになってからは、怜士や征司が。でも今は違う。瀬里奈は顔を上げた。「隠すことはありません」蒼介は何も言わず、続きを待っている。「もともと正式提携は発表する予定でしたよね」「はい」「でしたら、少し早めてもらえますか。私から説明したいです」「分かりました」それだけだった。止めもしない。代わりに話すとも言わない。瀬里奈は、そのことが少し嬉しかった。……翌日、西園寺ホテルで資本業務提携についての説明会が開かれた。瀬里奈は蒼介と並んで前に座った。鷹司グループは西園寺ホテルの少数株式を取得する。再建資金、海外顧客の送客、人材育成などで協力する。ただし、ホテルの経営権とブランドは西園寺側に残る。必要な説明を終えたところで、ひとりの記者が手を挙げた。「つまり、二階堂家の代わりに鷹司家を頼っただけ、という見方もできますよね」会場が少し静かになった。瀬里奈は記者を見る。「助けていただいていることは事実です」あえて否定しなかった。「ですが、西園寺ホテルを鷹司グループへ渡したわけではありません」声は穏やかなままだった。「何を残し、何を変えるか。その責任は今も西園寺ホテル側にあります。私も、その責任から逃げるつもりはありません」別の記者がすぐ続けた。「では鷹司グループ側には、奥様を助ける以外にどんな利益があるのでしょうか」今度は蒼介がマイクを取った。「あります」短い返事だった。「鷹司グループは慈善事業ではありません」会場の空気が引き締まる。「西園寺ホテルには、鷹司のホテルが
鷹司グループから紹介された海外顧客の名前を見た榊原が、古い宿泊台帳を倉庫から取り寄せた。「ありました。35年前です」瀬里奈は黄ばんだページを覗き込んだ。夫婦が結婚したばかりの頃、日本旅行で西園寺ホテルに3泊している。「この方たち、覚えています」振り返ると、勤続30年以上になるスタッフの佐伯が立っていた。昨日、人員配置の見直し対象に名前が挙がっていたひとりだ。「当時の私は入社したばかりでしたが、奥様が中庭の椿をとても気に入られて。帰国前、落ちていた花を押し花にして差し上げたんです」「ご主人は?」「最初の朝は和食が苦手だとパンを。ところが奥様に勧められて焼き魚を一口食べたら、翌日から和朝食に変わりました」瀬里奈も思わず笑った。帳簿には残らない、小さな出来事。それでも35年経って、人の中には残っている。「佐伯さん。お迎えの時、一緒に来ていただけますか」「私が、ですか?」「はい。今回は、佐伯さんがいてくださること自体がおもてなしになると思います」……夫婦が到着すると、瀬里奈と佐伯が自ら部屋まで案内した。窓辺には椿を一輪。その横には小さなカード。【35年前にお預かりした旅の続きを、またここで。】夫人が読み終えると、ゆっくり佐伯を見た。「もしかして……あなた、あの時の?」佐伯が深く頭を下げる。「はい。あの頃は入社したばかりでした」「椿を押し花にしてくれた?」「覚えていてくださったんですね」夫人が声を上げて笑った。「あなたこそ、まだ覚えていたのね!」夫も驚いて佐伯を見る。「妻はあの押し花を、今もアルバムに入れているんですよ」夫人の目が潤んでいた。瀬里奈はその光景を見つめた。ホテルが35年前を覚えていたのではない。ここで働く人が覚え続けていたから、ホテルの時間が途切れなかったのだ。……翌朝、夫婦を迎える前に、瀬里奈は朝食のテーブルを見回した。揃えられた器の前で、ふと手を止める。昨日、夫が宿泊カードに名前を書いた時の手元を思い出した。ご主人の席だけ、箸の持ち手が左に来るよう置き直す。ほどなく席に着いた夫は、焼き魚を見て顔をほころばせた。「これまで覚えているのか」「あなた、あの時これが一番おいしいって言ったでしょう?」「35年経っても逃げられないな」笑いながら箸へ手を伸ばし、夫はふと動きを止めた。自分の席
瀬里奈は資料を抱えたまま、蒼介の隣へ腰を下ろした。近い。そう思ったのは、座ってからだった。ソファは十分に広いのに、蒼介が空けた場所はちょうど一人分。資料を二人で見るには確かに都合がいいが、腕を少し動かせば触れそうな距離だった。「こちらです」瀬里奈は意識しないように資料を開いた。蒼介が少し身を寄せる。視線は紙へ向いている。瀬里奈も同じ場所を見ようとしたが、ふと、隣から届く体温のほうが気になった。【再建に伴う人員配置の見直し】「ここが気になっています」「はい」「人件費が高い部署があることは分かります。でも……」瀬里奈は言葉を選んだ。「長く勤めてくださった方を、数字だけ見て減らしていいのか、少し迷っています」蒼介はすぐに答えなかった。「残したいですか」「できれば」「なぜ?」瀬里奈はそこで止まった。かわいそうだから。長く働いてくれたから。それだけでは、会社として理由にならない。「……まだ、うまく説明できません」「なら、明日、現場を見てきてください」「何をですか?」「その人たちが何をしているのか」蒼介は資料を閉じた。「残す理由があるなら、現場にあるはずです」簡単に答えを渡さない。それなのに、突き放された感じもしなかった。「分かりました」瀬里奈が資料を重ねようとした時、蒼介の指先と触れた。一瞬だった。瀬里奈が先に手を引く。「すみません」「なぜ謝るんです?」「いえ……」蒼介は何もなかったように資料を持ち上げた。その横顔があまりに平然としていて、意識した自分のほうが妙に落ち着かなくなる。少しだけ距離を取ろうかと思った。でも、それをすると今度は自分が気にしているようで、結局そのまま座っていた。隣で、蒼介の口元がほんのわずかに緩んだことには気づかなかった。……翌朝。瀬里奈は榊原とともに、ホテルの現場を回っていた。今回、配置見直しの対象として名前が挙がった中には、勤続30年以上のスタッフもいる。若いスタッフに比べれば、担当できる業務の幅が狭くなっている人もいた。瀬里奈は一人ずつ仕事を見ることにした。昼前。ロビーに一人の老婦人が入ってきた。杖をつき、ゆっくりと周囲を見回している。若いベルスタッフがすぐ近づいた。「いらっしゃいませ。ご宿泊でしょうか」「いいえ。今日は少しだけ……」女