Masuk3歳の娘を救えるかもしれない、たったひとつの心臓。夫が選んだのは、娘ではなく愛する養妹だった。頼れる家族も財産もない美晴は、かつて自分から捨てた元婚約者・御影彰人を訪ねる。「娘を助けてくれるなら、何でもします」――たとえ、彼の愛人になるのでも
Lihat lebih banyak「愛人にでも、なるから」言ってしまった瞬間、自分の声だけがやけに鮮明に耳に残った。給湯室の狭い空間で、彰人は何も言わなかった。すぐそばにいるのに、その沈黙がひどく遠い。さっきまで聞こえていた郁也と柚香の足音は、もう廊下の向こうへ消えている。私は彰人の返事を待った。断られても仕方がない。4年前、私はこの人との婚約を捨てた。家族まで捨てて、郁也を選んだ。それなのに今になって、娘を助けてほしい、この家から連れ出してほしい、その代わりなら自分を差し出すと言っている。勝手なのは分かっている。それでも今は、他に何も思いつかなかった。やがて彰人が低く息を吐いた。「……傷ついたまま逃げるのか」顔を上げる。冷たい目がまっすぐこちらを見ていた。「俺のところへ来れば全部終わると思ってるなら、甘い」胸の奥が痛んだ。「そんなつもりじゃ……」「じゃあ、何のつもりだ」答えられなかった。私はただ、この場所から消えたかった。私が柚香に似ていたから、郁也が私と結婚したこと。私が家族を捨てたから、絶対に自分から離れないと思っていたこと。それを聞いた瞬間から、相馬家の壁も、廊下も、夫婦の寝室も、全部が別のものに見えていた。ここでまた何事もなかったように朝を迎える。郁也の妻として食卓に座る。柚香の隣にいる夫を見ながら、ひかりの薬を飲ませる。そんな明日を想像しただけで、息が詰まった。このままこの家にいたら、私はきっと壊れる。そして、私が壊れれば、ひかりまで守れなくなる。それだけは嫌だった。「……ひかりを連れて、ここを出たい」やっと言えた。彰人はしばらく私を見た。「お前が出るんだろ」逃げ道を塞ぐような言い方だった。「俺が連れ出したことにするな」私は唇を噛んだ。彰人はもう何も言わない。ただ、私が答えるのを待っている。私はバッグの持ち手を握り直した。「……分かった」自分の声が、思っていたよりはっきりしていた。彰人は給湯室の扉を開け、廊下へ出た。私もその後に続く。数歩進んだところで、彰人が振り返った。「美晴」「何?」「その前に相馬と話すことがあるだろう」それだけ言うと、彰人は背を向けた。私はしばらくその背中を見ていたが、やがて2階へ向かった。……晩餐会を切り上げ、相馬邸を出た彰人は、迎えの車の後部座席に深く腰を沈
ひかりが退院した翌日、相馬家では晩餐会が開かれた。相馬グループの創立記念と新規事業発表の会だ。出席しないと伝えると、須美子が子ども部屋まで来た。「御影さんが来るのよ。あなたの元婚約者なんだから、少しくらい役に立ちなさい」「篠宮家と絶縁した私は、役に立たない嫁じゃなかったんですか?」須美子の顔がこわばる。「共同事業が決まれば、相馬家のためになるの。あなたからも取りなして」「私はひかりのそばにいます」「看護師をつけると言ってるでしょう。妻として挨拶くらいなさい」寝かけていた娘が目を開けた。私は須美子を促して廊下へ出て、扉を閉めた。彰人には、私からもお礼を言いたい。同じ家の中なら、すぐ戻れる。「挨拶をしたらすぐ戻ります」須美子の返事を待たず、部屋へ戻った。ひかりは絵本を抱えて、また目を閉じていた。病院から来た看護師に、何かあればすぐ携帯へ連絡してほしいと頼み、私は階下へ向かった。吹き抜けの大ホールには白い花が飾られ、グラスの触れ合う音が響いていた。取引先へ挨拶する郁也の隣に、白いドレスの柚香がいる。私が近づいても、郁也は場所を空けなかった。妻として来いと言われたのに、その隣に立つ余地もない。「ひかりちゃん、大丈夫?」柚香が笑顔を向けた。「今は寝てる」「よかった。私も心配してたの」返事をする前に、御影社長がお見えになりました、という声がした。須美子と郁也が玄関へ急ぐ。黒いスーツの彰人は、村瀬を伴って入ってきた。出迎える客たちの向こうでも、背の高い彼の姿はすぐに見つかった。須美子に呼ばれ、私も近づいた。彰人に軽く会釈すると、頭の上から声が落ちてきた。「俺に過去の非礼を詫びたいらしいな」「……何の話?私は、そんなこと言ってないわ」「そうか」彼の視線が須美子へ移った。須美子は笑みを崩さず、近くの客に会釈した。そのとき、すぐ横から、妙に明るい声がした。「美晴さん、今夜も売る物を探しにいらしたんですか?」近くで歓談していた客が、こちらを振り向く。麗奈はワイングラスを手に、にこにこと私を見ていた。耳元で、あの大きな真珠が揺れる。「ここなら、高く売れそうな物がたくさんありますものね」近くで小さな笑い声がした。須美子が客のひとりへ話しかけると、周囲の顔もそちらへ向いた。麗奈が私の前へ一歩寄った。客たち
目を開けると白い天井が見えた。腕には点滴がつながっている。娘のベッドも、枕元の絵本もない。ひかりは?慌てて身体を起こしかけたところで、窓際から声がした。「寝てろ。娘なら看護師がついてる」椅子に座っていた彰人が立ち上がった。「……どうしてここに」「あの通りのビルで打ち合わせがあった。出てきたら、お前がふらついてた」意識が途切れる前の低い声を思い出した。受け止めたのは、彼だったのだ。「ここは?」「病院の部屋を借りた。ひかりの病室は同じ階にある」それでも起きようとすると、彰人が私の顔を覗き込んだ。「まだふらつくんだろ」「でも、目を覚ましたら私を探すから」彼は私を枕へ戻すと、携帯を取り出した。「村瀬。ひかりが起きたら、こっちに連絡が来るようにしてくれ」電話を切り、私を見る。「これでいいだろ」「……うん」彰人は椅子へ戻りかけ、私の肘の下から点滴の管を引き出した。「引っ張るなよ」私は腕を引っ込めた。「あなた、仕事は?」「ある」時計に目を落とす彼を見て、布団の端を握った。心臓を探してほしいと頼んだうえに、こんなことまで。「もう帰って大丈夫。これ以上、迷惑は――」「なら、まず起き上がるのをやめろ」言い返せず、枕へ頭を戻した。ノックがして、看護師が入ってきた。「娘は、まだ寝ていますか?」「ええ、眠っていますよ。目を覚ましたらお知らせしますね」布団を握っていた手が緩んだ。「ありがとうございます」「お母さんも、少し休んでくださいね」看護師が病室から出ると、彰人はベッド脇のテーブルを引き寄せた。お粥とスープがのっている。「食え」「……これ、私に?」「ほかに誰がいる」私はゆっくり身体を起こし、お粥の蓋を開けた。ひと口すくって飲み込むと、急に空腹を感じた。私はもうひと口すくった。続けて口へ運ぶ私を見て、彰人は椅子に腰を下ろし、携帯へ目を落とした。そこへ短いノックがした。「入れ」扉が開き、秘書の村瀬(むらせ)が顔を出した。「社長、ひかり様の夜間看護の手配が済みました」私は顔を上げた。彰人は小さく頷き、村瀬は一礼して外へ出ていった。「あなたが頼んでくれたの?」「今夜も同じことを繰り返すつもりか」彰人が水のコップを差し出した。私は受け取り、テーブルへ置いた。ずっと娘から目を離してはいけな
翌朝、枕元の携帯が震えた。郁也からだった。昨夜、柚香から送られてきた写真が浮かんだ。私は眠っているひかりを見てから、電話に出た。「熱は?」「まだある。夜中も苦しくて、何度も起きたの」「眠れなかったのか」「明け方になって、やっと」ひかりの頬にかかった髪を、そっとよけた。「昨日も、パパはって聞いてたのよ」「そうか、後で病院に行くよ」私は携帯を耳に当て直した。「そう?ひかりが起きた時にあなたがいたら――」そのとき電話の向こうで、甲高い声がした。「お兄ちゃん、痛い……!」「どうした?」郁也の声が、私から離れた。「火傷?まず水で冷やせ。ごめん、電話切るぞ」「待って。ひかりは?」「聞こえただろ。柚香が火傷したんだ」通話が切れた。私は携帯を耳に当てたまま、しばらく言葉も出なかった。……昼過ぎ、今度は郁也の母、相馬須美子(そうま すみこ)が来た。いつも通りに整えられた服で、ベッドに近づくより先に、私の足元の荷物を見た。「まだ入院してるの?」第一声がそれだった。「熱が下がらなくて」須美子はテーブルの上の請求書を手に取った。「今月だけでいくらかかってると思ってるの」「今はお金より、ひかりの身体が――」「美晴さんが選んだ結婚でしょう。困った時だけ相馬家に頼るのは、都合がよすぎるんじゃない?」須美子は請求書をテーブルへ戻した。「美晴さんと郁也が結婚すれば、篠宮家とのつながりができるはずだったのに」私は顔を上げた。「駆け落ちなんてして絶縁されて。相馬家には何の利益もないわ」「……私と郁也の結婚を、そんなふうに考えてたんですか」「名家の結婚なんてそういうものでしょう」私はひかりへ向き直り、布団から出ていた肩を覆った。「自分の立場が分かってないようね」娘に触れたまま、振り返った。「分かってます。私は、この子の母親です」「なら自分で何とかしなさい」須美子はバッグを手に取り、病室を出ていった。扉が閉まってから、私はテーブルの請求書を手に取った。結婚してから、仕事を辞めた。俺の妻が働く必要なんてないと郁也に言われ、愛情だと思って従った。自分で出せるお金を考えても、夫の顔が浮かぶ。それが悔しかった。その日の午後、看護師に娘を頼み、短時間だけ病院を出た。買い取り店のガラスのカウンターに、篠宮家から持ってきた