LOGIN「不妊の妻」と蔑まれ、三年間も姑に毒入りの煎じ薬を飲まされ、夫の暴言に耐えてきた綾香。だが夫の専属漢方専門医・遼真の診察で、彼女に不妊の根拠はなく、夫こそ重度の無精子症だったと判明する。裏切りの結婚を終わらせ、復讐の先で自分を取り戻す綾香。やがて遼真の優しい指先が、凍りついた心にもう一度恋を教えてくれる――。
View More東京・世田谷区成城。
百年を超える竹林に囲まれた鷹城グループ本邸。その奥にひっそりと佇む離れ――『蓮雨庵(れんうあん)』。榊原綾香は、漆の剥げた古い座卓の前で背筋を伸ばして正座し、冷たい真鍮の椀に満たされた真っ黒な煎じ薬を見つめていた。
部屋には、息が詰まるほど濃い薬草の焦げ臭さと、鼻につく生臭さが重たく淀んでいる。
それはこの三年間、姑の鷹城美津子に命じられ、朝晩一滴も残さず飲まされてきた正体不明の『子授けの煎じ薬』だった。
椀を見るだけで胃がひっくり返り、冷や汗が滲む。
「一気に飲めって言ってるだろ。何ぼさっとしてんだよ。お前がそうやって鈍くて、何するにもグズだから、いつまでたっても子供ができないんだ」
障子脇の柱にもたれた夫、鷹城司が舌打ちし、濃い葉巻の煙を吐き出した。
鷹城グループの常務取締役。
金と家名があれば、この世にできないことなどないと本気で信じている、創業家三代目の御曹司だった。昨夜も西麻布の店で女たちと朝まで遊び回ってきたらしい。
シャツの襟には見知らぬ赤い口紅の跡が残り、安っぽい香水の匂いまで染みついていた。「司さん……この薬を飲むと、毎晩お腹の中が焼けるみたいに捻れて、熱まで出るんです。病院で出された薬でもないし、いったい何が入っているのか……」
「黙って飲めよ、この役立たずが!」
司は大股で近づくと真鍮の椀を乱暴に奪い、綾香の顎を掴んで、黒い薬を無理やり口へ流し込んだ。
苦く濁った液体が喉を落ちる。
食道を火で焼かれているような激痛が走った。激しくむせ、床へ手をついた綾香の頬を、司は革靴の先で二度、三度と小突いた。
「肌にぬくもり一つない、木偶みたいな女。跡継ぎも産めないくせに。母さんが家のために高い金を払って作らせた薬なんだぞ? ありがたく飲めよ」
髪を乱暴に掴まれ、次の瞬間には床へ投げ捨てられた。
司が嘲るように部屋を出ていく。
冷たい板の間にこぼれた黒い薬が、綾香の指先に触れた。
泣くものか。
そう思って歯を食いしばったのに、一滴だけ涙が落ち、黒い水面に小さな波紋を作った。榊原グループ創業家の長女として生まれ、家同士の結びつきのため鷹城家へ嫁いで三年。
『不妊』という二文字は、この三年間、綾香の名前より先に呼ばれてきた。
あまりにも長く責められ続けたせいで、本当に自分が悪いのだと思いかけたことさえある。
それでも胸の奥には、どうしても拭えない疑問が残っていた。
唇が乾く。
怖いのか、悔しいのか。 もう自分の感情すら、うまく区別できなかった。その時、本邸の母屋から美津子の甲高い声が廊下を響いてきた。
「今日から離れに、代々御典医を輩出してきた漢方医学の名門・恵仁堂の跡取り、白石遼真先生を常駐させることにしたわ。脈診では当代随一と評判の先生よ。今度こそ吐いたりせず、大人しく診てもらいなさい」
外では冷たい晩秋の雨が、しとしとと降り始めていた。
雨に濡れた障子の向こうから、乱れ一つない規則正しい足音が近づいてくる。
竹林が風に擦れる音の合間を縫うように、男の静かな気配が蓮雨庵の廊下へ広がった。
すっ――。
障子が開く。
薄い雨霧を背に、一人の男が部屋へ入ってきた。
青磁色の羽織を品よく纏った、すらりとした長身。
整えられた黒髪。
銀色の細いフレーム眼鏡。 その奥には、底の知れないほど静かな黒い瞳。男が入ってきた途端、淀んでいた煎じ薬の臭いが押し流されるように、爽やかな蓬と薄荷の香りが部屋に広がった。
「鷹城家の専属医を務めます。漢方専門医、恵仁堂の白石遼真です」
低く、落ち着いた声だった。
けれど綾香が気になったのはその声よりも、彼が自分の顔より先に、痣の残る手首と床にこぼれた黒い薬へ目を向けたことだった。
遼真の視線が止まる。
感情を表に出さない顔。
それでも眼鏡の奥の瞳には、一瞬だけ、鋭い怒りが走っていた。
成城・蓮雨庵。静かな秋の朝。竹林の間から差し込む光が、障子を淡い銀色に染めていた。部屋には、二年前の最初の日と同じように、蓬と薄荷の香りがしている。古い座卓の前。綾香と遼真が向かい合って座っていた。ここは、二年前。綾香が司に顎を掴まれ、黒い薬を無理やり飲まされていた場所。冷たい床。苦い薬。恐怖。あの日の記憶は消えない。でも今、座卓の上にあるのは黒い毒薬ではなかった。綾香が自分で選んだ、薄い養生茶。「奥様。手首をお借りしても?」二年前なら、冷たく聞こえたかもしれない声。今は聞くだけで肩の力が抜ける。綾香が手を差し出す。昔あった痣は、もう消えていた。代わりに、子供を抱いた時についた小さな引っかき傷が一つ。遼真の三本の指が、寸・関・尺へ触れる。とくん。とくん。二年前、細く弱く感じられた脈。今は穏やかで、しっかりしている。特別な奇跡というより。食べて。眠って。笑って。怒って。そうして生きてきた時間の結果だった。遼真が笑う。「脈は落ち着いています。定期検診の結果も問題ありません。最初に会った頃とは、ずいぶん違いますね」綾香が彼を見る。「遼真さんが隣にいてくれたことには感謝してます」「はい」「でも今は、わかるんです」少し笑う。「私を生かしたのは、結局、私だったって」遼真は一瞬黙った。そして笑った。「その通りです。僕がしたのは、隣で少し脈を見たくらいです」「『少し』じゃないでしょう」綾香も笑う。縁側の向こうから、子供たちの声。「ママ!」続いて。「パパも!」小さな足音が近づいてくる。遼真が手首を離した。「診察終了ですね」「優先順位、下がりましたね。白石先生」綾香が先に障子を開く。冬真と紗愛が同時に飛び込んできた。遼真は転ばないよう、二人の背中へ手を添える。四人が縁側で一塊になる。座卓の上では、養生茶が少しずつ冷めていく。脈枕も出したまま。綾香は、わざわざ戻って片付けようとは思わなかった。昼になったら誰かが片付けるかもしれない。夕方までそのままでも、別に構わない。少しくらい生活が乱れても、もう世界は壊れない。遼真がふと思い出したように言う。「綾香」「うん?」「脈は、これからも一生診ます」綾香が眉を上げる。「でも、最初みたいに『奥様』って呼ぶのは、もう
東京・文京区小石川。恵仁堂宗家。この日は、恵仁堂財団の新しい共同代表体制を一門へ正式に知らせる日だった。綾香が共同代表理事として財団運営に参加し、重要事項を遼真と共に審議することを確認する。祖霊殿の前。案内役が告げる。「白石綾香理事、ご入場です」綾香は少し緊張した顔で、印を受け取る手順を確認する。隣の遼真と目が合う。彼がほんの少し笑った。二人で祖先へ香を供え、礼をする。白石景吾が、金色の布に包んだ箱を差し出した。中には恵仁堂財団の重要事項を確認するための宗家印。「財団の主要な意思決定に共同で責任を負う理事、白石綾香さんへ、この印をお渡しします」綾香は両手で受け取った。重い。遼真が一門へ向けて宣言する。「本日より、白石綾香理事が恵仁堂財団の共同代表理事に就任します。そして僕の人生の伴侶は、これからも綾香ただ一人です」拍手が起きる。綾香は印を見ながら、小声で言った。「本当に重い」遼真も小声で返す。「責任は、だいたい重いものです」二人とも笑った。その後の最初の財団会議。綾香はさっそく一つ提案した。「宗家当主やその配偶者だからという理由だけで、財団の代表権が自動的についてくる仕組みはやめたいです」一部の長老が顔を上げる。綾香は続ける。「理事会と専門委員会を置いて、任期と権限を明文化しましょう。私の次の人が無能でも、血筋だけでここに座れるなら、鷹城と何も変わりません」沈黙。最初に景吾が頷いた。遼真も賛成票を上げる。綾香は、手元の印が少しだけ軽くなった気がした。権力を受け取ることより。権力が勝手に暴れない仕組みを作ることのほうが大事だった。***午後十一時。蓮雨庵へ戻る。竹林の道を、手を繋いでゆっくり歩く。奥に見える灯り。二人が初めて心を近づけた離れ。遼真が綾香を軽く抱き上げ、縁側へ上がった。「明日の朝。最初に会った時の座卓で、脈を見ましょうか」「診察料、高そう」「家族割があります」「何%?」「生涯契約なら無料です」綾香は呆れながら笑った。世間の前では冷静な会長。二人きりになると、たまにこんなことを言う。最初に会った日には、想像もできなかった。
アルプス山麓。家族が休むためだけに用意した、小さな別邸。綾香はここへ来ると、午前のオンライン会議を二時間までに制限した。残りの時間は子供たちと散歩する。昼寝する。遼真と買い物へ行く。初めて近くのスーパーへ行った日。遼真が幼児用お菓子の成分表示を、異常なほど長く見ていた。綾香はカートを押して先へ行く。「遼真さん。お菓子一袋買うだけで論文査読してるんですか?」「糖分が高いです」「今日くらい、世界が滅びてもいいことにしましょう」結局、一番小さな袋を一つだけ買った。しかも冬真と紗愛より先に、両親が二個ずつ食べた。そんな日々が、綾香にはどんな国際会議より大切だった。庭。一歳を過ぎた冬真と紗愛が、よちよちと歩いている。蝶を追いかけた冬真が尻もちをつく。紗愛が近づき、兄の手を掴む。二人で笑った。「転ばないようにね」綾香が声をかける。過去の傷が完全に消えたわけではない。黒い煎じ薬に似た匂いを嗅ぐと、今でも胸が跳ねる時がある。ただ、そんな日にも帰る場所がある。小道の向こうから遼真が来た。手には白磁のポット。「お茶、冷めます。今日は薬草三種類だけです」「それでも三種類入ってるんだ」綾香がカップを受け取る。手を包まれる。「ありがとう。時々、この生活が夢みたい」「夢ではありません」「三年前、あの冷たい床に座ってた私が。どうしてここまで来たんだろう」遼真は少し考えた。「ここまで来たのは、綾香がずっと選んだからです」綾香が顔を上げる。「僕が救ったわけじゃない。僕は隣にいただけです」しばらく沈黙。綾香が肩へ寄りかかる。「それでも、隣にいてくれてありがとう」「それなら、一生できます」「一生は長すぎる。まず明日まで」「では、明日また契約更新します」「条件を見てから」子供たちの笑い声。綾香は目を閉じた。幸福は、大きな報酬として一度に降ってくるものではない。こうして一日ずつ更新されるものなのかもしれない。遼真がいつものように手首へ触れる。「脈、いいですよ」「それだけ?」「いいえ」少し間を置く。「好きです。それは脈を見なくてもわかります」綾香は笑い、彼へ口づけた。その日の夕方。東京の法務チームから最終報告が届く。鷹城司は前月、刑務所医療区画で感染症と呼吸器不全を併発し死亡。鷹城美津子も長
双子のお食い初めを終えた頃。蓮雨庵の古い書庫に保管されていた恵仁堂の医書が、研究チームへ移された。恵仁堂の伝統処方を出発点に、星雲グローバルR&Dが標準化を進めてきた天然物由来の神経系希少疾患治療候補。開発コード――『保生丹(ほせいたん)』。スイス・バーゼルと東京の臨床機関が参加した国際共同第Ⅲ相試験で、統計学的に有意な有効性と安全性指標が得られた。米国FDA。欧州EMA。優先審査手続も進む。「榊原代表。複数のグローバル製薬企業から、契約一時金とマイルストーンを含め、最大六兆円規模の共同開発・ライセンス案が届いています」巨額だった。だが条件次第で、薬の価格も研究継続性も大きく変わる。「全部無償にすれば、次の研究資金がなくなるかもしれない」遼真が言う。「でも、最も高く買う一社へ独占させるのも違う」綾香は頷いた。「独占売却はしません。複数地域で非独占ライセンスを設定します。その代わり、低所得国と希少疾患児支援プログラムには無償または大幅減免の実施権を用意しましょう」収益を捨てるのではない。研究を続けられる資金と、治療へのアクセスを両立させる。それが綾香の選択だった。***一週間後。スイス・ジュネーブ。国連欧州本部で開かれた、国際保健と医療アクセスに関するハイレベルフォーラム。WHO関係者。各国代表。医療政策の専門家。綾香が壇上へ立つ。濃紺の和装を基調にしたシルクスーツ。髪には翡翠の簪。隣には遼真。「古い医療知識も、現代科学の検証を通過して初めて、より多くの人を救う手段になります」英語で語る。「私たちは低所得国や希少疾患の子供たちが、価格だけを理由に治療から排除されない仕組みを広げます。同時に、次の研究を継続できる構造も守ります」講演後、国際保健分野での医療アクセス拡大への貢献を評価する特別表彰が二人へ贈られた。拍手の中。綾香は一度だけ目を閉じる。鷹城家の薄暗い部屋で、黒い薬を飲んでいた自分。今の自分。あまりにも遠い。***その夜。レマン湖を望むホテルのバルコニー。遼真が綾香の肩を抱く。「これからは、予定を減らしましょう」「また仕事の話?」「家族の話です。何もしない日も必要です」遼真は黄金色の鍵を綾香の手のひらへ置いた。アルプスの山麓に用意した、恵仁堂欧州拠点近くの小さな別邸。