LOGIN結婚式を挙げるために乗り込んだ豪華客船。けれど、向かいのスイートで婚約者は初恋の女を抱いていた。彼を救って負った首の火傷さえ嘲られ、謝罪を迫られる瀬里奈。逃げ場のない海の上、彼女を迎えに来たのは、ヘリで舞い降りた名門御曹司だった。私を捨てたあなたが泣いても、私はもう二度と戻らない。
View More怜士からの着信は、船を降りた日から続いていた。瀬里奈は一度も出なかった。何を言われるか、聞かなくても想像できた。どこにいる。誰といる。なぜ勝手なことをした。その問いに答え始めたら、結婚をやめると決めた理由まで、また彼に認めてもらおうとしてしまいそうだった。3日後、自宅マンションの鍵を開けた時も、バッグの中でスマートフォンが震えた。瀬里奈は先に玄関の灯りをつけた。淡い色のスリッパ。傘立て。出発前に受け取ったまま、棚に置いた郵便物。どれも変わっていなかった。「……ただいま」誰もいない部屋に、小さく言った。寝室に荷物を置き、窓を開ける。熱を含んだ街の風と、遠くの車の音が入ってきた。下の道を、自転車が通り過ぎていく。帰ってきたのだ。ソファに腰を下ろすと、座り慣れたクッションが背中に当たった。ホテルの広いベッドで眠れた夜とは違う、懐かしい気安さがあった。スマートフォンを取り出し、帰宅したと打ちかける。宛先が怜士のままだったことに気づき、指が止まった。出かける時も、帰った時も、何年もそうしていた。返事が来なくても、知らせておくものだと思っていた。瀬里奈は短い文を消した。そのまま蒼介との画面を開く。【自宅に着きました。送迎の手配、ありがとうございました】送信してから、もう一文だけ添えた。【自分の部屋で、少し落ち着けそうです】昨日、帰宅したいと伝えた時、蒼介は引き止めなかった。ただ、移動で困ることがあれば連絡するようにと言った。帰宅後の予定を細かく尋ねられることもなかった。返事は、着替えを選んでいる間に届いた。【分かりました。今日はゆっくりしてください】瀬里奈は画面を伏せ、クローゼットを開けた。襟の詰まった服が並んでいる。その隣から、肌触りのよい部屋着を取り出す。鏡の前で首元を確かめず、そのまま袖を通した。ここでは、誰に見られるわけでもない。髪もほどいた。肩にかかる重さが、心地よかった。……冷凍してあったパンを焼き、湯を沸かした。食器棚から、白地に青い小花の描かれたカップを出す。持ち手の内側に指をかけると、いつもの形がしっくり馴染んだ。皿にパンを置き、窓辺へ運ぶ。船では、食事の時間になるたびに怜士たちがどこにいるか気になった。同じテーブルにつけば、何を言われるか考えていた。今日はもう、紅茶が冷める前
窓の下で、グラン・ルミエール号が遠ざかっていく。あれほど広かったデッキも、今は白い船体の一部にしか見えなかった。怜士がどこに立っているのか、もう分からない。瀬里奈は膝の上のバッグを抱き直した。中にはパスポートとスマートフォン。船の部屋を出る時、自分で選んで持ってきたものだった。耳を覆うヘッドセットから、蒼介の声がした。「寒くありませんか」顔を向けると、彼は薄い毛布を手にしていた。「少しだけ」差し出された毛布を、瀬里奈は膝に広げた。ドレスの裾を押さえ続けていた指が、ようやく緩む。「ありがとうございます」蒼介は頷き、窓の外へ目を向けた。なぜあんな男と婚約していたのか。もっと早く離れられなかったのか。聞かれても仕方がないと思っていた。けれど彼は、何も尋ねない。瀬里奈も口を閉じたまま、背もたれに体を預けた。さっき、皆の前で言った。結婚しません、と。もう言い直さなくていい。怜士に納得してもらうため、あのデッキへ戻る必要もない。そう思った途端、窓の景色が滲んだ。声は出なかった。ただ、毛布の上に雫が落ちた。隣から白いハンカチが差し出される。瀬里奈が受け取ると、蒼介は前を向いた。顔を覗き込まれないことが、今はありがたかった。「すみません」「聞こえません」思わず彼を見る。蒼介はヘッドセットに軽く触れた。「謝る必要のないことは、聞かなかったことにします」瀬里奈は濡れた目元を押さえた。少しだけ、笑えた。蒼介の口元も動いた気がしたが、すぐ窓へ視線が戻った。雲の切れ間から、陸地が見え始めていた。……着陸後、待っていた車でホテルへ向かった。案内された客室の大きな窓には、街路樹と、その向こうを走る車が見えた。カーテンも、テーブルの水も揺れていない。瀬里奈は入口で立ち止まった。海ではない。窓の外に道がある。それだけのことが、不思議なほど胸に響いた。「船に残った荷物は、スタッフから返送先の確認が来ます。二階堂側を通す必要はありません」蒼介の声に振り向いた。「そこまで、すみません」言ってから、機内での言葉を思い出した。彼の眉がわずかに上がる。「……ありがとうございます」今度は頷いてもらえた。ソファの端に座ると、張っていた背中が重くなった。昨夜はいつ扉を叩かれるかと思い、何度も目が覚めた。朝からは、招待客の前で言
「グラン・ルミエール号で間違いありませんね」 瀬里奈は一瞬、言葉に詰まった。 本当に来られるのだろうか。「はい」「分かりました。船側への連絡はこちらでします」「でも、どうやって……」「それは私が考えます」いつもの淡々とした声だった。「西園寺さんは、ご自分で決めたことをしてください」瀬里奈はスマートフォンを握り直した。「……分かりました」「明日、迎えに行きます」通話が切れた。ほどなく、客室の内線が鳴った。鷹司から連絡を受けたという、船の警備責任者だった。瀬里奈は準備室であったことを話した。「今夜は、二階堂側の人を部屋へ入れないでください」「承知しました。客室の外はこちらで警備します。明朝も、船のスタッフがお迎えに上がります」窓の向こうには、暗い海が広がっていた。昨日までなら、それだけで息苦しくなった。けれど今夜は違った。明日、自分で終わらせる。そのことだけは、もう決めていた。挙式当日。瀬里奈は招待客が集まり始める前に、船のスタッフに付き添われて自室を出た。二階堂側には居場所を知らせず、船側が用意した別の控室で支度を整えた。昨日までの海が嘘のように、空は青く晴れていた。朝から柔らかな日差しが海面いっぱいに反射し、グラン・ルミエール号の白い船体を眩しく照らしている。風も穏やかだった。最上階のオープンデッキには白い薔薇と百合が飾られ、海へ向かって伸びるバージンロードの先には純白のアーチ。青い空。白い雲。どこまでも続く海。誰が見ても、結婚式にはこれ以上ないほどの晴天だった。招待客たちも次々と正装で集まり始めている。父の古い友人。西園寺ホテルと長く付き合ってきた人々。両家の親族。学生時代からの友人。皆、瀬里奈と怜士を祝うために、この船へ乗っていた。「まだ見つからないのか」怜士の声が低く響いた。昨夜、瀬里奈を残したはずの準備室は空だった。自室にもいない。「船内は確認しています」「この船から出られるわけないだろ」怜士は苛立ったように時計を見る。開式時刻まで、もう時間がない。梨花が近くで眉を下げた。「もしかして……本当に逃げたんじゃない?」「どこへ逃げるんだよ。海の上だぞ」「でも昨日、鷹司さんと連絡してたでしょう?」怜士の顔が強張る。「もし、このまま来なかったら……みんなに何て説
瀬里奈は答えなかった。「瀬里奈」「仕事の話よ」「何の仕事だ」「西園寺ホテルのこと」怜士の表情が変わった。「お前、鷹司に何を話した?」「あなたに説明する必要はないわ」「あるだろ」怜士が一歩近づいた。「西園寺の話を勝手に外へ持ち出したのか?」「西園寺ホテルのことを、私が相談して何が悪いの?」「瀬里奈さん……」梨花が追いついてきた。「鷹司さんって、あの鷹司蒼介?」瀬里奈は何も言わない。梨花の目がわずかに揺れた。「瀬里奈さん……私、少し心配になってきた」「何が?」「だって、この前海に落ちたから、怜士とのことであんなに傷ついていたでしょう?」梨花はためらうように視線を落とした。「そんな時に、急に鷹司さんみたいな人へ相談したら……周りに変な誤解をされないかなって」まるで瀬里奈のためを思っているような口調だった。「私なら嫌だな。瀬里奈さんが、怜士への当てつけで別の男性に近づいたなんて思われたら」瀬里奈は梨花を見る。「西園寺ホテルについて、誰に相談するかまであなたに決めてもらう必要はないわ」梨花が口を開きかける。「それに」瀬里奈は声を荒げなかった。「今さら怜士との関係を心配してくれるの?」梨花の表情が固まった。「もういい」怜士が低い声で遮った。「明日までに契約書へサインしろ」「しないわ」怜士の顔が止まった。「何?」「あの議決権委任契約には署名しない」瀬里奈はまっすぐ彼を見る。「瀬里奈」怜士はしばらく何も言わなかった。やがて口元だけで笑う。「……そういうことか」「何が?」「鷹司みたいな男が出てきたから、急に強気になったんだな」瀬里奈は答えなかった。「明日は式だ。もう勝手なことをするな」その夜。「明日の衣装について、最終確認がある」怜士にそう言われ、瀬里奈はブライダルフロアの準備室へ入った。壁には明日の式で使うドレス。テーブルにはアクセサリーや進行表。スタッフと短い確認を済ませる。「西園寺様、少々こちらでお待ちください」「まだ何かありますか?」「二階堂様から、このあと打ち合わせがあると伺っております」スタッフはそれだけ言って部屋を出た。10分。20分。怜士は来ない。瀬里奈は扉を開けた。廊下には、二階堂家の警護担当がいた。ひとりではない。左右にふたりずつ。4人