私は御曹司と高く舞い上がるーーさようなら、7年の婚約者

私は御曹司と高く舞い上がるーーさようなら、7年の婚約者

last updateLast Updated : 2026-10-15
By:  AmyOngoing
Language: Japanese
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結婚式を挙げるために乗り込んだ豪華客船。けれど、向かいのスイートで婚約者は初恋の女を抱いていた。彼を救って負った首の火傷さえ嘲られ、謝罪を迫られる瀬里奈。逃げ場のない海の上、彼女を迎えに来たのは、ヘリで舞い降りた名門御曹司だった。私を捨てたあなたが泣いても、私はもう二度と戻らない。

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1話
「……何をしているの」乱れたシーツの上で、婚約者が別の女に覆いかぶさり、肌を重ねていた。枕の両脇に腕をつき、彼女に口づけている。女の腕は、彼の裸の背中に回されていた。西園寺瀬里奈(さいおんじ せりな)の声に、二階堂怜士(にかいどう れいじ)の動きが止まった。けれど、すぐには離れなかった。ゆっくり顔だけをこちらへ向け、眉をひそめる。「……なんで入ってきた」謝る言葉より先に、それだった。女の腕が、怜士の首へ回り、その指がためらいなく彼の髪へ入り込んでいた。花菱梨花(はなびしりか)は、怜士の肩越しに瀬里奈を見た。驚いた様子はなかった。戸口に立っているのが瀬里奈だと分かると、むしろ口元に笑みが浮かんだ。梨花は瀬里奈を見たまま、怜士の頬にもう一度、唇を寄せる。それから彼の肩を軽く押した。怜士が身を起こすと、梨花はゆっくりとベッドを下りた。梨花は何も身につけていなかった。隠そうともせず、寝室の入口へゆっくりと歩いてくる。すらりとした長身に、豊かな曲線。背筋を伸ばした立ち姿には、舞台の中央に立つ女優のような華があった。艶やかな髪が肩から滑り落ちる。あらわになった首は白くなめらかで、しわひとつない。瀬里奈は、自分の襟元に伸びかけた手を握りしめた。目をそらすのは、自分のほうなのか。手を伸ばせば触れられるところで、梨花は止まった。「こうなったら、瀬里奈さんにも認めてもらわないとね」瀬里奈は一歩退き、ドアの縁に手をかけた。梨花はそれを見て微笑んだ。梨花はベッドへ戻り、脱ぎ捨ててあった薄いシルクのガウンを拾った。梨花は怜士のほうを向いたまま、ゆっくりと袖を通す。怜士は上半身裸のまま枕に身を預け、梨花を目で追っていた。その口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。瀬里奈に見られても、怜士は起き上がろうとさえしなかった。瀬里奈の背後には、居間へ続く扉がある。その先の廊下を挟んだ向かい側が、瀬里奈に用意されたブライダルスイートだった。今回の航海では、挙式までの衣装合わせや親族への対応もあるため、花嫁と花婿にはそれぞれ別のスイートが用意されている。怜士の部屋は同じフロアの少し先。そして、瀬里奈の部屋の真向かいに用意されていたのが、梨花のスイートだった。豪華客船、グラン・ルミエール号。海を望むスイートルームに、シャンデリアの輝くラウ
last updateLast Updated : 2026-10-13
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2話
瀬里奈は怜士を見た。「……私が?」「ああ」あまりにも当然のように言うので、一瞬、聞き間違いかと思った。「どうして私が謝るの」「お前が勝手に入ってきて、梨花を責めただろ」瀬里奈は言葉を失った。「怜士、もういいよ」梨花がそっと彼の腕を掴んだ。「瀬里奈さんも混乱してるだけだから」ガウンの胸元を押さえ、悲しそうに目を伏せる。「私、瀬里奈さんと怜士の結婚を壊したいわけじゃないの。ふたりが結婚することは分かってるから」瀬里奈は梨花を見つめた。「だから……私のことで両家に迷惑をかけないでほしいの」7年前。父がまだ生きていた頃、両家の親が決めた婚約だった。その時の怜士は、今よりずっと優しかった。父が亡くなり、西園寺家のホテル事業が傾き始めてからも、「心配するな。俺がいる」そう言ってくれた。その一言を、瀬里奈は何度思い出しただろう。梨花とふたりで出かけても。親しげに肩を寄せても。幼馴染だから。昔からそうだったから。最後に怜士が選ぶのは自分なのだと、信じてきた。「瀬里奈」怜士の声が、その記憶を切った。「梨花に一言謝れば済む話だ」「謝りません」怜士の眉が動く。「謝る理由がありませんから」「お前――」瀬里奈は最後まで聞かず、部屋を出た。廊下を挟んだ向かい側。数歩進めば、自分のブライダルスイートだった。カードキーをかざし、扉を閉める。テーブルには、今夜のために用意された白い薔薇とシャンパン。その横に、金文字のカードが置かれている。【おふたりの新しい門出を祝して】瀬里奈はカードを伏せた。窓の向こうには暗い海しかない。出航した時には見えていた港の灯りも、もうどこにもなかった。その時、向かいの部屋から、二人の笑い声が聞こえた。瀬里奈はソファに座ったまま、しばらく動かなかった。ほんの数メートル先。壁1枚、廊下1本を隔てたところに、怜士と梨花がいる。瀬里奈は両手で自分の腕を抱いた。豪華な部屋だった。テーブルには花。ベッドには真新しいシーツ。大きな窓の向こうには、どこまでも続く夜の海。けれど今は、そのすべてが息苦しかった。港の灯りはもう見えない。逃げようにも、ここは海の上だ。なのに突然、この船全体が巨大な檻のように思えた。ほとんど眠れないまま朝になった。瀬里奈は首元まで隠れる白いブラウスを
last updateLast Updated : 2026-10-14
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3話
「西園寺のこと?」航平の言葉が、耳の奥から離れなかった。展望ラウンジを出ても、瀬里奈は怜士たちのところへ戻らなかった。西園寺ホテル。その名前を聞くと、今でも最初に浮かぶのは父の背中だった。子供の頃、瀬里奈にとってホテルは大きな遊び場だった。ロビーの柱の陰に隠れ、父を驚かせた。宴会場の準備をしているスタッフに混ざり、白いクロスの端を引っ張って叱られたこともある。学校が休みの日には、フロントの奥にある父の執務室で宿題をした。「お父様、まだ帰らないの?」「ホテルには今日しか来ないお客様がいるからな」父はそう言って笑っていた。あの頃は、その意味など分からなかった。ただ、父がホテルを好きなのだと思っていた。今なら分かる。父にとって、西園寺ホテルは仕事だけではなかった。だから瀬里奈も、手放せなかった。「西園寺様、お探ししました」声をかけられ、瀬里奈は振り返った。船のブライダル担当者が、タブレットを胸に抱えて立っていた。「午後の撮影ですが、予定どおりでよろしいでしょうか」「撮影……」「はい。おふたりのウェディングフォトです」一瞬、返事ができなかった。昨夜あんなことがあって、それでも婚約者と並んで写真を撮る。考えれば考えるほど、おかしな話だった。けれど、結婚をどうするのか。この船をどうやって降りるのか。そして、さっき聞いた「西園寺のこと」とは何なのか。何ひとつ答えが出ていない。担当者の後ろでは、スタッフが衣装ケースを運んでいた。何日も前から準備されていたものだろう。「……分かりました」気づけば、そう答えていた。午後。グラン・ルミエール号の最上階にあるブライダルサロンには、海からの光が差し込んでいた。ラックには数着のドレスが並んでいる。「西園寺様でしたら、こちらはいかがでしょう」スタイリストが取り出したのは、アイボリーのドレスだった。肩のラインは美しく開いているが、左の首元から肩にかけては繊細なレースが重ねられている。「こちらのレースは位置を少し調整できますので、気になる部分があれば自然にカバーできます」スタイリストは瀬里奈の襟元へ一瞬視線を向けたものの、それ以上は何も聞かなかった。瀬里奈はドレスへ手を伸ばした。「綺麗……」「今日は風も穏やかですし、船尾デッキで撮るとすごく映えると思います」「
last updateLast Updated : 2026-10-14
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4話
怜士は瀬里奈を見た。けれど、何も言わなかった。やがて梨花へ目を向ける。梨花は彼を見返し、口元に小さな笑みを浮かべた。「では、撮影を再開します」スタッフの声で、瀬里奈は我に返った。「西園寺様、こちらへお願いします」「はい」瀬里奈は何も聞かなかったように、元の位置へ戻った。カメラマンも、スタイリストも、朝から自分たちのために動いてくれている。ここで感情のまま撮影を中断するのは違うと思った。「先ほどはすみません。お待たせしました」瀬里奈が頭を下げると、カメラマンは慌てて首を振った。「いえ、とんでもないです」怜士が隣へ立つ。「もう少しおふたり、近づいてください」一歩。瀬里奈は言われた通り距離を詰めた。怜士の手が腰へ回る。「はい、こちらを見てください」シャッターが切られる。瀬里奈は笑った。ホテルで育ってきた。どんな時でも、人前に立つなら、その場にいる人を不快にさせない。父が何度もそうしていたように。最後の1枚まで撮り終えると、瀬里奈はスタッフひとりひとりに礼を言った。「ありがとうございました」「こちらこそ。お疲れさまでした」デッキを離れる時だけ、瀬里奈は一度も怜士を見なかった。少しして、部屋へ戻ろうとしていた瀬里奈を梨花が追ってきた。「瀬里奈さん」足を止める。梨花はひとりだった。「さっきはごめんなさい」「何が?」「航平のこと。あの人、昔から口が軽いから」梨花は申し訳なさそうに眉を下げた。「怜士も、ああいう時にちゃんと怒ればいいのにね」瀬里奈は黙って梨花を見た。ついさっき、笑っていた口元。今は心配そうに下がっている。「少しだけ話さない?」「今?」「うん。ここだと誰か来るでしょう?」梨花は廊下の先を指した。「マリーナデッキ、今開いてるみたい。海も近くて気持ちいいよ」瀬里奈は一瞬迷った。「話ならここでもいいでしょう」「ふたりで話したいの」梨花は声を落とした。「昨日のこと、ちゃんと謝りたいから」瀬里奈は梨花の顔を見た。何を今さら。そう思った。けれど、このまま曖昧な言葉だけを聞き続けるのも嫌だった。「分かったわ」マリーナデッキは、上層階とはまるで違っていた。海面が近い。船尾に設けられたデッキからは、白く砕ける波がすぐ下に見えた。海上アクティビティの準備中なのか、少し離れ
last updateLast Updated : 2026-10-15
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5話
火災のあと、瀬里奈は何年も同じ悪夢を見ていた。煙。息のできない熱気。炎の向こうにいる怜士。ここ数年になって、ようやく夢に出てくる回数も減っていた。昨夜までは。夢の中で、炎が突然消えた。代わりに足元が崩れ、身体が冷たい海へ落ちる。水面の向こうに怜士がいた。瀬里奈が手を伸ばす。けれど、その手は届かない。「……っ!」瀬里奈は飛び起きた。息が荒い。額にも、首筋にも汗が滲んでいた。しばらくして、ようやく夢だったと分かった。終わったはずの悪夢が、形を変えて戻ってきた。カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。しばらくして、ここが船の自分の部屋だと分かった。右手首が痛む。見ると、昨日ついた赤い指の跡がまだ残っていた。瀬里奈はベッド脇へ手を伸ばした。小さなバッグ。その時、チャイムが鳴った。「西園寺様、お届け物です」船内スタッフから渡されたのは、厚い封筒だった。「二階堂様側からお預かりしております」「ありがとう」部屋へ戻り、テーブルの上に置く。表には、【挙式前確認書類】と記されていた。瀬里奈はしばらく見つめてから、封を開けた。挙式後の住所。資産管理。西園寺ホテルへの支援方針。何枚かめくったところで、瀬里奈の指が止まった。【西園寺ホテル株式に関する議決権委任契約書】見覚えのない書類だった。父が残した信託の内容なら、瀬里奈も知っている。婚姻成立後、信託されていた西園寺ホテルの株式は、瀬里奈へ移る。父が決めたのは、そこまでだ。けれど、目の前にある書類には、その先があった。株式が瀬里奈へ戻った後、その議決権を二階堂側へ委任する。契約当事者の欄には、【甲:西園寺瀬里奈】【乙:二階堂ホールディングス株式会社】と記されている。瀬里奈は一番下へ視線を落とした。【発効日:婚姻成立時】指先が止まった。結婚した瞬間、父が自分へ戻してくれる株。その瞬間に、この契約も発効する。瀬里奈の脳裏に、展望ラウンジで聞いた会話が蘇った。「他に選択肢がないからだ」「西園寺のこと?」「ああ」「6日目には、ちゃんと花嫁になる」瀬里奈はもう一度、契約書を見た。――あの時、怜士が言っていたのは、これだったの?夕方。瀬里奈は書類を持って、クラウンラウンジへ向かった。最上階の窓いっぱいに、沈みかけた太陽が広が
last updateLast Updated : 2026-10-15
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6話
差出人は、鷹司蒼介。ほんの数分前に送ったばかりだった。【ご連絡、拝見しました。西園寺ホテルを、ご自身の手で残したいというお気持ちが変わっていないのであれば、まだお話しできることはあります】瀬里奈は、その一文をもう一度読んだ。ご自身の手で。二階堂が出してきた契約書にはなかった言葉だった。メールは続いている。【明日20時でしたら時間を取れます。一度、お話ししませんか】瀬里奈は少し考えてから返信した。【ありがとうございます。現在、クルーズ船上におります。船内から通話できますので、明日20時でお願いいたします】送信。画面右下の時刻は、すでに22時を回っていた。陸にいれば、1日を終える時間だ。けれど、この船では違う。夕食を終えた乗客たちはラウンジやカジノへ流れ、日付が変わる頃まで生演奏やショーが続く。夜が深くなってから、もう一度船が目を覚ます。瀬里奈はパソコンを閉じた。今夜は、すぐに眠れる気がしなかった。部屋へ戻る途中、エレベーターホールの案内板で足を止めた。【23:30ミッドナイト・ガラショー】中央劇場。開演前にはアトリウムで生演奏とカクテルサービスもあるらしい。乗船してから、怜士と結婚式に関係のない予定を選んだことがあっただろうか。瀬里奈はしばらく案内板を見ていた。それから、自分の部屋へ戻った。クローゼットを開く。並んでいる服のほとんどが、首元を覆うものだった。一番奥に、濃紺のドレスがある。肩から鎖骨にかけて、緩やかに開いたデザイン。買ったものの、一度も着ていなかった。瀬里奈はハンガーから外し、鏡の前で身体に合わせた。左の首筋から肩へ続く火傷の痕が、一部見える。一瞬、いつものストールへ手を伸ばしかけた。手が止まる。昨日までなら、怜士がどう思うかを先に考えていた。今夜は、それを考える理由が思いつかなかった。23時を過ぎても、中央アトリウムは眠る気配がなかった。3層分の吹き抜けを囲むように金色の照明が灯り、中央では弦楽四重奏が演奏している。ガラス張りのエレベーターがゆっくり上下し、その向こうには夜の海。階段の下にはシャンパンタワー。カジノへ向かう人。劇場へ向かう人。グラスを片手に音楽を楽しむ人。瀬里奈は足を止めた。乗船してから、この船をこんなふうに見たのは初めてだった。結婚式。怜士
last updateLast Updated : 2026-10-15
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7話
ベッドで目を覚ました時には、もう10時を回っていた。瀬里奈はスマートフォンを手に取る。今夜20時。鷹司蒼介との通話。その予定を確認し、ベッドを出た。遅めのブランチを取るため、プールデッキ横のレストランへ向かった。白いパラソルの向こうには、どこまでも海が広がっている。怜士たちはすでにテーブルにいた。「昨夜、ひとりでショーに行ったんでしょう?」梨花が聞く。「ええ」「寂しくなかった?」「思っていたより、ずっと楽しかったわ」航平が笑った。「へえ。瀬里奈さん、急にひとり旅満喫してるじゃん」「ひとり旅ではないけど」「怜士への当てつけ?」瀬里奈は顔を上げた。「ひとりでショーを見るだけで、誰かへの当てつけになるの?」航平の笑顔が止まった。「いや、そういう意味じゃ……」「ならよかった」瀬里奈は何事もなかったようにメニューへ視線を戻した。「瀬里奈さん、昨日からちょっと雰囲気変わったよね」梨花の目が、瀬里奈の首元へ向く。今日もハイネックではない。火傷の痕が少し見えていた。「そう?」「うん。服も――」「瀬里奈」怜士が遮った。「昨日の書類、今日中にサインしておけ」「まだ確認が終わってないわ」「何を確認することがあるんだよ」「私が署名する書類でしょう?」瀬里奈は彼を見る。「私が確認するわ」怜士の眉が寄った。「昨日説明しただろ」「説明されたことと、私が確認することは別よ」以前なら、まず「分かった」と答えていた。けれど今は、その一言が出てこなかった。「昨日から何なんだよ」航平が笑う。「まだ海に落ちたの怒ってるんじゃない?」瀬里奈は彼を見る。「怒ってはいないわ」「じゃあ何?」「一度海に落ちたら、自分の足元くらい自分で確認したくなるものよ」航平は黙った。怜士と梨花は顔を見合わせる。まだ、少し拗ねているだけだと思っているようだった。午後、瀬里奈は部屋で資料を整理した。父の信託資料。1年前の鷹司グループからの提案書。二階堂から求められている議決権委任契約。議決権を二階堂側へ委任すること。発効日は婚姻成立時であること。挙式前に署名を求められていること。必要な部分だけを整理し、契約の趣旨が分かる資料にまとめた。父のホテルの情報を、相手が鷹司だからといって無造作に渡すつもりはない。開示して
last updateLast Updated : 2026-10-15
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8話
けれど次の瞬間には、もう何事もなかったような静かな表情に戻っていた。「結婚式は、いつですか」「明後日です」蒼介は一度だけ頷いた。「分かりました。こちらでも、それまでに確認できることを整理します」「お願いします」それ以上、結婚について聞かれることはなかった。通話が終わる。暗くなった画面を見ながら、瀬里奈は小さく息を吐いた。翌日の夕方。船長主催のキャプテンズ・ディナーが開かれた。スイート客と招待されたVIPだけが入れるメインダイニングには、シャンデリアの光が降り注ぎ、窓の向こうには黒い海が広がっている。入口では船長が1組ずつ客を迎え、記念撮影を終えた人々がシャンパンを手に席へ向かっていた。船がゆっくり揺れるたび、天井のクリスタルが細かな光を散らす。ピアノと弦楽器の生演奏。磨かれた銀のカトラリー。白い花の向こうを、正装したスタッフが音もなく行き交う。窓の外では、船が残す白い航跡だけが、月明かりの下で長く伸びていた。明日は結婚式。そのために乗船した親族や、両家と長く付き合ってきた人々も多かった。瀬里奈がテーブルへ向かうと、梨花が怜士の隣に立っていた。「あ、瀬里奈さん」梨花はにこやかに振り返る。「まだ体調、完全じゃないでしょう?私が怜士の隣に座るから、瀬里奈さんは端でゆっくりしたら?」海へ落ちたことを気遣っているような口調だった。「ありがとう」瀬里奈は微笑んだ。「でも今日は、私にご挨拶くださる方も多いから。自分の席に座るわ」梨花の笑顔がわずかに止まった。「そう……だよね」瀬里奈は、自分の名前札が置かれた席へ座った。以前なら、場を乱したくなくて譲っていたかもしれない。今日は、その必要が分からなかった。船長の乾杯が終わると、何人もの人が瀬里奈へ声をかけた。「瀬里奈ちゃん、いよいよ明日だな」「ありがとうございます」「お父様がいたら、きっと喜んだだろう」胸の奥が少しだけ痛んだ。父なら、今の自分に何と言うだろう。瀬里奈は笑顔を崩さず、頭を下げた。別の女性が懐かしそうに目を細める。「小さい頃はホテルのロビーを走っていたのにね。結婚したら、少しはホテルのことから離れて休めるでしょう?」瀬里奈は一瞬だけ言葉を選んだ。「いいえ。これからも関わっていくつもりです」「あら、そうなの?」「はい。まだ、やりたい
last updateLast Updated : 2026-10-15
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9話
瀬里奈は答えなかった。「瀬里奈」「仕事の話よ」「何の仕事だ」「西園寺ホテルのこと」怜士の表情が変わった。「お前、鷹司に何を話した?」「あなたに説明する必要はないわ」「あるだろ」怜士が一歩近づいた。「西園寺の話を勝手に外へ持ち出したのか?」「西園寺ホテルのことを、私が相談して何が悪いの?」「瀬里奈さん……」梨花が追いついてきた。「鷹司さんって、あの鷹司蒼介?」瀬里奈は何も言わない。梨花の目がわずかに揺れた。「瀬里奈さん……私、少し心配になってきた」「何が?」「だって、この前海に落ちたから、怜士とのことであんなに傷ついていたでしょう?」梨花はためらうように視線を落とした。「そんな時に、急に鷹司さんみたいな人へ相談したら……周りに変な誤解をされないかなって」まるで瀬里奈のためを思っているような口調だった。「私なら嫌だな。瀬里奈さんが、怜士への当てつけで別の男性に近づいたなんて思われたら」瀬里奈は梨花を見る。「西園寺ホテルについて、誰に相談するかまであなたに決めてもらう必要はないわ」梨花が口を開きかける。「それに」瀬里奈は声を荒げなかった。「今さら怜士との関係を心配してくれるの?」梨花の表情が固まった。「もういい」怜士が低い声で遮った。「明日までに契約書へサインしろ」「しないわ」怜士の顔が止まった。「何?」「あの議決権委任契約には署名しない」瀬里奈はまっすぐ彼を見る。「瀬里奈」怜士はしばらく何も言わなかった。やがて口元だけで笑う。「……そういうことか」「何が?」「鷹司みたいな男が出てきたから、急に強気になったんだな」瀬里奈は答えなかった。「明日は式だ。もう勝手なことをするな」その夜。「明日の衣装について、最終確認がある」怜士にそう言われ、瀬里奈はブライダルフロアの準備室へ入った。壁には明日の式で使うドレス。テーブルにはアクセサリーや進行表。スタッフと短い確認を済ませる。「西園寺様、少々こちらでお待ちください」「まだ何かありますか?」「二階堂様から、このあと打ち合わせがあると伺っております」スタッフはそれだけ言って部屋を出た。10分。20分。怜士は来ない。瀬里奈は扉を開けた。廊下には、二階堂家の警護担当がいた。ひとりではない。左右にふたりずつ。4人
last updateLast Updated : 2026-10-15
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10話
「グラン・ルミエール号で間違いありませんね」 瀬里奈は一瞬、言葉に詰まった。 本当に来られるのだろうか。「はい」「分かりました。船側への連絡はこちらでします」「でも、どうやって……」「それは私が考えます」いつもの淡々とした声だった。「西園寺さんは、ご自分で決めたことをしてください」瀬里奈はスマートフォンを握り直した。「……分かりました」「明日、迎えに行きます」通話が切れた。ほどなく、客室の内線が鳴った。鷹司から連絡を受けたという、船の警備責任者だった。瀬里奈は準備室であったことを話した。「今夜は、二階堂側の人を部屋へ入れないでください」「承知しました。客室の外はこちらで警備します。明朝も、船のスタッフがお迎えに上がります」窓の向こうには、暗い海が広がっていた。昨日までなら、それだけで息苦しくなった。けれど今夜は違った。明日、自分で終わらせる。そのことだけは、もう決めていた。挙式当日。瀬里奈は招待客が集まり始める前に、船のスタッフに付き添われて自室を出た。二階堂側には居場所を知らせず、船側が用意した別の控室で支度を整えた。昨日までの海が嘘のように、空は青く晴れていた。朝から柔らかな日差しが海面いっぱいに反射し、グラン・ルミエール号の白い船体を眩しく照らしている。風も穏やかだった。最上階のオープンデッキには白い薔薇と百合が飾られ、海へ向かって伸びるバージンロードの先には純白のアーチ。青い空。白い雲。どこまでも続く海。誰が見ても、結婚式にはこれ以上ないほどの晴天だった。招待客たちも次々と正装で集まり始めている。父の古い友人。西園寺ホテルと長く付き合ってきた人々。両家の親族。学生時代からの友人。皆、瀬里奈と怜士を祝うために、この船へ乗っていた。「まだ見つからないのか」怜士の声が低く響いた。昨夜、瀬里奈を残したはずの準備室は空だった。自室にもいない。「船内は確認しています」「この船から出られるわけないだろ」怜士は苛立ったように時計を見る。開式時刻まで、もう時間がない。梨花が近くで眉を下げた。「もしかして……本当に逃げたんじゃない?」「どこへ逃げるんだよ。海の上だぞ」「でも昨日、鷹司さんと連絡してたでしょう?」怜士の顔が強張る。「もし、このまま来なかったら……みんなに何て説
last updateLast Updated : 2026-10-15
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