LOGIN36歳の水城玲花は、夫であり会社社長でもある拓真の不倫と不正送金を知る。告発を決意した前夜、玲花の車は海へ転落。世間では行方不明となるが、彼女は元恋人・神谷輝に救われ生きていた。事故が仕組まれた可能性を知った玲花は、生存を隠し偲ぶ会の夜に夫へ一通のメールを送る。 「私を殺した夜のこと、ちゃんと覚えてる?」 死んだ妻を装いながら、玲花は夫の不正、会社乗っ取り、事故の真相を追い始める。
View More私の葬儀で、夫は泣かなかった。
正確には、葬儀ではない。
海に落ちた私の遺体は、まだ見つかっていない。
だから今日行われているのは、「水城玲花を偲ぶ会」。
随分と上品な名前をつけたものだ。
私は薄暗い部屋のソファに座り、ノートパソコンの画面を眺めていた。
画面の向こうでは、黒いスーツを着た夫――水城拓真が壇上に立っている。
「妻は……仕事を心から愛していました」
少しだけ声を詰まらせる。
完璧だった。
目を伏せるタイミングも。
言葉を止める間も。
震える声も。
十年間一緒に暮らしてきた私でなければ、本当に妻を失った夫なのだと思っただろう。
けれど。
「下手ね」
私はつぶやいた。
泣いている人間は、あんなふうに唇をきれいに結ばない。
拓真は昔からそうだった。
都合が悪くなると、左の口角だけがほんの少し上がる。
本人は気づいていない。
私だけが知っている癖だった。
画面の中で、参列者が次々と献花していく。
会社の役員。取引先。学生時代の友人。私の部下。
泣いている人もいた。
ハンカチで何度も目元を拭っている人もいる。
申し訳ないと思う。
私は生きている。
生きているのに、彼らは私のために泣いている。
胸の奥が少し痛んだ。
そのとき、ソファ脇のテーブルにコーヒーカップが置かれた。
「見るのをやめてもいいんだぞ」
神谷輝(ひかる)だった。
黒いTシャツの上に、白いシャツを腕まくりして羽織っている。
十五年前より少しだけ痩せた。
けれど、他人を観察するときの鋭い目は変わっていない。
「最後まで見る」
私は答えた。
「自分のお別れ会なんて、人生で一度しか見られないもの」
「普通は一度も見ない」
「貴重な経験ね」
輝が小さくため息をついた。
「玲花」
「なに?」
「無理して笑わなくていい」
私は画面から目を離さなかった。
無理なんてしていない。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
夫に殺されかけた。
ブレーキが利かなくなった車。
夜の海。
フロントガラスの向こうから流れ込んできた冷たい水。
息ができなくなり、意識が遠のいていった瞬間を、私はまだ覚えている。
事故から三週間。
小さなクリニックからこの部屋へ移ってからも、私は一歩も外に出ていない。
世間では今も、水城玲花は「行方不明」。
けれど拓真は、もう私が戻らないことを確信している。
だからこんな会まで開ける。
画面の中で拓真が頭を下げた。
拍手が起こる。
そして壇上を降りた彼の横へ、一人の女が近づいた。
白石美月。
会社の広報部。三十一歳。
長い髪を後ろでまとめ、黒いワンピースを着ている。
美月は一瞬だけ周囲を確認すると、拓真の腕に触れた。
一秒にも満たない。
他人なら気づかないほど短い接触。
でも私は見逃さなかった。
「やっぱり来た」
輝が言った。
「ええ」
「つらいか?」
少し考えた。
一か月前なら、つらかったかもしれない。
拓真のスマートフォンで二人のメッセージを見つけた夜。
結婚十年目の記念日に泊まるはずだったホテルを、夫が別の女と使っていたことを知った夜。
あのときは吐きそうだった。
でも今は違う。
「あまり」
私は答えた。
「それより腹が立つ」
輝が笑った。
「それなら安心した」
私は画面を閉じた。
部屋が静かになる。
壁の時計を見る。
午後十一時五十七分。
テーブルの上に置いてあったもう一台のノートパソコンを開いた。
「やるのか?」
輝が聞く。
「そのために今日まで死んでいたのよ」
新しく作ったメールアカウントを開く。
宛先には、拓真の個人アドレス。
件名は空白。
本文はすでに決めていた。
指をキーボードに置く。
時計。
午後十一時五十九分五十秒。
五十五。
五十六。
五十七。
五十八。
五十九。
日付が変わった。
送信。
画面に《メールを送信しました》と表示される。
本文は、たったこれだけだ。
――拓真へ。
私を殺した夜のこと、ちゃんと覚えてる?
そして最後に署名した。
水城玲花。
死んだ妻の名前で。
私は椅子の背にもたれた。
「さて」
輝を見る。
「始めましょうか」
◇
同じ頃。
自宅に戻った拓真のスマートフォンが震えた。
メールを開いた拓真は、その場から動けなくなった。
グラスが手から滑り落ち、床に当たって砕ける。
けれど拓真は、それを見ることさえできなかった。
画面に表示された名前を、ただ見つめている。
水城玲花。
ありえない。
拓真の唇が震えた。
「……玲花?」
もう一度、本文を見る。
その顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。
午後十時五十五分。MIZUKI DESIGN旧本社。二年前に本社を移転してからは倉庫として使われ、今は売却を待っているビルだ。人の気配はほとんどない。一階の暗いロビーに、私は一人で立っていた。見える範囲では、本当に一人。でも、輝は別室にいる。美月もいる。警備会社のスタッフも建物内にいる。音声も映像も、弁護士のもとへ届いている。午後十一時。自動ドアが開き、拓真が入ってきた。一か月以上ぶりに見る夫だった。痩せた。髪も少し乱れている。でも、十年間毎日見てきた顔だ。拓真は私を見て、止まった。本当に、幽霊を見たような顔だった。「……玲花」私は答えた。「久しぶり」彼の唇が震える。「生きて……」「残念だった?」「違う!」拓真が近づこうとする。私は一歩下がった。「そこにいて」拓真が止まる。「玲花、聞いてくれ」「聞くために呼んだの」「全部誤解なんだ」思わず笑った。「便利な言葉ね」「俺はお前を殺そうとなんてしてない」「じゃあ、何をしたの?」「何も」「ブレーキ」拓真の顔が変わった。ほんの一瞬。でも、見逃さない。「何の話だ」「LUNAREST PARTNERS」沈黙。「三千万円」「会社の正当な支出だ」「私の辞任届」「会社として必要だった」「事故の二日前に?」拓真が黙る。私は一歩前へ出た。「MIZUKI DESIGNのお金を移して」もう一歩。「資金繰りを
美月からUSBを受け取ったのは、翌日の夜だった。場所は、輝が指定したホテルの地下駐車場。人目につかない場所だ。美月はタクシーで来た。帽子を深く被り、何度も後ろを振り返っている。「これです」差し出された小さなUSBメモリを、私は受け取った。「中身は?」「拓真さんとの会話です」「いつの?」「玲花さんの事故の前日です」私は輝を見た。彼がノートパソコンを開き、USBを挿す。音声ファイル。日付は、事故の前日。再生。最初に聞こえたのは、グラスの触れ合う音。店内のBGM。そして、拓真の声。『明日で終わる』私は息を止めた。美月の声。『何が?』『玲花のこと』『どうするつもり?』少しの沈黙。『しばらく会社から消えてもらう』『それって……』『心配するな』そこで一度、録音が途切れる。次のファイル。拓真の声。『ブレーキだけでいい』私の手が止まった。『死ななくても、しばらく会社から消えてくれればいい』美月。『そんなことしたら事故になるでしょ』『事故になればいいんだよ』空気が凍った。私は何も言えなかった。録音は続く。『もし死んだら?』美月の声。そして、拓真。少し笑っている。『それならそれで、面倒が減る』そこで、私は再生を止めた。それ以上は、聞けなかった。輝が無言でパソコンを閉じる。美月が泣いていた。「ごめんなさい」私は彼女を見た。「カフェで、車のことは知らなかったって言いま
拓真は確信していた。玲花は生きている。写真。メール。消したはずの情報を知っている。偶然ではない。問題は、どこにいるか。誰といるか。そして、どこまで知っているか。拓真は一人の男に連絡した。「女を探してほしい」『誰です?』「水城玲花」沈黙。『事故で行方不明の人じゃ……』「生きてる」『警察は?』「余計なことは聞くな」拓真はいくつかの住所を送った。玲花の友人。親族。そして、神谷輝。その名前を打ち込んだとき、拓真の眉が動いた。大株主。玲花の元恋人。事故の前に、二人が会っていた記録もある。「神谷……」嫌な予感がした。◇その頃、私は隠れ家の窓辺に立っていた。夕方。外は静かだった。輝は仕事の電話をしている。私はコーヒーを飲んだ。昨日の喧嘩以来、少し気まずい。でも今は、それより考えることが多すぎる。証拠。拓真。これからのこと。ふと、道路に目をやる。一台の黒い車。見覚えがある。さっきから、ずっと停まっている。エンジンは切っていない。私はカーテンを少し閉めた。「輝」「何」「外」彼が近づいてきて、窓の外を見る。表情が変わった。「どれだ」「黒い車」「いつから」「分からない」輝はスマートフォンを手に取った。「ここを出る」「今?」「今だ」「大げさじゃ……」「玲花」
私と輝は、また喧嘩をした。理由は、十五年前のことだった。「もう逃げないで」私は言った。「逃げてない」「じゃあ話して」輝は黙る。「お父さんに何を言われたの」「玲花」「もうお父さんはいない」父は六年前に亡くなった。だからこそ、今さら本人には聞けない。「知りたいの」輝は窓の外を見た。そして、ようやく口を開いた。「当時、会社はかなり危なかった」それは知っている。あのころ、父の会社は資金繰りに苦しんでいた。「銀行から追加融資を受ける必要があった」輝が続ける。「そのとき、大手企業の創業家との縁談が持ち上がった」「私の?」「そう」「それとあなたが別れることに、何の関係があるの」「相手の家が、君に恋人がいることを気にしていた」私は言葉を失った。「お父さんが……」「俺に、別れてほしいと言った」「それで別れた?」「そうだ」怒りが湧く。「私に相談もせずに?」「相談したら、君は父親と会社を助けるために、自分を犠牲にした」「勝手に決めないで!」「分かってる」「じゃあ、その縁談は?」輝は少し苦しそうに答えた。「結局、成立しなかった」「……何?」「君のお父さんは、別の金融機関から資金を調達できた。正式な婚約になる前に、話はなくなった」「じゃあ」私は笑った。笑うしかなかった。「何のために別れたの?」輝は答えない。「そのあと、戻ってくればよかったでしょう」「戻ろうとした」初めて、輝がそう言った。「会社が持ち直した半年後に」私