私を殺した夫へ―午前0時、死んだ妻からメールが届く

私を殺した夫へ―午前0時、死んだ妻からメールが届く

last updateLast Updated : 2026-10-28
By:  あおい 智遥Updated just now
Language: Japanese
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36歳の水城玲花は、夫であり会社社長でもある拓真の不倫と不正送金を知る。告発を決意した前夜、玲花の車は海へ転落。世間では行方不明となるが、彼女は元恋人・神谷輝に救われ生きていた。事故が仕組まれた可能性を知った玲花は、生存を隠し偲ぶ会の夜に夫へ一通のメールを送る。 「私を殺した夜のこと、ちゃんと覚えてる?」 死んだ妻を装いながら、玲花は夫の不正、会社乗っ取り、事故の真相を追い始める。

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Chapter 1

第1話 私の葬儀で、夫は泣かなかった

私の葬儀で、夫は泣かなかった。

正確には、葬儀ではない。

海に落ちた私の遺体は、まだ見つかっていない。

だから今日行われているのは、「水城玲花を偲ぶ会」。

随分と上品な名前をつけたものだ。

私は薄暗い部屋のソファに座り、ノートパソコンの画面を眺めていた。

画面の向こうでは、黒いスーツを着た夫――水城拓真が壇上に立っている。

「妻は……仕事を心から愛していました」

少しだけ声を詰まらせる。

完璧だった。

目を伏せるタイミングも。

言葉を止める間も。

震える声も。

十年間一緒に暮らしてきた私でなければ、本当に妻を失った夫なのだと思っただろう。

けれど。

「下手ね」

私はつぶやいた。

泣いている人間は、あんなふうに唇をきれいに結ばない。

拓真は昔からそうだった。

都合が悪くなると、左の口角だけがほんの少し上がる。

本人は気づいていない。

私だけが知っている癖だった。

画面の中で、参列者が次々と献花していく。

会社の役員。取引先。学生時代の友人。私の部下。

泣いている人もいた。

ハンカチで何度も目元を拭っている人もいる。

申し訳ないと思う。

私は生きている。

生きているのに、彼らは私のために泣いている。

胸の奥が少し痛んだ。

そのとき、ソファ脇のテーブルにコーヒーカップが置かれた。

「見るのをやめてもいいんだぞ」

神谷輝(ひかる)だった。

黒いTシャツの上に、白いシャツを腕まくりして羽織っている。

十五年前より少しだけ痩せた。

けれど、他人を観察するときの鋭い目は変わっていない。

「最後まで見る」

私は答えた。

「自分のお別れ会なんて、人生で一度しか見られないもの」

「普通は一度も見ない」

「貴重な経験ね」

輝が小さくため息をついた。

「玲花」

「なに?」

「無理して笑わなくていい」

私は画面から目を離さなかった。

無理なんてしていない。

少なくとも、自分ではそう思っていた。

夫に殺されかけた。

ブレーキが利かなくなった車。

夜の海。

フロントガラスの向こうから流れ込んできた冷たい水。

息ができなくなり、意識が遠のいていった瞬間を、私はまだ覚えている。

事故から三週間。

小さなクリニックからこの部屋へ移ってからも、私は一歩も外に出ていない。

世間では今も、水城玲花は「行方不明」。

けれど拓真は、もう私が戻らないことを確信している。

だからこんな会まで開ける。

画面の中で拓真が頭を下げた。

拍手が起こる。

そして壇上を降りた彼の横へ、一人の女が近づいた。

白石美月。

会社の広報部。三十一歳。

長い髪を後ろでまとめ、黒いワンピースを着ている。

美月は一瞬だけ周囲を確認すると、拓真の腕に触れた。

一秒にも満たない。

他人なら気づかないほど短い接触。

でも私は見逃さなかった。

「やっぱり来た」

輝が言った。

「ええ」

「つらいか?」

少し考えた。

一か月前なら、つらかったかもしれない。

拓真のスマートフォンで二人のメッセージを見つけた夜。

結婚十年目の記念日に泊まるはずだったホテルを、夫が別の女と使っていたことを知った夜。

あのときは吐きそうだった。

でも今は違う。

「あまり」

私は答えた。

「それより腹が立つ」

輝が笑った。

「それなら安心した」

私は画面を閉じた。

部屋が静かになる。

壁の時計を見る。

午後十一時五十七分。

テーブルの上に置いてあったもう一台のノートパソコンを開いた。

「やるのか?」

輝が聞く。

「そのために今日まで死んでいたのよ」

新しく作ったメールアカウントを開く。

宛先には、拓真の個人アドレス。

件名は空白。

本文はすでに決めていた。

指をキーボードに置く。

時計。

午後十一時五十九分五十秒。

五十五。

五十六。

五十七。

五十八。

五十九。

日付が変わった。

送信。

画面に《メールを送信しました》と表示される。

本文は、たったこれだけだ。

――拓真へ。

私を殺した夜のこと、ちゃんと覚えてる?

そして最後に署名した。

水城玲花。

死んだ妻の名前で。

私は椅子の背にもたれた。

「さて」

輝を見る。

「始めましょうか」

◇

同じ頃。

自宅に戻った拓真のスマートフォンが震えた。

メールを開いた拓真は、その場から動けなくなった。

グラスが手から滑り落ち、床に当たって砕ける。

けれど拓真は、それを見ることさえできなかった。

画面に表示された名前を、ただ見つめている。

水城玲花。

ありえない。

拓真の唇が震えた。

「……玲花?」

もう一度、本文を見る。

その顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。

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第2話 夫のスマートフォン
最初に気づいたのは、たった一行のメッセージだった。事故の十日前。その日は珍しく、拓真が先に寝ていた。私はリビングで、翌週のプレゼン資料を確認していた。午前一時を過ぎたころ。テーブルの上に置かれていた拓真のスマートフォンが震えた。見るつもりはなかった。本当に。けれど、画面に表示された名前が目に入った。白石美月。会社の広報部にいる女性だった。その下に、短い文章が表示されている。《次はいつ会える?》私は手を止めた。胸の奥に、嫌なものが落ちていく。三十一歳。入社五年目。明るく、人当たりがよく、社内イベントではいつも中心にいる。私とは正反対のタイプ。だからといって、そんなことは関係ない。午前一時を過ぎて夫のスマートフォンに届く内容ではなかった。私はしばらく画面を見ていた。やがて表示が消える。見なければよかった。そう思った。でも、一度生まれた疑いは、簡単には消えてくれない。私は寝室のほうを見た。ドアの向こうは静かだ。十年間、何度も聞いた寝息が、そこにあるはずだった。私はスマートフォンを手に取った。暗証番号は知っていた。結婚記念日。昔から変わっていない。ロックが解除される。そのことが、かえって腹立たしかった。隠しているくせに、油断している。美月とのメッセージを開く。最初の数行を読んだだけで、十分だった。《昨日、楽しかった》《また同じホテルでいい?》《玲花さんにはバレてないよね?》画面がぼやけた。泣きそうなのだと気づくまで、少し時間がかかった。私はスマートフォンを置き、呼吸を整えた。怒りより先に来たのは、恥ずかしさだった。私は何も知らなかった。拓真の妻として。同じ会社で働く役員として。美月とは何度も顔を合わせていた。「水城さんのような女性になりたいです」そう言われたことさえある。私はそれを素直に受け取っていた。滑稽だった。もう寝よう。明日考えよう。そう思ったとき、スマートフォンがもう一度震えた。新しいメッセージ。《玲花さんの件、本当に大丈夫?》指が止まった。玲花さんの件。私のこと。何が大丈夫なのか。心臓が早くなる。私は画面を開いた。その直後、トーク画面に拓真の返信が現れた。《問題ない》続いて。《来週までには片づく》背中に冷たいものが走った。浮気の話
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第3話 消えた三千万円
翌朝。拓真は何事もなかったようにコーヒーを淹れていた。「今日は役員会、十時からだったよな」「ええ」「午後は?」「制作部のレビュー」「忙しいな」私は新聞から目を上げずに答えた。会話だけを聞けば、いつもの夫婦だった。けれど、拓真はスマートフォンを一度もテーブルに置かなかった。シャワーへ行くときも。洗面所へ行くときも。ずっとポケットの中。昨日までとは違う。間違いない。何かある。拓真が淹れてくれたコーヒーには、口をつけなかった。理由は自分でもうまく言えない。ただ昨夜から、この人の手を通ったものを、身体に入れる気になれなかった。会社へ着くと、私はまず自分の部屋へ入った。「午前中、急ぎ以外はつながないで」秘書にそう告げて、ドアを閉める。私は経理システムにアクセスした。役員権限があれば、会社の資金の動きは確認できる。最初は、美月への不自然な支払いがないか見るつもりだった。けれど、もっと大きなものを見つけた。三か月前。八百万円。翌月。千二百万円。そして先月。一千万円。合計三千万円。送金先は聞いたことのない会社だった。「LUNAREST PARTNERS」名目はコンサルティング費。だが契約書がない。成果物もない。担当部署もない。そして、支払い承認者は――水城拓真。私は画面を睨んだ。単なる経理ミスではない。LUNAREST PARTNERSの登記情報を開いた。設立は半年前。資本金三百万円。従業員数の記載はなく、ホームページもない。それなのに、うちの会社から三千万円。さらに奇妙だったのは事業目的だ。《企業再生支援》《事業譲渡に関するコンサルティング》《知的財産権の取得および管理》デザイン会社であるMIZUKI DESIGNにとって、知的財産と顧客契約は会社そのものと言っていい。どうして拓真が、こんな会社に三千万円も払っているのか。そのときの私はまだ、この会社がMIZUKI DESIGNを奪うために用意された器だとは思っていなかった。代表者名は、桐谷修司。知らない名前だった。所在地は、都内の雑居ビル。さらに調べようとしたとき、ノックの音がした。「水城さん」経理責任者の青木だった。五十代。父の代から会社にいる人物だ。私は画面を閉じた。「どうしました?」「来月の予算について確認
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第4話 十五年ぶりの男
神谷輝に会うことを決めたのは、それから三日後だった。本当なら会いたくなかった。十五年間、一度も連絡を取っていない。私にとって彼は、できれば一生会いたくない人間の一人だった。だからこそ皮肉だった。今、私が最も頼れる人物が彼だったのだから。KAMIYA CAPITAL。数年前、MIZUKI DESIGNに出資した投資会社。社長は神谷輝。出資が決まったとき、名前は聞いていた。けれど私は担当から外れていた。会わないようにしていたのかもしれない。自分でもよく分からない。午後二時。ホテルのラウンジ。私は窓際の席で待っていた。「久しぶり」声がして、顔を上げる。十五年ぶりの神谷輝が立っていた。黒髪。整った顔。冷静な目。頬の線が少し鋭くなったくらいで、腹が立つほど変わっていない。「久しぶり」私も答えた。輝は向かいに座り、コーヒーを注文した。沈黙。先に口を開いたのは輝だった。「結婚したんだな」「ずいぶん前に」「知ってる」「じゃあ聞かないで」輝が少し笑う。その笑い方まで昔と同じだった。十五年前。私たちは結婚するつもりだった。少なくとも私はそう思っていた。それなのにある日突然、「別れよう」と言われた。理由は教えてくれなかった。連絡先も変えられた。私は三か月泣いた。半年引きずった。そして、二度とこの男を信じないと決めた。「仕事の話をしましょう」私はUSBメモリを差し出した。「会社のお金が消えてる」輝の表情が変わる。「いくら?」「三千万円」「誰の承認?」「拓真」輝はUSBをノートパソコンに挿し、しばらく無言でデータを見た。送金履歴。会社情報。承認記録。五分。十分。私はコーヒーに手をつけずに待った。やがて輝が言った。「玲花」久しぶりに名前を呼ばれた。胸が少しだけ痛む。「これは横領だけじゃない」「どういうこと?」輝は画面をこちらへ向けた。「このLUNAREST PARTNERS。代表者の桐谷修司」「知らない人」「俺は知ってる」「誰?」「企業整理専門のブローカーだ」「企業整理?」「表向きはコンサルタント。でも実際は、会社の資産や事業を別会社へ移す案件に何度も関わっている」私は眉を寄せた。「会社を潰すってこと?」「可能性はある」「拓真が?」「まだ断定はできない」
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第5話 事故
取締役会は金曜日だった。私は木曜日の夜まで会社に残っていた。机の上には資料が並んでいる。送金記録。架空会社。不自然な契約。三千万円。さらに、輝が調べてくれた追加資料。LUNAREST PARTNERSから、別の会社へ資金が移されていた。その会社の実質的な関係者に、拓真の名前がある。これで十分だ。明日の取締役会で追及できる。場合によっては社長解任。私はUSBメモリを鞄に入れた。午後十一時十二分。スマートフォンにメッセージが届く。輝だった。《まだ会社か?》《今帰る》すぐに返信が来る。《迎えに行く》私は苦笑した。《大丈夫》数秒。《その言葉が一番信用できない》少し笑った。《今日は車で来てるから》返信が止まる。そして、電話が鳴った。「もしもし」『車で帰るな』輝の声。「またその話?」『玲花。頼むから今日はタクシーにしろ』「根拠がない」『根拠がなくてもいい』「心配しすぎ」『俺が迎えに行く』「もう会社を出るところ」『待て』私は電話を切った。今思えば、どうしてあんなに意地を張ったのだろう。十五年前に私を捨てた男の言うことを聞くのが、嫌だったのかもしれない。地下駐車場。会社名義の、黒いセダン。ドアを開ける。異常はない。エンジンをかける。問題なし。私は駐車場を出た。夜の道路。小雨が降っていた。ワイパーが一定のリズムで動く。自宅まで四十分。明日の取締役会のことを考えていた。拓真は何と言うだろう。否定する?私を責める?美月とのことも持ち出す?考えていたら、スマートフォンが震えた。拓真。私は出なかった。また鳴る。出ない。三回目。赤信号で停まったところで、私は電話を取った。「なに?」『今どこ?』「帰るところ」『会社から?』「そう」少し沈黙。『車?』妙な質問だった。背中が冷たくなる。「どうして?」『雨だから心配で』優しい声。いつもの拓真。でも今日は、違って聞こえた。「大丈夫」私は答えた。『そう』また沈黙。『気をつけて』電話が切れた。信号が青になる。アクセルを踏み、車が進む。十五分ほど走ると、海沿いの道路に出た。雨が少し強くなる。前方に赤信号。私はブレーキを踏んだ。車が減速しない。一瞬、理解できなかった。さっきの信号では、
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第6話 私は死んだ
目を覚ましたとき、最初に感じたのは痛みだった。胸。肩。頭。息を深く吸うと、左の肋骨が鈍く痛む。目を開ける。白い天井。病院のようにも見える。けれど、大きな病院ではなかった。「……ここ」声が掠れた。身体を起こそうとすると、「動くな」声がした。神谷輝だった。椅子から立ち上がる。「輝……?」「よかった」それだけ言って、彼は長く息を吐いた。「ここ、どこ?」「知り合いの医者がやってる小さなクリニックだ」私は記憶を辿った。雨。海。ブレーキ。冷たい水。「私……」「低体温症と軽い脳震盪。肋骨にもひびが入ってる」輝が言う。「でも内臓に大きな損傷はない。運がよかった」「あなたが助けたの?」輝は頷いた。「会社へ迎えに行く途中だった」「でも……」「事故現場を通りかかった」輝は一度言葉を切る。「君の車が海へ落ちたって、すぐに分かった」私は息を呑んだ。「海に入ったの?」「その話は後だ」「馬鹿なの?」「君に言われたくない」少しだけ、昔の輝だった。「警察は?」私が聞くと、輝の表情が変わった。「君が助かったことは、まだ把握してない」「どうして?」「引き上げた直後、君には呼吸があった。俺は救急車を呼ぼうとした」輝は続ける。「でも君が一瞬だけ意識を戻して、『拓真に知られたくない』って言ったんだ」私は覚えていない。「それで?」「医師をしている友人に連絡して、検査設備のあるこのクリニックへ運んだ」「無茶苦茶ね」「分かってる」
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第7話 死者からのメール
お別れ会の翌朝。拓真は一睡もできなかった。玲花からのメール。何度見ても消えない。《私を殺した夜のこと、ちゃんと覚えてる?》悪戯だ。誰かの悪戯に決まっている。そう思おうとした。だが、送信者名は水城玲花。そして、「殺した夜」。普通の悪戯なら、そんな言葉は選ばない。拓真はスマートフォンを握ったまま立ち上がり、カーテンを開けた。いつも通りの朝の街。なのに、すべてが違って見える。着信。白石美月。一瞬迷ってから出る。「もしもし」『昨日の会、お疲れさまでした』「美月」『どうしたの?』「玲花からメールが来た」沈黙。『……は?』「玲花からだ」『何言ってるの』「メールが来たんだよ」『そんなわけないでしょ』「俺だってそう思ってる!」声が大きくなる。拓真は息を整えた。「でも来た」『内容は?』拓真は一瞬迷った。「殺した夜を覚えてるかって」電話の向こうが静かになった。そして、美月が言った。『誰かが知ってるんじゃない?』「誰が?」『分からない』「君じゃないよな」『は?』「このことを知ってるのは、何人いる?」『何言ってるのよ』美月の声が震える。『私は何もしてない』「でも君は――」『私、あなたが玲花さんを殺すなんて知らなかった!』拓真は黙った。美月も黙った。数秒。電話越しに、互いの呼吸だけが聞こえる。「言い方に気をつけろ」拓真が低い声で言った。『
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第8話 私の名前で辞表が出されていた
お別れ会から三日後。私はノートパソコンを開いた。「本当に入れるのか?」輝が聞く。「会社の通常アカウントには入れない」私は答える。事故のあと、私の社員アカウントは停止されていた。当然だ。けれど、父が亡くなったあと、私は会社の重要データが経営者一人の判断で消されないよう、外部監査会社と共同で取締役監査用のバックアップ環境を作っていた。経理。契約書。役員会資料。主要な操作ログ。それらが毎晩、会社とは別のクラウドへ保存される。アクセス権限を持っているのは、私と外部監査担当者、そして管理受託会社だけだ。「拓真は?」輝が聞く。「存在は知ってる。でも直接アクセスはできない」私は認証キーを入力した。ログイン。画面が開く。「こういうものを作ってたのか」「父の会社で一度、大量のデータ消失があったから」私は役員情報を開いた。そして、手を止めた。水城玲花。《退任》「退任?」ファイルを開く。辞任届。提出日は、事故の翌日。署名欄には、私の電子署名。「これ……」輝が隣から画面をのぞき込む。「君が出した?」「出せるわけない」事故の翌日、私は意識を失っていた。さらに文書の作成履歴を開く。作成日。事故の二日前。私は言葉を失った。「事故が起きる前から……」輝の表情が険しくなる。「君がいなくなることを前提に作られてる」私は画面を見つめた。事故に便乗して作られたものではない。事故より先に、私が会社から消えることは決まっていたのだ。私はファイルを保存した。事故前に作成されたことを示すログも一緒に。
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第9話 十五年前の別れ
その夜、私は眠れなかった。辞任届。事故の二日前。何度考えても腹が立つ。リビングへ行くと、輝がいた。ソファに座って、何かの資料を読んでいる。「寝てないの?」「君に言われたくない」私は冷蔵庫を開け、グラスに水を注いで飲んだ。沈黙。「輝」「何」「十五年前」彼の手が止まった。「どうして別れたの?」輝は資料を閉じた。「今その話か?」「今だから」私は向かいに座る。「ずっと聞けなかった」「聞かなかっただけだろ」「連絡先を変えたのは、あなたじゃない」「そうだな」「説明もなし」「そうだ」腹が立つ。十五年経っても。「結婚すると思ってた」「俺も思ってた」その答えに、胸がざわつく。「じゃあ、どうして」輝は黙った。「他に好きな人ができた?」「違う」「私に飽きた?」「違う」「じゃあ何」長い沈黙。輝は私を見た。「君の父親に会った」私は止まった。「お父さん?」「そう」「いつ」「別れる一週間前」嫌な予感がした。「何を言われたの」輝は答えない。「言って」「今は話す時じゃない」「十五年待った」「玲花」「今さら秘密にする意味ある?」輝が目を逸らす。その瞬間、分かった。まだ、何かある。「お父さんに何を言われたの」輝は立ち上がった。「今日は寝ろ」「逃げるの?」「
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第10話 二通目
拓真が眠れなくなってから四日目。 私は二通目のメールを送ることにした。 「今日は何を送る?」 輝が聞く。 私は画像ファイルを開いた。 ホテルの入口。 拓真と美月が、一緒に出てくる写真。 事故の一週間前のものだ。 偶然撮れたわけではない。 二人のメッセージを見たあと、私が探偵に依頼して撮らせた。 当時は浮気の証拠として。 今となっては、別の意味を持つ。 「これ」 輝が画像を見る。 「効きそうだな」 「でしょう?」 「玲花」 「何?」 「楽しんでないか?」 「少し」 「少し?」 「かなり」 輝がため息をつく。 私はメールを作った。 件名は、《次は会社のお金の話をしようか》。 本文。 《拓真へ。 美月とのことは、もう知ってる。 でも私が知っているのは、それだけじゃない。 LUNAREST PARTNERS。 三千万円。 覚えてる? 次はその話をしようか。 玲花》 写真を添付して、送信。 数分後、開封通知が届いた。 「早い」 輝が言う。 「待ってたんじゃない?」 私は画面を見つめた。 一分。 二分。 三分。 そして、拓真から返信が来た。 初めてのことだった。 《誰だ》 私は笑った。 「返してきた」 輝が横から画面を見る。 《玲花を騙るな》 続けて。 《何が目的だ》 そして。 《金か?》 私はキーボードに指を置いた。 「返信するのか?」 「する」 私は入力した。 《お金なら、もう十分持ってるでしょう? 私の会社のお金を三千万円も持っていったんだから》 送信。 数秒後、拓真の返信。 《何を知ってる》 「かなり焦ってる」 私が言うと、輝は腕を組んだ。 「もうやめた方がいい」 私は彼を見る。 「どうして?」 「拓真が動く」 「それが目的よ」 「違う」 輝の声が低くなる。 「追い詰められた人間は、何をするか分からない」 「もう一度殺す?」 冗談のつもりだった。 でも、輝は笑わなかった。 「そういうことだ」 私は少し黙った。 そのとき、受信トレイに新しいメールが届いた。 拓真ではない。 知らないアドレスだった。 輝と顔を見合わせる。 私はメールを開いた。 《玲花さんですか? 白石です。 拓真さんのスマートフォンで、こ
last updateLast Updated : 2026-10-24
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