LOGIN東北の湖畔に建つペンション「調shirabe」で、成人祝いの旅行を楽しむ歯科衛生専門学生・水瀬いのりと恋人の西園寺りひと。しかし一夜明けると、二人は昭和の村へ迷い込んでいた。そこで知ったのは、恋人同士の無理心中とされた悲劇の真実。そして犯人が、いのりの祖父・水瀬巌だったという衝撃の事実――。祖父が奪った未来を終わらせるため、いのりが最後に選んだ運命とは。愛と罪が時を越えて交錯する、切なく美しい恋愛ホラー物語。
View More暗闇の中。 階段の向こうから、朝の光だけが差し込んでいた。 いのりは、六本目のカセットを見つめた。 ――本当の名前。 さっきまでなら。 停電したことに、何か意味があるのではないかと考えただろう。 午前二時十三分。 湖。 鈴。 時間の狭間。 また何かが始まるのではないか、と。 けれど今は違う。「……ただの停電だよね」 少し笑った。 ペンション調は、もう普通の建物だ。 時間を越える扉はない。 理人に会える奇跡も、起きない。 それでいい。 いのりはスマートフォンのライトをつけ、カセットデッキを確認した。 電源は落ちている。 だが横には、古い携帯用プレーヤーが置かれていた。 乾電池式。 その上に、理人の文字。 ――停電した時用。「準備よすぎない?」 泣きそうだったのに、笑ってしまう。 乾電池を入れる。 六本目のテープを差し込んだ。 カチ。 再生。 ザザ……。『いのり』 理人の声。『ここまで来たなら、たぶんお前は俺の名前について気づき始めてる』「……うん」『二月十八日の光』 一九八三年。 真冬の湖。『二〇二〇年、俺が死んだ夜の光』 十七歳の理人。『調を閉じた翌朝に見た、最後の光』 二〇〇一年七月二十四日。 そして。『母さんが俺につけた名前』 いのりは息を止めた。 来る。 ずっと探していた答えが。『俺の名前には――』 ノイズ。 ザザ……。 しかし。『……いや』「え?」『やっぱり、ここでは言わない』「理人さん!!」 地下室に声が響いた。 こんな時まで。 こんな時まで、この男は。『怒ったか?』「怒るよ!」『だろうな』 笑っている。 絶対に笑っている。 いのりは涙を拭いながら、デッキを睨んだ。『それは、俺の口から説明するより』 理人の声が、ゆっくり穏やかになる。『最後に母さんが残した言葉と一緒に、お前に読んでほしい』 いのりの表情から、笑みが消えた。『だから今は、別の話をする』 一拍。『俺が、自分の名前を嫌いだった話だ』「……嫌い?」 初めて聞いた。『子どもの頃の記憶はほとんどない。でも、名前を呼ばれるのが嫌だった感覚だけは残ってた』 理由は分からなかった。 母が名前に願いを込めたことも忘れていた。 ただ、自分の名前を聞くたび。
五本目のカセットには、いのり自身の文字が残されていた。 ――未来の私へ。 ――今度こそ、約束を守って。 いのりは深く息を吸い、再生ボタンを押した。 ザザ……。『……理人さん』 聞こえてきたのは、自分の声だった。 遠くで風が吹いている。湖の波音と、誰かが泣くのを堪えるような呼吸。『私、本当は帰りたくない』 いのりの指が止まった。 覚えている。 あの別れの瞬間、自分は確かにそう思っていた。『分かってるよ』 理人の声。『俺も、一緒にいたい』『だったら……』『でも、いのり』 彼は優しく言った。『俺たちは、ちゃんと選んだだろ』 いのりは目を閉じた。 花の鈴は葉月へ。 月の鈴は理人へ。 そして自分は、二〇二六年へ。 互いの人生を勝手に決めないための、最後の選択だった。 録音の中で、いのりが泣いている。『ねえ、理人さん』『ん?』『私、帰ったらどうすればいい?』 長い沈黙。 理人は、すぐには答えなかった。『……まず、飯食え』『そこ?』『それから寝ろ。お前、無理するとすぐ顔に出るから』『理人さんだって』 二人が小さく笑う。 その笑い声が、あまりにも懐かしかった。『それでさ』 理人が続けた。『明日になったら、明日のことを考えろ』 いのりは唇を噛んだ。『十年後の幸せまで、今決めなくていい』『……うん』『俺のことを忘れたくないなら、忘れなくていい』 理人の声が震えた。『でも、俺との別れを、お前の人生の終わりにするな』 いのりの目から涙が落ちた。「……うん」 テープの中の自分は、しばらく泣いていた。 やがて、何かを決めたように口を開く。『じゃあ、約束して』『何を?』『私たち、幸せになったら……』 そこで言葉が途切れた。 風が強くなる。 いのりはデッキに顔を近づけた。『幸せになったら、相手に申し訳ないって思うの、やめよう』「……!」 胸の奥で、何かがほどけた。『理人さんが笑ってる時、私が隣にいなくてもいい』『……いのり』『私も、いつか笑えるようになった時、理人さんを置いてきたって思わない』 理人が息を呑む音がした。『だって、私たちは、お互いを不幸にするために別れたんじゃないもん』 いのりは口元を押さえた。 忘れていた。 こんな大切な言葉を。『……そうだな』 理
四本目のカセットを再生すると、最初に聞こえてきたのは、懐かしい笑い声だった。『巌、そこ違う!』『うるせえ。分かってる!』『分かってないから言ってるんでしょうが!』 すみえの声。 続いて、理人が笑う。『二人とも、客が起きるぞ』『お前も手伝え!』『はいはい』 いのりは思わず笑った。「……本当に、仲良しだったんだね」 録音の中では、食器が触れ合い、誰かが椅子を引いている。まるで三人が今も食堂で朝食の準備をしているようだった。 やがて音が途切れ、年を重ねた理人の声に変わった。『いのり。ここからは、俺たちが選んだ人生の話だ』 カサリ。 紙をめくる音がした。『最初は、葉月さん』 いのりは姿勢を正した。『葉月さんは、二〇五四年へ帰った。あの人が元いた時間だ』 未来へ帰る直前、葉月は巌に尋ねたという。『私がいなくても、幸せになれる?』 巌は答えた。『分からねえ。でも、幸せになる努力はする』 葉月は泣きながら笑った。『じゃあ、私もそうする』 二人は抱き合わなかった。 最後まで、互いの手を握っていた。『あの二人は、一緒になることだけが愛じゃないって、俺に教えてくれた』 いのりは目を閉じた。 葉月は未来へ帰り、巌は過去に残った。 その後、巌は別の女性と出会い、家庭を築いた。 その先に母がいて、自分がいる。「……ありがとう、葉月さん」 次に流れたのは、すみえの声だった。『あんたたち、私のこと忘れてないでしょうね』「忘れるわけないじゃん」 いのりは涙を拭いながら笑った。『私ね、昔は自分が悪者になれば全部うまくいくと思ってたの』 葉月を殺した。 そう嘘をついた夜。 誰かを守るために、自分だけが罪を背負おうとした。『でも、違ったのよね』 すみえの声が、少し柔らかくなる。『守りたい人にだって、本当のことを知って、自分で選ぶ権利がある』 彼女はその後もペンションで働き、多くの客を迎えた。そして年を重ね、いつか二〇五四年から来る葉月へ花の鈴を渡す役目を果たした。 けれど、その人生は鈴のためだけにあったわけではない。『私は私で、結構楽しく生きたわよ』 いのりは声を上げて笑った。「すみえさんらしい!」 ザザ……。 次に聞こえたのは、巌の声だった。『いのり』 その一言で、涙が溢れた。「……おじいちゃ
三本目のカセット。 ラベルには、二〇二六年七月二十三日と記されていた。 いのりは再生ボタンに指を置いたまま、しばらく動けなかった。 あの日。 理人とペンション調へ来た日。 何度も時間を越え、何度も彼を失いかけた、すべての始まり。「……聞くよ」 カチャン。 ザザ……。『いのり』 理人の声だった。『ここからは、お前が忘れた話だ』 テープの奥で、車の走行音が聞こえる。 タイヤが砂利を踏む音。 ドアが閉まる音。 そして、若い女性の声。『ここ、本当に営業してるの?』「……私?」 いのりは息を呑んだ。 自分の声だ。 理人が笑う。『俺も知らない。お前が行きたいって言ったんだろ』『だって、夢に出てきたんだもん』 録音の中のいのりは、少し不機嫌そうだった。『湖と、古い建物と……鈴の音』 いのりは目を閉じた。 思い出した。 あの日、ペンションを見つけたのは自分だった。 何度も同じ夢を見ていた。 誰かが湖の向こうから名前を呼ぶ夢。 けれど、誰の声だったのかは分からなかった。『なあ、いのり』 理人の声が近づく。『怖いなら帰ろう』『……理人さんは?』『俺は、お前が行きたいなら付き合うよ』『そうじゃなくて』 短い沈黙。『理人さん自身は、どうしたい?』 いのりは顔を上げた。 あの時から。 自分は、彼に尋ねていたのだ。 理人自身の気持ちを。『……行ってみたい』 録音の中で、理人が答えた。『なんでか分からないけど、ここを知ってる気がする』『じゃあ、一緒に行こう』 足音が重なる。 二人分。 いのりは、涙を拭った。「……最初から、二人で選んでたんだ」 ザザッ。 音声が切り替わった。 今度は年を重ねた理人の声だった。『この録音を聞いた時、俺も驚いた』 紙をめくる音。『俺たちは、誰かに呼ばれて調へ来たんだと思ってた』 いのりは頷いた。 葉月。 巌。 未来の自分。 誰かが仕組んだ運命だと思っていた。『でも違った』 理人の声が、静かに続く。『夢を見たのはお前だ。でも、行くと決めたのはお前自身だった』 そして。『俺も、自分で行くと決めた』 いのりは膝の上で手を握った。 時間は壊れていた。 記録は書き換わった。 けれど、二人が交わした言葉まで、誰かに決められていたわけではない