登入東北の湖畔に建つペンション「調shirabe」で、成人祝いの旅行を楽しむ歯科衛生専門学生・水瀬いのりと恋人の西園寺りひと。しかし一夜明けると、二人は昭和の村へ迷い込んでいた。そこで知ったのは、恋人同士の無理心中とされた悲劇の真実。そして犯人が、いのりの祖父・水瀬巌だったという衝撃の事実――。祖父が奪った未来を終わらせるため、いのりが最後に選んだ運命とは。愛と罪が時を越えて交錯する、切なく美しい恋愛ホラー物語。
查看更多「葉月を殺したのは、俺じゃない」誰もいない岩風呂から、男の声がした。いのりとりひとは同時に振り返った。湯気が白く漂う浴場。人影はない。ただ、湯船の水面だけが揺れていた。ちゃぷん。「……誰?」いのりの声が震える。返事はない。「いのり、出よう」りひとが腕を掴んだ。その瞬間。チリン。鈴が鳴った。鏡を見る。――いわおをたすけて。さっき浮かんだ文字。その下に、新しい線がゆっくり現れ始めた。誰も触れていない。なのに、曇った鏡の上を透明な指がなぞっていく。――あした「明日……?」続いて、もう一文字。――みずうみいのりは息をのんだ。明日。湖。「葉月さんが死ぬ日……?」そう呟いた瞬間だった。鏡の奥に、人影が映った。「りひと!」振り返る。誰もいない。だが鏡の中にはいる。浴場の隅。若い男が立っていた。「……おじいちゃん」若き日の水瀬巌だった。顔を両手で覆い、泣いている。『俺は……』声が聞こえる。『こんなつもりじゃなかった』「巌さん!」いのりが鏡へ近づく。巌の背後から、もう一人現れた。村長だった。『明日ですべて終わる』低い声。『神崎家との縁談がまとまれば、お前の家も安泰だ』巌は何も答えない。『葉月さんには、別れてもらえ』『できません』巌が顔を上げた。『俺は葉月と一緒になる』いのりの胸が跳ねた。「じゃあ……」少なくともこの時点では、巌は葉月を捨てるつもりではない。村長の顔から笑みが消えた。『お前一人の恋愛で済む話じゃない』映像が揺れる。ざざっ。古いテレビの砂嵐のように、鏡が乱れた。『家を取るか』ざざっ。『葉月を取るか』そこで映像が消えた。「今の……過去?」りひとが呟く。いのりは答えられなかった。巌は最初から葉月を裏切っていたわけではない。なら、明日までに何が起きる?「調べよう」いのりは浴衣の襟を握った。「葉月さんが死ぬ前に」「でも、過去を変えたら俺たちがどうなるか分からない」「それでも!」声が大きくなった。「知ってるのに、何もしないなんてできないよ」りひとはしばらく黙っていた。そして、小さく息を吐いた。「分かった。一緒に調べる」「りひと……」「ただし、一人で動かない。絶対に」「うん」その言葉に、少しだけ安心した。二人は浴
――あの人を、信じないで。湖の上に立つ白い葉月の唇が、確かにそう動いた。「待って!」いのりが湖へ駆け寄った瞬間。ドンッ!夜空に花火が上がった。赤い光が湖面を染める。いのりは思わず目を閉じた。ほんの一瞬だった。再び湖を見る。「……いない」白い葉月は消えていた。湖には灯籠と星が浮かんでいるだけ。「どうした?」りひとが駆け寄る。「また葉月さんがいたの」「何て?」いのりは迷った。目の前では若い葉月が楽しそうに笑っている。少し離れたところには巌。――あの人を、信じないで。「……巌さんを信じるなって」りひとの表情が変わった。「それ、本当に葉月さんだった?」「え?」「俺には何も見えなかった」ぞくり。夏なのに、腕に鳥肌が立った。祭りを終え、二人はペンションへ戻った。時刻は午後十時を過ぎている。「お風呂、入ってくる」「一人で大丈夫?」「ペンションの中だよ」そう笑ったものの、本当は少し怖かった。岩造りの浴場には誰もいなかった。大きな窓の向こうには森。湯船から白い湯気が立ち上っている。いのりは肩まで湯につかった。「はぁ……」ようやく身体から力が抜ける。怖いことばかりだった。昭和。宿帳。写真。そして未来の葉月。考えれば考えるほど、分からなくなる。ちゃぷん。いのりは顔を上げた。「……?」誰もいない。水面が揺れている。自分が動いたからだ。そう思った。ぺた。脱衣所から音がした。ぺた。ぺた。濡れた裸足で床を歩くような音。「誰かいますか?」返事はない。磨りガラスの向こうに、人影もない。ぺた。足音が止まった。いのりは急いで湯船から上がった。身体を拭き、浴衣を羽織る。恐る恐る脱衣所の扉を開けた。誰もいない。「もう……やだ」小さく呟いて鏡を見る。そして。息が止まった。曇った鏡に文字が書かれている。指でなぞったような文字。――いわおをしんじるな。「……葉月さん?」チリン。どこかで鈴が鳴った。いのりは振り返る。誰もいない。もう一度、鏡を見る。文字の下から水滴が流れ落ちている。まるで涙だった。「分かった」いのりは震えながら呟いた。「葉月さんを助けるから」その瞬間。浴場の照明が消えた。「きゃっ!」真っ暗になる。湯船から、ちゃぷん。水
チリン。祭囃子の中で、銀色の鈴が鳴った。葉月の手首に結ばれた鈴。湖の底から現れた白い手が握っていたものと、まったく同じだった。「りひと……あれ」「見えてる」二人は顔を見合わせた。聞かなければならない。あの鈴が何なのか。けれど、未来の葉月が告げた言葉が頭から離れない。――私が死んだ、本当の理由を見つけて。「いのりちゃん!」葉月がこちらに気づき、嬉しそうに駆けてきた。「来てくれたんだ!」浴衣姿の葉月は昼間より幼く見えた。「その鈴、かわいいですね」いのりが何気ないふりをして尋ねる。「あ、これ?」葉月は手首を持ち上げた。チリン。澄んだ音が夜空へ響く。「巌さんにもらったの」「おじ……巌さんから?」危うく祖父と言いかけ、いのりは唇を噛んだ。「今日ね、渡されたの。お守りだって」葉月は嬉しそうに鈴を撫でる。「絶対なくすなよって」少し離れた場所では、巌が村の男たちと話していた。その表情は昼間とは違う。笑っていない。「葉月!」巌が呼ぶ。「村長に挨拶してくる。ここで待っててくれ」「うん!」葉月は疑いもせず手を振った。その背中を見送りながら、いのりは妙な違和感を覚えた。巌は一度だけ振り返った。葉月ではなく――鈴を見た。祭りは賑やかだった。赤い提灯。焼きとうもろこしの匂い。走り回る子どもたち。湖には無数の灯籠が浮かび、星空と混ざり合っていた。あまりにも美しい。だからこそ、いのりは怖かった。この景色のどこかで、何かが始まる。「灯籠、流そうよ」葉月が二人に紙を渡した。「願い事を書くの」「葉月さんは?」「私は決まってる」葉月は照れながら筆を走らせた。いのりは、思わずその文字を見てしまった。――巌さんと、ずっと一緒にいられますように。胸が痛んだ。「いのりは何て書く?」りひとに聞かれ、いのりはしばらく迷った。そして書いた。――みんなで未来へ帰れますように。「みんなで?」りひとが小さく笑う。「うん」葉月も。できるなら巌も。誰も死なない未来へ。歴史を変えられるなら変えたい。三人で湖へ灯籠を流した。ゆっくり遠ざかる三つの光。その時。「あれ?」葉月が首をかしげた。「私の灯籠……」一つだけ流れていない。葉月の灯籠だけが、不自然に岸へ戻ってくる。風は湖の沖へ吹いて
――帰れる客は、一組だけ。赤い文字を見つめたまま、いのりは動けなかった。「一組って……どういう意味?」声が震える。りひとは宿帳を自分のほうへ引き寄せた。「落ち着いて。誰かの悪戯かもしれない」「でも、私たちの名前……」書いた覚えなどない。しかも、巌と葉月の名前のすぐ下に並んでいる。まるで最初から、四人がここへ来ることを知っていたかのように。「日付を見て」いのりが指差した。四人とも同じだった。昭和四十七年七月二十二日。星祭りの夜。「今日だ……」その時。チリン。どこかで鈴が鳴った。写真の前に落ちていた、あの鈴と同じ音。チリン。今度は食堂の奥から聞こえる。「誰かいる?」返事はない。二人は音を追った。食堂の奥には細い廊下があり、その先に古びた扉があった。扉の向こうから、冷たい風が流れてくる。「外?」りひとが扉を開けた。そこには湖へ続く裏庭が広がっていた。夜の湖。風ひとつない。水面には満天の星が映り込み、本当に金平糖を散らしたように輝いている。「綺麗……」思わず、いのりは呟いた。怖いはずなのに。目を離せない。すると。湖のほとりに誰かが立っていた。「葉月さん?」白いワンピース。昨夜見た姿だった。「待って!」いのりは駆け出した。「いのり!」りひとも追う。だが、近づいても葉月は振り返らない。裸足のまま湖へ向かって歩いていく。一歩。また一歩。水が足首まで届く。「葉月さん!」いのりが腕を掴もうとした。その瞬間。葉月の姿が消えた。「え……?」そこには誰もいない。ただ、湖面に小さな波紋だけが広がっていた。ちゃぷん。ちゃぷん。「いのり、戻ろう」りひとの声が強くなる。「ここは危ない」その時だった。いのりの足首に、何かが触れた。冷たい。指。人間の指だった。「きゃっ!」りひとがいのりの腕を引く。二人は転びそうになりながら岸へ戻った。「今、誰かに……!」湖を見る。何もない。けれど。水面の下から、白い手が一本だけ浮かび上がった。いのりは声も出せなかった。その手には、小さな銀色の鈴が握られている。チリン。鈴が鳴る。同時に、背後から女の声がした。「見つけて」振り返る。誰もいない。「……何を?」いのりが恐る恐る尋ねる。今度は、はっきり聞こ