Compartilhar

第4話

Autor: 涼木
明歩が擦り傷ひとつ作れば、それは痛みに耐える「健気さ」として称賛される。

私がひどい喘息の発作を起こせば、それは気を引くための「仮病」として一蹴される。

春輝はいつでも絶対の公平を説き、身内だからと甘やかさないことを正義として口にする。

けれど彼の言う「公平」とは、すべての愛情を明歩に注ぎ込み、すべての冷酷な厳しさを私に向けることだった。

瑠奈の手が、力なく垂れ落ちた。

あのプラスチックのボタンを強く握りしめたまま、娘の呼吸がどんどん速くなっていく。

華奢な胸が激しく上下し、壊れたふいごのようなゼロゼロという苦しげな音を立てていた。

それは、急性肺炎の合併症を起こしかけている危険な兆候だった。

若い看護師が医療トレイを運びながら通りかかり、ふと足を止めてストレッチャーを覗き込んだ。

「この子、様子がおかしいわ。明らかな重度の呼吸困難よ、すぐに人工呼吸器につながないと!」

看護師は血相を変え、慌てて瑠奈のストレッチャーを処置室へ運び込もうとした。

「何をしているの」

母がカルテを何枚か抱えて歩いてきて、冷ややかな声でストレッチャーの行く手を遮った。

「主任、この子、酸素飽和度がかなり低下しているはずです。すぐに処置を!」

看護師が切羽詰まった声で訴えかける。

母は無表情のまま瑠奈の重い瞼をめくり、瞳孔を覗き込んだ。

「平気よ。小児の発熱にありがちな、ただの頻呼吸よ。点滴をして熱を下げてやれば十分だわ」

「でも、中にはまだ空いているベッドが……」

「あのベッドは、救助の最前線から運ばれてくる重傷者のために空けてあるのよ!」

母は鉄のように冷酷な目で、看護師の懇願をにべもなく遮った。

「医療従事者なら、目の前の患者だけでなく全体を見る目を持ちなさい。

あの子が私の孫だからといって、勝手に救急の限られた医療設備や人手を使うなんて許されないわ。うちの病院は、そんな身内びいきを絶対に許さない方針よ」

看護師はショックに言葉を失い、悔しさに涙を滲ませながら、指示通り点滴の準備へと向かった。

私は母を、底知れぬ絶望とともにただ見つめていた。

いつだってそうだ。

「公平無私」という自らの美しい虚像を守るためなら、実の娘を踏みにじることすら厭わなかったこの人は、今度は実の孫の命まで平然と差し出そうとしている。

全体を見る目など、一体この人のどこにあるというのだろう。

処置室の中では、明歩ひとりが設備の整ったベッドを独占し、最新鋭の生体情報モニターに繋がれて手厚い保護を受けているというのに。

春輝も浚介も、付きっきりでかいがいしく彼女の世話を焼いている。

吹きさらしの廊下には、容赦のない冷たい風が吹きすさんでいた。

瑠奈の細い腕に、冷たい点滴の針が刺される。

けれど体温は下がるどころか、小さな全身が内側から燃えるように熱くなっていく。

先ほどまで紫色だった唇は、今はもうすっかり血の気を失い、恐ろしいほど真っ白になっていた。

「ママ……っ」

その掠れた声は、ほとんど聞き取れないほどに弱々しかった。

「瑠奈を、ひとりにしないで……いい子に、するから……っ」

私はストレッチャーのそばに泣き崩れ、両手でその冷え切った小さな頬を包み込もうとした。

けれど、霊体の私には何の意味もなかった。

愛する娘に触れられない事実に、ただ己の魂が悲鳴を上げて震えるのを感じるだけだった。

深い夜が更けていく。

処置室の中で、小さな物音がした。

明歩が頭痛を訴え、軽い脳震盪の疑いがあるらしい。

母はすぐさま血相を変え、脳神経外科の当直医を呼びつけて精密検査をさせた。

春輝と浚介は、入院の手続きや薬の受け取りのために院内を慌ただしく走り回った。

その間、誰ひとりとして、暗い廊下の隅に5歳の子どもが放置されていることを覚えている者はいなかった。

午前2時。

廊下の明滅していたセンサーライトが、とうとう完全に消え失せた。

外では、吹き荒れる風雨の音だけが凄まじい轟音を響かせていた。

瑠奈の浅い呼吸が、ふっと止まる。

次の瞬間、小さな体が弓なりになり、激しく痙攣しはじめた。

恐れていた熱性けいれんだった。

酸素を求めて口を大きく開けても声は出ず、白目をむき、細い手足が異常な方向に突っ張っている。

私は半狂乱になり、ナースステーションのカウンターへと飛びついた。

緊急アラームを力任せに押したかった。机の上に積まれたカルテをすべてなぎ倒してでも、誰かに知らせたかった。

けれど私の手は、何度叩きつけても虚しく実体をすり抜けるだけだった。

私は絶望のまま処置室へと向きを変え、壁を抜けて飛び込んだ。

中では浚介が、白湯の入ったコップを、明歩の口元へ注意深く運んでやっているところだった。

春輝はその横で、果物ナイフを使って器用にりんごの皮を剥いている。

母はメガネをかけ直し、明歩の脳波検査の結果に熱心に目を通している。

「浚介!兄さん!お願いだから出てきて見て!瑠奈が危ないの!」

私は彼らの耳元にすがりつき、声が嗄れるほど必死に叫んだ。

けれど穏やかな処置室に響くのは、明歩の甘くやさしい声だけだった。

「浚介さん。お湯、ちょっと熱いです」

「じゃあ、冷ましてやるよ」

浚介はひどく根気よく、コップの白湯にふうふうと息を吹きかけていた。

その頃、暗い廊下では。

瑠奈の激しい痙攣が、だんだんと静かに収まっていった。

Continue a ler este livro gratuitamente
Escaneie o código para baixar o App

Último capítulo

  • 私を沈めたのは、家族の「公平」だった   第14話

    辺りは一面、混乱に包まれていた。私は、血だまりの中に倒れる春輝を、そして職員たちに取り押さえられ、鎮静薬を打たれたあと、強引にその場から連れ出されていく母を、ただ静かに見つめていた。それから、私は向きを変え、家のほうへと漂っていった。かつて瑠奈の笑い声で満ちていたあの家は、今はただ、静まり返った墓場のようになっていた。浚介は瑠奈の小さなベッドに体を丸めて横たわり、瑠奈の古い服を手に固く握りしめていた。部屋の明かりは消え、窓から差し込むわずかな月光だけが辺りを照らしていた。「紗凪……瑠奈……っ」彼は私たちの名前を、途切れることなく呟き続けていた。声は紙やすりで擦ったようにひどくかすれていた。「かくれんぼでもしてるのか?出てきてくれないか?もう二度と明歩の電話には出ない。毎日家でお前たちのそばにいるから、な?」彼は虚空に向かって憑かれたように語りかけながら、自分の髪を力いっぱい引きむしっていた。私は彼の前で止まった。けれど、彼には私が見えない。この眼差しに宿った、骨の髄まで染み渡るような冷たさと嫌悪も、彼には永遠に届かない。この家は、かつて私が心を込めて整えた我が家だった。けれど明歩が遊びに来るたび、彼女がソファのクッションに少しでも目を留めただけで、浚介はためらいもなくそれを譲ってしまっていた。「明歩は一人暮らしで可哀想なんだから、それくらい譲ってやれよ」今、彼はそのクッションをすべて手に入れた。けれどその代わりに、ソファに座って自分の帰りを待っていてくれる人を、永遠に失ったのだ。罰は、すでに下された。死そのものが、いちばん恐ろしいわけではない。いちばん恐ろしいのは、彼らがこの先の長い人生を、決して洗い流せない罪の意識を背負ったまま生き続け、自分がどうやってすべてを壊してしまったのかを見つめ続けることだ。彼らは、雨の降る夜ごとに悪夢で目を覚ますだろう。彼らは、どこかで熱を出した子どもを見るたびに、心臓を生きたまま引き裂かれるような痛みを味わうだろう。これこそが、これ以上ないほど完璧な「身内びいきの回避」だ。自分の体が、どんどん軽くなっていくのを感じる。魂の奥に凝っていた冷たさが少しずつ溶けて消え、代わりに、これまで感じたことのない安らぎが満ちていく。「ママ……」

  • 私を沈めたのは、家族の「公平」だった   第13話

    彼はすでに3日3晩、一睡もしていなかった。目は深く落ちくぼみ、まるで枯れ木のような無惨な姿になっていた。消防署の同僚が弔問に訪れ、彼を立たせようとした。「隊長、気を落とすな。紗凪さんも、天国で君のそんな姿は見たくないはずだ」春輝は同僚の手を乱暴に振り払い、苦笑しながら首を振った。「いや、あいつはこれを望んでいるんだ。俺が死ねばいいと思ってる!あいつ、水の中で俺を呼んでたんだ……あんなに暗いのが怖くて、あんなに寒がりだったのに……」彼は自分の頬を思い切り叩いた。乾いた音が祭壇に響き渡る。「それなのに俺は、浮き輪を他の女に投げたんだッ!」同僚たちは顔を見合わせ、ただ黙って後ずさるしかなかった。この出来事はすでに署内に知れ渡っていて、春輝の「公私の別を重んじた」という美談は、誰もが陰で嘲笑う話の種になっていた。署の上層部に呼び出された彼は、期限を定めず休職するよう命じられ、カウンセリングを受けるよう勧められた。彼が誇りにしていたキャリアは、自ら作り出した「身内びいきの回避」によって、完全に潰えたのだ。そして浚介。彼に至っては、私の告別式に姿を見せることすらなかった。私たちの寝室に自分を閉じ込め、瑠奈が死の間際まで握りしめていたあのプラスチックのボタンを抱きしめたまま、飲まず食わずで過ごしていた。聞いたところによると、深刻な幻覚症状まで現れ始めているという。いつも瑠奈がドアの外で「パパ」と呼んでいる気がして、私がまだ浴室でシャワーを浴びていると思い込んでいるのだと。誰かがあのドアを開けようとすると、狂ったように飛び出してきて、人に噛みつこうとするらしい。明歩については。母は、積もり積もった恨みをすべて彼女にぶつけた。明歩を家から追い出しただけでなく、最後に残った人脈を使って、あの日の明歩の行動をネット上に晒したのだ。【洪水の中、親友を救うために、彼らは妻と娘が溺れるのをただ見ていた】この投稿は地元の掲示板で瞬く間に拡散した。明歩はもともと私立の保育園で保育士をしていたが、事件が明るみに出るや否や、怒った保護者たちから連名で抗議され、園から自宅待機を命じられ、ほどなく退職することになった。道を歩けば、後ろ指を指される。部屋を借りていた大家からも、これ以上面倒に巻き込まれたくない

  • 私を沈めたのは、家族の「公平」だった   第12話

    明歩は打たれた衝撃で呆然とし、頬を押さえながら、これまで実の娘のように可愛がってくれていた母を信じられない思いで見つめた。「由紀子おばさま……私を、打ったんですか?」「打ったのよ、あんたみたいな疫病神を!」母は取り乱したように自分の髪をかきむしり、泣きながら、同時に狂ったように笑い出した。「私は目が曇っていたんだわ!公平無私を気取るあまりに、実の娘を路傍の石のように扱って、あんたみたいな赤の他人を宝物みたいに扱って!あんたがか弱いから、物分かりがいい子だと思ってた!結局、人を死に追いやる疫病神だったなんて!娘を返して!孫娘を返してよ!」母は明歩に飛びかかり、取っ組み合いになった。爪で顔を引っかき、歯で腕に噛みつく。主任としての体面など、もはや欠片も残っていなかった。田中医師と看護師たちは、そばに立ったまま冷ややかに眺めるだけで、誰ひとり止めに入ろうとはしなかった。皆、心の中では分かっていた。母が今、明歩を殴っているのは、実のところ、自分こそが正しいと思い上がっていたかつての自分自身を殴っているのだということを。すべての罪を明歩になすりつけることで、自分の手で孫娘を殺してしまったという重い十字架を、少しでも軽くしようとしているだけなのだ。けれど、もう遅い。浚介は、取っ組み合うふたりを見ながら、突然、狂気じみた笑い声を上げた。「はは……身内びいきの回避……公平……」笑いながら、涙が止めどなく零れ落ちていく。「俺たち3人は、自分こそ正しい、自分こそ公平無私だと思い込んでいた。それで、結果はどうだ?俺たちは揃いも揃って、罪のない母親を死に追いやって、5歳の子どもを見殺しにしたんだぞ!」浚介の笑い声は救急外来のホールに響き渡り、錆びついた鋸のように、その場にいる誰の神経をも削り取っていった。彼は突然笑うのをやめ、振り返って廊下の隅へと歩いていった。そこには瑠奈のストレッチャーが止まっていた。彼は異様なほど穏やかな手つきで白い布をめくると、冷たく硬直した瑠奈をそっと腕に抱き上げた。「瑠奈、怖くないぞ。パパがママのところへ連れていってやる」浚介はうわ言のように呟きながら、娘の遺体を抱いたまま、1歩、また1歩と、霊安室へ向かって歩いていった。その背中は丸く縮こまり、まるで一気に老け込

  • 私を沈めたのは、家族の「公平」だった   第11話

    明歩が壁に寄りかかりながら、足を引きずるようにして出てきた。彼女は明らかに中で外の騒ぎを聞いていたらしく、目元を赤く腫らし、今にも零れ落ちそうな涙を頬に浮かべていた。これは彼女の最大の武器だった。これまでなら、この表情を見せるだけで、浚介も春輝も即座に矛を収めていたのだ。「由紀子おばさま、浚介さん、春輝さん……」明歩は弱々しく口を開いた。声は涙にひどく湿っていた。「由紀子おばさまを責めないであげてください。全部、私のせいなんです。もし昨日、私が怖くて震えていなければ、春輝さんが浮き輪を私に渡すこともなかった。もし私がめまいを感じていなければ、由紀子おばさまが私の世話にかかりきりになって、瑠奈ちゃんを後回しにすることもなかった。何もかも、私のせいです。どうか警察を呼んで私を捕まえてください。私の命で紗凪と瑠奈ちゃんに償わせてください!」そう言いながら、彼女はわざとらしく膝から崩れ落ちるような素振りを見せた。私は、その陳腐な演技を冷ややかに見つめていた。いつもなら、ここで春輝が彼女を優しく抱き起こし、「お前のせいじゃない、紗凪の運が悪かっただけだ」と言うはずだった。浚介はいたわるように肩を叩き、「他人の責任まで背負い込むな」と言うはずだった。明歩は目を閉じ、いつものように誰かが手を差し伸べてくれるのを待った。けれど、1秒、2秒、3秒が過ぎても。誰も、彼女に手を伸ばさなかった。明歩は戸惑いながら目を開けた。その先にあったのは、冷たく、怒りに満ち、激しい憎悪すら滲ませた無数の視線だった。浚介が1歩前に出た。けれど彼女を抱き起こすのではなく、見下ろすようにその場に立ちはだかった。「あのとき、お前はひどく震えていたのか?」その声には、何の抑揚もなかった。明歩は反射的にうなずいた。「はい……水が冷たすぎて、低血糖もひどくて……」「だが救助艇が来る前、お前は2階のベランダにしっかりと立っていたよな」浚介は彼女を見据えたまま続けた。「指揮本部の人間から聞いた。お前が立っていた場所は、浸水の心配なんてない高さだったと。それなのに、なぜ俺に助けを求めて叫んだ?」明歩の顔からみるみる血の気が引き、狼狽して後ずさった。「私……水位がさらに上がってくるのが怖くて……」春輝が大股で歩み

  • 私を沈めたのは、家族の「公平」だった   第10話

    「まったく、正気の沙汰じゃない!」院長は体をわななかせながら怒鳴り、母を指差して激しく罵倒した。「お前も何十年とやってきた医者だろう。重度の呼吸困難や低酸素状態を放置すれば命に関わることぐらい、知らないはずがないだろう!高熱を出している重症の子どもを風の吹く廊下に放置して、軽い擦り傷程度の患者のために救急設備を独占するとは!お前のしたことは明らかな殺人だぞ!病院の名誉と患者の命を何だと思っているんだ!」周りには医療スタッフや患者の家族が幾重にも取り囲み、口々に辛辣な非難の声を上げていた。「あんまりだわ、実の孫にまであんな仕打ちができるなんて」「娘同然に可愛がっていた女性をひいきするあまり、実の娘をわざと苦しめていたって話よ」「とんだバチ当たりね。実の娘は溺れ死に、孫も病気で見殺し。どれだけ罪深いことをしたのかしら」その囁きの1つひとつが、傷口に塩を擦り込むように、母の胸へ容赦なく染み込んでいった。彼女は唇を震わせ、何か言い訳をしようとしたが、一言も声にはならなかった。一生をかけて誇ってきた「厳格無私」「身内にも媚びない」という立派な看板は、凄惨な現実の前で、ただの滑稽な笑い草に成り果てていた。浚介と春輝がホールに入り、この凄惨な光景を目にすると、足取りは鉛のように重くなった。田中医師が目を真っ赤にしながら歩み寄り、無言で死亡診断書を差し出した。「……瑠奈ちゃんの死亡推定時刻は、午前2時前後です。死因は、急性肺炎に高熱によるけいれんを併発し、心肺停止に至ったことです」田中医師はふたりを見据え、隠しきれない怒りをにじませた声で続けた。「昨夜、瑠奈ちゃんは一度、重度の呼吸困難の状態に陥りました。看護師が処置室に運んで人工呼吸器につなごうとしたんです。それを止めたのが主任でした。彼女はこう言いました――」田中医師は悔しそうに歯を食いしばった。「『勝手に救急の限られた医療設備や人手を使うなんて許されない』と」浚介は勢いよく顔を上げ、血走った目を母に突き刺した。「つまり……」浚介の声は紙やすりで擦ったようにひどくかすれていた。「瑠奈は、あなたに見殺しにされたということですか?」母の体が激しく震えた。「知らなかったの……あの子があんなに重症だなんて知らなかったのよ……母親の

  • 私を沈めたのは、家族の「公平」だった   第9話

    「紗凪、そんなに弱音を吐くな。これくらいの浸水、お前ならどうってことないだろ」春輝は突然手を振り上げると、自らの頬を思い切り平手で打った。乾いた音が響く。続けて2発目、3発目。左右交互に、口の端から血が滲むまで頬を打ち続けた。けれど彼には、痛みなどまるで感じていないようだった。「俺が……俺が、お前を殺したんだ……!お前に喘息があるって知っていたのに……お前が冷たい水を怖がるって、知っていたのに……!」救助隊の責任者が重い足取りで歩み寄り、ひどく沈痛な表情で、浚介に透明な遺留品袋を差し出した。「植月隊長、これは奥さんの手の中から見つかったものです」袋の中には、泥水に浸かって壊れたスマホが入っていた。画面は無惨に割れていたが、背面カバーには、瑠奈が描いた家族のイラストのシールがまだ剥がれずに貼られていた。「端末の発信履歴を確認したところ、奥さんは最期の瞬間まで、ずっとある番号に電話をかけようとしていたようです」責任者は一度言葉を切ると、隠しきれない悲憤をにじませた声で続けた。「ですがその番号は……ずっと、通話中だったそうです」浚介はその遺留品袋を、じっと見つめたまま身動きひとつしなかった。昨日の午後。水位が胸元を越えていくなか、私は必死に彼の携帯を鳴らしていた。そのとき彼は、こう言い放ったのだ。「春輝だって、お前なら持ちこたえられるって言ってたじゃないか。回線を塞ぐな。皆の前で、真っ先に妻を優先しろって言うのか?身内びいきだと思われるわけにはいかないだろ」浚介は体を激しく折り曲げ、何度もえづきはじめた。まるで胃の中身をすべて吐き出そうとするかのように。彼は泥水の中に突っ伏し、地面を激しく掻き毟った。爪が剥がれて血が滲んでも、まるで気づいていなかった。救助隊の責任者はその無惨な姿を見て重いため息をつくと、ほかの隊員たちに手を振り、切断作業の続行を指示した。ガシャッ――大型の油圧切断機が、私の右脚を挟んでいた最後の金属部分を断ち切った。支えを失った私の体は、まっすぐに前へと崩れ落ちる。浚介は半狂乱になって駆け寄り、泥の匂いのする私の冷たい体を、その大きな腕でしっかりと受け止めた。「紗凪!俺が受け止めたぞ!」彼は腫れ上がって固くなった私の体を強く抱きしめ、泥にま

Mais capítulos
Explore e leia bons romances gratuitamente
Acesso gratuito a um vasto número de bons romances no app GoodNovel. Baixe os livros que você gosta e leia em qualquer lugar e a qualquer hora.
Leia livros gratuitamente no app
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP
DMCA.com Protection Status