All Chapters of 私を沈めたのは、家族の「公平」だった: Chapter 1 - Chapter 10

14 Chapters

第1話

「田中先生、解熱剤は打たなくていいわ」母が、冷ややかな声とともに当直医の手を制した。田中医師はハッとしてその場で固まる。彼の手には、吸い上げたばかりの薬液が入った注射器が握られていた。「しかし主任、瑠奈ちゃんは39.8度まで熱が上がっていて、軽い痙攣も起こしています……」「あの子の祖母はこの私よ。私が状態を知らないとでも?」母は能面のように、表情をピクリとも変えないままベッドの上の瑠奈を一瞥し、すぐさま隣のベッドへと視線を移した。そこでは明歩が、保温毛布を3枚も重ねて厳重にくるまれていた。「瑠奈は体が丈夫だから、少し熱を出したくらいの方が免疫力がつくのよ。それに明歩は冷たい水に10分以上も浸かっていたうえに、重度の低血糖もあるの。今は本当に危険な患者を最優先に診ないと」田中医師は焦燥に駆られ、額にじっとりと汗を浮かべていた。「しかし、瑠奈ちゃんの唇は紫色に変色していて、心拍も乱れているんです」「必要ないと言ったら、必要ないの!」母の凄まじい威圧感のある声が、田中医師の反論を封殺する。彼女は忌々しげに瑠奈を見下ろした。「あの子の母親はね、昔から仮病を使って同情を買おうとする子だったの。その娘も同じで、ただの甘ったれよ。今回の未曾有の水害で、外では何百人もの命が瀬戸際にあるっていうのに。紗凪ときたら、実の娘を救助艇に乗せただけで、自分はどこへ逃げたのやら。こんな身勝手を許していたら、この先また何をしでかすか分かったものじゃないわ」私は宙を漂う幽鬼の身で必死に駆け寄り、娘の耳を塞ごうとした。残酷な言葉を聞かせたくなかった。けれど私の手は、虚しく空を切り、すり抜けて母の体を通過してしまう。わずかな風さえ、起こすことは叶わなかった。瑠奈は冷たい簡易ストレッチャーの上で小さく縮こまっていた。身につけているのは、ずぶ濡れの薄手の服だけ。幼い体が、秋風に舞う落ち葉のように小刻みに震えている。「おばあちゃん……さむい……っ」瑠奈は懸命に重い睫毛を震わせた。蚊の鳴くような、ひどく掠れた声だった。母は歩み寄ったものの、決して抱き上げようとはせず、あろうことか濡れた服を乱暴に引っ張った。「だったら我慢しなさい。誰のせいでこうなったと思ってるの。そこでじっと寝ていなさい。あなたのあの身勝手な母
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第2話

母は聴診器を首にかけると、もはや瑠奈には一切目もくれず、明歩のベッドへと付き添うように歩いていった。「明歩、動悸はする?あとで循環器内科の先生にもちゃんと診てもらうように手配しておくからね」明歩はふんわりとした枕にもたれかかっていた。顔色こそやや青白いものの、その眼差しには確かな生気が宿っていた。「私は大丈夫です。瑠奈ちゃんを見てあげてください、まだ子どもですから」「子どもって言っても、もう5歳でしょう。そろそろ我慢というものを覚えさせないと」母は明歩の布団の端を優しく整えながら、蜜よりも甘く穏やかな声で囁いた。「あなたは本当に優しい子ね、いつも周りの人のことばかり考えてくれて。春輝があなたを真っ先に助け上げたのは大正解だったわ。もしあの身勝手な紗凪を先に助けていて、あなたに万が一のことがあったらと思うと、ぞっとする」その光景を目の当たりにした瞬間、私の魂の芯まで、冷たい氷の刃が突き刺さるのを感じた。私が死に物狂いで娘を水面の上へ押し上げた最期の行為は、実母の目には身勝手と映るらしい。明歩が乾いた暖かなベッドの上で、院内でも最高の医療を受けていることは、「強さ」と映るらしい。廊下には容赦のない隙間風が吹き荒れていた。瑠奈は救急外来のホールの、誰の目にも留まらない薄暗い隅へと追いやられていた。頭上の照明は故障しかけており、無機質で冷たい光が不気味に明滅を繰り返していた。瑠奈は小さな手の中に、プラスチックのボタンを固く握りしめていた。それは、水が私の頭を越えようとしたあの瞬間、娘が必死に私の服にすがりついた拍子に、胸元から引きちぎれたものだった。「ママ……っ」瑠奈はそのボタンを冷たい頬に押し当て、声を殺してすすり泣いていた。私はただ、娘を強く抱きしめたかった。私の体温で、少しでもこの子を温めてやりたかった。けれど今の私には、分け与える体温すらない。私の亡骸は今も、古い住宅街の建物の窓に無惨に引っかかったままだ。濁った冷水が肺を浸し、泥と砂が口と鼻を重く塞いでいる。私はただ、愛する娘が吹きさらしの廊下で、少しずつ本来の温もりを奪われていくのを、見つめていることしかできなかった。不意に、救急室のガラス扉が勢いよく開け放たれた。鮮やかなオレンジ色の救助隊の活動服を身にまとった浚介が
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第3話

「馬鹿なことを言うな。お前はもともと体が弱いんだ。冷たい水に浸かったんだぞ、軽く考えるな」浚介はカイロの封を切り、明歩に掛けられた布団の上からそっと貼ってやった。「どうだ?まだ寒いか?」明歩は首を横に振り、唇を噛みしめながらドアの外へ目をやった。「瑠奈ちゃん……私が先に船に乗ったこと、恨んでるんじゃ……」「浚介さん、いっそ紗凪に私を一度思いきり叱らせてください。浚介さんの電話に出ないのも、きっと私に怒っているからです」浚介の表情が一瞬にして険しくなる。「あいつに怒る資格なんてあるものか!春輝は人を救助しに行ったんだ。危険度の高い者を優先して助ける、それが現場の原則だろう。紗凪は泳ぎが得意で、普段から2キロ泳いでも息一つ切らさない。お前を先に助けたくらいで何だっていうんだ。どうせあいつは今、ただ拗ねているだけだ。救助隊長の身内だからって、自分が世界の中心だとでも思っているんだろう」私はその冷酷な言葉を静かに聞きながら、胸の奥から底知れぬ虚しさと滑稽さがこみ上げてくるのを感じていた。泳ぎが得意。ええ、そうだ。昔は市の水泳チームに所属していたのだから。でも3年前、瑠奈を産んだときの出血多量で体を壊し、ひどい喘息の後遺症が残ってしまった。この3年間、冷たいシャワーすら浴びたことがないというのに。夫である浚介が、それを知らないはずがないのだ。けれど明歩の「か弱さ」を前にすると、私の病歴など綺麗さっぱり忘れ去られてしまうらしい。己の公平無私さを証明するためなら、私の生死すら、悪意に満ちた邪推で片づけて構わないと思っているのだ。「浚介さん、紗凪をそんな風に言わないで。きっと本当に怖かったんだと思います……」明歩はうつむき、庇うような、それでいてどこか媚びるような甘い声を出した。「怖かった?本当に怖いなら、どうして娘のそばを離れたんだ?どうして自分だけ先に避難した?」浚介は立ち上がり、明歩のために温かい白湯をコップに注いでやる。「あいつのことは気にするな。うちの義母も言っていただろう、しばらく放っておいて、あのワガママな性根を叩き直さないとな」「皆さん、紗凪のためを思ってのことなんですね……」明歩は小さくため息をつき、コップを受け取った。処置室のドアが再び開く。春輝が、同じよ
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第4話

明歩が擦り傷ひとつ作れば、それは痛みに耐える「健気さ」として称賛される。私がひどい喘息の発作を起こせば、それは気を引くための「仮病」として一蹴される。春輝はいつでも絶対の公平を説き、身内だからと甘やかさないことを正義として口にする。けれど彼の言う「公平」とは、すべての愛情を明歩に注ぎ込み、すべての冷酷な厳しさを私に向けることだった。瑠奈の手が、力なく垂れ落ちた。あのプラスチックのボタンを強く握りしめたまま、娘の呼吸がどんどん速くなっていく。華奢な胸が激しく上下し、壊れたふいごのようなゼロゼロという苦しげな音を立てていた。それは、急性肺炎の合併症を起こしかけている危険な兆候だった。若い看護師が医療トレイを運びながら通りかかり、ふと足を止めてストレッチャーを覗き込んだ。「この子、様子がおかしいわ。明らかな重度の呼吸困難よ、すぐに人工呼吸器につながないと!」看護師は血相を変え、慌てて瑠奈のストレッチャーを処置室へ運び込もうとした。「何をしているの」母がカルテを何枚か抱えて歩いてきて、冷ややかな声でストレッチャーの行く手を遮った。「主任、この子、酸素飽和度がかなり低下しているはずです。すぐに処置を!」看護師が切羽詰まった声で訴えかける。母は無表情のまま瑠奈の重い瞼をめくり、瞳孔を覗き込んだ。「平気よ。小児の発熱にありがちな、ただの頻呼吸よ。点滴をして熱を下げてやれば十分だわ」「でも、中にはまだ空いているベッドが……」「あのベッドは、救助の最前線から運ばれてくる重傷者のために空けてあるのよ!」母は鉄のように冷酷な目で、看護師の懇願をにべもなく遮った。「医療従事者なら、目の前の患者だけでなく全体を見る目を持ちなさい。あの子が私の孫だからといって、勝手に救急の限られた医療設備や人手を使うなんて許されないわ。うちの病院は、そんな身内びいきを絶対に許さない方針よ」看護師はショックに言葉を失い、悔しさに涙を滲ませながら、指示通り点滴の準備へと向かった。私は母を、底知れぬ絶望とともにただ見つめていた。いつだってそうだ。「公平無私」という自らの美しい虚像を守るためなら、実の娘を踏みにじることすら厭わなかったこの人は、今度は実の孫の命まで平然と差し出そうとしている。全体を見る目など、一体こ
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第5話

そして、完全に静かになった。小さな体からすべての力が抜け落ち、ストレッチャーの上にくたりと力なく広がっている。点滴はまだ1滴ずつ無機質に落ち続け、青紫色に浮き出た血管を伝って冷たい体の中へと入っていく。けれどその華奢な胸は、もう二度と上下することはなかった。ずっと大切に握りしめていたあのプラスチックのボタンが、完全に緩んだ指の隙間から、ぽろりとこぼれ落ちていった。冷たいタイルの床に当たり、カタリ、と孤独で小さな音を立てる。瑠奈の濁った目は半分開いたまま、処置室のわずかに開いたドアの方をじっと向いていた。その隙間からは、暖かなオレンジ色の灯りが漏れている。部屋の中からは、和やかで静かな談笑の声が聞こえていた。「このりんご、甘いですね。春輝さんも一切れどうぞ」明歩の明るい声だった。「お前が食べろ。体力をつけるためにビタミンを摂っておけ」春輝の口調は、私には決して向けないほど珍しく穏やかだった。「お前たちはしばらく病院でゆっくり休みなさい。紗凪のことは放っておけばいいわ。自分から十分やりきったと思ったら、そのうち勝手に戻ってくるでしょう」母が呆れたように締めくくった。「本当、何に拗ねているんだか。当てつけに子どもを平気で廊下に置き去りにするなんてな」浚介が軽蔑するように冷たく鼻を鳴らした。彼らは和やかに笑い合い、まるで彼らだけが本物の温かい家族であるかのようだった。彼らがわざと忘れ去った、この薄暗い廊下の片隅で。5歳の瑠奈は、果てしない寒さと待ち時間のなかで、永遠にその小さな鼓動を止めたのだ。最後の助けを呼ぶ声すら上げる力は、もう彼女には残っていなかった。祖母は、強くなるための鍛錬が必要だと切り捨てた。伯父は、母親に仕込まれた苦肉の芝居をしているのだとあざ笑った。父は、母親が皆の気を引くのを手伝っているのだと見下した。私はその場にぼう然と立ち尽くし、瑠奈の瞳の底にあった最期の微かな光が、完全に消え失せていくのをただ見つめていた。魂を生きたまま八つ裂きにされるような凄絶な痛みに、今にも霊体が砕け散ってしまいそうだった。3時間前の出来事を思い出す。濁流が私の胸元まで押し寄せてきたとき。瑠奈は私の肩の上にしがみつきながら、必死に私を水面へ引き上げようとしてくれた。「マ
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第6話

心拍は止まっていた。氷のように冷え切った体。処置室のドアが開き、浚介と春輝が和やかに笑い合いながら出てきた。「母さん、どうしたんだ?」春輝が気楽な声で尋ねた。母はゆっくりと振り返った。目を見開いたまま、何か言おうと何度も唇を動かした。けれど、かすかな息が漏れるだけで、声にはならなかった。浚介がその異常な視線を追ってストレッチャーへ目を落とし、顔に張りついていた笑みが完全に固まった。ちょうどそのとき、浚介が腰につけていた無線機が突然鳴り響いた。中から、救助隊の隊員の切迫した声が流れ出た。「植月隊長!聞こえますか、応答願います!古い住宅街の東通り沿いにある3号棟の1階、窓のところで、女性の遺体を発見しました!ご遺体は両腕を上へ掲げたままの姿勢で、すでに死後硬直が始まっています。身元は……奥様の、植月紗凪さんです」無線から流れる無機質な報告が、静まり返った廊下に異様なほど鋭く響き渡った。浚介はその場に凍りつき、虚ろな目のまま、ストレッチャーの上で息絶えた娘を見つめていた。春輝の手から銀色の保温ポットが滑り落ち、床にガシャンと鋭い音を立てて転がる。母は膝の力が抜け、瑠奈のストレッチャーの前にそのまま崩れ落ちた。私は彼らの姿を、ただ冷ややかに見下ろしていた。見なさい。あなたたちが望んだ「身内びいきの回避」を。あなたたちが望んだ絶対の「公平」を。今、私も瑠奈も死んだ。あなたたちの願いは、これでようやく叶ったのだ。一瞬にして、空間のすべての空気が抜き取られたようだった。廊下は、無線機から漏れるノイズの音しか聞こえないほどに、水を打ったように静まり返っていた。「隊長?応答願います。ご遺体の収容はどう指示されますか?ご家族の確認が必要なのですが……」無線機から、再び同僚の呼び出しの声が響く。浚介はようやく我に返ると、無線機をひったくるように強く握りしめた。力の入りすぎた指先が白く変色していた。「ふざけるなッ!」マイクに向かって怒鳴る声は、ひどくしゃがれて別人のように変わっていた。「よく見ろ!紗凪は市の代表選手だったんだぞ、1階なんかで溺れるわけがないだろう!どうせまた何か企んでいるんだ、死んだふりなんて悪ふざけにも程があると本人に伝えろ!」春輝も勢いよく
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第7話

かつて浚介は私を優しく抱きしめ、こう言ってくれたことがある。「これからは家で冷たい水になんて絶対に触れさせない。俺がお前の酸素ボンベになる」と。けれど昨日、電話の向こうで彼は苛立ちながらこう言った。「春輝だって、お前なら持ちこたえられるって言ってたじゃないか。回線を塞ぐな」彼は私に一言も聞いてはくれなかった。薬は持っているか、寒くないか。そんなことすら、ただのひとつも。春輝の顔は紙のように青ざめていた。彼は手の中の無線機をじっと見つめている。まるでそれが人を喰らう恐ろしい怪物であるかのように。昨日、救助艇が私の家の窓辺まで来たとき。私は体の半分を濁流に浸し、寒さに歯をがちがちと激しく鳴らしていた。私は兄に懇願した。「兄さん、早く引き上げて、水の上がり方が早すぎる」けれど兄は向かいの建物にいる明歩へ目をやった。明歩は2階のベランダに立ち、空のペットボトルを固く握りしめ、今にも落ちそうにふらついていた。「明歩は低血糖を起こしているんだ、しかも泳げない。水に落ちたら命はない」春輝は浮き輪を、迷わず明歩へと投げた。「紗凪、そんなに弱音を吐くな。これくらいの浸水、お前ならどうってことないだろ」彼は、私の死への確かな恐怖を、「弱音を吐くな」の一言で冷酷に片づけたのだ。そして今、彼が切り捨てたその「これくらいの浸水」が、私の命を奪った。廊下の反対側では、母がまだ必死に瑠奈の小さな胸を押し続けていた。「1、2、3……息をして!瑠奈、おばあちゃんが助けてあげるから、早く目を覚まして!」彼女は狂ったように、すでに硬直が始まっている遺体に向かって、なりふり構わず心肺蘇生を続けていた。救急科の医師や看護師たちが、ただならぬ物音を聞きつけて次々と駆けつけてくる。その惨状を目にした全員が、思わず息を呑んだ。「主任、もう、おやめください……死斑も出ています。亡くなってから少なくとも3時間は経っています」田中医師が進み出た。その声は悲痛に震えていた。「黙りなさい!」母が振り向く。両目は血走り、まるで怒り狂った雌ライオンのようだった。「私が主任なの、それともあなたが主任なの?私が死亡確認をしていないのに、誰がこの子を死んだなんて言えるのよ!除細動器を持ってきて!早く持ってきなさい!
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第8話

「もう一度言ってみろ」浚介の声は、恐ろしいほど低く這っていた。明歩はその視線に怖気づき、無意識に半歩後ずさった。「浚介さん……どうしたんですか?私、何か変なこと言いましたか?ただ、紗凪は普段から瑠奈ちゃんを使って、皆さんの気を引こうとすることがあるから……今回もたぶん、そういう……」バンッ!春輝の拳が、壁に激しく叩きつけられた。拳の皮膚が裂け、たちまち血まみれになった。明歩が短い悲鳴を上げた。「黙れ!」春輝は目を赤く充血させ、追い詰められた獣のように、ストレッチャーの上の瑠奈の遺体を指差した。「紗凪はもう、命を落としたんだぞ!それでもまだ、気を引くために騒いでいるだけだって言うのか!」明歩はその指の先を追い、死相の浮かんだ土気色の瑠奈の顔をはっきりと目にした瞬間、膝の力が抜けてその場にへたり込んだ。「し……死んだ……?」信じられないというように口元を押さえた彼女の瞳の奥に、紛れもない恐怖の色がよぎった。春輝は明歩に構わなかった。彼はぎこちなく体の向きを変えると、魂を抜かれた操り人形のように、1歩1歩、病院の出口へと歩いていった。浚介もその後を追うように、ふらつきながら出口へ向かう。「植月隊長!どちらへ!」そばにいた看護師が呼びかける。「古い住宅街の……東通り沿いの3号棟」浚介は機械的にその言葉を吐き出すと、足をもつれさせながら歩き、階段であやうく転びかけた。春輝もはっと我に返り、よろめきながらその後を追いかけた。私は、彼らの惨めな逃走を、冷ややかに追った。見に行こう。あなたたちが自分の手で作り上げた、その悲惨な傑作を見に行こう。東通り沿いの3号棟の1階は、水の大半がすでに引き、厚く積もった泥と腐臭を放つゴミだけが残されていた。周囲には規制テープが張られていた。救助隊の活動服を着た数名の隊員が、大型の油圧切断機を手に、ひどく変形した窓枠の金属部分を切断しようとしている。浚介と春輝が到着したとき、規制テープの外にはすでに多くの野次馬が集まっていた。「可哀想にねえ、子供を持ち上げたまま、自分は水に沈んで死んじまったらしいよ」「脚が窓の金属部分に挟まって、抜こうにも抜けなかったらしい。骨も完全に折れていたってさ」「水の上がり方、ずいぶん速かったんだろう
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第9話

「紗凪、そんなに弱音を吐くな。これくらいの浸水、お前ならどうってことないだろ」春輝は突然手を振り上げると、自らの頬を思い切り平手で打った。乾いた音が響く。続けて2発目、3発目。左右交互に、口の端から血が滲むまで頬を打ち続けた。けれど彼には、痛みなどまるで感じていないようだった。「俺が……俺が、お前を殺したんだ……!お前に喘息があるって知っていたのに……お前が冷たい水を怖がるって、知っていたのに……!」救助隊の責任者が重い足取りで歩み寄り、ひどく沈痛な表情で、浚介に透明な遺留品袋を差し出した。「植月隊長、これは奥さんの手の中から見つかったものです」袋の中には、泥水に浸かって壊れたスマホが入っていた。画面は無惨に割れていたが、背面カバーには、瑠奈が描いた家族のイラストのシールがまだ剥がれずに貼られていた。「端末の発信履歴を確認したところ、奥さんは最期の瞬間まで、ずっとある番号に電話をかけようとしていたようです」責任者は一度言葉を切ると、隠しきれない悲憤をにじませた声で続けた。「ですがその番号は……ずっと、通話中だったそうです」浚介はその遺留品袋を、じっと見つめたまま身動きひとつしなかった。昨日の午後。水位が胸元を越えていくなか、私は必死に彼の携帯を鳴らしていた。そのとき彼は、こう言い放ったのだ。「春輝だって、お前なら持ちこたえられるって言ってたじゃないか。回線を塞ぐな。皆の前で、真っ先に妻を優先しろって言うのか?身内びいきだと思われるわけにはいかないだろ」浚介は体を激しく折り曲げ、何度もえづきはじめた。まるで胃の中身をすべて吐き出そうとするかのように。彼は泥水の中に突っ伏し、地面を激しく掻き毟った。爪が剥がれて血が滲んでも、まるで気づいていなかった。救助隊の責任者はその無惨な姿を見て重いため息をつくと、ほかの隊員たちに手を振り、切断作業の続行を指示した。ガシャッ――大型の油圧切断機が、私の右脚を挟んでいた最後の金属部分を断ち切った。支えを失った私の体は、まっすぐに前へと崩れ落ちる。浚介は半狂乱になって駆け寄り、泥の匂いのする私の冷たい体を、その大きな腕でしっかりと受け止めた。「紗凪!俺が受け止めたぞ!」彼は腫れ上がって固くなった私の体を強く抱きしめ、泥にま
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第10話

「まったく、正気の沙汰じゃない!」院長は体をわななかせながら怒鳴り、母を指差して激しく罵倒した。「お前も何十年とやってきた医者だろう。重度の呼吸困難や低酸素状態を放置すれば命に関わることぐらい、知らないはずがないだろう!高熱を出している重症の子どもを風の吹く廊下に放置して、軽い擦り傷程度の患者のために救急設備を独占するとは!お前のしたことは明らかな殺人だぞ!病院の名誉と患者の命を何だと思っているんだ!」周りには医療スタッフや患者の家族が幾重にも取り囲み、口々に辛辣な非難の声を上げていた。「あんまりだわ、実の孫にまであんな仕打ちができるなんて」「娘同然に可愛がっていた女性をひいきするあまり、実の娘をわざと苦しめていたって話よ」「とんだバチ当たりね。実の娘は溺れ死に、孫も病気で見殺し。どれだけ罪深いことをしたのかしら」その囁きの1つひとつが、傷口に塩を擦り込むように、母の胸へ容赦なく染み込んでいった。彼女は唇を震わせ、何か言い訳をしようとしたが、一言も声にはならなかった。一生をかけて誇ってきた「厳格無私」「身内にも媚びない」という立派な看板は、凄惨な現実の前で、ただの滑稽な笑い草に成り果てていた。浚介と春輝がホールに入り、この凄惨な光景を目にすると、足取りは鉛のように重くなった。田中医師が目を真っ赤にしながら歩み寄り、無言で死亡診断書を差し出した。「……瑠奈ちゃんの死亡推定時刻は、午前2時前後です。死因は、急性肺炎に高熱によるけいれんを併発し、心肺停止に至ったことです」田中医師はふたりを見据え、隠しきれない怒りをにじませた声で続けた。「昨夜、瑠奈ちゃんは一度、重度の呼吸困難の状態に陥りました。看護師が処置室に運んで人工呼吸器につなごうとしたんです。それを止めたのが主任でした。彼女はこう言いました――」田中医師は悔しそうに歯を食いしばった。「『勝手に救急の限られた医療設備や人手を使うなんて許されない』と」浚介は勢いよく顔を上げ、血走った目を母に突き刺した。「つまり……」浚介の声は紙やすりで擦ったようにひどくかすれていた。「瑠奈は、あなたに見殺しにされたということですか?」母の体が激しく震えた。「知らなかったの……あの子があんなに重症だなんて知らなかったのよ……母親の
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