家族みんな、妹だけを愛している。 妹が私の恋人に密かに想いを寄せているから、結婚式の当日、母の小林鈴美(こばやし すずみ)はナイフを首に突きつけて、私に言った。 「占い師が言ってたのよ。百萌の病気は、喜び事があれば治るって。 千暁(ちあき)は健康なんだから、きっともっといい人に出会えるわ」 兄の小林滉一(こばやし こういち)も重たい声で口を開く。 「千暁、そんなに自分勝手になるなよ。さっさとウェディングドレスを脱げ。 百萌の方が細いんだ。千暁が着たらサイズが合わなくなるだろ」 そして、恋人の早瀬愼吾(はやせ しんご)でさえ、こう言った。 「百萌はもうすぐ死ぬ。でも千暁、俺たちにはこれからがあるから」 誰も知らない。本当に死にかけているのは、私なのに……
View More私はくまの目をじっと見つめた。そして、そのぬいぐるみを乱暴に押しのける。「私が好きだったのは、彼の妹に奪われた方……お父さんが誕生日にくれた、あのくまだった」哲也がぽつりと口を開く。「そのくまの目は百萌に壊されたって。だから新しい目をつけたって言ってた」私はもう、何もかもに疲れきっていた。これ以上、言葉を重ねる気力もない。「哲也……彼を帰してあげて。もう、来なくていい。もしかしたら彼は本当に反省して、私に優しくしようとしているのかもしれない。でも、もう私は必要としていない。私の病気のことは、誰にも言わないで。私は、死ぬ前にあの人たち一人一人の顔を見たくないの」哲也は私を優しく寝かしつけると、静かに部屋を出ていった。哲也が滉一に何を伝えたのか、私は知らない。あれから滉一は二度と姿を見せなかった。でも、百萌に奪われた懐かしいおもちゃたちを、時々見かける。滉一が私のために買ってくれた可愛いドレスも、たくさん残っている。でも、もう私はそれらを必要としていない。だから、哲也に頼んで、全部まとめて生活の貧しい子供たちに寄付してもらった。私は愼吾の連絡先をブロックした。それ以来、彼は私に一切連絡が取れなくなった。たぶん、滉一が私が哲也のところにいることを伝えたのだろう。愼吾は直接に哲也に電話をかけてきた。あの頃、哲也は私の選択を尊重して、私を愼吾に託した。今、傷だらけの私を前にして、哲也の苛立ちと悲しみが、はっきりと伝わってくる。愼吾は、哲也にひどく叱られたに違いない。もし私の世話がなければ、哲也のあの気性じゃ、今すぐ飛行機に乗って愼吾の腕も脚もへし折りに行っただろう。哲也は冷たい顔でスマホを差し出した。「出たくなければ、今切るから」私は静かに受け取って、そのまま電話に出た。電話の向こう、愼吾の声はひどく疲れていて、少しかすれていた。「千暁……まだ、俺のこと愛してるよな?前は俺が悪かった。もう一度だけ、チャンスをくれないか」「百萌がもうすぐ死ぬから?私を都合のいい代わりにしたいだけだろ?」「違う、そんなつもりじゃないんだ。千暁、百萌は毎日死をほのめかして俺を脅してくる。もう俺、耐えられない」「私、愼吾のこと、一度も愛したことなんてない」もしかすると、私が愼吾を選
スマホの着信表示を見て、しばらく迷った末に通話ボタンを押した。「千暁、この数日どこにいるのよ!百萌が肝臓ガン再発して入院したの。後でまた千暁の肝臓が必要になるかもしれないって。早く帰ってきなさい!それと、愼吾がくれた結納金、返しておきなさい。百萌の入院費に使うから」私が何も言う間もなく、電話は一方的に切られてしまった。哲也がノックしたとき、私はこっそり涙を拭っていた。彼は私がまた体調を崩したのかと思ったのか、心配そうに近づいてきた。私は首を振り、そんなことないよ、と目で合図した。それから、彼に一枚のキャッシュカードを差し出した。「哲也、またちょっと頼みたいことがあるの。この紙に書いてある口座に、四百四十万円振り込んでくれる?名義は早瀬愼吾。一年前にもらった結納金が四百万円。余った四十万円は利子ってことで」残ったお金は、全部洋司の口座に振り込んでもらった。夜、寝ようとしたときだった。またお腹が痛みだした。体を丸めて耐えていると、スマホの着信が鳴った。滉一からだった。唇を噛みしめて、なんとか電話に出る。「千暁、百萌の容態があまり良くないんだ。愼吾から離れてくれないか?もう勘違いさせたくないんだ、彼女を……」私は滉一の言葉を遮った。「お兄ちゃん、わかったよ。もうみんなの前から消える。誰にも見つからない場所へ行くから。十年前、私を妹だと思ってくれてありがとう」滉一の声が急に焦りだす。「千暁、今どこにいるんだ?そんなこと言って、どういう意味だ?」私は苦笑して答えた。「もし来世があるなら、もう二度とあなたたちと会いたくない」スマホが手から滑り落ち、目の前がグラグラ揺れる。私はそのまま床に倒れ込んだ。スマホの向こうで、滉一が必死に私の名前を呼んでいる。でも、もう聞こえなかった。次に目を開けたとき、周りはぼんやり霞んでいた。分かっている。私の病状は、また悪化したのだと。外から、哲也と滉一の声が聞こえる。どうやら、二人は揉めているようだった。少しして、二人が部屋に入ってきた。「千暁」滉一の声が聞こえ、私は思わず身をすくめる。「私の肝臓はもう使えないの。どうしてそこまで私を追い詰めるの。お願いだから、他の人探してよ……せめて、遺体だけはちゃ
大学一年生のとき、私は愼吾と出会った。ある日、彼と哲也、二人そろって学校の門の前で私に告白してきた。私は一瞬も迷わず、愼吾を選んだ。そのあと、哲也は転校してしまった。転校したばかりの頃、彼はよく私にメッセージを送ってきた。【蒼の湖は本当に綺麗だよ。いつか一緒に遊びに来ない?】だけど、愼吾は嫉妬深くて、私が哲也に返信することを許さなかった。だから、哲也と自然と連絡を取らなくなった。彼と最後にやりとりしたときのこと、今でもよく覚えている。彼が送ってきたメッセージは――【千暁専用の番号、永遠に変わらない】私は思わず、彼を見つめながら言った。「これからは煙草、控えて。肝臓によくないから」百萌は煙草が原因で肝臓を悪くした。鈴美と滉一は彼女を救うため、私に無理やり肝臓を半分以上あげさせた。もしそんなことがなければ、私は肝臓がんにもならなかったし、病院にも間に合わず、末期になることもなかったのに。哲也はズボンのポケットから煙草とライターを取り出し、ごみ箱に放り投げた。「わかった。もう吸わない」少し間をおいて、彼が聞いてきた。「愼吾は、このこと知ってるの?」「彼に知る資格なんてないよ」「じゃあ、千暁のお母さんとお兄さんは?」私は唇をぎゅっと噛み、鼻の奥がツンと痛む。「もう、あの二人は私の母でも兄でもない。もういいよ、彼らの話は。そういえば、蒼の湖のエビが美味しいって言ってたよね?食べてみたい」哲也は私を蒼の湖の美味しいエビを食べに連れて行ってくれた。蒼の湖の青い空と、澄んだ緑の湖水も見せてくれた。有名な湖の中心の小島まで、船で一緒に行った。島には小さくて可愛い鳥がたくさんいた。西部諸島ほどじゃないけど、それでもすごく綺麗だった。私はお気に入りの淡い水色のワンピースを着て、哲也にたくさん写真を撮ってもらった。その中で一番気に入ったものを選んで、彼に渡した。「哲也、ひとつお願いがあるんだけど……私が死んだら、この写真を遺影にしてくれる?」哲也の目が、また赤くなった。そのとき、突然お腹に激痛が走って、全身汗まみれになった。私の様子に驚いた哲也は、慌てて私を抱きかかえ、船に乗せてくれた。船頭さんの漕ぐスピードが遅いと、哲也はイラついて、ずっと船頭さんのことを罵
ここから先、この場所のすべては、もう私には関係ない。尾田家を出て、私は車を走らせ、愼吾との新居へ向かった。新居の中は、すべてがペアグッズで揃っていた。私の分だけを、全部丁寧に荷造りして持ち出す。ウェディングドレス姿のツーショット写真も。彼の分の写真は、全部切り取って残してきた。お腹の痛みは、どんどん頻繁に、そして強くなっていく。もう、残された時間はわずか。だから私は、蒼の湖(あおのこ)に行ってみたくなった。昔、友達がよく私の耳元で話してくれた。「蒼の湖は空が青くて、水は澄みきって綺麗だよ。毎日、たくさんのカモメたちが湖面で遊んでいるんだ。ここのエビは格別に美味しいよ。エビ好きの千暁なら、絶対に外せない。蒼の湖の陽射しはとても暖かい。どんなに冷えた心も、きっと溶かしてくれるんだ」私は今まで、こんなふうにどこかへ行きたいと強く思ったことはなかった。たぶん、彼が語った蒼の湖が、あまりにも素敵すぎたからだろう。車に乗り込み、携帯の連絡先を開く。七年間一度も連絡しなかったあの番号――青木哲也(あおき てつや)。少しだけ迷って、電話をかけた。コール音が鳴った瞬間、すぐに出た。「もしもし、千暁?」鼻の奥がつんとする。「哲也、蒼の湖がどんなに美しいかって、いつも言ってたよね。私、あんまり信じてなかったんだ。 だから、自分の目で確かめに行くことにした」「蒼の湖に来るの?千暁、どうしたんだ?何かあったのか?」「別に。ただ、哲也が言ってるのは本当かどうか、見てみたくて」車は空港に置き去りにして、愼吾の電話番号を残して、私は飛行機に乗った。哲也と会うのは七年ぶり。再会した彼は、やっぱり太陽みたいに明るくて、ハンサムだった。肌はさらに白く、顔立ちもよりシャープになっている。きっと、ずっと蒼の湖にいたからだろう。彼の瞳は、あの湖みたいに澄んでいて、きれいで、まっすぐだった。哲也は大きな歩幅で私に駆け寄ってきた。抱きしめようと腕を広げかけて……でも、愼吾とのことを思い出したのか、ふいに手を下ろして。そして、優しく微笑んだ。「千暁、蒼の湖へようこそ」民宿に向かう車の中、哲也は私をじっと見つめて、不思議そうに言った。「愼吾はどうしてお前をこんなに痩せさせたん
百萌は愼吾の言葉を聞いた瞬間、彼を突き飛ばして、狂ったように叫び声をあげた。愼吾は百萌をぎゅっと抱きしめて、優しくあやそうとする。洋司はすぐさま駆けつけてきて、作り笑いを浮かべながら言う。「千暁、百萌の病状はまだ安定していないんだ。もう少し待ってくれないか?彼女の体調が良くなったら、おじさんが必ず千暁と愼吾の結婚式を盛大にやり直してやるよ」私は何か言おうとした。すると、鈴美が歩いてきて、かつて怪我をした私の腕を強く引っ張った。「千暁、洋司おじさんは実の娘のように大事にしてくれているんだよ。百萌は妹なんだよ。どうしてもう少し待てないの?どうしてわざわざ百萌を刺激するの?」鈴美の手が私の腕を締め付け、腹の痛みが増す。これまで我慢してきた全ての屈辱が胸に溢れた。涙が目にたまり、とうとう口を開いた。「お母さんの目にも心にも、百萌しかいないの?私がお母さんの本当の娘だって、覚えてる?」鈴美は一瞬ためらい、渋々私の腕を離した。「どうして最近、そんなにワガママばかり言うの?なんでも百萌と張り合って!忘れないで。今食べてるものも使ってるものも、全部洋司おじさんが与えてくれたものよ。恩返ししろとは言わない。でも感謝の気持ちは持ちなさい!」鈴美はそう言い放つと、私を睨みつけて、百萌の元へ向かった。そして声色を一変させ、優しい声で囁く。「百萌、怖くないよ。お母さんがついてるから、絶対にお姉ちゃんに愼吾を奪われたりしないからね」私は服の裾をぎゅっと握りしめ、涙をこらえた。その時、滉一がやってきて、鈴美が百萌を慰める声を聞いた。何も事情を聞かず、私の前にやってきて、またあの骨折した腕を強く掴んだ。歯を食いしばりながら怒鳴る。「千暁、お前男に飢えてるのか?どうして愼吾を百萌と取り合うんだ!愼吾がいなきゃ、お前は死ぬのか?」彼は私を突き飛ばして、百萌を慰めに行った。私は痛みに耐えきれず、その場に倒れ込んだ。私は彼ら一人一人を見つめた。その憎しみのこもった顔が、次々と脳裏に浮かぶ。心ない罵声が耳にこびりつく。熱い涙を必死にこらえた。私は気づいた。この瞬間、愼吾との関係は完全に終わったのだと。母や兄との家族の縁も、もう戻ることはないのだと。私は彼らを見つめ、声を震わせな
かつては私を一番可愛がってくれた滉一でさえ、尾田家に来てからは、血の繋がりもないあの妹ばかりを贔屓するようになった。時には私のことを「嫉妬深い、心が狭い」と責めることさえある。全部百萌のために。学校に通っていた頃、百萌はよく「歩けないよ」と滉一に甘えていた。すると滉一は、迷うことなくしゃがみこんで、優しいまなざしで「おいで」と背中を差し出す。私はと言えば、二人に押し付けられたランドセルを抱え、ぽつんと後ろからついていくだけ。目に涙をいっぱい溜めて。尾田家に来てからは、滉一の背中は、もう私の居場所じゃなくなったんだ。あの頃を思い出す。百萌はいつも、鈴美や滉一のいないところで私に自慢してきた。「ねえお姉ちゃん、お母さんもお兄ちゃんも、全然お姉ちゃんのこと好きじゃないって気づいてる?この家に、お姉ちゃんなんていらないよ」見下すように私を一瞥すると、彼女はすぐ滉一の腕にしがみついて甘えだす。「お兄ちゃん、お散歩行きたい」私は滉一を見て、ほんの少し前まで私の宿題を見てほしいと頼んでいたことを思い出す。その時の滉一は、眉をひそめて冷たく「今、忙しい」とだけ言って、私を突き放した。でも、百萌が「お散歩」と言えば、即座に「うん」と頷いて彼女と出かけてしまう。二人が去るとき、百萌は振り返って舌をぺろっと出す。「お兄ちゃんは私のものだよ」と宣言しているみたいだった。その瞬間、私は悟った。もう、兄も母も、私には帰ってこないのだと。「それでは、新婦のお姉様にご登壇いただき、新郎新婦に祝福のお言葉をいただきましょう!」司会者の高らかな声が、私を現実に引き戻す。会場中の視線が一斉に私に集まる。私は百萌と愼吾を見つめる。誰も、こんな役目が私に回ってくるなんて、教えてくれなかったのに。呆然としている私に、百萌は無邪気な笑顔を向けながらささやく。「お姉ちゃん、愼吾のこと好きなの知ってるよ。でも、愼吾が好きなのはずっと私だけ。他のものなら全部譲ってあげる。でも、愼吾だけは絶対譲らない。だから、もうこれ以上、愼吾を奪おうとしないでね?」彼女の声には、誰が聞いても分かる裏の意味が込められていた。その瞬間、会場のざわめきが私に向く。「略奪女」なんて罵りの声さえ聞こえる。だけど、鈴美も滉一も、誰一人
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