Masuk濁流が家の中へ雪崩れ込んできたとき、私、植月紗凪(うえつき さな)は5歳になる娘、植月瑠奈(うえつき るな)を抱きかかえ、窓枠の上に立っていた。 救助艇に乗って駆けつけたのは、救助隊長を務める実の兄、日笠春輝(ひかさ はるき)だった。 春輝は一度だけこちらを見上げると、手にした浮き輪を向かいにある私の親友、菊島明歩(きくしま あきほ)の家の窓へと投げ入れた。 「お前は泳げるだろ。あと10分だけ持ちこたえてくれ。次の救助艇がすぐ来る。明歩は泳げないから、待たせておけないんだ」 しかし、10分が過ぎても次の救助艇は現れなかった。 私は夫の植月浚介(うえつき しゅんすけ)に電話をかけた。指令本部で指揮を執っていた彼は、苛立った声で言い放った。 「春輝だって、お前なら持ちこたえられるって言ってたじゃないか。回線を塞ぐな。こっちは救助要請が何百件も入ってるんだ。 皆の前で、真っ先に妻を優先しろって言うのか?身内びいきだと思われるわけにはいかないだろ」 冷たい水が胸元まで達したとき、私は深い絶望のなかで娘を頭上へ高く掲げた。 最期に残った意識は、指先に伝わる痛いほどの力。娘が必死に私の手を握りしめる、その確かな感触だった。 2隻目の救助艇がようやく到着した。 彼らは、私が最後の力で水面より高く掲げ続けていた娘を助け上げた。 けれど、泥水の底ですでに冷たくなっていた私には、誰も気づかなかった。 娘はようやく助かったのだと、私は信じていた。 しかし病院に運ばれた娘は、高熱でひきつけを起こしているというのに、誰からも見向きもされなかったのだ。 当直医が診察に向かおうとしたとき、救急科の主任であり私の実母である日笠由紀子(ひかさ ゆきこ)が、腕をつかんで制止した。 「大したことはないわ、少し寝かせておきなさい。先に明歩を診てあげて。 母親のくせに、我が子を置いて自分だけ逃げたんでしょう?少し痛い目を見せて、紗凪に反省させてやらないと」 彼らはまだ、何も知らなかった。 私がとうに、彼らの歪んだ公平主義の犠牲となって、死んでいるということを。
Lihat lebih banyak辺りは一面、混乱に包まれていた。私は、血だまりの中に倒れる春輝を、そして職員たちに取り押さえられ、鎮静薬を打たれたあと、強引にその場から連れ出されていく母を、ただ静かに見つめていた。それから、私は向きを変え、家のほうへと漂っていった。かつて瑠奈の笑い声で満ちていたあの家は、今はただ、静まり返った墓場のようになっていた。浚介は瑠奈の小さなベッドに体を丸めて横たわり、瑠奈の古い服を手に固く握りしめていた。部屋の明かりは消え、窓から差し込むわずかな月光だけが辺りを照らしていた。「紗凪……瑠奈……っ」彼は私たちの名前を、途切れることなく呟き続けていた。声は紙やすりで擦ったようにひどくかすれていた。「かくれんぼでもしてるのか?出てきてくれないか?もう二度と明歩の電話には出ない。毎日家でお前たちのそばにいるから、な?」彼は虚空に向かって憑かれたように語りかけながら、自分の髪を力いっぱい引きむしっていた。私は彼の前で止まった。けれど、彼には私が見えない。この眼差しに宿った、骨の髄まで染み渡るような冷たさと嫌悪も、彼には永遠に届かない。この家は、かつて私が心を込めて整えた我が家だった。けれど明歩が遊びに来るたび、彼女がソファのクッションに少しでも目を留めただけで、浚介はためらいもなくそれを譲ってしまっていた。「明歩は一人暮らしで可哀想なんだから、それくらい譲ってやれよ」今、彼はそのクッションをすべて手に入れた。けれどその代わりに、ソファに座って自分の帰りを待っていてくれる人を、永遠に失ったのだ。罰は、すでに下された。死そのものが、いちばん恐ろしいわけではない。いちばん恐ろしいのは、彼らがこの先の長い人生を、決して洗い流せない罪の意識を背負ったまま生き続け、自分がどうやってすべてを壊してしまったのかを見つめ続けることだ。彼らは、雨の降る夜ごとに悪夢で目を覚ますだろう。彼らは、どこかで熱を出した子どもを見るたびに、心臓を生きたまま引き裂かれるような痛みを味わうだろう。これこそが、これ以上ないほど完璧な「身内びいきの回避」だ。自分の体が、どんどん軽くなっていくのを感じる。魂の奥に凝っていた冷たさが少しずつ溶けて消え、代わりに、これまで感じたことのない安らぎが満ちていく。「ママ……」
彼はすでに3日3晩、一睡もしていなかった。目は深く落ちくぼみ、まるで枯れ木のような無惨な姿になっていた。消防署の同僚が弔問に訪れ、彼を立たせようとした。「隊長、気を落とすな。紗凪さんも、天国で君のそんな姿は見たくないはずだ」春輝は同僚の手を乱暴に振り払い、苦笑しながら首を振った。「いや、あいつはこれを望んでいるんだ。俺が死ねばいいと思ってる!あいつ、水の中で俺を呼んでたんだ……あんなに暗いのが怖くて、あんなに寒がりだったのに……」彼は自分の頬を思い切り叩いた。乾いた音が祭壇に響き渡る。「それなのに俺は、浮き輪を他の女に投げたんだッ!」同僚たちは顔を見合わせ、ただ黙って後ずさるしかなかった。この出来事はすでに署内に知れ渡っていて、春輝の「公私の別を重んじた」という美談は、誰もが陰で嘲笑う話の種になっていた。署の上層部に呼び出された彼は、期限を定めず休職するよう命じられ、カウンセリングを受けるよう勧められた。彼が誇りにしていたキャリアは、自ら作り出した「身内びいきの回避」によって、完全に潰えたのだ。そして浚介。彼に至っては、私の告別式に姿を見せることすらなかった。私たちの寝室に自分を閉じ込め、瑠奈が死の間際まで握りしめていたあのプラスチックのボタンを抱きしめたまま、飲まず食わずで過ごしていた。聞いたところによると、深刻な幻覚症状まで現れ始めているという。いつも瑠奈がドアの外で「パパ」と呼んでいる気がして、私がまだ浴室でシャワーを浴びていると思い込んでいるのだと。誰かがあのドアを開けようとすると、狂ったように飛び出してきて、人に噛みつこうとするらしい。明歩については。母は、積もり積もった恨みをすべて彼女にぶつけた。明歩を家から追い出しただけでなく、最後に残った人脈を使って、あの日の明歩の行動をネット上に晒したのだ。【洪水の中、親友を救うために、彼らは妻と娘が溺れるのをただ見ていた】この投稿は地元の掲示板で瞬く間に拡散した。明歩はもともと私立の保育園で保育士をしていたが、事件が明るみに出るや否や、怒った保護者たちから連名で抗議され、園から自宅待機を命じられ、ほどなく退職することになった。道を歩けば、後ろ指を指される。部屋を借りていた大家からも、これ以上面倒に巻き込まれたくない
明歩は打たれた衝撃で呆然とし、頬を押さえながら、これまで実の娘のように可愛がってくれていた母を信じられない思いで見つめた。「由紀子おばさま……私を、打ったんですか?」「打ったのよ、あんたみたいな疫病神を!」母は取り乱したように自分の髪をかきむしり、泣きながら、同時に狂ったように笑い出した。「私は目が曇っていたんだわ!公平無私を気取るあまりに、実の娘を路傍の石のように扱って、あんたみたいな赤の他人を宝物みたいに扱って!あんたがか弱いから、物分かりがいい子だと思ってた!結局、人を死に追いやる疫病神だったなんて!娘を返して!孫娘を返してよ!」母は明歩に飛びかかり、取っ組み合いになった。爪で顔を引っかき、歯で腕に噛みつく。主任としての体面など、もはや欠片も残っていなかった。田中医師と看護師たちは、そばに立ったまま冷ややかに眺めるだけで、誰ひとり止めに入ろうとはしなかった。皆、心の中では分かっていた。母が今、明歩を殴っているのは、実のところ、自分こそが正しいと思い上がっていたかつての自分自身を殴っているのだということを。すべての罪を明歩になすりつけることで、自分の手で孫娘を殺してしまったという重い十字架を、少しでも軽くしようとしているだけなのだ。けれど、もう遅い。浚介は、取っ組み合うふたりを見ながら、突然、狂気じみた笑い声を上げた。「はは……身内びいきの回避……公平……」笑いながら、涙が止めどなく零れ落ちていく。「俺たち3人は、自分こそ正しい、自分こそ公平無私だと思い込んでいた。それで、結果はどうだ?俺たちは揃いも揃って、罪のない母親を死に追いやって、5歳の子どもを見殺しにしたんだぞ!」浚介の笑い声は救急外来のホールに響き渡り、錆びついた鋸のように、その場にいる誰の神経をも削り取っていった。彼は突然笑うのをやめ、振り返って廊下の隅へと歩いていった。そこには瑠奈のストレッチャーが止まっていた。彼は異様なほど穏やかな手つきで白い布をめくると、冷たく硬直した瑠奈をそっと腕に抱き上げた。「瑠奈、怖くないぞ。パパがママのところへ連れていってやる」浚介はうわ言のように呟きながら、娘の遺体を抱いたまま、1歩、また1歩と、霊安室へ向かって歩いていった。その背中は丸く縮こまり、まるで一気に老け込
明歩が壁に寄りかかりながら、足を引きずるようにして出てきた。彼女は明らかに中で外の騒ぎを聞いていたらしく、目元を赤く腫らし、今にも零れ落ちそうな涙を頬に浮かべていた。これは彼女の最大の武器だった。これまでなら、この表情を見せるだけで、浚介も春輝も即座に矛を収めていたのだ。「由紀子おばさま、浚介さん、春輝さん……」明歩は弱々しく口を開いた。声は涙にひどく湿っていた。「由紀子おばさまを責めないであげてください。全部、私のせいなんです。もし昨日、私が怖くて震えていなければ、春輝さんが浮き輪を私に渡すこともなかった。もし私がめまいを感じていなければ、由紀子おばさまが私の世話にかかりきりになって、瑠奈ちゃんを後回しにすることもなかった。何もかも、私のせいです。どうか警察を呼んで私を捕まえてください。私の命で紗凪と瑠奈ちゃんに償わせてください!」そう言いながら、彼女はわざとらしく膝から崩れ落ちるような素振りを見せた。私は、その陳腐な演技を冷ややかに見つめていた。いつもなら、ここで春輝が彼女を優しく抱き起こし、「お前のせいじゃない、紗凪の運が悪かっただけだ」と言うはずだった。浚介はいたわるように肩を叩き、「他人の責任まで背負い込むな」と言うはずだった。明歩は目を閉じ、いつものように誰かが手を差し伸べてくれるのを待った。けれど、1秒、2秒、3秒が過ぎても。誰も、彼女に手を伸ばさなかった。明歩は戸惑いながら目を開けた。その先にあったのは、冷たく、怒りに満ち、激しい憎悪すら滲ませた無数の視線だった。浚介が1歩前に出た。けれど彼女を抱き起こすのではなく、見下ろすようにその場に立ちはだかった。「あのとき、お前はひどく震えていたのか?」その声には、何の抑揚もなかった。明歩は反射的にうなずいた。「はい……水が冷たすぎて、低血糖もひどくて……」「だが救助艇が来る前、お前は2階のベランダにしっかりと立っていたよな」浚介は彼女を見据えたまま続けた。「指揮本部の人間から聞いた。お前が立っていた場所は、浸水の心配なんてない高さだったと。それなのに、なぜ俺に助けを求めて叫んだ?」明歩の顔からみるみる血の気が引き、狼狽して後ずさった。「私……水位がさらに上がってくるのが怖くて……」春輝が大股で歩み
Ulasan-ulasan