INICIAR SESIÓN宗一郎の新作が公開された頃、私は26歳だった。大ヒットとはいかなかったけれど、映画の評判は上々だった。写真館の明かりを消すシーンを切り抜いた動画がSNSで広まり、何十万回もシェアされた。コメント欄には、どうして今まで注目されなかったのかと驚く声が相次いだ。その後、悦子が新しい仕事を3本持ってきてくれたけれど、私はそのうちの1本だけ引き受けた。撮影のない日は地元に戻って、相変わらずフランクフルトを売っていた。父の屋台は、その頃には小さな店になっていた。フランクフルトを焼くのは茂雄で、会計は私の担当だった。茂雄は相変わらずソースをケチるし、私は私で、もう少し値上げできないかななんて考えていた。モチもすっかり丸々と太って、毎日レジ台の上でのんびり寝そべっていた。公開5周年を記念して上映された「帰り道」には、父が見てくれたあの3分間も、そのまま残っていた。後日、映画館から記念ポスターが届いたので、店の壁に飾った。そこには、駅のホームに立つ昔の私が写っていた。まだ幼さの残る顔に、少し腫れぼったい目。演技だって、決してうまくなかった。それでも、父がスクリーンで見てくれたのは、確かにあの頃の私だった。その年、私は助演女優賞を受賞した。授賞式で、司会者に誰にお礼を言いたいか聞かれた。緊張で、トロフィーを握る手が汗ばんでいた。「父です。昔、父は屋台でフランクフルトを売って、私を育ててくれました。今は逆に、私の出演料で父の店をなんとかやってます」客席からどっと笑いが起きて、私もつい頬が緩んだ。「それから、昔の自分にも伝えたいことがあります。昔は、顔しか取り柄がないと思っていたし、何をするにも怖くて仕方ありませんでした。でも、怖がりのままでもいい。少しずつでいいから、後ろばかり見ずに進んでいこうって、今ならそう言ってあげたいです」まぶしい照明の向こう、客席に怜司の姿が見えた。この一年、怜司が突然会いに来たり、プレゼントを送ってきたりすることはなかった。ただ、私の映画が公開されるたびに、劇場の隅の席で一人で観ていたそうだ。悦子の話では、最近の怜司は気味が悪いくらい変わったらしい。新人女優に私の話し方をまねさせるのもやめ、スタッフにも、私とほかの女優を比べるなと言っているそうだ。
宗一郎の新作は、あまり予算がなかった。キャストもスタッフも町の小さな宿に泊まり、私専用の控室も、個室のメイクルームもなかった。お弁当も、ずいぶん質素だった。撮影初日を前に、緊張して一睡もできなかった。台本を抱えて、宗一郎のところへ行った。「……やっぱり、ほかの人に代わってもらったほうが……」ちょうどコーヒーを飲んでいた宗一郎は、思わずむせそうになった。「おいおい、朝から何言い出すんだよ!」「だって、私のせいで損させたら……」「君のギャラなんて、うちの運転手の給料より安いんだぞ。大した損にはならないって」ひどい言い方だったけど、なぜかほっとした。最初のシーンは6回撮ってもうまくいかず、7回目でようやくオーケーが出た。でも、誰かが拍手してくれるわけでもなかった。スタッフはすぐに次の準備を始め、宗一郎もひと言だけ。「よし、次いこう」私はカメラの前に立ったまま、ふと思った。ああ、これでいいんだ。ちゃんと演じれば、そのシーンは残る。うまくいかなければ、また撮ればいい。ここでは誰かの顔色をうかがう必要もないし、わざと嫉妬させるために役を奪われることもない。ただ、自分の芝居に集中していればいいんだ。撮影5日目、怜司がやって来た。といっても、現場には入らず、少し離れたところに停めた車の中にいた。それに気づいた宗一郎は、車まで行って窓を叩いた。「何しに来た?」「ちょっと撮影を見に」「誰を?」怜司が答えずにいると、宗一郎は鼻で笑った。「悪いが、ここにお前の知り合いなんかいないぞ」それでも怜司は帰らず、その日の撮影が終わるまでずっとそこにいた。写真館での撮影を終えて外に出ると、目を真っ赤にした怜司が街灯の下に立っていた。「ちょっと話せるか」私は台本を胸に抱えた。「……今度は何?」「絵里香が新作を降りた」「えっ、どうして?」「もう続けられないってさ」怜司は力なく笑った。「俺と仕事するのも怖いんだと」まあ、無理もないと思った。「代わりのヒロインも決まった」「そう。よかったね」「誰になったか、気にならないのか?」「別に。もう私には関係ないし」怜司は私の顔をじっと見た。「……もう、俺のことなんかどうでもいいのか?」「どういう意
後ろに並んでいたお客さんたちも、こちらを見ていた。怜司はまたカードを私のほうへ押してきた。「少し話せないか」私はカードを押し返した。「今は忙しいの」「……じゃあ、待つ」そう言ったきり、怜司は午後ずっと屋台のそばに立っていた。嫌な顔ひとつせず、アシスタントに人払いをさせることもなかった。気づいた人がスマホを向けても、帽子を深くかぶり直すだけで、その場を離れなかった。店じまいの頃には、フランクフルトが2本残っていた。怜司はそのうちの一本を手に取った。「いくらだ?」「一本300」怜司は店のQRコードを読み取ると、いきなり3万も払ってきた。私は慌てて余分な分を返金した。「ちょっと、勝手にこんなに払わないでよ」「いいだろ、俺が払いたいんだから」「そんなに払われたら、私がぼったくったみたいじゃない!」「千穂」怜司はフランクフルトをひと口かじると、顔をしかめた。「……焦げてるぞ」「えっ、うそ」慌てて受け取り、ひと口かじってみた。確かに焦げていた。昔の怜司なら、屋台のものなんて絶対に食べなかったのに。私がフランクフルトを差し出すと、残りも全部食べてしまった。「5分だけでいい。話を聞いてくれ」私は焼き台を拭きながら答えた。「で、何?」「新作のヒロインは、やっぱりお前にする」「絵里香はどうするの?」「あいつじゃ無理だ」「絵里香のほうが合ってるって言ってなかった?」怜司は気まずそうに目をそらし、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと言った。「……俺が間違ってた」怜司が自分の間違いを認めるなんて、初めてだった。なのに、不思議とあまり嬉しくなかった。「でも、絵里香だってもう結構撮ってるんでしょ?今さら怜司が勝手に降ろすなんて、あの子だって納得できないでしょ」怜司はじっと私を見た。「お前、あいつをかばうのか?」「そうじゃないよ。私だって同じことされたでしょ」私が役を取られたとき、誰もおかしいとは言ってくれなかった。でも、だからって今度は絵里香を降ろして、自分がその役に戻りたいとは思わなかった。あの子に役を取られたのは確かだけど。「じゃあ、どうすればいいんだ?」「別に、何もしなくていいよ」「『帰り道』のシーンは元
屋台の修理には、3日かかった。焼き台を新しくして、ひびの入ったガラスも取り替えた。看板は、かすれた店名の文字だけ塗り直した。全部きれいにしてしまうのは、なんだか惜しかった。茂雄にはみすぼらしいと言われたけれど、私はこれでよかった。古いのは確かだ。でも、この屋台には昔の思い出が詰まっているから。店を再開した日も、特別なことは何もしなかった。茂雄が2本、隣の果物屋のおばさんが3本買ってくれた。学校帰りの子供も二人寄ってきたけれど、モチに夢中で、結局フランクフルトは一本も買わずに帰っていった。いっそ顔を売りにして客を呼ぼうか、なんて考えていたら、悦子からビデオ通話がかかってきた。「千穂、ちょっとSNS見て!」「え、どうしたの?」「『帰り道』の公式が、例の件について発表してる!」言われるままSNSを開くと、「帰り道」がトレンド入りしていた。制作会社は、5周年記念版で差し替えたシーンを元に戻すと発表していた。絵里香が撮り直したシーンは、結局使われないらしい。怜司もその発表を引用リポストしていた。【今回の差し替えは、私の意向によるものです。花澤絵里香さんに責任はありません。すべての責任は私にあります】コメント欄は大荒れだった。立場を利用して好き勝手やったと叩く人もいれば、ちゃんと非を認めたんだからいいじゃないかと擁護する人もいた。私のアカウントにも、何かコメントしてほしいという声が寄せられていた。そんな中、悦子が聞いてきた。「千穂は?何か投稿する?」「しないよ」「えー、せっかくのチャンスなのに。ちょっとくらい仕返ししてやればいいのに」「仕返しなんて、もういいよ」私は焼いていたフランクフルトをひっくり返した。「あのシーン、もともと私が演じたんだから。元に戻すのが当たり前でしょ」「……千穂、やっと目が覚めたじゃない」思わず笑ってしまった。「フランクフルトのおかげかな」「帰り道」は、その日ずっとトレンド入りしていた。夜になって、宗一郎から電話がかかってきた。怜司の話は一切せず、記念版に私のシーンを使ってもいいか、それだけを聞いてきた。「『帰り道』の権利って、制作会社にあるんですよね?わざわざ私に聞かなくても……」「まあ、そうなんだけどね」宗一
電話の向こうで、怜司はしばらく黙っていた。「いつまで拗ねてるんだ?」私はしゃがんだまま、焼き台の錆を確かめた。「拗ねてなんかないよ」「だったら戻ってこい。明日から新作の撮影だ。お前にも役を用意してやる」以前は、怜司にあんなふうに言われるのが怖かった。少し声を低くされるだけで、自分が何か悪いことをしたような気になっていた。でも、今は違った。遠く離れた怜司の機嫌より、目の前の焼き台の錆のほうがよっぽど気になった。「私、もう女優はやめる」「あのシーンを差し替えたくらいで、5年間やってきたことを全部投げ出すのか?」「あのシーンだけの話じゃないよ」「じゃあ、何なんだよ?」怜司が約束してくれた役。絵里香に教えた、あの泣きの芝居。そして、父が4時間もバスに揺られて映画館まで来て、見てくれた私のたった3分間。いろんなことが重なって、何から話せばいいのかわからなかった。結局、口にできたのはひと言だけだった。「……もう疲れた」怜司の声が低くなった。「俺の前でも、同じことが言えるのか?」また涙が出そうになった。怜司はいつもそうだった。自分から私を突き放しておいて、私が本当に離れようとすると、今度は引き止める。「……もう、怜司のそばにはいないよ」私は小さな声で続けた。「地元に帰ってきたの」私は電話を切ると、スマホの電源も落とした。ちょうどそのとき、茂雄が修理を頼んだ職人さんを連れて倉庫に入ってきた。「なんだ、泣いてるのか?焼き台なら直せるぞ」私は鼻をすすった。「うん。修理代が高くついたらどうしようって」茂雄は呆れたように笑った。「まったく、昔から金のことには細かいな」焼き台も割れたガラスも交換できるし、看板は塗り直せばいい。修理代もそれほどかからずに済みそうだった。見積もりが出ると、私は30分も粘って値切った。結局、1万もまけてもらえて、すっかり気分がよくなった。一方、東央市の撮影現場は朝からぴりついていた。怜司は一睡もしないまま撮影に入り、水に入るシーンを9回撮っても、監督は納得しなかった。10回目も途中で撮影を止め、怒りをこらえながら言った。「鳴海さん、もう少し抑えてください。ここは別れたくない気持ちを見せる場面です。相手を殺したいわけじゃない
「逢坂さんは、もう正式に事務所を辞めています」アシスタントは言葉を選びながら続けた。「違約金と広告関係の賠償金を合わせて、2億を超えます。昨夜、逢坂さんが一括で支払いました」怜司はアシスタントをにらんだ。「誰が受け取っていいって言った?」アシスタントは何も答えられなかった。契約書には、違約金さえ払えば辞められると、はっきり書かれていた。5年前、千穂がその契約書にサインするのを、怜司も見ていた。違約金は2億を超えていた。その金額を見て、千穂は顔を真っ青にしていた。怜司はそんな千穂を抱き寄せ、平然と言った。「何をそんなに心配してるんだ。俺と一緒にいれば、そんな金、一生払わなくていい」あのとき、千穂は怜司を見上げて聞いた。「怜司……私のこと、いつかいらなくなったりしない?」「くだらないこと聞くな」怜司はそれ以上、まともに答えようとしなかった。千穂が自分のもとを離れるなんて、思ってもみなかったのだ。怜司は車のキーを手に取った。「逢坂がどの列車に乗ったか、調べろ」「もう調べてあります」アシスタントは少しためらってから答えた。「23時40分発の夜行列車です。出発してから、もう1時間近く経っています」「次の駅には何時に着く?」「鳴海さん、今からじゃ間に合いませんよ」怜司の目つきが険しくなった。「何時だって聞いてるんだ」次の停車駅は雲野駅。到着は午前2時20分で、停車時間はわずか3分だった。怜司はすぐに、高速に乗るよう運転手に言った。運転手はナビに目をやった。「無理です。どんなに飛ばしても2時間半はかかります」「いいから車を出せ」「鳴海さん、撮影じゃないんですから。いくら急いだって間に合いませんよ」怜司は手の甲に青筋が浮くほど、拳を強く握りしめた。数秒後、悦子に電話をかけた。だが、すぐに切られた。かけ直しても同じだった。何度もかけ直し、五回目でようやく悦子が出た。「何かご用ですか?」「千穂はどこに行った?」悦子は小さく笑った。「今さらそんなことを聞くんですか?」「千穂の実家はどこだ?」「5年もそばにいて、そんなことも知らないんですか?」怜司は顔をしかめた。「いいから、実家の住所を教えろ」「どうして教えなきゃいけな