Se connecterある年のことだった。警察官舎の一角にて。 頭部に銃弾の破片が残って以来、須賀江津子(すが えつこ)は須賀和久(すが かずひさ)がずっと望んでいた「理想の妻」そのものになった。そんな噂が、官舎の奥様たちの間でまことしやかに囁かれていた。 彼女はもう、彼が酒の匂いを纏って夜更けに帰宅しても、リビングで待ち構えて、酒は胃に悪いとくどくど小言を言うことはない。 徹夜で訓練計画を練っていても、無理に書類を閉じさせて、根を詰めすぎるなと口うるさく注意することもない。 出動前の彼の鞄に、胃薬がきちんと入っているか何度も確かめることさえしなくなった。 3日前のことだ。彼女は総合病院の廊下で倒れ、駆けつけた看護師に助け起こされた。 「須賀先生、ご家族に連絡しましょうか」 彼女はしばらく言葉を失っていた。記憶の霧は、手で払いのけられないほど重く脳裏に垂れ込めていた。 「……いいんです」 彼女はようやく、小さな声で答えた。 「私に、家族はいませんから」 あの発砲事件から7日が経ち、落ちていた体力が少しずつ戻ってきた。リビングまでたどり着いたところで、和久の視線とぶつかった。 彼は籐椅子に深く腰掛け、指に煙草を挟んだまま、苛立ちを隠そうともせず、暗く沈んだ目をこちらへ向けていた。 「江津子。食事を抜くのも、いい加減にしろ」 絶食しているわけではない。頭の中に残った破片が悪さをしているだけだ。何を口にしても、激しい吐き気とめまいに襲われる。ただそれだけのことだった。 彼女はその顔を見つめた。かつては脳裏に焼き付いていたはずの顔が、記憶の欠落のなかでくっきりと像を結んだかと思えば、たちまち輪郭を失い、薄い影になって溶けていく。 むしろ鮮明に思い出せるのは、撃たれて目を覚ました直後、よろめきながら彼を探しに行った官舎のグラウンドで耳にした言葉のほうだった。 「隊長、俺たちの負けですね。あの高級ウイスキー、まるごと差し上げます」 「須賀先生みたいな用心深い人を、よくも身代わりにできたもんだ。隊長も大したタマですよ。しかし危なかった。本当に、あと少しで手遅れになるところでしたからね」 「ったく、麗子さんを身の回りの世話係として堂々とそばに置きたいからって、ちょっと無茶が過ぎませんか。奥さんに知れたら、出ていかれても文句は言えませんよ」 「出ていくもんか」 紫煙の向こうで、和久の声に少しの揺らぎもなかった。 「撃たれたのは不運な事故だ。それに、おかげでしばらくは麗子のことで騒ぐ元気もないだろうさ。この埋め合わせは、いずれきっちりしてやる」
Voir plus和久が郷里へ去ったあと、江津子の生活は穏やかさを取り戻した。誠司は本当に彼女に良くしてくれた。彼女の選択を尊重し、仕事を支え、リハビリの間も細やかに気遣ってくれた。いずれ結ばれるのだろうと、周囲の誰もが思っていた。靖子でさえ、こっそり尋ねたことがある。「江津子、青柳さんがあんなに良くしてくれてるのに、考えてみない?」江津子は研究論文を書いていた手をふと止めた。彼女は顔を上げ、窓の外、庭に芽吹いたばかりのハナカイドウを見つめながら小さく言った。「靖子、あのとき誠司に迎えに来てもらったのは、ただ和久にきっぱり諦めてもらうためだけだったの」靖子ははっとした。「……じゃあ、あなたは青柳さんのことを……」「感謝してる」江津子は微笑んだ。「でも、感謝は愛じゃない。それに」彼女はペンを置き、澄んだ揺るぎない眼差しで言った。「ひとりでいるのも、悪くないでしょう?」死線をくぐり抜け、息の詰まるような結婚生活から抜け出して、彼女はようやく理解していた。愛は、決して人生のすべてではない。自分の人生の中心にいるのは、自分自身なのだ。その後の2年間、江津子はすべての力を仕事に注いだ。彼女は正式に康夫の招きを受け、医学部の研究チームに加わった。並外れた才能と研究者としての鋭い勘によって、彼女は次第に医学界で頭角を現していった。そして3年目、彼女は「外傷組織修復に関する新規治療法」の研究により、医学界で最高峰とされる医学賞を受賞した。授賞式は西京市で開かれた。江津子は純白のスーツ姿で壇上に立ち、スポットライトの下、堂々と自信に満ちた笑みを浮かべていた。「この賞は、絶望の中からもう一度立ち上がろうとした、すべての人に捧げたいと思います」彼女はトロフィーを手にしたまま客席を見渡した。「誰かのためではなく、自分自身の人生を生きることを選んだ、すべての女性に」会場に大きな拍手が響いた。カメラは彼女の目尻にきらりと光るものを捉えていたが、その笑顔は最後まで明るかった。その後、「山谷江津子」という名前は、独立と強さ、再生の象徴として、多くの女性に知られるようになった。けれど彼女自身は何も特別なこととは思わず、ただ静かに自分の研究と生活を続けていた。時折、靖子が郷里の近況を伝えてくれ
翌朝、和久はついに我慢できなくなり、出かけようとする江津子を呼び止めた。彼女はクリーム色のコートを着て淡いグレーのマフラーを巻き、手には医学のノートを持っていた。これから医学部へ向かうところのようだった。「江津子」和久は彼女の前に立ちはだかった。目は血走っていた。「昨夜のあの男は……青柳誠司か」江津子は目を上げ、落ち着いた表情で言った。「そうです」「お前はあいつと付き合っているのか?」「あなたには関係ありません」江津子は彼を避けて通り過ぎようとした。和久は彼女の手首を掴んだ。「どうして関係ないんだ!俺たちは5年も夫婦だったんだぞ!」「今はもう違います」江津子は手を振りほどき、鞄から離婚届受理証明書を取り出した。「須賀さん、念のため申し上げますが、離婚を認める判決はすでに確定しています。届出も済んでいます。私たちはもう夫婦ではありません」「でも俺は、あんな離婚に納得していない!」「あなたが納得しているかどうかは、もう関係ありません」江津子ははっきりと言った。「あなたが署名した誓約書も、これまでの経緯を示す記録も、裁判では証拠として提出されています。これ以上私につきまとうのであれば、警察と弁護士に相談します」和久は言葉を失った。「それに」江津子は彼を見つめた。眼差しは落ち着いていた。「私は独身です。誰と付き合おうと、あなたに口を出される理由はありません。たとえ離婚していなかったとしても、誰と付き合うかは私自身が決めることです。あなたも当時、麗子と堂々と一緒にいたのでしょう?」その言葉は刃物のように和久の心臓に突き刺さった。「あれとは違う。俺と麗子は何もなかった……」「あったかどうかは、ご自分がいちばんよくご存じでしょう」江津子はもう彼を見なかった。「過去のことはもう私の中では終わっています。あなたも手放して、新しい生活を始めてください」彼女が背を向けて歩き出そうとすると、和久は再び彼女を呼び止めた。声はほとんど懇願するようだった。「江津子、もう一度だけ機会をくれ。一度だけでいい。残りの人生をかけてお前を大事にする。誓うから!」「要りません」江津子の声には波ひとつなかった。「それに、私にはもう新しい生活があります」言い終わるかどうかというとこ
その日から、和久は生ける屍のようになりながらも、頑なに江津子の西京市での仮住まい近くに居座り続けた。そこは静かな古い家屋で、落ち着いた佇まいだった。和久は向かいに小さな平屋を借り、毎日窓辺に立って、暖かな黄色い明かりが灯るあの窓を見つめていた。彼は不器用に、かつて彼女がしていたことを真似し始めた。毎朝7時、西京市の老舗和菓子店に通い、彼女が昔好んでいたものに似た和菓子を買っては、近所の人に頼んで届けてもらった。毎回、手つかずのまま突き返されたが。彼女がかつて好んでいた白いバラを毎週1束届けさせ、手書きのカードを添えた。そこには【すまない】と一言だけ。カードに返事が来ることは、一度もなかった。彼女がリハビリをしていると聞き、評判の医師を探して紹介しようとしたが、靖子に門前払いされた。「和久、いい加減にして」靖子は電話口で冷たく突き放した。「江津子は今、とても元気にやってる。あなたの今さらの気遣いなんて必要ないの」「俺はただ、償いたいだけで……」「償う?」靖子は笑った。「今のあなたに何ができるの?仕事も失って、自分の生活だってままならないんでしょう。今あなたが花を買うお金だって、誰かに借りてるんじゃないの?」和久は黙り込んだ。靖子の言う通りだった。懲戒審査の結果、和久は懲戒免職となり、退職手当も支給されなかった。両親は郷里の実家へ戻った。今借りている平屋の家賃さえ、元同僚から借りた金で払っていた。かつて威勢を振るった隊長は、今では飼い主を失った野良犬のように落ちぶれていた。だが、彼は構わなかった。遠くからでも彼女を見ていられるなら、いつか償う機会があるなら、他には何もいらないと思っていた。ある日、郷里の母から電話がかかってきた。声は疲れきり、ひどく老け込んで聞こえた。「和久、いつ戻ってくるの?お父さんは怒りと心労で倒れてしまって、入院費だって大変なのよ」和久は受話器を握りしめたまま、視線は相変わらず向かいの窓に注がれていた。「……母さん、すまない」彼の声は掠れていた。「今は、戻れない」「あの女のためにか!」母の声が甲高くなった。「あの女のせいで、あなたはこんなふうになったのに、まだあの女のことを考えてるのか!和久、正気なの!?」「俺が彼女をあんな目に遭わせたん
「江津子……っ」和久の声は震えていた。「お前、俺を覚えていないのか……」江津子はかすかに眉をひそめ、靖子のほうを見た。「靖子、この方は?」靖子は和久を冷ややかに一瞥し、江津子に言った。「どうでもいい人よ。行きましょう」「待ってくれ!」和久は車の前に立ちふさがった。目は血走っていた。「江津子、俺は須賀和久だ。お前の夫だ」「夫?」江津子はその言葉を繰り返した。眼差しはやはり静かなままだった。「申し訳ありませんが、覚えていません。それに、今の私は独身なのでしょう?」彼女は手提げからあの離婚届受理証明書を取り出し、彼に見せた。和久はその書類を見つめ、言葉を失い、絶望に顔を歪めた。「それは……俺はまだ納得していない」彼は支離滅裂に言った。「江津子、もう一度やり直さないか。俺が悪かった。本当に自分の過ちはわかってるんだ」江津子は書類をしまいながら、相変わらず淡々とした口調で言った。「あなたと私の間に何があったのか、私自身の記憶には残っていません。ですが、すでに離婚しているということは、その関係が良いものではなかったということでしょう。過去のことは過去のこととして、私は別の道を歩みます」そう言い終えると、靖子に目で合図した。和久は狂ったように車のドアを掴んだ。「だめだ。行かせない!江津子、俺の話を聞いてくれ!」「何を説明するというんです」江津子はようやく彼を見た。眼差しはやはり静かだった。「別の女性のために、何度も私を傷つけたこと?母の過去を持ち出して、私を脅したこと?私の仕事までめちゃくちゃにして、犬のことで寒空の下に跪かせたこと?今さら、何を説明するつもりなんですか」和久の全身が、びくりと震えた。「お……お前、思い出したのか……」「いいえ」江津子は淡々と言った。「私自身の記憶としては残っていません。ですが、それらのことは全部靖子が教えてくれました。診療記録も、証言記録も、残っていた書類も。すべて見せてもらいました」彼女は少し間を置き、ため息のように小さな声で言った。「須賀さん、あなたとのことを覚えていない今の私には、あなたはもう、どうでもいい人なんです」その一言は、どんな憎しみよりも残酷だった。憎しみには、少なくとも関心がある。だ
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