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私を降板させた彼が、私の店に並んでいる

私を降板させた彼が、私の店に並んでいる

Par:  ひつじ沼のオオカミComplété
Langue: Japanese
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私、逢坂千穂(あいさか ちほ)は、演技が下手で、気が小さくて、お金に目がない。 唯一の取り柄は、人を虜にするらしいこの顔くらいだ。 主演男優賞も受賞したトップ俳優の鳴海怜司(なるみ れいじ)は、初対面の私に、秘密の恋人役を演じてほしいと言ってきた。 てっきり大作への出演オファーだと思った私は、目を輝かせて尋ねた。 「ギャラは出るんですか?」 月に1000万払うと言われた瞬間、私は思わず怜司に抱きついた。 もちろん、好きだからじゃない。このままあと4年、恋人役を続ければ、事務所への莫大な違約金を払い終えて、ようやく地元に帰れる。フランクフルトの屋台を出すだけでも、今よりずっと幸せになれるはずだ。 ところが、怜司はどうやら勘違いしていたらしい。 怜司は、私が5年間もそばにいながら、交際の公表も正式な彼女としての立場も求めないのは、彼を愛してやまないからだと思い込んでいた。 そんなある日、撮影現場に新人女優の花澤絵里香(はなざわ えりか)がやって来た。 学校を卒業したばかりの絵里香は、若くて綺麗で、目元が19歳の頃の私にどこか似ていた。 絵里香は怜司が初めて私に贈ってくれたドレスを勝手に着て、控室代わりのキャンピングカーでも私の席を陣取った。しまいには、私たちが4年間一緒に飼ってきた猫まで、自分の部屋に連れていってしまった。 怜司は絵里香を止めるどころか、私をじっと見つめてこう聞いてきた。 「お前、何か言うことはないのか?」 私は少し考えてから、真面目に答えた。 「猫砂はホコリが立ちにくいのを買ってあげてね。あの子は鼻が敏感だから」 その夜、怜司は私への当てつけに、私が主演するはずだった映画のヒロイン役を絵里香に回した。 周りはみんな、私がショックで取り乱すと思っていたらしい。ところが私は、その夜のうちにマネージャーの中田悦子(なかた えつこ)に連絡した。 「悦子さん、違約金の分はもう貯まったよ。 事務所との契約、解約手続きを進めてくれる? これからは怜司が出演する作品のオファーは、一切受けないから」

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Chapitre 1

第1話

悦子はしばらく黙っていた。電話の向こうから、契約書のページをめくる音が聞こえてきた。

「契約解除は、どんなに急いでも3日はかかるわ。それに、企業との仕事もまだ2件残ってるから、先方とも話をつけないと」

小さく返事をすると、私のことをよく知る悦子は、もう一度念を押してきた。

「もう一度よく考えてみない?解約の書類にサインしたら、5年かけて貯めたお金が全部なくなるのよ」

私は非常階段の扉の下から漏れる細い光をじっと見つめた。

ふと、昔、父にも同じことを聞かれたのを思い出した。

19歳のとき、私は病院の会計窓口で芸能事務所の人に待ち伏せされ、契約書を突きつけられた。

父は二度目の手術を終えたばかりで、痛々しいほど痩せ細っていた。それでも私の頭を優しく撫でながら、こう言ってくれた。

「役者なんて、嫌ならやらなくていい。うちにはまだフランクフルトの屋台があるだろ。千穂ひとりくらい、父さんが食わせていけるさ」

けれど父は、結局病院から帰ってこなかった。私も故郷には帰れなかった。

ペンキの剥げたあの小さな屋台は、近所の人が倉庫にしまってくれたきり、もう5年もそのままだった。

「とりあえず、手続きは進めて」

私は小さな声でそう言って、膝に顔を埋めた。

「手続きが終わる頃には、私も決心がついてると思うから」

そのとき、不意に扉をノックする音がした。

「逢坂さん、鳴海さんがお呼びです」

私は慌てて立ち上がり、怜司の控室へ向かった。

中にいたのは怜司だけだった。

テーブルには新しい台本が置かれていた。私の名前があったはずの場所には、代わりに絵里香の名前が書かれていた。

怜司は窓際で電話をしていた。

細い腰に沿う黒いシャツを着て、袖は肘まで無造作にまくっていた。手首には見るからに高そうな腕時計が光っていた。あれひとつで、うちの屋台が10台は買えそうだった。

私が入ってきたのに気づくと、怜司は電話を切った。

「どこ行ってた?」

「電話してたの」

「誰と?」

「悦子さんと」

怜司はちらりと私を見た。

「俺のこと、悦子さんに何か言ったのか?」

「違うよ」

私は昔から、嫌なことをされても、誰かに言いつけたりできなかった。

子どもの頃、いじめられても、父にどうしたのかと聞かれれば、転んだだけだと答えていた。

本当のことを話せば、父は屋台を閉め、あの古びた電動バイクに乗って相手のところへ飛んでいってしまうからだ。

父の一日の稼ぎは、決して多くなかった。フランクフルトが1本売れなくなるだけでも、父の苦労を思うと胸が痛んだ。

怜司がこちらに手を伸ばした。おとなしくそばへ寄ると、彼は私の腰に腕を回し、そのまま抱き寄せた。

「役を取られたからって、俺を避けるつもりか?」

怜司は私の肩に顎をのせ、鼻先を首筋にすり寄せた。

口調は相変わらず冷たかった。それなのに、上着の中に手を入れ、私の腰をゆっくり撫でてきた。

これが怜司のいつもの癖だった。

人前では私が近くにいるだけでも嫌そうだったくせに、二人きりになると、何かと私に触れてきた。

「避けてないよ」

「じゃあ、あの役のこと、なんで何も聞かない?」

私は少し迷ってから尋ねた。

「聞いたら、返してくれるの?」

怜司の手がぴたりと止まった。

そのまま私の顎を持ち上げ、じっと私の目を見た。

「あの役が欲しいのか?」

私はうなずいた。

この台本を怜司が初めて見せてくれたのは、2年前のことだった。

あの日、私はソファで丸くなってカップ麺を食べていた。すると怜司が私のフォークを取り上げ、「このヒロインは千穂をイメージして書かれたんだ」と言った。

嬉しくて、その夜は一睡もできなかった。それから3か月間、こっそり台詞の練習をしていた。

それなのに、絵里香が来たその日に、怜司はあっさり台本を彼女に渡してしまった。

「やりたいなら、ちゃんと言え」

怜司は私の顎を指先で軽くつまんだ。

「何もかもどうでもいいって顔をするな」

私は勇気を振り絞った。

「じゃあ、あの役、私に返してくれる?」

怜司の目元がふっと和らいだ。

けれどそのとき、扉の向こうから絵里香の声が聞こえてきた。

「鳴海さん、監督に言われて、ラストシーンの台詞合わせに来ました」

怜司はしばらく私を見つめてから、手を離した。

「もう遅い。キャストはもう発表されてる。今さら絵里香を降ろしたら、彼女の立場が悪くなるだろ」

胸が少し苦しくなった。

「……そっか」

「またそれかよ」

怜司は眉をひそめた。

「お前のそういうところが、一番嫌なんだ」

私はうつむいた。

「……ごめんなさい」

謝ると、怜司はかえって険しい顔になった。

そこへ絵里香が扉を開けて入ってきた。

映画の制服を着て、髪を高い位置でひとつに結んだその姿は、デビューしたばかりの頃の私にそっくりだった。

「あれ、千穂さんもいらしたんですね!」

絵里香は台本を胸に抱え、少し照れくさそうに言った。

「鳴海さんが、私ってヒロインの若い頃に似てるって言ってくれたんです。

千穂さん、私のこと怒ってませんよね?」

私は首を横に振った。

「ううん、別に気にしてないよ」

そもそも、絵里香が悪いわけじゃない。あの役を彼女に渡すと決めたのは、怜司なのだから。

絵里香は嬉しそうに怜司の隣に座った。けれど怜司は彼女に目もくれず、ずっと私のほうを見ていた。

私がドアの前まで来たところで、怜司がふいに声をかけてきた。

「今日はまだ帰るな。絵里香が泣くシーンで苦戦してるんだ。お前が教えてやれ」

私は振り返った。

「監督に教えてもらえばいいんじゃない?」

怜司は目を細めた。

「お前、あの役をやりたいんだろ?だったら、絵里香よりいい芝居をしてみせろ」

もう諦めかけていたのに、怜司の言葉でまた少し期待してしまった。

私は使い込んだ台本をぎゅっと胸に抱きしめた。

「うん」

怜司はようやく口元を緩めた。

「そう、それでいい」

私は結局、午前2時まで撮影現場に残った。

絵里香が撮影を終えると、スタッフたちは彼女を囲んで大盛り上がりだった。監督も、あの泣きの芝居には光るものがあると褒めていた。

怜司もその輪の中にいて、絵里香の肩に上着をかけてやっていた。

あのシーンでの台詞の間の取り方も、涙を流すタイミングも、全部モニターの陰にいた私が何度も教えたものだった。けれど、それに気づいた人は一人もいなかった。

まして、ちゃんと教えれば怜司が役を返してくれると、私がまだ馬鹿みたいに信じていたなんて、想像もしていなかっただろう。

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第1話
悦子はしばらく黙っていた。電話の向こうから、契約書のページをめくる音が聞こえてきた。「契約解除は、どんなに急いでも3日はかかるわ。それに、企業との仕事もまだ2件残ってるから、先方とも話をつけないと」小さく返事をすると、私のことをよく知る悦子は、もう一度念を押してきた。「もう一度よく考えてみない?解約の書類にサインしたら、5年かけて貯めたお金が全部なくなるのよ」私は非常階段の扉の下から漏れる細い光をじっと見つめた。ふと、昔、父にも同じことを聞かれたのを思い出した。19歳のとき、私は病院の会計窓口で芸能事務所の人に待ち伏せされ、契約書を突きつけられた。父は二度目の手術を終えたばかりで、痛々しいほど痩せ細っていた。それでも私の頭を優しく撫でながら、こう言ってくれた。「役者なんて、嫌ならやらなくていい。うちにはまだフランクフルトの屋台があるだろ。千穂ひとりくらい、父さんが食わせていけるさ」けれど父は、結局病院から帰ってこなかった。私も故郷には帰れなかった。ペンキの剥げたあの小さな屋台は、近所の人が倉庫にしまってくれたきり、もう5年もそのままだった。「とりあえず、手続きは進めて」私は小さな声でそう言って、膝に顔を埋めた。「手続きが終わる頃には、私も決心がついてると思うから」そのとき、不意に扉をノックする音がした。「逢坂さん、鳴海さんがお呼びです」私は慌てて立ち上がり、怜司の控室へ向かった。中にいたのは怜司だけだった。テーブルには新しい台本が置かれていた。私の名前があったはずの場所には、代わりに絵里香の名前が書かれていた。怜司は窓際で電話をしていた。細い腰に沿う黒いシャツを着て、袖は肘まで無造作にまくっていた。手首には見るからに高そうな腕時計が光っていた。あれひとつで、うちの屋台が10台は買えそうだった。私が入ってきたのに気づくと、怜司は電話を切った。「どこ行ってた?」「電話してたの」「誰と?」「悦子さんと」怜司はちらりと私を見た。「俺のこと、悦子さんに何か言ったのか?」「違うよ」私は昔から、嫌なことをされても、誰かに言いつけたりできなかった。子どもの頃、いじめられても、父にどうしたのかと聞かれれば、転んだだけだと答えていた。本当のことを話せば、父は屋台を
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第2話
翌日、絵里香はまた撮影で苦戦していた。今度は別れのシーンだった。泣き顔は確かにきれいで、目元も鼻先も赤くなっていた。それでも監督は7回もカットをかけた。「ただ別れるのが悲しいんじゃない。相手に愛されてないってわかってるのに、離れる勇気が出ないんだよ」絵里香は台本を放り出した。「だって、そういう恋愛はしたことないんですもん。どう演じたらいいんですか?」その場がしんと静まり返った。絵里香は目を赤くしたまま、怜司に視線を向けた。「鳴海さん、私ってそんなに下手ですか?」怜司はモニターの前に座り、火のついていない煙草を指に挟んでいた。「逢坂を呼べ」その頃、私は隣のスタジオでシャンプーのCMを撮っていた。アシスタントが駆け込んできたときも、髪はまだ泡だらけだった。「鳴海さんが、今すぐ来るようにって」それを聞いたCMの監督が慌てて声を上げた。「ちょっと、こっちはまだ撮影が終わってないんだけど!」アシスタントは困ったように答えた。「でも、鳴海さんが10分しか待たないって……」私は急いで泡を洗い流し、髪も乾かさずに駆けつけた。濡れた髪を見るなり、怜司は眉をひそめ、脱いだ上着を頭にかぶせてきた。「髪くらい乾かしてから来いよ」「だって、10分しか待たないって……」怜司は一瞬言葉に詰まり、上着で髪を拭く手つきが少し乱暴になった。「急げとは言ったけど、風邪でも引いたらどうするんだ」すると、撮影現場の中央に座っていた絵里香が、遠慮がちに口を挟んだ。「鳴海さん、皆さん待ってますよ」怜司はアシスタントに上着を投げ渡した。「逢坂を着替えさせろ」私は思わず聞き返した。「えっ、何に着替えるの?」「絵里香の代わりに、一回やってみろ」衣装係が絵里香の衣装を持ってきた。ウエストがきつく、お腹を引っ込めてようやく着られた。撮影現場には、照明が1灯だけ残っていた。怜司はカメラの外に座って、私の相手役になった。このシーンの台詞は何度も練習していた。もともと私が演じるはずだった役なのだから。怜司が別れを告げたとき、彼の目を見つめているうちに、ふと芝居だということを忘れてしまった。「あなたが本当にあの人のことを好きなら、私、もう待たない」けれど怜司は、次の台詞を返してこなかった。
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第3話
翌日の午後、私は契約解除の書類にサインしに行かなかった。怜司が人に頼んで、映画の記念上映会の招待状を届けてくれたからだ。映画のタイトルは「帰り道」。5年前、私が初めて出演した作品だった。私が演じたのは、駅で父親を見送る田舎町の娘。出番はほんの3分ほどだった。当時の私は演技もろくにできず、「お父さん、家に着いたら電話してね」のひと言だけで、20回以上も撮り直しになった。監督は今にも怒鳴り出しそうだった。それでも怜司だけはそばに座って、何度でも付き合ってくれた。撮影が終わったあと、怜司は言った。「演技はまだまだだな。でも、お前の顔はきっと観客の記憶に残る」映画の公開初日、父は4時間もバスに揺られて、一人で東央市まで来てくれた。飲み物を買うのも惜しんでいた父は、アルミホイルで包んだフランクフルトを2本、大事そうに上着の内側にしまっていた。上映が終わると、父は会う人みんなに嬉しそうに話していた。「さっきの映画で、お父さんを見送ってた子、あれ、うちの娘なんですよ」その3か月後、父は重い病に倒れた。「帰り道」は、父が最後に観た映画になった。今年は映画の公開5周年で、制作側は記念上映を企画していた。怜司が招待状を送ってくれたのも、あの映画が私の初出演作だと覚えていてくれたからだと思った。ところが、会場で見たポスターに私の姿はなかった。私が写っていたはずの場所には、絵里香が写っていた。当時私が着ていた青い上着を身につけ、髪型まで同じポニーテールにしていた。私はしばらく、そのポスターの前で立ち尽くしていた。そんな私に、スタッフが事情を説明し始めた。「今回の記念版では、一部のシーンを撮り直したんです。元の映像は画質がよくないし、逢坂さんのお芝居もまだ少しぎこちないから、花澤さんにお願いしようと鳴海さんがおっしゃって……」しばらくして、ようやく話の意味がわかった。記念版では、私が出演したたった3分のシーンまで、絵里香が演じた映像に差し替えられるのだ。そこへ、舞台裏から絵里香が姿を見せた。「千穂さん、気を悪くしないでくださいね。制作側は、作品をもっとよくしたいだけなんです」そう言って、絵里香は怜司と腕を組んだ。「それに鳴海さんも、私のこと、デビューした頃の千穂さんに似てるって言ってく
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第4話
契約解除の書類にサインし終えても、記念上映会はまだ続いていた。悦子は契約書をしまうと、しばらく私の顔を見ていた。「泣きたいなら、我慢しなくていいのよ」私は首を横に振った。「今日のメイク、結構お金かかってるんだよ。泣いて崩れたら、また直してもらわなきゃいけないし」悦子は笑わず、ただそっと私を抱きしめてくれた。その途端、涙がこぼれそうになったけれど、ぐっとこらえた。子どもの頃は、父によく泣き虫だと言われた。焼いていたフランクフルトの皮が破れたり、テストで1点落としたりしただけで、すぐ泣いていた。そんな私を見るたび、父は笑いながら棚の下から一番大きなフランクフルトを出してくれた。「泣きたいだけ泣け。泣き終わったら、これ食べな。大丈夫、なんとかなるさ」でも、そんな父ももういない。あんなふうに慰めてもらうこともなくなり、私も少しずつ、泣くのをこらえるようになった。会場を出る前に、私は舞台裏に立ち寄った。翌日には、怜司の大事なシーンの撮影が控えていた。怜司は感情が高ぶると、つい台詞を強く言いすぎる癖があった。台本の気になる箇所に丸をつけ、もう少し抑えるよう付箋に書いておいた。のど飴もあと半箱しか残っていなかったので、アシスタントに新しいものを2箱買ってきてもらった。すると、アシスタントは不思議そうな顔で聞いてきた。「逢坂さん、明日は来られないんですか?」「ちょっと用事があって」「じゃあ、鳴海さんは……?」私は一瞬、面食らった。どうやらみんな、私がいないと怜司が困ると思っているらしい。でも、怜司は主演男優賞を三度も受賞している俳優だ。私と出会う前だって、ちゃんとやっていたはずだ。「食事は時間どおりに取るように、声をかけてあげて。それから、空腹のときはコーヒーを飲まないようにね。あと、水に入るシーンの撮影後は頭が痛くなりやすいから、水筒に少し熱めの白湯を入れておいて」話を聞くうちに、アシスタントの表情が変わった。「逢坂さん、どこかへ行かれるんですか?」私は首から下げていた関係者パスを外した。「家に帰るの」「何日かお休みするんですか?」私は答えなかった。実家のフランクフルトの屋台は、もうそのままでは使えないほど傷んでいた。骨組みは錆びつき、雨にさらさ
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第5話
「逢坂さんは、もう正式に事務所を辞めています」アシスタントは言葉を選びながら続けた。「違約金と広告関係の賠償金を合わせて、2億を超えます。昨夜、逢坂さんが一括で支払いました」怜司はアシスタントをにらんだ。「誰が受け取っていいって言った?」アシスタントは何も答えられなかった。契約書には、違約金さえ払えば辞められると、はっきり書かれていた。5年前、千穂がその契約書にサインするのを、怜司も見ていた。違約金は2億を超えていた。その金額を見て、千穂は顔を真っ青にしていた。怜司はそんな千穂を抱き寄せ、平然と言った。「何をそんなに心配してるんだ。俺と一緒にいれば、そんな金、一生払わなくていい」あのとき、千穂は怜司を見上げて聞いた。「怜司……私のこと、いつかいらなくなったりしない?」「くだらないこと聞くな」怜司はそれ以上、まともに答えようとしなかった。千穂が自分のもとを離れるなんて、思ってもみなかったのだ。怜司は車のキーを手に取った。「逢坂がどの列車に乗ったか、調べろ」「もう調べてあります」アシスタントは少しためらってから答えた。「23時40分発の夜行列車です。出発してから、もう1時間近く経っています」「次の駅には何時に着く?」「鳴海さん、今からじゃ間に合いませんよ」怜司の目つきが険しくなった。「何時だって聞いてるんだ」次の停車駅は雲野駅。到着は午前2時20分で、停車時間はわずか3分だった。怜司はすぐに、高速に乗るよう運転手に言った。運転手はナビに目をやった。「無理です。どんなに飛ばしても2時間半はかかります」「いいから車を出せ」「鳴海さん、撮影じゃないんですから。いくら急いだって間に合いませんよ」怜司は手の甲に青筋が浮くほど、拳を強く握りしめた。数秒後、悦子に電話をかけた。だが、すぐに切られた。かけ直しても同じだった。何度もかけ直し、五回目でようやく悦子が出た。「何かご用ですか?」「千穂はどこに行った?」悦子は小さく笑った。「今さらそんなことを聞くんですか?」「千穂の実家はどこだ?」「5年もそばにいて、そんなことも知らないんですか?」怜司は顔をしかめた。「いいから、実家の住所を教えろ」「どうして教えなきゃいけな
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第6話
電話の向こうで、怜司はしばらく黙っていた。「いつまで拗ねてるんだ?」私はしゃがんだまま、焼き台の錆を確かめた。「拗ねてなんかないよ」「だったら戻ってこい。明日から新作の撮影だ。お前にも役を用意してやる」以前は、怜司にあんなふうに言われるのが怖かった。少し声を低くされるだけで、自分が何か悪いことをしたような気になっていた。でも、今は違った。遠く離れた怜司の機嫌より、目の前の焼き台の錆のほうがよっぽど気になった。「私、もう女優はやめる」「あのシーンを差し替えたくらいで、5年間やってきたことを全部投げ出すのか?」「あのシーンだけの話じゃないよ」「じゃあ、何なんだよ?」怜司が約束してくれた役。絵里香に教えた、あの泣きの芝居。そして、父が4時間もバスに揺られて映画館まで来て、見てくれた私のたった3分間。いろんなことが重なって、何から話せばいいのかわからなかった。結局、口にできたのはひと言だけだった。「……もう疲れた」怜司の声が低くなった。「俺の前でも、同じことが言えるのか?」また涙が出そうになった。怜司はいつもそうだった。自分から私を突き放しておいて、私が本当に離れようとすると、今度は引き止める。「……もう、怜司のそばにはいないよ」私は小さな声で続けた。「地元に帰ってきたの」私は電話を切ると、スマホの電源も落とした。ちょうどそのとき、茂雄が修理を頼んだ職人さんを連れて倉庫に入ってきた。「なんだ、泣いてるのか?焼き台なら直せるぞ」私は鼻をすすった。「うん。修理代が高くついたらどうしようって」茂雄は呆れたように笑った。「まったく、昔から金のことには細かいな」焼き台も割れたガラスも交換できるし、看板は塗り直せばいい。修理代もそれほどかからずに済みそうだった。見積もりが出ると、私は30分も粘って値切った。結局、1万もまけてもらえて、すっかり気分がよくなった。一方、東央市の撮影現場は朝からぴりついていた。怜司は一睡もしないまま撮影に入り、水に入るシーンを9回撮っても、監督は納得しなかった。10回目も途中で撮影を止め、怒りをこらえながら言った。「鳴海さん、もう少し抑えてください。ここは別れたくない気持ちを見せる場面です。相手を殺したいわけじゃない
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第7話
屋台の修理には、3日かかった。焼き台を新しくして、ひびの入ったガラスも取り替えた。看板は、かすれた店名の文字だけ塗り直した。全部きれいにしてしまうのは、なんだか惜しかった。茂雄にはみすぼらしいと言われたけれど、私はこれでよかった。古いのは確かだ。でも、この屋台には昔の思い出が詰まっているから。店を再開した日も、特別なことは何もしなかった。茂雄が2本、隣の果物屋のおばさんが3本買ってくれた。学校帰りの子供も二人寄ってきたけれど、モチに夢中で、結局フランクフルトは一本も買わずに帰っていった。いっそ顔を売りにして客を呼ぼうか、なんて考えていたら、悦子からビデオ通話がかかってきた。「千穂、ちょっとSNS見て!」「え、どうしたの?」「『帰り道』の公式が、例の件について発表してる!」言われるままSNSを開くと、「帰り道」がトレンド入りしていた。制作会社は、5周年記念版で差し替えたシーンを元に戻すと発表していた。絵里香が撮り直したシーンは、結局使われないらしい。怜司もその発表を引用リポストしていた。【今回の差し替えは、私の意向によるものです。花澤絵里香さんに責任はありません。すべての責任は私にあります】コメント欄は大荒れだった。立場を利用して好き勝手やったと叩く人もいれば、ちゃんと非を認めたんだからいいじゃないかと擁護する人もいた。私のアカウントにも、何かコメントしてほしいという声が寄せられていた。そんな中、悦子が聞いてきた。「千穂は?何か投稿する?」「しないよ」「えー、せっかくのチャンスなのに。ちょっとくらい仕返ししてやればいいのに」「仕返しなんて、もういいよ」私は焼いていたフランクフルトをひっくり返した。「あのシーン、もともと私が演じたんだから。元に戻すのが当たり前でしょ」「……千穂、やっと目が覚めたじゃない」思わず笑ってしまった。「フランクフルトのおかげかな」「帰り道」は、その日ずっとトレンド入りしていた。夜になって、宗一郎から電話がかかってきた。怜司の話は一切せず、記念版に私のシーンを使ってもいいか、それだけを聞いてきた。「『帰り道』の権利って、制作会社にあるんですよね?わざわざ私に聞かなくても……」「まあ、そうなんだけどね」宗一
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第8話
後ろに並んでいたお客さんたちも、こちらを見ていた。怜司はまたカードを私のほうへ押してきた。「少し話せないか」私はカードを押し返した。「今は忙しいの」「……じゃあ、待つ」そう言ったきり、怜司は午後ずっと屋台のそばに立っていた。嫌な顔ひとつせず、アシスタントに人払いをさせることもなかった。気づいた人がスマホを向けても、帽子を深くかぶり直すだけで、その場を離れなかった。店じまいの頃には、フランクフルトが2本残っていた。怜司はそのうちの一本を手に取った。「いくらだ?」「一本300」怜司は店のQRコードを読み取ると、いきなり3万も払ってきた。私は慌てて余分な分を返金した。「ちょっと、勝手にこんなに払わないでよ」「いいだろ、俺が払いたいんだから」「そんなに払われたら、私がぼったくったみたいじゃない!」「千穂」怜司はフランクフルトをひと口かじると、顔をしかめた。「……焦げてるぞ」「えっ、うそ」慌てて受け取り、ひと口かじってみた。確かに焦げていた。昔の怜司なら、屋台のものなんて絶対に食べなかったのに。私がフランクフルトを差し出すと、残りも全部食べてしまった。「5分だけでいい。話を聞いてくれ」私は焼き台を拭きながら答えた。「で、何?」「新作のヒロインは、やっぱりお前にする」「絵里香はどうするの?」「あいつじゃ無理だ」「絵里香のほうが合ってるって言ってなかった?」怜司は気まずそうに目をそらし、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと言った。「……俺が間違ってた」怜司が自分の間違いを認めるなんて、初めてだった。なのに、不思議とあまり嬉しくなかった。「でも、絵里香だってもう結構撮ってるんでしょ?今さら怜司が勝手に降ろすなんて、あの子だって納得できないでしょ」怜司はじっと私を見た。「お前、あいつをかばうのか?」「そうじゃないよ。私だって同じことされたでしょ」私が役を取られたとき、誰もおかしいとは言ってくれなかった。でも、だからって今度は絵里香を降ろして、自分がその役に戻りたいとは思わなかった。あの子に役を取られたのは確かだけど。「じゃあ、どうすればいいんだ?」「別に、何もしなくていいよ」「『帰り道』のシーンは元
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第9話
宗一郎の新作は、あまり予算がなかった。キャストもスタッフも町の小さな宿に泊まり、私専用の控室も、個室のメイクルームもなかった。お弁当も、ずいぶん質素だった。撮影初日を前に、緊張して一睡もできなかった。台本を抱えて、宗一郎のところへ行った。「……やっぱり、ほかの人に代わってもらったほうが……」ちょうどコーヒーを飲んでいた宗一郎は、思わずむせそうになった。「おいおい、朝から何言い出すんだよ!」「だって、私のせいで損させたら……」「君のギャラなんて、うちの運転手の給料より安いんだぞ。大した損にはならないって」ひどい言い方だったけど、なぜかほっとした。最初のシーンは6回撮ってもうまくいかず、7回目でようやくオーケーが出た。でも、誰かが拍手してくれるわけでもなかった。スタッフはすぐに次の準備を始め、宗一郎もひと言だけ。「よし、次いこう」私はカメラの前に立ったまま、ふと思った。ああ、これでいいんだ。ちゃんと演じれば、そのシーンは残る。うまくいかなければ、また撮ればいい。ここでは誰かの顔色をうかがう必要もないし、わざと嫉妬させるために役を奪われることもない。ただ、自分の芝居に集中していればいいんだ。撮影5日目、怜司がやって来た。といっても、現場には入らず、少し離れたところに停めた車の中にいた。それに気づいた宗一郎は、車まで行って窓を叩いた。「何しに来た?」「ちょっと撮影を見に」「誰を?」怜司が答えずにいると、宗一郎は鼻で笑った。「悪いが、ここにお前の知り合いなんかいないぞ」それでも怜司は帰らず、その日の撮影が終わるまでずっとそこにいた。写真館での撮影を終えて外に出ると、目を真っ赤にした怜司が街灯の下に立っていた。「ちょっと話せるか」私は台本を胸に抱えた。「……今度は何?」「絵里香が新作を降りた」「えっ、どうして?」「もう続けられないってさ」怜司は力なく笑った。「俺と仕事するのも怖いんだと」まあ、無理もないと思った。「代わりのヒロインも決まった」「そう。よかったね」「誰になったか、気にならないのか?」「別に。もう私には関係ないし」怜司は私の顔をじっと見た。「……もう、俺のことなんかどうでもいいのか?」「どういう意
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第10話
宗一郎の新作が公開された頃、私は26歳だった。大ヒットとはいかなかったけれど、映画の評判は上々だった。写真館の明かりを消すシーンを切り抜いた動画がSNSで広まり、何十万回もシェアされた。コメント欄には、どうして今まで注目されなかったのかと驚く声が相次いだ。その後、悦子が新しい仕事を3本持ってきてくれたけれど、私はそのうちの1本だけ引き受けた。撮影のない日は地元に戻って、相変わらずフランクフルトを売っていた。父の屋台は、その頃には小さな店になっていた。フランクフルトを焼くのは茂雄で、会計は私の担当だった。茂雄は相変わらずソースをケチるし、私は私で、もう少し値上げできないかななんて考えていた。モチもすっかり丸々と太って、毎日レジ台の上でのんびり寝そべっていた。公開5周年を記念して上映された「帰り道」には、父が見てくれたあの3分間も、そのまま残っていた。後日、映画館から記念ポスターが届いたので、店の壁に飾った。そこには、駅のホームに立つ昔の私が写っていた。まだ幼さの残る顔に、少し腫れぼったい目。演技だって、決してうまくなかった。それでも、父がスクリーンで見てくれたのは、確かにあの頃の私だった。その年、私は助演女優賞を受賞した。授賞式で、司会者に誰にお礼を言いたいか聞かれた。緊張で、トロフィーを握る手が汗ばんでいた。「父です。昔、父は屋台でフランクフルトを売って、私を育ててくれました。今は逆に、私の出演料で父の店をなんとかやってます」客席からどっと笑いが起きて、私もつい頬が緩んだ。「それから、昔の自分にも伝えたいことがあります。昔は、顔しか取り柄がないと思っていたし、何をするにも怖くて仕方ありませんでした。でも、怖がりのままでもいい。少しずつでいいから、後ろばかり見ずに進んでいこうって、今ならそう言ってあげたいです」まぶしい照明の向こう、客席に怜司の姿が見えた。この一年、怜司が突然会いに来たり、プレゼントを送ってきたりすることはなかった。ただ、私の映画が公開されるたびに、劇場の隅の席で一人で観ていたそうだ。悦子の話では、最近の怜司は気味が悪いくらい変わったらしい。新人女優に私の話し方をまねさせるのもやめ、スタッフにも、私とほかの女優を比べるなと言っているそうだ。
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