悦子はしばらく黙っていた。電話の向こうから、契約書のページをめくる音が聞こえてきた。「契約解除は、どんなに急いでも3日はかかるわ。それに、企業との仕事もまだ2件残ってるから、先方とも話をつけないと」小さく返事をすると、私のことをよく知る悦子は、もう一度念を押してきた。「もう一度よく考えてみない?解約の書類にサインしたら、5年かけて貯めたお金が全部なくなるのよ」私は非常階段の扉の下から漏れる細い光をじっと見つめた。ふと、昔、父にも同じことを聞かれたのを思い出した。19歳のとき、私は病院の会計窓口で芸能事務所の人に待ち伏せされ、契約書を突きつけられた。父は二度目の手術を終えたばかりで、痛々しいほど痩せ細っていた。それでも私の頭を優しく撫でながら、こう言ってくれた。「役者なんて、嫌ならやらなくていい。うちにはまだフランクフルトの屋台があるだろ。千穂ひとりくらい、父さんが食わせていけるさ」けれど父は、結局病院から帰ってこなかった。私も故郷には帰れなかった。ペンキの剥げたあの小さな屋台は、近所の人が倉庫にしまってくれたきり、もう5年もそのままだった。「とりあえず、手続きは進めて」私は小さな声でそう言って、膝に顔を埋めた。「手続きが終わる頃には、私も決心がついてると思うから」そのとき、不意に扉をノックする音がした。「逢坂さん、鳴海さんがお呼びです」私は慌てて立ち上がり、怜司の控室へ向かった。中にいたのは怜司だけだった。テーブルには新しい台本が置かれていた。私の名前があったはずの場所には、代わりに絵里香の名前が書かれていた。怜司は窓際で電話をしていた。細い腰に沿う黒いシャツを着て、袖は肘まで無造作にまくっていた。手首には見るからに高そうな腕時計が光っていた。あれひとつで、うちの屋台が10台は買えそうだった。私が入ってきたのに気づくと、怜司は電話を切った。「どこ行ってた?」「電話してたの」「誰と?」「悦子さんと」怜司はちらりと私を見た。「俺のこと、悦子さんに何か言ったのか?」「違うよ」私は昔から、嫌なことをされても、誰かに言いつけたりできなかった。子どもの頃、いじめられても、父にどうしたのかと聞かれれば、転んだだけだと答えていた。本当のことを話せば、父は屋台を
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