Share

第2話

Author: 藤原 白乃介
その言葉を聞いた瞬間、智哉の表情は冷え切り、鋭い視線で佳奈をじっと見つめた。

「俺は結婚しないって前に言っただろう。遊びが続けられないなら、最初から承諾するな」

佳奈の目尻は薄紅に染まりながらも、静かに言葉を返した。

「最初は二人の感情だったのに、今は三人になった」

「彼女は君にとって何の脅威にもならない」

佳奈は自嘲気味に微笑んだ。

「彼女の電話一本で、あなたは私を放り出し、私が死にかけていることすら気にしない。智哉、どうすれば『脅威』になるのか教えてよ」

智哉の瞳には怒りがはっきりと浮かんでいた。

「佳奈、生理痛くらいでここまで大げさに騒ぐ必要があるのか?」

佳奈は彼の言葉を聞き、静かに息を吸い込むと言った。

「じゃあ、もし私が妊娠していたら?」

「子供を理由にするのはやめろ。俺は毎回きっちり避妊している」

その冷たく迷いのない口調に、佳奈の心に残っていたわずかな幻想が音を立てて崩れた。

もし本当に子供がいたとしても、彼はそれすらも排除しようとするだろう。

佳奈は拳を固く握り、爪が皮膚に食い込んでも痛みを感じなかった。

彼女は顎を上げ、苦々しい笑みを浮かべて言った。

「あなたはこう言ったわね。『二人の関係は感情だけ。結婚はしないし、どちらかが飽きたらすぐに別れよう』。智哉、私、もう飽きたの。別れよう!」

その言葉は簡潔で、迷いも未練も感じさせなかった。

だが、誰も彼女の胸の中から血が流れていることに気づくことはなかった。

智哉の手は拳を握りしめ、青筋が浮かび上がっていた。彼の目は鋭く、冷たく佳奈を射抜いた。

「その言葉がどういう結果を招くか分かってるのか?」

「この言葉があなたの機嫌を損ねるのは分かってる。でも智哉、私は疲れたの。三人で築く愛なんていらない」

彼女はかつて、愛さえあれば結婚など必要ないと信じていた。

しかし、それが間違いだったと気づいた。智哉の心は、最初から彼女には向いていなかったのだ。

智哉は彼女の顎を乱暴に掴み、その瞳に冷笑を浮かべた。

「こんな手で俺に結婚を迫るつもりか?佳奈、お前は俺を甘く見てるのか、それとも自分を買いかぶってるのか」

佳奈は絶望に満ちた目で彼を見つめた。

「どう思われても構わない。今日ここを出ていくわ」

彼女がベッドから降りて荷物をまとめようとした瞬間、智哉は彼女の腕を強く引き寄せ、抱きしめた。

熱く湿った唇が、彼女の唇を正確に捉えた。

その低く響く声は冷たく、嘲笑を含んでいた。

「俺を離れて、また藤崎家が以前の状態に戻るのが怖くないのか?これはお前が三年かけて捧げた青春の代償なんだぞ」

その言葉に佳奈の頭は真っ白になった。目を見開き、信じられない様子で彼を見た。

「それってどういう意味?三年の青春って何のこと?」

智哉は彼女の唇の咬み痕を冷たい指先で弄び、口元には嘲笑を浮かべていた。

「俺に助けを求める計画を立てて、結婚しない条件でも俺についてきた。それが父親を助けて藤崎家を救うためじゃないと、他に理由があるのか?」

確かに三年前、藤崎家は前例のない経済危機に直面していた。

智哉と付き合い始めてから、彼は藤崎家に多くの仕事を与え、その危機を脱させた。

それを智哉が自分のことが好きだからだと、彼女は信じていたのだ。

佳奈は震える唇で問いかけた。

「じゃあ、この三年間、あなたの優しさはすべて演技で、そこには一切の感情がなかったってこと?」

智哉はその問いに怒りが爆発し、額の血管が浮き上がった。

歯を食いしばりながら冷たく言い放った。

「ただの体だけの遊びだ。本気になると思ったのか?」

その短い一言は、鋭い刃となって佳奈の心を深く切り裂いた。

佳奈は三年間、深い愛情を注いできたが、智哉にとってそれはただの金と肉体の取引に過ぎなかった。

彼女だけが愚かにも、彼が自分を愛していると信じていたのだ。

その事実に気付いた瞬間、佳奈は体中の全ての神経が獣に引き裂かれるような痛みを感じた。

目に宿る悲しみも徐々に冷たく硬いものに変わっていく。

「三年間の青春で、もう十分に高橋社長への恩を返したと思います。これでお互い清算しましょう。これからは二度と関わらず、お互い幸せに生きましょう」

佳奈の倔強な表情に、智哉はますます怒りを募らせた。

「佳奈、一晩だけ考える時間をやる。その後でよく考えてから俺に答えろ」

冷酷な雰囲気をまといながら、智哉は背を向けて部屋を出て行った。

残された佳奈は、ひとりベッドの上で体を丸めたまま動けなかった。

ずっと抑えていた涙が、気づけば頬を伝って流れ落ちていた。

彼女の七年間の片思いと、三年間の献身的な尽くしは、智哉にとってただの恥ずべき取引でしかなかった。

恋愛において、先に心を動かした方が負けだと言われる。

ましてや佳奈は智哉に出会ってから四年も前に恋をしていた。

彼女は完敗し、惨めな姿をさらすしかなかった。

泣き疲れた佳奈は、静かに立ち上がり、最低限の荷物をまとめると、振り返ることなく部屋を後にした。

——

一方で、夜の静けさを切り裂くように、黒いロールスロイスが街道を駆け抜けていた。

智哉の頭の中には、佳奈が「私たち、別れよう」と言った時の毅然とした表情が浮かんでいた。

ただ誕生日を一緒に過ごさなかっただけ、ただ嫉妬しただけ。

そんなことで別れを切り出すなんて、彼女の小さなわがままをちゃんと直さなきゃいけないと考えていた。

智哉はイライラしてネクタイを引き剥がし、助手席に投げ捨てた。

携帯の着信音が何度も鳴り響き、しばらくしてようやく応答ボタンを押した。

「なんだ?」

電話の向こうから、飄々とした声が聞こえた。

「何してんだよ?全然電話に出ねえじゃん」

「運転中だ」

石井誠健(いしい のりたけ)は不敵な笑みを浮かべながら言った。

「何が運転中だよ?藤崎秘書といちゃいちゃしてんじゃないの?お邪魔しちゃった?」

「暇そうだな」

「いやいや、ちょっと聞きたかっただけだ。月影バー、来るか?辰也が奢るらしいぞ」

10分後――

月影バー。

誠健は智哉に酒を差し出し、悪戯っぽく笑いながら言った。

「顔が地面に落ちそうなくらい暗いぞ。どうした?佳奈と喧嘩でもしたのか?」

智哉は冷たい視線を彼に向けながら言った。

「カップルが感情をぶつけ合うことで仲を深めるのを知らないのか?」

「おやおや!これは“夜”を重ねるうちに情が湧いちゃったってやつか?まさか本気になった?」

誠健は“夜”という言葉をわざと強調しながら、痞悪な笑みを浮かべた。

智哉はためらいなく彼を蹴り飛ばした。

「黙れ」

「分かったよ、黙るよ。でも忠告しとく。もし佳奈が本当に好きなら、美桜との関係はきっちり整理しろ。毎回彼女から電話が来るたびに駆けつけるようじゃ、そのうち“奥さん“が出て行っても文句言えないぜ」

智哉は眉間にシワを寄せた。

「彼女には脅威にならないと説明した。でも信じない」

「いや、普通の女なら信じないだろうな。美桜はお前の幼馴染で、子供の頃から婚約者みたいなもんだろ?どの女が、自分の男がそんな相手に頻繁に会いに行くのを我慢できると思うんだ?」

智哉は煙草ケースから一本取り出して火をつけ、深く吸い込んだ。

その黒い瞳はますます暗さを増していく。

「俺と彼女は......」

言葉を言い終える前に、貸し切りルームのドアが開いた。

遠山辰也(とおやま たつや)が美桜を伴って部屋に入ってきた。

「悪いな。美桜がちょっと情緒不安定で、一緒に来させてもらった。迷惑じゃなければいいが」

誠健は智哉の険しい表情を横目で見て、気まずそうに笑った。

「いやいや、迷惑なわけないだろう。美桜、こっち来て誠健兄さんの隣に座れよ」

美桜は優しげで無邪気な笑みを浮かべながら答えた。

「そっちはエアコンの風が直接当たるから寒いわ。ここに座らせてもらう」

そう言うと、彼女は智哉の隣に腰を下ろし、小さな箱を鞄から取り出して智哉の前に置いた。

「智哉さん、この前私を助けるために彼女の誕生日を逃したけど、怒られなかった?」

智哉は淡々と答えた。

「怒ってない」

「それなら良かった。これ、彼女へのお詫びとして私が選んだ口紅よ。もし彼女が誤解してるなら、私から直接説明してもいいわ」

智哉は目もくれずに拒絶した。

「いらない」

その言葉を聞いた途端、美桜の目には涙が浮かんだ。

「智哉さん、私があなたを煩わせすぎているの?でも、病気の発作が出ると、ついあなたに頼ってしまうの」

言葉と共に、大粒の涙が頬を伝って落ちていく。

智哉は彼女を一瞥し、眉を寄せた。

ポケットに口紅をしまい込み、低く言った。

「俺が彼女に渡しておく」

美桜は瞬時に表情を明るくし、智哉に一杯酒を注いだ。

「智哉さん、これ飲んでみて。兄が海外のオークションで落札した82年もののワインよ」

彼女が酒杯を渡すとき、指先が意図せず彼の手首に触れた。

智哉はすぐに手を引き、煙草を灰皿に押しつけて消した。

「そこに置いとけ」

美桜は彼が自分を拒む様子を見て、一瞬冷たい表情を見せたが、すぐに従順な笑顔に戻った。

辰也は酒杯を持ち上げ、智哉と乾杯しながら言った。

「お前の彼女にはまだ会ったことないな。今度一緒に連れてこいよ」

誠健がからかうように笑った。

「最近は無理だろうな。今、絶賛喧嘩中らしい」

辰也は智哉の険しい表情を見ながら笑った。

「喧嘩なんてすぐに仲直りできるさ。まあ、俺が助けたあの女の旦那みたいにはなるなよ。彼女が流産して大出血で死にかけてるのに、電話を無視して他の女と一緒にいたって話だ」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Related chapters

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第3話

    智哉はグラスを持つ手を何度も握りしめた。同時に、心の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。あの日、美桜が自殺未遂を起こし、佳奈も生理痛で何度も彼に電話をかけていた。最初は応答していたが、後には苛立ちのあまり電話を切ってしまった。もしかして、それが原因で別れを切り出したのだろうか。智哉は視線を落としながら、辰也と誠健がそのクズ旦那を罵るのを聞いていた。指先に挟んだ煙草の火が手の甲を焼いても、全く気付かなかった。その夜、智哉はずっと落ち着かない気分で過ごしていた。普段ならこの時間になれば佳奈から電話が来て、帰宅を気遣う言葉があったはずだ。しかし、今は深夜1時を過ぎても、一度も連絡が来なかった。胸の奥に不安が広がり、智哉はすぐに煙草を揉み消し、スマホを手にして店を後にした。バーを出たところで、一人の少女が花かごを抱えて近づいてきた。「お兄さん、彼女さんに花をプレゼントしませんか?」と笑顔で話しかけてきた。智哉はかごの中に盛られたシャンパンローズを見つめながら、辰也の「ちょっと優しくすればいいだけ」の言葉を思い出した。そして答えた。「全部、包んでくれ」少女は嬉しそうに花を美しくラッピングして彼に渡し、たくさんの祝福の言葉を添えた。智哉の険しい表情も、少しだけ和らいだ。彼は財布から数枚の万札を取り出して少女に渡した。しかし、花束を抱えて家に戻った彼を待っていたのは、佳奈の愛らしい姿ではなく、家政婦だった。「お帰りなさいませ。酔覚ましスープをお作りしましたが、一杯いかがですか?」智哉は眉をひそめ、階上を見上げながら尋ねた。「彼女は寝ているのか?」家政婦は一瞬戸惑った後、すぐに答えた。「藤崎さんは出て行かれました。これをお預かりしています」智哉は家政婦から一つの封筒を受け取り、それを開けてみた。中には佳奈が書いた衣類リストが入っていた。額に青筋を立てながら、彼はその紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てた。すぐにスマホを取り出し、佳奈に電話をかけた。着信音が長く鳴った後、ようやく彼女が応答した。受話器の向こうから、少し掠れた声が聞こえてきた。「何?」智哉は骨ばった手でスマホを強く握り締め、歯を食いしばりながら問いかけた。「本気でやるつもりか?」「本気よ」と佳奈は冷静

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第4話

    智哉のキスはいつも強引で容赦がなく、佳奈が逃げ出す隙を一切与えなかった。彼は彼女をデスクに押し付け、一方の手で彼女の顎を掴み、もう一方の手で彼女の腰をしっかりと抱き寄せていた。柔らかく甘い感触が、彼の全身の神経を刺激し、体内に眠る獣が檻を破ろうと暴れ回っていた。智哉と佳奈が一緒にいた頃、その情事はとても円満だった。彼がどれだけ求めても、佳奈は彼の望むまま応えてくれた。時には疲れ果てて気を失うことさえあったが、彼女は決して文句を言わなかった。しかし、今の彼女はまるで別人のように激しく抵抗し、涙が熱く頬を伝っていた。智哉は動きを止めた。長い指で彼女の目尻の涙をそっと拭いながら、欲求不満を滲ませた低い声で言った。「佳奈、このゲームは俺が終わりだと言うまで終わらない。分かったか?」佳奈は涙に濡れた瞳で彼を見つめ、血の滲んだ唇を震わせながら言った。「智哉、私はあなたに辱められるためにいるわけじゃない!」智哉は彼女の唇から血の滴を舐め取ると、目に笑みを浮かべることなく静かに笑った。「もし藤崎家を犠牲にする覚悟があるなら、試してみるといい」そう言うと、彼は立ち上がり、目を逸らさず佳奈の乱れたスカートとその下の細く長い脚を一瞥した。佳奈は強烈な屈辱を感じ、急いで身なりを整えるとドアに向かって歩き出した。ドアを開けると、そこには白いワンピースを身に纏った美桜が立っていた。彼女は人畜無害な笑顔を浮かべていた。「智哉さん、朝ごはんを持ってきました」佳奈はこれが美桜との初めての近距離での対面だった。彼女たちの顔立ちには確かに少し似ているところがあった。特に目元と鼻筋が。その瞬間、佳奈は自分の推測が正しかったことを確信した。智哉が彼女を純粋な目的で疑った一方で、彼を引き留めた理由はただひとつ、彼女を美桜の代わりとして見ていたのだ。三年の愛情は、最後には代用品という結末を迎えた。佳奈の胸は張り裂けるような痛みに襲われた。彼女はなんとか自分を落ち着かせ、美桜に軽く頷くと、その場を立ち去った。オフィスのドアが閉まる音を聞きながら、智哉は冷たい目で美桜を見つめた。「どうしてここに来た?」美桜の目にはすぐに涙が浮かび、弱々しく頭を垂れた。「ごめんなさい、智哉さん。最近、朝ごはんを

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第5話

    佳奈は素早く反応し、横に身をかわしたが、それでも熱いコーヒーの一部が足に飛び散った。彼女は思わず息を呑み、痛みで顔をしかめた。美桜に文句を言おうと顔を上げたその瞬間、彼女の体が後ろのガラス棚に向かって倒れていくのが見えた。佳奈はとっさに手を伸ばして彼女を引き留めようとしたが、美桜はその手を振り払った。「ガシャーン!」美桜の腕がガラスを粉々に砕き、鋭い破片が床に散らばる。彼女の腕から流れる鮮血が、足元に滴り落ちていった。その時、背後から智哉の冷たい声が響いた。「佳奈、何をしている!」智哉の高く引き締まった体が素早く美桜のそばへ駆け寄る。その深い瞳はどんどん暗さを増していった。「大丈夫か?」美桜の顔は真っ青になり、涙が頬を伝い落ちていた。震える唇で、泣きながら話し始めた。「智哉さん、全部私が悪いんです……私が不注意で藤崎秘書にコーヒーをかけてしまったんです。だから、彼女が私がわざとだと思って押したんです……でも、彼女を責めないでください、お願いです……」その言葉を聞いた瞬間、佳奈の目は驚きで見開かれた。美桜が自分を陥れるために苦肉の策を使ったことに気づき、彼女はすぐに反論した。「私じゃありません!彼女が自分で倒れたんです!」智哉の冷たい視線が彼女の体を一瞬だけ舐めるように走り、彼女の火傷した足に視線が留まる。しかしすぐに目を逸らし、冷たい声で言い放った。「俺が戻ったら話をつける」そう言い残すと、彼は美桜を抱えるようにして足早にその場を去った。佳奈は彼らの背中を見送りながら、表情に言いようのない痛みが浮かんでいた。これが、自分が七年も愛し続けた男なのか。彼は美桜と自分の間で、一度も自分を信じる選択をしなかった。佳奈はすぐに気持ちを切り替えた。美桜の計略を成功させるわけにはいかない。たとえ智哉との関係が終わったとしても、彼が自分にどう思おうと関係ない。だが、こんな捏造された事実を許すわけにはいかない。一度許せば、次もまた同じことが起きる。彼女はすぐに同僚の石川を見つけ、彼女の技術部にいる恋人に頼んで、さっきの出来事の映像をコピーしてもらった。自分の潔白を証明するためだった。すべてを処理した佳奈は、その一件から素早く気持ちを切り離し、冷静さを取り戻した。佳奈は仕

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第6話

    智哉の瞳が一瞬止まり、冷たく佳奈を見据えた。「命を捨てたいなら、試してみるといい」佳奈の整った顔立ちに薄い嘲笑が浮かぶ。「どうして私が試したことがないって思うの?もし私が今、2000CCも失血していたら、それでも彼女に献血しろって言うの?」「佳奈、くだらない言い訳はやめろ。生理中の最大出血量なんてせいぜい60CCだろう?嘘をつくならもう少しまともな話にしろ」佳奈は苦々しく笑った。ここまで言っても、彼は信じてくれない。少しでも彼が自分に気を掛けていたら、少しでも彼女のことを理解していれば、追及するくらいはしたはずだ。彼が少しでも彼女のことを理解していれば、彼女が見て見ぬふりをするような人間ではないことくらいわかるはずだった。それが、愛されている人間とそうでない人間の違いだった。美桜の小さな傷でこれほどまでに慌てふためく彼。一方で、佳奈が危険な流産手術を経験したことには一切気づかなかった。佳奈が胸の痛みを感じていたそのとき、病室の入口に見覚えのある人影を見つけた。佳奈はその場で呆然と立ち尽くした。あの日、意識が朦朧とする中で、彼女は一つの人影を見た。耳元で優しく低い男性の声が彼女の名を呼ぶのが聞こえた。彼女は無理やり目を開け、その声の主が目の前にいる男性であることをはっきり覚えていた。そのとき彼女は、その腕をしっかりと掴みながら、弱々しく懇願した。「お願い……助けて……」目を覚ましたとき、知里が教えてくれたのは、彼女を病院に運んでくれたのが眼鏡をかけたイケメンだったということ。佳奈は自嘲気味に微笑み、足を引きずるようにその男性、辰也の元へと歩いていった。「あなたは美桜さんのお兄さんですよね?」辰也は軽く頷き、穏やかな声で答えた。「はい。藤崎さん、体調に何か問題があれば、私が……」佳奈は一瞬目を閉じ、運命を受け入れるように小さく息を吐いた。神様も皮肉なことをしてくれるものだと感じながら、彼女は微笑み、口を開いた。「辰也さん、少しお時間をいただけますか?」彼女が辰也を近くの階段に誘おうとしたその瞬間、智哉が手首を掴んだ。「何を話すつもりだ?俺の前で言えないことでもあるのか?」佳奈は冷たい笑みを浮かべた。「あなたの前で話す?あなたに聞く権利があるとでも?」

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第7話

    佳奈が目を開けると、見慣れた顔が目に飛び込んできた。まるで救いの手を求めるように、彼女はその男性のシャツをぎゅっと掴み、か細い声で言った。「先輩、ここから連れ出してください……」彼女は智哉にこんな無様な姿を見られたくなかった。彼の同情するような目も耐えられなかった。何もかも拒否し、ただ一刻も早くここを離れたかった。雅浩は少し緊張した様子で彼女を見つめ、言った。「この状態でどうやって帰るつもりだ?医者に見てもらわないと」「いいえ、先輩!ただ献血しただけで、少し疲れただけです。家まで送ってくれれば大丈夫です」雅浩の優しい目には心配が浮かんでいた。彼は佳奈を横抱きにすると、低い声で安心させるように言った。「怖がらないで、僕が連れ出してあげる」そのとき、智哉が外に出てきたが、ちょうど雅浩が佳奈を車に乗せる場面を目撃した。雅浩の目には佳奈への深い憐れみと優しさがあふれていた。怒りで拳を握りしめながら、その車が視界から消えるのを見つめた智哉の目には、陰鬱な色が浮かんでいた————————佳奈が目を覚ますと、すでに翌日の朝だった。 一晩中何も食べず、多くの血を抜かれたため、彼女は自分の胃が空っぽだと感じた。 彼女が寝室から出ると、おいしい食事の香りが彼女の鼻をくすぐった。 彼女は驚きながらキッチンを見た。高く逞しい人影が彼女に向かって歩いてきた。 雅浩は手に粥のボウルを持ち、ピンクの子豚柄のエプロンを腰に締め、顔全体に笑みを浮かべていた。 「昨夜、医者に見てもらったんだ。君は血が足りないって言われたから、補血のために豚レバーの粥を作ったよ。食べてみて」佳奈は少し恥ずかしそうに笑いながら言った。 「先輩、昨夜は本当にお世話になりました。次にご馳走させてください」 彼女と雅浩はR大法学部の優秀な学生で、雅浩は彼女よりも2学年上だった。 二人とも法学界の重鎮、白川先生の門下生である。3年前、雅浩は修士課程を修了し海外に渡ったが、佳奈はその後、智哉の秘書となった。 二人は専門分野でそれぞれの道を歩み始めた。 雅浩は微笑みながら言った。 「いいね、先生も君に会いたがってるよ。もう少し元気になったら、一緒に先生を呼ぼう」 佳奈は頭をかきながら苦笑いを

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第8話

    美桜の声は大きく、佳奈の耳にはっきりと届いた。さらに、智哉の先ほどの心を抉るような言葉も。佳奈は、自分の7年間の深い愛情がまるで犬にでも与えたように無駄だったと感じた。冷たい目で智哉を見つめながら言った。「石川さんにお願いしてあの映像を録画してもらっただけで、削除なんて頼んでません」智哉は無表情で彼女を見つめ返した。「証拠も証人も揃ってる。まだ言い逃れするつもりか?」佳奈は悲しげに微笑んだ。なぜ自分は彼に説明しようとしているのか?もしかして、智哉が自分を信じてくれることを期待しているのか?美桜に関わることなら、智哉は必ず彼女の味方をする。そう分かっていながらも、心のどこかで期待してしまう自分が虚しかった。佳奈は唇を軽く噛み、感情を落ち着かせるように努力した。「そういうことなら、立件して調べてもらえばいいです。私がやっていないことを認めさせられるなんて絶対に許しません。たとえ藤崎家を巻き込むことになっても、自分の無実を証明してみせます」普段の彼女は穏やかで控えめ、従順で聞き分けのいい性格だった。しかし、今目の前にいる彼女は、智哉が見たこともない毅然とした姿だった。智哉は小さく笑いながら言った。「口だけは達者だな」「高橋社長、お忘れなく。私は法律を学んでいました。もしも当時、あなたのお金に目が眩んでいなければ、今頃はきっと優秀な弁護士になっていたでしょうね」佳奈はその言葉を口にしながら、「お金に目が眩んだ」という部分を意図的に強調した。そして、まるで何でもないことのように軽く笑った。まるで、そんな風に見られるのは慣れっこだと言わんばかりに。智哉はその言葉に激怒し、奥歯を噛みしめた。「それじゃあ、せいぜい頑張るんだな!」そう言い捨てると、振り返りもせずにドアを強く閉めて出て行った。智哉が階下に降りると、高木が車から飛び出してきて慌てて言った。「高橋社長、藤崎秘書に買われた栄養品を忘れましたよ。社長が届けられますか?それとも私が……」高木が言い終わらないうちに、智哉の冷たい声が響いた。「捨てろ」高木は智哉の唇にできた傷に目をやり、何が起きたのかすぐに察した。彼は懸命に説得を試みた。「高橋社長、それは社長が大変な手間をかけて選んだ高級栄養品じゃないですか

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第9話

    「今なんておっしゃいました?私を智哉のそばに押し付けたのが、あなたなんですか?」佳奈は驚きと困惑で声を震わせた。藤崎夫人は鼻で冷笑を漏らす。「そうじゃなければ何だと思うの?本気で智哉がヒーロー気取りでお前を助けたとでも?少しは頭を使いなさい。智哉ほどの身分の人間が、どうしてわざわざあんな偏狭な路地に現れるわけ?私とあなたの兄が仕掛けて、彼をそこに引っ張り出さなかったら、あんたにこの三年間の贅沢な生活なんて訪れるわけないでしょう。なのに、あんたは恩を知らずに図に乗って、智哉の妻の座を狙うつもり?考えてもみなさい。あんな恥知らずの母親を持った女を、このB市のどこの名家が嫁として迎え入れると思ってるの?いいかい、何があっても智哉のそばに戻りなさい。さもなくば、お前の母親の恥を全部暴露してやるわよ」藤崎夫人の言葉は、まるで佳奈と血縁が一切ないかのように冷酷だった。彼女の額から流れ落ちる血が頬を伝い、唇へと達した。その血の味が口内に広がるたびに、佳奈は胸の奥から込み上げる嫌悪感に襲われた。その嫌悪感は、こんな家族を持っていることへの自己嫌悪だった。自分の祖母が伯父の息子と結託して、自分を商品同然に智哉のもとへ送り込んだこと。最も悲しいのは、佳奈がそのことに全く気付かず、自分が真実の愛を手にしたと思い込んでいたことだ。この三年間、彼女は智哉を心から愛してきた。彼と一緒にいるために、大好きだった弁護士の道を諦め、結婚への憧れも捨てた。どんな不平も口にせず、智哉の「秘密の恋人」として三年間を捧げてきた。しかし、それは周囲から見ればただの権力と金の取引だった。そして、その背景にあったのは最も近しいはずの家族だった。佳奈は額の血を手で拭い、口元に苦笑を浮かべた。その声には、これまでにないほどの強い意志が滲んでいた。「もうこれ以上、あなたたちの言いなりにはなりません。そして、智哉のもとにも戻りません。これから先、藤崎家がどうなろうと、私には一切関係ありません」そう言い放つと、佳奈は振り返ることなく外へ向かった。しかし数歩進んだところで、玄関に立つ父親の姿が目に入った。彼は信じられない表情を浮かべ、目には涙を滲ませていた。震える手で胸を押さえ、藤崎夫人を怒りの込めた目でじっと見据えて

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第10話

    佳奈は何も考えずに即答した。「それ以外なら、全部聞いてあげる」智哉は彼女の顎をつかみ、薄笑いを浮かべながら低い声で言った。「でも、俺が欲しいのはそれだけなんだよ」「智哉、たとえ私が目的を持ってあなたに近づいたと思っているとしても、この3年間、あなたをしっかり支えてきた。私はもうあなたに何の借りもない。私を自由にしてもらう理由は十分なはずよ」佳奈のその頑固な目つき、ペラペラと止まらないその口、さらにうっすらと見える胸の谷間に、智哉の喉仏が無意識に上下する。彼は彼女を一気に膝の上に抱え込み、顎を彼女の肩に乗せながら、低く掠れた声で言った。「なら、しっかり教えてくれよ。どうやって俺を支えてきたのかを」その低くて魅力的な声が佳奈の頭皮をざわつかせる。同時に、彼の大きな手が彼女の服の中に忍び込んでくる。佳奈は必死に抵抗するが、智哉の力強い腕にしっかりと捕まえられて逃げ出せない。焦った彼女はそのまま彼の肩に噛みついた。自分の中に溜まったすべての不満と悲しみを、その噛み痕に込めたかのように強く。血の味が口の中に広がるまで噛み続けた彼女は、やっとのことで噛むのをやめる。佳奈の瞳には涙が浮かび、震えた声で警告した。「智哉、本当に私を怒らせないで。ウサギだって追い詰められたら噛むんだから」そう言い終えると、彼女は彼を強く突き飛ばし、哀しげな表情を浮かべながらその場を後にした。高木が車に戻ってきた時、ちょうど社長がスマホを手に肩の写真を撮っているところだった。バックミラー越しに、高木はその肩に残った噛み痕を見た。血が滲んでいる。またやらかしましたね、社長.....高木は同情しつつ、軽く尋ねた。「高橋社長、お薬塗りましょうか?」智哉は冷ややかに高木を睨みつけた。「俺がそんなヤワに見えるか?」高木の心の声:いや、ヤワじゃないけど、その証拠を残して藤崎秘書に藤崎秘書に仕返しするつもりだろうね。智哉は数枚の写真を撮り終えると、やっと服を整えた。そして、冷たく命じるように言った。「藤崎家のプロジェクトを止めたのは誰だ?」高木は頭を垂れ、しばらくためらった後、ポツリと言った。「夫人です」「なぜ俺に報告がなかった?」「夫人が黙っていろと言ったんです」「高木、お前は俺の秘書なの

Latest chapter

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第367話

    知里は目を大きく見開き、しばらく固まっていた。十数秒ののち、ようやく我に返った彼女は、今自分が何をされたのかを理解した。あのクソ男にキスされた……しかも、ディープに。舌まで入れてきやがった。これはあたしの初キスだったのに!怒りが込み上げた知里は、思い切り誠健の唇に噛みついた。「いってぇ!」誠健は苦痛に顔をしかめ、すぐさま口を離した。「知里、お前犬かよ!」知里は怒りで目を吊り上げた。「こっちのセリフよ!なんでキスすんのよ!?さっきのクズ野郎とやってること変わらないじゃない!」誠健は唇の血を指で拭いながら、ニヤリと笑った。「助けてやったんだから、ちょっとくらい報酬あってもよくね?」「報酬もくそもない!緑影メディアの御曹司だかなんだか知らないけど、私があんたなんか怖がると思ってんの?警察に突き出してやろうか、わいせつ行為で!」「恩を仇で返すとか、まじでお前……図々しいにもほどがある。もういい、家に連れて帰る」そう言うと、彼女の手首を掴み、強引に出口へと引っ張っていった。しかし、まだ数歩も行かないうちに、玲央が慌てて駆け寄ってきた。「知里、ちょっとトイレ行くだけって言ってたのに、全然戻ってこないから心配したじゃん。何かあったの?」彼は誠健を睨みつけながら指をさす。「お前、知里に何かしたのか?」誠健は余裕の笑みを浮かべながら、知里としっかり手を繋いだ手を高く掲げた。「カップルがイチャついてただけだ。見苦しいから、さっさと消えろ」玲央は目を見開いて驚いた。「知里、この人が君の彼氏?」知里は否定しようとしたその瞬間、誠健が先に口を出した。彼は彼女の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。「否定してみろ?そしたらこの男、今すぐ業界から消してやるよ。試してみるか?」知里は歯を食いしばり、ぼそりと呟いた。「卑怯者!」「男が少しぐらい卑怯なのは、スパイスってもんだろ。知らなかったか?」「なにがスパイスだよ?!絶対認めるもんか、そんな彼氏なんて!」そう言い放ち、彼女は玲央の方を向いた。「ただの友達よ、玲央さん。もう行きましょう。あとで記者会見があるから」彼女は一切振り返ることなく、まっすぐ会場の方へと歩き出した。その背中を見つめながら、誠健は苦笑混じりに悪態をついた。

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第366話

    木村監督は自信満々に胸を叩き、得意げに笑った。「緑影メディアって知ってるか?全国最大のメディアグループだ。俺はそこの専属監督なんだぞ?十八番手の無名女優を一晩でスターにできる力があるんだ。お前みたいな奴が俺と張り合えるか?顔が綺麗なだけじゃ何の意味もねぇんだよ。力がある俺みたいな人間じゃなきゃ、無理なんだよ」誠健は鼻で笑い、肩をすくめながら言った。「へぇ、すごいですね。怖くて口もきけませんよ」木村監督は目を細め、声を低くした。「おとなしくその女を置いていけ。そうすりゃ見逃してやる。さもなくば……どうなっても知らねぇぞ」誠健は眉をぴくりと上げた。「もし、断ったら?」「だったら、てめぇの自業自得だ!」木村監督が後ろの用心棒に目配せすると、そいつはすぐに誠健に向かって突進してきた。だが誠健は、一瞬の隙もなく、その股間を蹴り上げた。「ぐぅっ……!!」用心棒は股間を押さえてうずくまり、悶絶する。それを見た木村監督は顔を真っ赤にして、歯ぎしりしながら怒鳴った。「覚えてろよ!今日中にお前を潰してやる!」そう言い放つと、携帯を取り出してどこかに電話をかけた。「山田社長、今うちの会場でトラブルです。助けてください」電話の向こうの声が響く。「何?誰が俺らの金づるに手出した?今すぐぶっ潰してやる」木村監督は通話を切ると、誇らしげに眉を上げた。「あと数分だ。その時、お前が俺に土下座してパパって呼ぶことになる」誠健はくすっと笑った。「楽しみにしてるよ」数分後、山田社長が数人の男を引き連れて登場。怒鳴りながら会場へと乗り込んできた。「どこのアホだ?木村監督を怒らせたヤツ、芸能界から叩き出してやる!」その勢いで前に進んでいくと、不意に聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。「山田さん、ずいぶんと威勢がいいですね」その一言で、山田社長の背筋が凍りついた。声の主の方を見た瞬間、血の気が引いた。「す、すみません!許してください、石井坊ちゃん!おられるとは思いませんでした……無礼をお許しください!」木村監督は事態を飲み込めず、口を挟んだ。「この小僧が?あの女の愛人か何かだろ。ビビる必要ないって」すると次の瞬間、山田社長の平手が木村監督の頬を打ち抜いた。「黙れ!お前、こいつ

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第365話

    誠健はその言葉を聞いて、鼻で笑った。「あり得ないって。俺があいつを好きになるわけないだろ。俺の理想の女は、もっと優しくて可愛くて、ふわふわしてるんだよ。あんな口うるさくて、すぐ手が出る女なんて、独り身で一生終えても絶対好きにならねぇ」「お前、結婚向いてねぇな。もう離婚しろよ」電話の向こうで誠治が呆れ笑いを漏らした。「犬でもわかるくらい、お前は知里のこと好きだってのに。なに白々しくとぼけてんだよ」「お前、気づいてたのか?」「当たり前だろ!」「バカ!」そう吐き捨てるように言うと、誠健は乱暴に電話を切った。誠治は思わず「クソが……」と悪態をついた。一方の誠健はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。口元にはまだ、自嘲気味な笑いが残っていた。まさか、俺があの女を好きになるなんて。ただ佳奈の頼みだから、仕方なく気にかけてただけだ。そうじゃなきゃ、あんな面倒な女、関わる気にもならない。そう自分に言い聞かせながら、気だるげに車を降りた。だが気づけば、足は自然と知里のいる宴会ホールへ向かっていた。廊下を歩いていると、トイレの前で、知里が大柄なヒゲ面の男と話しているのが目に入った。その男はあからさまにいやらしい目つきで知里を見つめ、図々しくも腰に手を回していた。その瞬間、誠健の中で何かが「バチッ」と音を立てて切れた。拳をぎゅっと握りしめ、その場に向かって早足で歩いていく。芸能界に揉まれてきた知里には、男の下心など一瞬で見抜けた。彼女はにこやかに距離を取りながら言った。「木村監督、他の出演者とも挨拶したいので、そろそろ失礼します」そう言って去ろうとした瞬間、男は知里の手首を掴んで下品に笑った。「知里さん、実は次回作で主演女優を探しててね。よかったら、上の部屋で一緒に台本でも読まない?」誰がどう見ても、それは“そういう誘い”だった。知里は笑顔を崩さずやんわり断った。「すみません木村監督。まずは今の作品に集中したいと思ってます。他の方にお声かけください」だが木村監督は思い通りにならないことに不機嫌になり、目つきを鋭くして言った。「いい気になるなよ。俺が電話一本入れたら、お前なんて業界から追い出されるんだぞ」知里は一歩も引かず、顎を少し上げて言い返す。「へぇ、それは

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第364話

    美琴は誠健がクラブや会員制ラウンジなど、そういった場所によく出入りしていることを思い出し、ますます心拍数が上がっていた。頬までほんのり熱くなってきていた。だが、次の瞬間、誠健の一言が彼女の夢想を叩き壊した。「前に駅あるだろ。そこで降ろす。俺、用事あるから」そう言って彼はアクセルを踏み込み、車のロックを解除した。顎をしゃくって、開けろと言わんばかりに助手席のドアを美琴に促した。美琴は一瞬、夢から覚めたように唇を噛んだ。笑顔は引きつったまま、不自然なままで。「……そうですか、じゃあお疲れさまでした、先輩」心にもない言葉を口にしながら、しぶしぶ車を降りた。そして、誠健は挨拶もせず、そのまま走り去った。その姿を見届けた美琴は、苛立ちからつい足を踏み鳴らす。さっきまでの優しい目が、嘘のように冷たくなっていた。誠健の車は加速し、十分も経たないうちに知里が乗った車に追いついた。車はある会員制ラウンジの前で停車。玲央が先に降りて、知里のためにドアを開け、彼女を支えながら中へと向かおうとした。そのとき、数人の記者が駆け寄ってきた。マイクが玲央と知里に向けられる。「玲央さん、知里さん、『すれ違いの誘惑』ではお二人はカップル役ですね。今のお気持ちは?」知里は上品に微笑みながら答えた。「玲央さんと共演できるなんて、本当に光栄です。役に全力で取り組み、皆さんの期待に応えられるよう頑張ります」玲央も礼儀正しく言葉を続けた。「知里さんは、以前からずっと共演したいと思っていた方です。今回ようやくご一緒できて嬉しいです。最高の作品になるよう努力します」すると記者の一人が踏み込んできた。「知里さん、少し前に未婚の妊娠疑惑がありましたが、それは事実ですか?お相手は芸能関係の方でしょうか?」知里は落ち着いた表情で答えた。「申し訳ありません。それはプライベートなことですので、タイミングが来たら皆さんにちゃんとご紹介します」意地の悪い質問にも、冷静に、堂々と応える知里。その姿を遠くから見ていた誠健は、内心驚きを隠せなかった。――思ったより、やるじゃねぇか、この小娘。そう思いながら彼女のもとへ向かおうとした瞬間、知里が玲央の腕にそっと手を添え、柔らかな笑みを浮かべて言った。「玲央さん、もう

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第363話

    江原美琴(えはら みこと)は焦った表情で誠健を見つめていた。誠健はとっさの判断で、何も考えずに答えた。「乗れ」その言葉を聞いた瞬間、美琴の心臓はドクンドクンと高鳴った。思わず指先がぎゅっと丸まり、副座のドアを開ける。ちょうど乗り込もうとしたとき、誠健の声が飛んだ。「後ろに座れ」美琴は一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔で返した。「先輩、私が後ろに座ると酔うって、大学の頃から知ってるでしょ?」だが誠健は彼女の方を見ることなく、視線はずっと知里の方向に向けられていた。知里が足を引きずりながら病院の正門へ向かい、タクシーを止めようとしているのを目にした瞬間、彼は言った。「早く乗れ」美琴がまだ完全に座る前に、誠健はアクセルを踏み込んだ。その勢いに美琴は慌てて手すりを掴み、少し不満げに誠健を見た。「先輩、もう少しゆっくり走ってよ。酔っちゃうから……」しかし誠健には、彼女の言葉はまるで届いていないかのようだった。車はそのまま知里の目の前で急停止し、彼は窓を開けて怒鳴った。「知里、これ以上無理して歩いたら、脚が一生治らなくなるぞ!」その声を聞いた知里は顔を上げる。すると、助手席に美琴が座り、満面の笑みを浮かべて彼女を見つめていた。知里は彼女を知っていた。誠健の後輩で、今は同じ職場で働く同僚。いつも「先輩、先輩」と彼にくっついていて、病院内でも二人の関係が噂されていた。その瞬間、知里の脳裏に、誠健が祖父に言い訳した時の言葉がよみがえった。「もう好きな人がいる。しかも同じ病院にいる」そう――誠健が言っていた相手は、美琴だったのか。その考えが浮かんだとたん、知里の胸にチクリと鋭い痛みが走った。彼女は髪をかき上げながら、落ち着いた表情で言った。「ご心配ありがとう、石井さん。でも私はそこまでヤワじゃないから。もう行くわね」誠健はイライラしながらハンドルを握りしめた。「送るって言ってんだよ。今は帰宅ラッシュだし、タクシーなんて捕まらないだろ」「いいの、迎えに来てくれる人がいるから。石井さんはお優しい彼女と、ゆっくりお過ごしください」知里は笑みを浮かべたまま、一切感情を表に出さずにそう言った。誠健が何か言おうとしたそのとき、一台のブルーのスポーツカーが彼女の前に止まった。

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第362話

    誠健は眉をひそめて知里を見た。「智哉が植物状態になったからって、なんでお前が泣くんだよ。旦那でもねぇのに。知らねぇ奴が見たら、お前らできてんのかと思うだろ」その言葉には、どこか嫉妬の匂いが滲んでいた。知里はカッとなって、またしても誠健を蹴りつけた。「誠健、黙ってられないの?その口、ほんとにぶん殴りたくなるわ。よく今まで生き延びてきたね、誰にもぶっ殺されなかったのが不思議だわ」誠健は妖しく笑って言い返した。「殺されたら、お前をイラつかせられなくなるだろ?それって寂しくない?」知里はあまりの怒りに、今にも血を吐きそうな勢いだった。本当にこの男とは相性最悪。まさに犬猿の仲。彼女は睨みつけながら、鼻で笑った。「私、バカじゃないからね。誰があんたなんかに同情するもんですか」そう言って佳奈の元へ歩み寄り、そっと手を握った。「佳奈、安心して。絶対にしっかり芝居して、あいつらを信じ込ませてみせるから」知里の言葉に偽りはなかった。病室を出た瞬間、さっきまで平然としていた顔には、たちまち涙が溢れ出していた。歩きながら、泣き声混じりに叫ぶ。「なんで佳奈ってこんなに不幸なの……やっと結ばれたと思ったのに、智哉がこんなことになるなんて。このまま目覚めなかったら、佳奈は一生未亡人みたいに過ごすことになるじゃない……」誠健は彼女のあまりにも完璧な演技に思わず笑いそうになったが、すぐに表情を合わせ、悲しげな顔を作った。「大丈夫、俺が最高の医者を探してくる。高橋家のためじゃない。佳奈のため、それで十分だろ?」「でも、彼の脳はもう半分死んでるのよ。神様だって無理かもしれないわ」「それでも、万に一つでも可能性があるなら、俺たちは賭けるしかないんだよ」そう語りながら、二人はエレベーターへと入っていった。その後ろで、掃除スタッフのひとりが密かに耳を傾けていたことに気づかずに。やがて、郊外の別荘の広間で、ひとりの男がこの情報を受け取った。その唇には、邪悪な笑みが浮かんだ。「本当か?」「はい、間違いありません。高橋家の人間が次々と見舞いに来て、みんな泣きながら出ていきました」男の目が細く鋭くなった。「中の様子を探れ。俺の勘が騒いでる。これは罠かもしれん」隣にいた秘書が慎重に言った。「旦那様

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第361話

    皆が悲しみに沈んでいたその時、不意にその声が響き、全員がびくりと身を震わせた。一斉に智哉の方を振り向くと、男は鋭く深い眼差しで彼らを睨みつけていた。「うわっ!このクソ野郎、ゾンビみたいに蘇ったぞ!」と、誠健が真っ先に叫び、知里を抱き寄せて目を覆った。結翔は信じられないように手を伸ばし、智哉の鼻を塞ぐ。そして手のひらに温かい吐息を感じた瞬間、驚きと喜びが入り混じった表情を浮かべた。「ゾンビじゃない、生きてる!俺、信じてたんだ。智哉が佳奈と子どもを置いていくはずないって!」智哉は「パシッ」と結翔の手を叩き、掠れた声で悠人を思わせるような嫌味を言った。「その汚ぇ手どけろ。火では死なねぇけど、お前に窒息させられそうだったぞ」智哉が無事だとわかり、皆の張り詰めていた緊張がようやく緩んだ。知里は怒って誠健の手を払いのけた。「なんで目隠しなんかするのよ!」誠健はにやにやと笑いながら答えた。「なんだよ、暴力とか……俺はお前が幽霊怖がると思って気を遣っただけだろ?ほんと、お人好しがバカを見るってこのことだな」「誰があんたみたいに脳ミソ水で膨らんでるのよ?智哉は植物状態だっただけで、死んでなんかないでしょ、何が蘇ったよ!」「でも、もしもう死んでたら?なくはないでしょ」「だったらあんたが死ねばいいじゃん!少しは良い方向に考えなさいよ!智哉が死んだら、佳奈はどうすんのよ、私の義理の息子はどうすんの!」誠健はへらっと笑って言った。「それなら俺が育てるよ。俺をパパって呼ばせりゃいいじゃん?」「ふざけんな!誰があんたなんかをパパにするか!あの子は私の義理の息子よ、なんであんたが父親面すんのよ!どの面下げて!」知里は再び誠健に蹴りを入れた。すると足首をぐっと掴まれ、誠健の低い笑い声が耳元に届いた。「お前の親友のために、俺が身を犠牲にしてお前と結婚して、一緒に子育てしてやってもいいぞ?」その言葉を聞いた知里は一瞬で怒り心頭に達した。このクソ男、前に婚約破棄の時は「絶対お前なんかと結婚しねぇ」って言って、他に好きな女がいるって言ってたくせに、今さら何なのよ!今度こそ、思い知らせてやらなきゃ!知里は誠健から逃れようとしたが、大きな手にしっかりと掴まれ、動けなかった。悔しさに噛みつくように誠健の肩に歯を立て

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第360話

    「でも、こうするには君に負担がかかる。俺が病院に入院してる間、リアリティを出すためには、君もずっとそばにいてもらうことになるけど……体、大丈夫か?」佳奈は首を横に振った。「大丈夫。お父さんが入院してたときも、私はずっと病院に泊まり込んでたけど、赤ちゃんは無事だった。後で外にいる人たちを呼んで、全部説明するね」智哉は愛おしそうに佳奈の頭を撫でた。「君と赤ちゃんには本当に苦労かけるな。全部片付いたら、二人で俺たちだけの人生を始めよう」二人は状況を見ながら策を練り直したあと、佳奈が救急室を出た。彼女が出てくると、全員が駆け寄ってきた。涙をたたえた瞳をわずかに上げる佳奈。その目にはどうしても隠しきれない痛みが滲んでいた。「佳奈、智哉はどう?」結翔が嫌な予感を覚えながら、彼女の肩を抱いた。佳奈は静かに首を数度振った。「まだ意識は戻っていません。先生は、一酸化炭素を大量に吸い込んで脳にダメージがあるって……目覚めても植物状態になる可能性が高いって言われました」その言葉に、場の空気が一瞬で重く沈んだ。知里は涙を溢れさせながら佳奈を抱きしめて泣き出した。「植物人間って……じゃあ佳奈と赤ちゃんはどうすればいいの……どうしてこんなことになったの、うぅ……苦しすぎるよ……」知里の嗚咽を聞いた誠健が慌てて彼女を引き寄せ、頭を軽く撫でながら低い声で言った。「そんなに泣いてどうすんだよ……一番つらいのは佳奈だ。今は支えるべきだろ」知里はようやく我に返り、涙を拭って言った。「ごめん、佳奈……でも安心して。たとえ智哉が一生目覚めなくても、赤ちゃんのことは私が守るから。一緒に育てようね」それを聞いた誠健は、呆れたように歯を食いしばる。「知里、お前さ、それが慰めか?まるで佳奈に別れを告げてるみたいじゃないか!」「どう言えばいいのよ!今は頭ぐちゃぐちゃで、何言ってるかわかんないのよ!あんたは黙ってて!」怒りながら誠健に蹴りを入れ、また佳奈を抱き寄せた。そのとき佳奈は、視線をそっと遠くへ向けた。すると、誰かがこちらをこっそり見ているのに気づいた。――監視役だ。完璧に演じなければならない。智哉が本当に植物状態になったと信じさせるために。佳奈は涙を拭い、低く呟いた。「みんな、中に入って彼に声をかけて

  • 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて   第359話

    医師は佳奈に無菌服を着せ、彼女を救急室の中へ案内した。智哉の体に無数の医療機器が取り付けられている光景を目にした瞬間、佳奈の心の糸が今にも切れそうになった。両手を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んでも痛みは感じなかった。彼女はゆっくりと智哉のそばへ歩み寄り、冷えた小さな手で彼の大きな手をしっかりと握った。穏やかすぎるほどの声で語りかける。「智哉、あと数日で赤ちゃんは二ヶ月になるんだって。先生が言ってたの、二ヶ月目から心音が聞こえるって。あなた、感じてみたくない?」そう言って、佳奈は智哉の手を自分の下腹部にそっと置き、体温を、赤ちゃんの存在を彼に伝えようとした。無機質な心電図モニターを一瞥し、彼女は言葉を続けた。「ねぇ……あと数ヶ月で、お腹の中で赤ちゃんが動くようになるんだって。みんな言ってたよ、その感覚はすごく不思議で幸せなんだって……あなた、味わってみたくない?あなた、自分で胎教してあげるって言ったじゃない。白石からもらったあの絵本、まだ一冊も読んであげてないよ……こんなふうにいなくなるなんてダメだよ、お願いだから、戻ってきて……」言葉を重ねるたびに声は詰まり、涙が頬を伝い、口元に流れ込んでも彼女は何も感じなかった。そのとき、智哉の指がわずかに動いた。心電図の波形も大きく反応を示し始める。医師がすぐに言った。「反応が出ています。引き続き刺激を!」涙に濡れた佳奈の顔に、一筋の喜びの光が差し込む。彼女は温かいタオルを取り出し、智哉の真っ黒にすすけた顔をそっと拭いた。そして静かに、彼の唇に口づけをした。ほんの軽い触れ合い――だがそれだけで智哉の体が反応した。最初は動かなかった唇が、次第に佳奈の唇を包み込み、吸い寄せてきた。そのぬくもりに、佳奈の涙は止まらず、ぽろぽろと彼の顔にこぼれ落ちる。どれほどの時間、二人が唇を重ねていたのか分からない。ようやく智哉の瞼がゆっくりと開き、その深い瞳には隠しきれない優しさと痛みが宿っていた。彼は手を上げ、佳奈の頬に伝う涙をそっと拭った。かすれた声で言う。「佳奈……ごめん。心配かけたな……」その声を聞いた瞬間、佳奈の心の堤防が崩れた。彼女は智哉の胸に顔を埋め、止まらない涙がぽとぽとと彼の身体を濡らしていく。その温もりを感じなが

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status