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第422話

Author: 藤原 白乃介
彼女の全身は包帯でぐるぐる巻きにされ、まるでミイラのようにベッドに横たわっていた。

喉から出せるのは「アアア……」という声だけで、言葉を発することすらできない。

智哉は顔を佳奈に向け、優しく語りかけた。

「俺が助けたんだ。彼女に、俺たちの幸せを目の前で見せつけてやりたかった」

佳奈は淡々とした表情で言った。

「中に入って見てみよう。彼女が一番見たくないのは、きっと私だから」

そう言うと、佳奈は先に病室へと入っていった。

ちょうどその時、美桜は薬を拒み、口を固く閉ざしていた。

そんな彼女の目の前に、痩せたシルエットが現れる。

数日の療養を経て、佳奈の顔は再び美しさを取り戻し、顔色もすっかり良くなっていた。

案の定、佳奈を見た瞬間、美桜の目が大きく見開かれた。

信じられないというように首を振り、かすれた声でうめき声を上げる。

「やだ……やだ……」

佳奈はゆっくりと彼女のもとに歩み寄り、その身体を見下ろしながら静かに尋ねた。

「美桜、私が生きて戻ってくるなんて、思ってもみなかったでしょ?」

美桜は必死にもがいた。

佳奈を殴ってやりたかった。復讐してやりたかった。すべての元凶はこの女だ。もし彼女さえいなければ、自分はこんな姿にならずに済んだのに。

だがどんなに体を動かそうとしても、手も足もまったく反応しない。

悔しさに大声で泣き始め、涙は目尻から流れ落ち、包帯に染み込んでいった。

佳奈は看護師から薬を受け取り、ゆっくりと身をかがめて彼女の耳元で囁いた。

「私、あなたに縛られて殴られたし、火に焼かれそうにもなったけど……死ぬなんて一度も思わなかったのよ。あなたはどうして、こんなところで生きることを諦めるの?

私が遠山家に迎えられるところ、見たくない?私と智哉が一緒になるところ、見たくない?」

美桜は激しく首を振り、歯をギリギリと食いしばる。

でもどれだけ必死でも、罵声のひとつさえ声に出せない。

ただ、目の前で何ひとつ傷ついていない佳奈が立っているという現実を、黙って受け入れるしかなかった。

その悔しさと苦しさに、美桜の心は引き裂かれるようだった。

そんな彼女の様子に、佳奈はうっすらと笑みを浮かべた。

そして、そっと耳元でささやく。

「大丈夫。あなたには最高の医者を手配してあげる。私の母を殺した女も、絶対に見つけてやるから
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