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第489話

Author: 藤原 白乃介
この文字……彼女には見覚えがあった。

子供の頃、奈津子おばさんが佳奈と晴臣を連れて、よく一緒に字の練習をしていた。この筆跡は、まさにあの頃の彼女のものとそっくりだった。

佳奈は写真の裏に書かれた文字を指差して尋ねた。

「これ、誰が書いたの?」

智哉は写真を裏返し、ようやくその小さな文字に気づいた。

【兄弟であり、同時に知己。苦楽を共にし、運命を分かち合う】

筆跡は骨格がしっかりしていて、力強く、それでいて繊細な美しさがあった。

文字だけでも、書いた人の気品と非凡さが伝わってくる。

……ただ、今の彼女は、もうあの頃の面影すらなかった。

智哉の目に、わずかな陰りが差す。

小さく呟いた。

「玲子だ」

その言葉に、佳奈はふと考え込むような目で彼を見た。

「それ、本当に彼女が書いたって確信あるの?」

「あるよ。俺の目の前で書いたんだ。彼女がこの言葉を書いた意味は――俺たち四人が、ずっと助け合って生きていこうって……なんで?何かおかしい?」

佳奈は写真の字をじっと見つめたまま言った。

「玲子の字、奈津子おばさんの字にそっくりすぎるの。おかしいと思わない?」

智哉は眉をひそめた。

「字が似ることはあっても、そっくりそのままってことはない。誰かが意図的に真似したってことだろう」

佳奈の脳内はすぐさま弁護士モードに切り替わった。

「誰かの筆跡を真似るっていうのは、たいてい不正な目的がある時よ。たとえば財産、契約……もしくは身分の偽装。

つまり、どっちかがどっちかの字を真似るってことは、その間に何かしらの利害関係があったってこと。

玲子が奈津子おばさんの正体をずっと明かそうとしなかったのは、その正体が彼女にとって都合が悪いからよ。そう考えると……玲子が奈津子おばさんの筆跡を真似て、彼女のふりをして何か悪いことをしていた可能性が高いわ」

その分析を聞いて、智哉は無意識に眉間に皺を寄せた。

その可能性について、考えたことがなかったわけじゃない。

玲子が偽者かもしれないと思ったこともあった。けれど、あの親子鑑定の結果を見て、その疑いは消えていた。

彼は佳奈の頭をそっと撫でた。

「この件の鍵は、奈津子おばさんの記憶が戻るかどうかだ。父さんには、すでに彼女を本邸に迎えるよう頼んである。記憶を取り戻す助けになるかもしれないし、君はもう心配しなく
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