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第626話

Author: 藤原 白乃介
看護師は電話を終えると、にこやかに言った。

「江原先生、ちょっと行ってきますね。これから上の階で薬の交換があるんです」

「うん、行っておいで」

看護師はワゴンを押しながら知里の病室へ入っていった。

中では誠健が椅子に座っており、看護師は彼に軽く会釈した。

「石井先生、知里さんの点滴を交換しますね」

誠健は椅子から立ち上がり、ワゴンに並んだ薬瓶を一つ一つ確認した。特に異常は見当たらない。

それから低い声で言った。

「これから彼女の薬は、俺が管理する」

看護師は素直に頷いた。

「わかりました。じゃあ、交換してもいいですか?」

「いいよ」

彼は静かにその場に立ち、看護師が手慣れた様子で新しい点滴をセットするのを見守った。

作業が終わると、看護師はワゴンを押して病室を出ていった。

そのとき――

病室の入り口から、かすれた声が響いた。

「……知里」

その声を聞いた瞬間、誠健はすぐに振り返った。視線の先には、涙を湛えた知里の母の目があった。

彼はすぐに駆け寄り、「おばさん」と声をかけた。

だが知里の母は彼を見る間もなく、足元もおぼつかないまま知里のベッドへと向かった。

娘の身体を上から下まで見回し、嗚咽混じりに言った。

「昨日の夜、なんであんな悪夢を見たのかと思ったら……全身血まみれで泣きながら私を呼んでた……まさか本当にこんなことになるなんて……

知里……ママが悪かった。あのとき無理にお見合いさせなければ、あなたが女優になんてならなかった。何度も何度も、こんな目に遭わなくて済んだのに。

もしあなたがこのまま目を覚まさなかったら……ママはどうしたらいいのよ。あなたはママのたった一人の娘なのに……」

そう言いながら、知里の母は娘の手をそっと撫でた。

涙は途切れることなく、ポロポロとこぼれ落ちていた。

彼女は毎日テレビの前に座り、娘が出演しているドラマを楽しみに見ていた。

ご近所の人たちが「演技が上手ね」と褒めてくれると、自分のことのように誇らしく感じていた。

だが今、それらの華やかさが娘の命を削って得たものだと知り、胸が締めつけられる思いだった。

そのとき、佳奈が彼女のそばにそっと寄り、肩に手を置いた。

そして静かに言った。

「大森夫人、知里さんは頭部に血腫があるだけです。血腫が吸収されれば、ちゃんと目を覚まします。も
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