愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる

愛の檻を抜けて、元夫の叔母になる

By:  笠一つUpdated just now
Language: Japanese
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津雲知枝(つくも ちえ)は結婚して五年になった。 夫・津雲健司(つくも けんじ)にはすでに愛おしい息子がいるが、その子の母は彼女ではない。 健司の憧れの女・沢原蛍(さわはら ほたる)は、親子鑑定報告書を知枝の顔に叩きつけた。 知枝は冷静に身を引く決意をした。 その後、彼女は半月をかけて、離婚・財産分与・家出・そして健司の将来を台無しにすることを成し遂げた。 ところが、すべてを整えて実家に戻った彼女が目にしたのは……実家までもが乗っ取られていたという現実だ。 知枝の旧姓は間宮だが、間宮家の家業は蛍が継ぐことになった。彼女はいつの間にか間宮家の私生児となり、得意げな表情で知枝に告げた。 「あなた、自分が勝ったと思ってるの?でも本当は、とっくに負けてたのよ!」 知枝は離婚し、実家も失った。周囲の人々は皆、彼女がみじめに崩れ落ちるのを待っている。 浮気した健司もまた、彼女が泣きついて復縁を求めてくると信じている。 彼は苛立ちのあまり叫んだ。「俺と別れて、お前に何ができるっていうんだ!」 だが、知枝はその自信過剰な男を蹴り飛ばし、行動で応えた。 レースカー改造の達人となり、競合会社を立ち上げ、家業を奪い返し、社長に就任。ついでに健司の叔母にもなった! そして、後になって同じ言葉を健司に返したのだ。「私と別れて、あなたに何ができるっていうの?」 誰もが知枝を弱々しい寄生虫のような女だと思っていた。だが実際には、彼女こそが逞しく、寄生される側だったのだ。 ただ一人、その本当の姿を見抜いた男がいる。彼は知枝に手を差し伸べ、静かに言った。 「これから先、世界は広く、君は好きなように進めばいい」

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Chapter 1

第1話

【津雲知枝(つくも ちえ)、もう演技はやめなよ。あんたの旦那、また別の女とべったりだって!】

【津雲健司(つくも けんじ)は本当に理想的な夫だよね。今まであんたにたくさんのサプライズを用意した上に、今度は不倫というサプライズまで!】

【どうせなら開封配信よりも、不倫現場のライブ配信してよ!一番にギフト贈るから!】

【……】

4月3日の夜。

知枝が配信を始めると、視聴者が一気に押し寄せ、次々とコメントが流れた。

この二年間で、こうしたコメントを何度見たか、もう数え切れない。

最初の頃、彼女も必死に否定し、顔を真っ赤にしていた。

でも今では、何も聞こえないふりをして、返答するコメントを選ぶ術を身につけた。

コメントが止まらない。

また健司が沢原蛍(さわはら ほたる)を連れてパーティーに出ていると、知枝はすぐに察した。しかも、例のいつもの場所で。

以前は、健司は外出前に必ず彼女に一言伝えていた。けれど今夜は、何の連絡もない。

胸の奥に、理由もなく不安と苛立ちが広がっている。知枝は手に取った宅配の封筒を無意識に開け、中身を見た瞬間、顔から血の気が引いた。

――ありえない!

結婚して五年になったが、私のお腹はずっと静かなままなのに。

目の前の親子鑑定報告書には、健司と四歳の男の子は【親子確率99.99%】と記載されている。

明るい照明の下で、素顔の知枝の顔色はさらに青ざめていった。

慌てて配信を切り、報告書を掴んで部屋を飛び出した。向かった先は、健司がいるパーティー会場だ。

……

夜はさらに深まっている。

庭園風の回廊には、ぼんやりとした明かりが灯り、夜風にタバコの匂いが混じっている。

「お前、そんなことして蛍の想いを踏みにじるつもりかよ!」

その声に知枝の足が止まった。新延和光(にいのべ かずみつ)、健司の親友の声だ。

「結婚記念日は毎年祝えるけど、家業を継ぐチャンスは一度きりだろ。蛍はずっと前から準備してきたんだ。それを今になって、帰ってあのブスと過ごすなんて言い出すのか?

それに、お前が彼女と結婚したのも、もともと蛍の邪魔を取り除くためだっただろ?今こそお前と蛍が頂点で再会する時だ。そろそろ知枝と別れてもいい頃だ」

「やめろ」

健司は少し苛立った声で言った。「昔のことを蒸し返すな。蛍も望んでいたものを手に入れた。これからは夫として知枝に尽くすべきだ」

「たった五年で芝居が本気になったのか?笑わせるな」

和光は冷たく笑った。「お前が知枝の母方の実家を潰し、母親をうつ病で死なせ、さらに最悪な薬を使って知枝を不妊にした――全部お前がやったことだろう、蛍のために。

それで、今さら知枝とやり直したいって?ふざけるな、健司。お前、狂ってるのか?」

「俺が彼女に負わせたものは、残りの人生で償う」

健司の返事には、ためらいも迷いもなかった。まるで、ずっと前から考え抜いて決めた答えのようだ。

だが、彼は考えたことがあるだろうか。知枝が本当にそんな償いを望んでいるのかどうかを。

知枝は唇を噛み、血が滲んでいることに気づかなかった。怒りと痛みが同時に胸を襲い、意識が真っ白になった。

まるで水の底でもがくように、息ができない。体がふらつき、肩が冷たいレンガの壁にぶつかった。

世界が崩れ落ち、これまでの甘い恋の記憶が刃のように彼女の心を切り裂いた。

――十八歳のあの日、彼を好きになった瞬間から、私は滑稽なピエロのようだった。

結婚して五年、彼の愛は激しく、嵐のように私を飲み込み、私は何も見えなくなっていた。

だから私は見抜けなかった。誇りに思っていた結婚生活が、実は血にまみれた嘘だったなんて。

知枝は涙を乱暴に拭い、振り返ると、夜の闇の中へと消えていった。

そのころ、健司はわずかな異変を感じて、回廊の角を見やった。一匹の蛾が狂ったようにランプにぶつかっている。

それ以外に、特に異常は見られなかった。

そのとき、個室から誰かの声が聞こえてきた。「蛍が酔った!健司、送ってって!」

健司は視線を戻し、タバコの火を灰皿に押し付けた。

「わかった」

……

知枝がどのように帰宅したのか、記憶が曖昧だ。

玄関を入るとすぐに、健司からメッセージが届いた。【今夜は飲みすぎた。和光の家に泊まる】

彼女は返信もせず、スマホを握りしめたまま階上へ行き、迷うことなく書斎に入った。

健司はいつも「大事なファイルがある」と言って、彼女にパソコンを触らせなかった。

しかし今、画面の光が彼女の顔を照らしている――その光が、彼女の顔に宿る恨みと悔しみを一層際立たせている。

パソコンの隠しフォルダには、健司が岸元家を潰すまでの全記録が保存されている。

岸元家、すなわち知枝の母方の実家が三年前に破産し、知枝の祖父はビルから身を投げた。同じ年、祖母も心労のために亡くなった。

知枝の母・間宮幸子(まみや さちこ)は岸元家の一人娘である。もともと体が弱く、両親を失ったことで心身ともに完全に壊れた。

知枝は今でも、幸子が最期に見せた悔しさに満ちたまなざしを、はっきりと覚えている。

――あの苦い沈黙の中には、娘の幸せな結婚生活を守る最後の抵抗があったのだ。

それなのに知枝は、まるで愚か者のように嘘だらけの世界で生活し、敵を愛し、尽くして生きてきた。

その上、彼との子どもを望み、「生涯を共にする」という夢まで見ていた。

そして、何よりも笑えるのは――健司が、最初から彼女を愛していなかったということだ。

あの日、彼は蛍を「ビジネスパートナー」と紹介した。

知枝の旧姓は間宮であり、実家は間宮グループを経営している。

そして蛍は間宮グループの社長秘書兼広報部長。だから、何年も前から健司と蛍の噂が出ていても、知枝は気に留めなかった。

蛍のように明るく、赤いバラのように華やかな女。どの男も彼女を見れば心が揺らぐだろうと思っていたからだ。

でも、あの二人は、ずっと前からすでに知り合いだったのだ。

「……ふっ」

知枝は、自分の愚かさに乾いた笑いを漏らした。健司を信じすぎたために、バカにされ、二人の計画の駒にされたのだ。

「健司……よくも私をここまで騙したね」

その瞬間、五臓六腑が引き裂かれるような激しい痛みに襲われ、息をすることすら苦しい。

彼への愛は粉々に打ち砕かれ、溢れた涙と嗚咽とともに、夜の闇に溶けて消えていく。

そして夜が明け、薄明の光が部屋に差し込む頃。

パソコンの右下に、リマインダーが点滅している。【4月18日に家業を継ぐまで、あと14日】

――そう、健司は家業を継ぐ日を心待ちにしている。

知枝は知っている。彼がその日のために、どれほど努力してきたかを。

家業を継ぐ日と結婚記念日が重なり、円満な家庭を築きながらキャリアも成功させた。彼にとっては、人生最高の日になるだろう。

知枝は冷たい笑みを浮かべた。真っ赤な瞳に宿るのは、決意と復讐の炎だ。

――私が地獄に落ちるのなら、せめて、あの男を自分の手で道連れにしてやる。彼の人生最高の日に。

「健司……あなたが言ったのね」知枝は静かに涙を流しながら、掠れた声で呟いた。

「残りの人生で償うって」

……

三十分後、知枝はファイルをUSBメモリにコピーし、ゆっくりと書斎を出た。

寝室に戻ると、くしゃくしゃになった親子鑑定報告書を広げ、写真を撮って親友の高峯美南(たかみね みなみ)に送信した。

【離婚届を作ってほしい。過ったのは健司。私は、自分の分を必ずもらう】

送信した途端、美南から電話がかかってきた。

「知枝、エイプリルフールはもう三日前よ!そんな冗談、全然笑えないんだけど!」

「冗談じゃない」

カーテンを開けると、朝の光が目に刺さった。知枝は目を細めながら言った。

「私、健司と離婚する」

――いや、離婚だけじゃ終わらせない。彼を地に落とし、家業も失わせる。

私が味わった苦しみを、百倍、千倍にして返すのだ。

「知枝……」

美南は言葉を失い、深いため息をついた。「これは大事なことよ。電話じゃ話せないわ。会ってちゃんと話そう」

「わかった。場所はあなたに任せる」

通話を切ったその瞬間、階下から使用人の声が聞こえた。

「お帰りなさいませ、健司さま」

知枝が鑑定報告書をしまい、息を整えようとしたとき――背後から健司の腕が彼女を抱きしめた。

かすかに、バラのボディソープの香りが鼻をかすめた。

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第1話
【津雲知枝(つくも ちえ)、もう演技はやめなよ。あんたの旦那、また別の女とべったりだって!】【津雲健司(つくも けんじ)は本当に理想的な夫だよね。今まであんたにたくさんのサプライズを用意した上に、今度は不倫というサプライズまで!】【どうせなら開封配信よりも、不倫現場のライブ配信してよ!一番にギフト贈るから!】【……】4月3日の夜。知枝が配信を始めると、視聴者が一気に押し寄せ、次々とコメントが流れた。この二年間で、こうしたコメントを何度見たか、もう数え切れない。最初の頃、彼女も必死に否定し、顔を真っ赤にしていた。でも今では、何も聞こえないふりをして、返答するコメントを選ぶ術を身につけた。コメントが止まらない。また健司が沢原蛍(さわはら ほたる)を連れてパーティーに出ていると、知枝はすぐに察した。しかも、例のいつもの場所で。以前は、健司は外出前に必ず彼女に一言伝えていた。けれど今夜は、何の連絡もない。胸の奥に、理由もなく不安と苛立ちが広がっている。知枝は手に取った宅配の封筒を無意識に開け、中身を見た瞬間、顔から血の気が引いた。――ありえない!結婚して五年になったが、私のお腹はずっと静かなままなのに。目の前の親子鑑定報告書には、健司と四歳の男の子は【親子確率99.99%】と記載されている。明るい照明の下で、素顔の知枝の顔色はさらに青ざめていった。慌てて配信を切り、報告書を掴んで部屋を飛び出した。向かった先は、健司がいるパーティー会場だ。……夜はさらに深まっている。庭園風の回廊には、ぼんやりとした明かりが灯り、夜風にタバコの匂いが混じっている。「お前、そんなことして蛍の想いを踏みにじるつもりかよ!」その声に知枝の足が止まった。新延和光(にいのべ かずみつ)、健司の親友の声だ。「結婚記念日は毎年祝えるけど、家業を継ぐチャンスは一度きりだろ。蛍はずっと前から準備してきたんだ。それを今になって、帰ってあのブスと過ごすなんて言い出すのか?それに、お前が彼女と結婚したのも、もともと蛍の邪魔を取り除くためだっただろ?今こそお前と蛍が頂点で再会する時だ。そろそろ知枝と別れてもいい頃だ」「やめろ」健司は少し苛立った声で言った。「昔のことを蒸し返すな。蛍も望んでいたものを手に入れた。これか
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第2話
知枝の頭の中で警報が鳴り響き、無意識のうちに健司の腕を振りほどいた。健司は一瞬きょとんとしたが、彼女が昨夜自分が帰らなかったことに怒っているのだと思った。「知枝、ごめん。俺が悪かった。もう二度としないから」謝るときの彼の声は、いつも少し甘く、怠けたようで、それでいて人を惹きつける響きを持っている。「あなたの約束ほど価値のないものはないわ」知枝は振り返り、意味ありげな目で彼を見た。「酔っぱらって帰らない夜、あなたはいつも同じことを言うの」「……」健司は一瞬、息を呑んだ。そのとき確かに見えた――彼女の瞳に、今まで一度も見たことのない冷たい光が。その瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。「悪い、ちょっと電話に出る」そう言い残し、健司はスマホを手にバルコニーへ向かい、ガラス扉を閉めた。知枝はその場に立ち尽くし、ガラス越しに彼の姿を見つめている。朝の日差しがちょうどよく差し込み、彼の立ち姿を照らしている。相変わらず優雅で、自信に満ちた男だ。けれど、眉と口元に浮かんでいる甘やかな笑みが、今はただ薄気味悪く見えた。あの頃、知枝が彼を好きになった理由があった。目が曇っていたとはいえ、まったくの間違いではなかったのかもしれない。でも今にして思えば、それは浅はかさ以外の何物でもなかった。一晩かけて痛みを噛み締めた今、知枝はもう「愛しているかどうか」を問う気持ちを持っていない。ただ、この醜い人生の過ちを、一刻も早く正したい。母の幸子をはじめ、岸元家の無念を、必ず晴らすために。選択を誤ったと気づいたなら、たとえこれまでどれほど尽くしていても、すぐに損切りすべきだ。それは、父が幼い頃から知枝に叩き込んだ経営の鉄則である。そして今、それを結婚生活に適用するときが来たのだ。健司がスマホをしまうのを見て、知枝は思考を切り替え、無表情のまま彼に近づいた。「また用事?」「うん、仕事のこと」彼は話題を軽く逸らしながら言った。「そうだ、おじさんが今日帰国する。今夜は実家で食事だ。用事が片付いたら迎えに来る」津雲グループは大手企業であり、社長の津雲三郎(つくも さぶろう)は年を重ねても上品で洒脱な人物。彼は三度の結婚歴があり、四人の息子と二人の娘がそれぞれの妻との間に生まれた。その中で最も年下の子は、今日帰国予定の
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第3話
「知枝!」健司が声をかけた。その声に、典子はようやくしぶしぶながら知枝に目を向けた。「あなたも来たのね」知枝は、典子が蛍の手を握っているのを横目で見ながら、蛍が微笑みを含んだ声で説明するのを耳にした。「おばさんがどうしてもお会いしたいとおっしゃって……本当は、私の立場では今日の家族の集まりに出るのは少し場違いなのですが」「どうして場違いなの?」典子は満足そうに蛍を見つめた。「私は蛍が好きなのよ。蛍を見ると本当に嬉しくなるわ。さあ、中に入りましょう。ゆっくりおしゃべりでもしよう!」「あなたは台所を手伝ってきて」それは知枝に向けた言葉だ。そう言い残すと、典子は嬉々として蛍の手を引き、中へと入っていった。健司が知枝のそばに寄ってきた。「俺も一緒に厨房に行くよ……」「どうして?」知枝は顔を向け、冷たい声で尋ねた。「あなたまで、誰があなたの妻か忘れたの?」毎回津雲家の本邸に来るたびに、知枝は腰を下ろす間もなく、典子から台所仕事を命じられている。理由は、「健司は舌が肥えていて、家の味に慣れているから、あなたももっと覚えて彼の世話をきちんとしなさい」というもの。長年のことなので、知枝も慣れてしまっている。たとえ手に火傷を負っても、健司がその手をそっと吹きかけてくれれば、不思議と痛みが和らぐように感じられた。それに、リビングで年長者たちの相手をするよりも、台所にこもっている方が気楽だった。けれど、今――どうして蛍はリビングにいられて、正式な「津雲家の若妻」である自分が台所に行かなければならないの?健司は一瞬、意味が分からなかったようだ。「どういう意味だ? 行きたくないなら、行かなくていいじゃないか。そんなに怒ることはないだろ?知枝、誰もお前に無理をさせたことはない」彼は気持ちを落ち着かせるようにして、知枝の手をそっと取った。「お前が俺を愛してくれているから、いろいろしてくれるんだって分かってる。俺はお前の気持ちにちゃんと感謝してるんだ……」――まただ。この馴染み深い、洗脳のような言葉。一瞬、知枝の手に残る火傷の痛みが蘇った。まるで今もその熱が残っているかのように、ひりひりと。知枝は彼の手を振り払い、言い返す気もなく、そのまま別荘の中へ歩き出した。健司は眉をひそめた。自分が悪いと分
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第4話
「現在、鉄舟重工で進めているデジタル化推進計画は、もともと私の提案なの」知枝の柔らかな声が風に乗り、耳の奥深くまで届いた。その言葉には人の心をひときわ強く揺さぶる力がある。安雄はよく理解している。デジタル化推進計画がいかに重要であるか――そして、今回三郎が鉄舟重工を健司に譲ろうとしているのも、まさにこのプロジェクトが理由である。彼はわずかに眉をひそめたが、その動きを悟られないようにした。口を開こうとした矢先、知枝がさらに言葉を重ねた。「おじさん、あなたは私の大学の先輩。少し調べればわかるはず――私の研究テーマはまさにデジタル化の分野だった。当時、小林昌成(こばやし まさなり)教授が私の卒業論文を読んでくださり、大学院進学を勧めてくださった。彼の研究チームに加わり、さらに深い研究を行う予定だったが……残念ながら」――あのとき、私は愚かだった。たった一人の男のために、良き未来を投げ捨てた。知枝は一拍置いて、その言葉を飲み込んだ。次の瞬間、からかいを含んだ軽い笑い声が聞こえた。「……後悔してるのか?」知枝は一瞬呆然とし、それから苦笑を浮かべた。「ええ、後悔してる」――今になって思えば、どうしてあの時、あんなにも無謀に彼に尽くせたのか。幸せの扉をくぐったつもりが、実際には冷たい地獄への入口だった。盛装して臨んだはずの結婚式。その先に待っていたのは、心が砕けるほどの絶望だった。詳しく話すことさえ恥ずかしい。「小林教授はもう大学にいない。後悔しても、戻る場所はない」その言葉に、知枝は思わず目を見開いた。「……知ってたの?」「うん」夕暮れの残光が安雄の横顔に差し込み、目の奥に淡く揺れる影を落とした。どこかに微かな色気が漂っている。「俺も彼の教え子だった」「……そうなの?」知枝がようやく思い出した。――当時、教授はよく「津雲くんは私の最も優秀な教え子だ」と誇らしげに話していた。だからこそ、二人が今でも連絡を取り合っているのは不思議ではない。「それで、君の取引っていうのは?」安雄は話題を本来の方向へと引き戻した。知枝は深く息を吸い込んだ。「この話をしたのは、あなたに聞いてほしかったから。鉄舟重工は津雲グループの百年の礎とも言える。あなたは本当に、あの無能にそれを譲るつもりなの?
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第5話
知枝の動きがわずかに止まり、手にしていたシートベルトを健司が受け取った。「家に帰ったら、お前にサプライズを用意してあるんだ」健司の声には期待と柔らかな笑みが混じっており、知枝の異変にはまったく気づいていない。「沢原さんは待たなくていいの?あなたがわざわざ連れてきたんじゃなかったの?」知枝はふいにそう口にした。少し棘のある、皮肉めいた言い方だ。健司は一瞬きょとんとしたが、思わず答えた。「母さんが運転手を手配するだろう」「そう」知枝は軽く頷き、身をかがめて助手席の隙間に落ちていたリップを拾い上げた。クリスチャン・ルブタンの「クイーンセプター001G」。圧倒的な存在感を放つ正紅色。蛍の、あの八方美人で完璧なキャリアウーマンらしい色合いだ。「これ、彼女の忘れ物でしょ?ちゃんと返してあげてね」そう言った瞬間、知枝は彼の瞳の奥に一瞬だけ走った動揺を見逃さなかった。けれど、健司はすぐに冷静さを取り戻し、軽く笑って自然な仕草でリップを受け取った。「彼女は悪い子じゃないんだけど、ちょっと抜けてるんだ。たぶん、午後に俺の車で化粧直ししてたときに落としたんだろ」そう言いながら、彼はリップを前座席の小物入れに放り込み、軽く言葉を添えた。「今度チャンスがあったときに返しておくよ」「彼女はいつも助手席に座ってるの?」知枝がさらりと尋ねると、健司は根拠のない苛立ちを覚えた。「お前は本当に彼女が気に入らないんだな。俺の助手席に座ることにまで文句を言うのか?うちの会社と彼女の会社は取引関係にある。打ち合わせのために車に乗せるのは当然だろ。後部座席に乗せたら、まるで俺が運転手みたいじゃないか?少しでも職場での経験があれば、そんな些細なことは気にしないはずだ」最後の一言は、まるで「お前はただの専業主婦だ」と叱責しているかのようだ。それに対して、彼の蛍こそが物分かりの良いキャリアウーマンである。彼は忘れている。かつて彼が津雲家の若者たちの中で頭角を現し、社長代理の座に就けたのは、知枝が寝る間も惜しんで、病気になっても休まずに作り上げた機械学習モデルのおかげであるということを。彼女は命を削ってまで彼を支えた。それなのに、今の彼の目には軽蔑と偏見しか映っていない。知枝は、思わず鼻で笑った。「何がおかしい?」と、健司は「
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第6話
8時15分、知枝はカフェのドアをくぐった。通勤ラッシュの真っ只中、行き交うサラリーマンたちは慌ただしくコーヒーを買い求め、誰一人として隅のボックス席に座る女性に注意を向ける者はいない。知枝はホットラテを一杯注文し、それを手に蛍のもとへ向かいながら、頭の中で何度もそのラテを相手の頭にぶちまける光景を思い浮かべている。だが、その妄想は、蛍が顔を上げてこちらを見た瞬間に霧散した。その女は、驚くほど美しい。艶やかな紅い唇、輝きを帯びた両目、そして隠しきれない野心と自信が滲み出る表情――全身から攻撃的なほどの華やかさが放たれている。長く名利の世界に身を置いてきたせいか、年下のはずなのにどこか大人びた艶をまとっている。自然と、知枝は親友の美南の言葉を思い出した。「沢原と比べたら、あなたなんて鳥籠の中のカナリア。あの人こそ、空を翔ける鷹よ」確かに、その通りかもしれない。けれど……それがどうしたというのだ?結局のところ、蛍もまた俗世の女である。鷹という名ばかりで、やっていることは不倫女と同じだ。知枝は手の中のホットラテをぎゅっと握りしめた。――やめておこう。この女の顔は、まだ健司を誘惑するために必要だから。蛍は知枝が席に着くのを見届けると、アイスアメリカーノを一口飲み、甘ったるいほどの笑みを浮かべた。「それで、どう話すつもり?もう降参してくれるのかしら?そうそう、昨日の夜ね、健司――あの人はずっと私のそばにいてくれたの」蛍はわざとらしく困った顔を作ったが、口元の笑みはどうしても隠せない。「私の体調をちゃんと覚えててね。『痛い』って言ったらすぐにプレゼントをくれて、しかも自分で蜂蜜水まで作ってくれたの。健司もあなたのことを話してたわよ。『あいつは全然痛がらないから、つい忘れるんだ』って。知枝さん、女はね、強くあるべき時と弱くあるべき時があるの。あなた、そのバランスがまったくわかってないのね?」その言葉に、知枝は冷ややかに蛍のカップへ視線を向けた。――確かに、自分には蛍のような演技力はない。生理不順のときも、自分で病院に通い、苦くてたまらない薬を我慢して飲み続けた。いつか体が整えば、彼との間に子どもを授かれると信じていた。……でも、薬では治せないものもある。恋に夢中になってしまったら、薬では治せない
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第7話
健司は知枝を家まで送る道中、眉間に深い陰りを浮かべたままだ。知枝はただ疲れ果てており、彼にかまう気力もない。今の彼女の心は、まるで澄み切った鏡のように、すべてを見透かしている。結婚して五年、彼女は健司の性格をよく理解している。彼は野心家で支配欲が強く、自分の掌の外にある行動を一切許さない男だ。そして、そうした男ほど、危うい境界線を歩く快感に溺れやすい。すべてを把握しているという錯覚と、崩壊寸前の危うさが共存するその刺激に、やみつきになってしまう。今、健司は蛍が自分の限界を試そうとしていることに気づいている。怒りを押し殺し、表情を取り繕う余裕すらない。別荘の門の前に着くと、知枝は車を降りた。「知枝、ちょっと用事がある。夜には戻って、一緒に食事をしよう。ちゃんとお前と過ごすから」そう言い残すと、健司はエンジンをかけて車を走らせた。知枝はその車が道の果てに消えるのを見届けてから、ゆっくりと家の中に入った。ダイニングルームのテーブルには、数本の栄養剤が静かに並べられ、冷めた白湯が一杯置かれている。知枝はその場に立ち尽くし、ぼんやりと辺りを見つめた。脳裏には、これまで何度も見聞きした健司の優しい言葉や仕草が浮かんでいる。だが、その幻が壊れた今となっては、思い出すだけで背筋が凍った。五年間、日々欠かさず毒薬を飲ませ続けた――健司の心は、いかに冷酷であることか。逆に考えれば、蛍をどれほど愛しているか。彼女のために、自分の血統を絶つ覚悟さえしているのだから。知枝は深く息を吸い込み、込み上げる嘲笑を飲み込んだ。スマホを取り出して栄養剤の写真を撮った。そして、専門機関に検査を依頼するため、即日配達便で栄養剤を美南に送るつもりだ。配達員を待つ間、知枝はフリマアプリのメッセージを次々と処理している。やがて配達員が栄養剤を受け取りに来ると、知枝は風呂に入り、全身を洗い流して着替えた。体から健司の残り香をすべて消し去るように。使用人が三度目の声かけで、昼食の時間であると気づいた。ようやく知枝は階下に降り、昼食の席に着いた。だが、数口食べただけで箸を置き、使用人の一人に声をかけた。「明日からみんな休みにして。18日以降にまた連絡するね」「えっ?」使用人は目を丸くした。「奥さま、こんなに長いお休みって、
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第8話
夜は墨のように濃く、静まり返っている。安雄は車椅子に腰かけ、傍らには淡いオレンジ色の明かりを灯すフロアランプが置かれている。膝の上には、読み終えた資料が一冊広げられている。そこに記されているのは、ここ数年の健司に関する詳細な調査報告だ。彼は大きな掃き出し窓の外に広がる夜景を見つめながら、瞳の奥に言い表せないほど深い色を宿している。その眼差しには、まるで他人の悲劇を観賞するかのような、冷ややかな愉悦が潜んでいる。――なるほど。知枝は、すべてを知ってしまったのか。……翌朝。知枝はスマホのカウントダウンアプリの通知音で目を覚ました。4月18日まで――残り12日。昨夜、健司は書斎で眠った。知枝は心の底から、蛍が彼を満足させてくれたことに感謝している。そうでなければ、きっと彼はまた自分の部屋に押しかけてきただろう。しかし、その夜、彼女は一晩中悪夢にうなされた。夢の中で、母の幸子は死に顔のまま目を閉じられず、血の気の引いた手で彼女の手を強く握りしめていた。「知枝……あの人たちを、絶対に許さないで……」幸子の怨嗟に満ちた叫びが、今も耳の奥で響いている。目を覚ますと、枕はすでに涙で濡れている。知枝は重い体を起こし、冷水のシャワーを浴びた。骨の髄まで凍えるほどの冷たさに震えながら、ようやく浴室を出た。裸足の足裏が床に触れるたびに、現実の冷たさが身に染み渡る。使用人たちはすでに休暇に入っており、広い別荘には彼女一人だけだ。午前中いっぱい、知枝はファミリークロークにこもり、売りに出す品々を一つ一つ丁寧に梱包している。そして、昨日健司がつけていた腕時計を見つけた。――残念だ。去年、あれほど心を込めて贈った誕生日プレゼントだったのに。今はもう、汚れてしまった。彼女はそれに触れることすら嫌悪し、すぐに写真を撮ってフリマアプリに出品した。ヴァシュロン・コンスタンタンのオーヴァーシーズシリーズ、金無垢の時計――出品価格はわずか五千円。それは、昨夜の蛍の見せつけに対する知枝からの静かな返礼である。ネットユーザーたちは、まるで顕微鏡で覗くかのような鋭い目を持っている。そう遠くないうちに、この投稿の裏に隠された意味を読み取るだろう。その頃。会議を終えたばかりの健司の表情は、まるで暗雲が立ち込めるかのように険し
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第9話
そんなの、彼女が認めるはずがない。焦りに駆られた蛍は、健司の存在などすっかり忘れ、カバンをつかむとそのまま外へ飛び出した。スマホを耳に押し当て、秘書の大橋春菜(おおはし はるな)に厳しく指示を飛ばした。「今すぐ出発して。クラブで昭を捕まえるわ。現地で落ち合いましょう!」……レーシングクラブ。昭はソファにだらしなく寝転び、長い脚をぶらぶらと揺らしながら、上機嫌でレースゲームに興じている。一戦が終わると、案の定、二位でゴールした。「チッ、つまんねぇ。毎回お前が一位じゃねぇか。なあ、こっそりチート使ってんだろ?」彼は気持ちが塞ぎ込み、ゲーム内のマイクに向かって不満を漏らした。「あなたに対して、そんなもの使うまでもないわ」ゆったりとした口調で返ってきたのは、知枝の声だ。続けざまに、さらりと尋ねた。「頼んでおいた件、ちゃんと済ませた?」「済ませたさ」昭は急に楽しそうな声を上げた。「なあ、師匠、あの女はお前に何したんだ?彼女って間宮グループの社員だろ?ならお父さんに言ってクビにさせりゃいいじゃん。なんで俺が?」「今のところ、父さんの出番はないわ」知枝は唇を引き結び、小さく吐息を漏らした。――不倫相手を懲らしめる程度で、親まで呼ぶ必要はない。昭は続けた。「俺があのCMを引き受けたのは、お前の顔を立ててのことだぜ。間宮グループの仕事だし、恩を売っときゃ、今後車の改造を頼むときに頭を下げなくて済むと思ってな。でも、今回は師匠の言う通りにして、一肌脱いだんだ。そろそろ俺の車も改造してくれてもいいんじゃね?」結局、話はいつものレースカー改造に戻った。知枝は心底あきれた。――この男の車好きは筋金入りで、まるでレースが生きる理由そのもののようだ。「もう少し忙しいの」「何にそんなに忙しいんだ?」昭が首をかしげた。「最近、何も話してくれねえじゃん。俺のこと、まだ舎弟だと思ってる?」その時、扉がノックされ、小さな巻き毛頭の部下・家田潤(いえだ じゅん)が駆け込んできた。「昭さん、外に女が二人来てる。鳴海電気自動車の人たちだって、昭さんに会いたいって」次の瞬間、潤は昭に思い切り蹴り飛ばされた。「会うかってんだ!二度と来るな!」昭は眉間にしわを寄せ、露骨に嫌そうな表情で言った。「さっきCMキャンセル
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第10話
知枝は胸の奥がドキリと鳴り、たちまち眠気が吹き飛んだ。彼女は毛布を引き寄せて上体を起こし、ほとんど嫌悪を隠しきれない声で問いただした。「……いつ帰ってきたの?」健司は彼女の声の険しさに気づいたが、寝起きの不機嫌だと勘違いし、特に気に留めなかった。「昨日は残業で遅くなったんだ。お前が気持ちよさそうに寝てたから、起こさないようにしたよ」そう言いながらベッドに近づき、いつもの癖で知枝の乱れた髪を指先で整えようとした。「また髪を乾かさずに寝ただろ?前にも言ったけど、そんなことしてると頭が痛くなるぞ」知枝は眉をひそめ、彼の手を押しのけて、低い声で答えた。「わかってる。次から気をつけるわ」「そういえば、使用人の姿が見えないけど」「半月の休みをあげたの。あなた、最近ほとんど家に帰らないし、あの人たちが何人もいても、私ひとりの世話をするだけでかえって落ち着かないのよ。それに、ファミリークロークのものも多すぎて見飽きたから、この数日で少し処分しようと思ってるの」その言葉は、あらかじめ用意していたセリフだ。知枝はあくまで自然に言い放ち、表情ひとつ乱さなかった。健司は疑わなかった。「そうか。まあ、お前はこの家の奥さまだ。好きにすればいいさ。片づけが終わったら、また新しいものを秘書に送らせよう」「うん」「じゃあ、朝食を作ってくるよ」健司は立ち上がり、優しげに笑った。「久しぶりだな、お前に料理を作るのは」と言い残して部屋を出ていった。ドアが閉まる音を聞きながら、知枝の眉間には深い皺が寄った。その顔に浮かんでいるのは、ただただ耐え難い嫌悪だ。――まるで理想的な夫のようだが、昨日あの車の中で見たあの下劣な姿を、誰が想像できるだろうか。業界の友人たちは皆、口を揃えて言った。「健司は理想的な夫だ。細やかで思いやりがあり、非の打ちどころがない」昔の彼女もそう信じており、幸せだと感じていた。だが今はただ、あの男がアカデミー賞を受賞するほどの名優だと思うだけだ。もし真実を知らなければ、きっと今も騙されたままだっただろう。……三十分後、だらだらと身支度を済ませて階下へ降りると、彼の姿はすでにない。テーブルの上には、サンドイッチとミルクが置かれている。知枝が近づくと、その下に一枚の付箋が貼られていることに気づいた。
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