LOGIN津雲知枝(つくも ちえ)は結婚して五年になった。 夫・津雲健司(つくも けんじ)にはすでに愛おしい息子がいるが、その子の母は彼女ではない。 健司の憧れの女・沢原蛍(さわはら ほたる)は、親子鑑定報告書を知枝の顔に叩きつけた。 知枝は冷静に身を引く決意をした。 その後、彼女は半月をかけて、離婚・財産分与・家出・そして健司の将来を台無しにすることを成し遂げた。 ところが、すべてを整えて実家に戻った彼女が目にしたのは……実家までもが乗っ取られていたという現実だ。 知枝の旧姓は間宮だが、間宮家の家業は蛍が継ぐことになった。彼女はいつの間にか間宮家の私生児となり、得意げな表情で知枝に告げた。 「あなた、自分が勝ったと思ってるの?でも本当は、とっくに負けてたのよ!」 知枝は離婚し、実家も失った。周囲の人々は皆、彼女がみじめに崩れ落ちるのを待っている。 浮気した健司もまた、彼女が泣きついて復縁を求めてくると信じている。 彼は苛立ちのあまり叫んだ。「俺と別れて、お前に何ができるっていうんだ!」 だが、知枝はその自信過剰な男を蹴り飛ばし、行動で応えた。 レースカー改造の達人となり、競合会社を立ち上げ、家業を奪い返し、社長に就任。ついでに健司の叔母にもなった! そして、後になって同じ言葉を健司に返したのだ。「私と別れて、あなたに何ができるっていうの?」 誰もが知枝を弱々しい寄生虫のような女だと思っていた。だが実際には、彼女こそが逞しく、寄生される側だったのだ。 ただ一人、その本当の姿を見抜いた男がいる。彼は知枝に手を差し伸べ、静かに言った。 「これから先、世界は広く、君は好きなように進めばいい」
View More「俺の教え子の言葉は、そのまま俺の考えでもある」昌成は真顔で口を開いた。「彼女を侮辱するのは、この小林昌成を侮辱するのと同じことだと思っていただきたい」「小林さん、それはさすがに言い過ぎでは……」近くにいた外国人の中年技術者が気まずそうに口を挟むと、周りの連中も気圧されたようにうなずいた。この業界で昌成の名を知らない者はいない。ラボ自体は小規模だが、背後には正体の知れない支援者がついており、この数年は彼らのプロジェクトを何度も救ってきた実績もある。今回のやり取りで自分たちに分がないことは重々承知しているので、内心は釈然としないままだったが、昌成の前ではもう知枝に手を出すような真似はできなかった。こうして場の空気は気まずいまま、話はうやむやに終わった。知枝は昌成を見上げ、「先生、さっきの私は、もう少し言い方を柔らかくした方がよかったでしょうか」と尋ねた。「いや、あれでよかった。よく言ってくれたよ。最初からあいつらがああいう連中だって分かってたら、わざわざ呼び出して紹介なんかしなかったさ」昌成は目を細めて笑い、「マイクたちは、ちょっと成功したくらいで、自分たちがどんなふうにここまで来たかすっかり忘れてる。今のあいつらには、君みたいに肝の据わった若いのから一発かましてもらうくらいがちょうどいいんだ」と言った。「あいつら、昔会った頃は、自分たちが若いときにどれだけ馬鹿にされてきたかって散々こぼしてたくせに――今じゃ、誰よりもふんぞり返ってるんだからな。いいか、俺が後ろにいると思っておけ。何か嫌味を言われても、遠慮する必要はない。言い返していい。後のことは全部、先生が引き受ける」話を聞き終えて、知枝はくすっと笑い、「なんだか私、トラブルばっかり起こす生徒みたいですね」と返した。昌成も笑って、「トラブル上等だろ。怖がって黙ってるほうがよっぽど損だ」と肩をすくめた。「ところで、さっき一人で回ってみてどうだった?何か得るものはあったか」「はい」知枝はうなずき、「ちょうど先生にお礼を言おうと思っていたところなんです。こんな場に連れてきてくださって、本当にありがとうございます」と頭を下げた。「本当ならおじさんに礼を言うところなんだろうけど……いや、離婚した以上、もうおじさんなんて呼ぶ立場じゃないよな」昌成は笑いなが
彼女は子どもの頃からずっと機械の世界に触れてきたが、今ほど心を揺さぶられたことは一度もなかった。本当に、ここまで来た甲斐があったと感じていた。蓮はそれ以上言葉をつがず、憧れと熱で満ちたその瞳にすっかり囚われたように、じっと知枝を見つめていた。少し離れたところで、その様子を雪菜はじっと見つめていた。彼女は眉をひそめ、蓮をねめつけるように見上げる。目の前にいるはずの、大好きな兄――なのに、今の蓮はどこか「知らない人」に見えた。距離があっても、蓮のまとう危うい獲物を狙う者の気配が、ひやりと肌に触れてくるようだった。やがて知枝がスマホに目を落としてから、その場を離れていくのを見て、雪菜は歩き出し、蓮の方へ向かった。隣に並び、兄の視線を追うように人の波の向こうを見やると、昌成のそばへ戻っていく知枝の姿が目に入った。雪菜はあきれたように口を開いた。「お兄ちゃん、そんなに彼女のことが好きなの?」心の中で完璧だと思ってきた兄が、離婚歴のある女なんかを好きになるなんて、雪菜には到底受け入れがたかった。どうしても、その事実だけは飲み込めない。「そうだ」蓮はあっさりとうなずいて認めた。誰の前であろうとそう言う覚悟はあるくせに、いざ知枝を前にすると、途端に臆病になる。まして、知枝の方は明らかに自分を兄として見ていて、今は気持ちを打ち明ける時じゃない。押し寄せる独占欲を必死に押し込め、胸が焼けるような焦りを噛み殺しながら、蓮は無理やり視線をそらした。「余計なことはするなよ」それだけ雪菜に言い残し、蓮は踵を返してトイレへ向かった。今の自分には、冷たい水で顔を洗って、胸のざわつきをどうにか冷まし直す時間が必要だった。一方そのころ、知枝は昌成の紹介で、何人かの海外からの専門家たちと顔を合わせていた。彼らは一人ひとり笑顔を浮かべてはいるものの、その奥にある薄い拒絶感までは隠しきれておらず、ただ昌成の顔を立てて愛想よくしているだけなのだと、知枝には分かった。最初のうちは、彼らもたどたどしい言葉で知枝に挨拶してきた。だが話が進むにつれ、いつの間にか彼女をまるで置き去りにするように、彼ら同士だけで流暢なドイツ語を交わし始めた。彼らは知る由もなかったが、知枝はかつて交換留学でドイツに滞在していたことがあり、完璧とまではい
三日間にわたって開かれる義肢・機械骨格の国際カンファレンスの会場には、世界中の大手テック企業が開発した最新の成果がずらりと並んでいた。会場全体は徹底して近未来的な空気に満ちていて、その中を歩いていると、本当に何十年も先の世界に紛れ込んだような気さえしてくる。知枝は昌成と一緒に会場へ足を踏み入れた瞬間、息をのんで言葉を失い、周囲を見回すことしかできなかった。順路に沿ってブースを回りながら、昌成はそれぞれの機械骨格の特徴と、その企業が得意としている研究分野を丁寧に説明していく。一通り話を聞き終えて、ようやく世界のテクノロジーがどれほどのスピードで進化しているのか、知枝は実感として飲み込めた。とくに自分がこれまでほとんど触れてこなかったスマートマシンの領域には、想像もつかないほどの可能性が広がっている。気がつくと、星が無数に瞬く海の中にひとり放り込まれたようで、その水の中ならいつまでだって自由に泳いでいられるような心地だった。そのきらきらした瞳に終始好奇心の光が宿っているのを見て、昌成は思わず口元を緩めた。ここ数年、昌成は海外で研究プロジェクトに携わってきたおかげで、この場に顔を出しているトップエンジニアの何人もと顔見知りになっている。知枝は、そんな人たちとの挨拶の時間を取らせまいと、「じゃあ私はひとりで見て回ります」と自分から申し出た。昌成がうなずいて許可してくれると、知枝はノートを抱えたまま会場のあちこちを回り、気になったことを書き留めていった。「知枝」蓮の声が不意に耳に飛び込んできて、知枝ははっとして振り向いた。「蓮さん」「義肢とか機械骨格、そんなに興味あるのか?」蓮は、びっしり文字の埋まったノートを見下ろしながら、「小林先生のラボは、ここ数年スマートマシンの分野を掘り下げてて、世界レベルの特許もいくつも持ってるって聞いてる」と言った。「また先生のもとで働けるようになったのは、本当に良かったと思う。俺も嬉しいよ」蓮の視線は、ふとした拍子に知枝の顔へ吸い寄せられ、そのまま離れなくなった。会場の照明はどこか夢のようで、その光に照らされた彼女の表情は、内側から熱を帯びて輝いているように見える。喉がひりつくほど急に乾き、蓮は小さく息をのみ込んだ。一瞬、本気でそのまま抱き寄せたくなる衝動が胸の奥で跳ね
「二人もこの交流会に参加してるのか?」蓮が興味深そうに尋ねた。昌成はうなずき、「ああ、知枝はついこの前、うちのラボと契約したところで、今は俺のプロジェクトに付いてきてもらってる。義肢とか機械骨格に興味があるから、現場を見せておこうと思ってね」と答えた。「知枝、また先生のところで働いてるんですね?」蓮は嬉しそうに目を細め、「それは心強いですね。先生がそばにいてくだされば、きっと知枝はもっと伸びていけます」と言った。「俺なんて道案内みたいなもんだよ。どこまで行けるかは、結局彼女自身の腕次第だ」と昌成は控えめに言う。そのとき、ウェイターが蓮のそばに来て、耳元で何かをささやいた。蓮は思わず眉をひそめ、わずかにうんざりしたように「分かった」と短く返した。ウェイターを下がらせると、蓮は知枝の方を向き、真剣な声で「俺、まだ片づけなきゃいけない用事がある。あとでまた連絡するから、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ」と言った。「ありがとうございます、蓮さん」一言礼を述べて蓮の背中が遠ざかるのを見送ると、知枝は振り返って、昌成の探るような視線と目を合わせた。「七瀬社長は、ずいぶん君のことを気にかけてくれてるみたいだな」知枝は眉を曇らせ、「先生も、ネットのあの噂を見てしまったんですか」とぽつりとこぼした。昌成は小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。このところの知枝の頑張りはずっとそばで見てきたし、今さら恋愛沙汰に足を取られるような子じゃないと分かっているから、わざわざ蒸し返す話でもないと感じたのだ。……一方そのころ、蓮は父親の席へと戻り、「親父」と声を掛けた。蓮の父親・七瀬源蔵(ななせ げんぞう)はあからさまに不機嫌そうに鼻を鳴らし、「呼びに行かせなきゃ、あの女と飯でも食うつもりだったのか?」と噛みついた。「蓮、お前ここがどういう席か分かってるのか。離婚した女なんかとべったりしてたら、お前の評判に傷がつくだけだぞ!」「離婚してたら、何か問題でも?」蓮の目の色は一気に冷え、「俺が本気で隣に座って一緒に食事したら、それがどうした。ここまで来るのに何を背負ってきたと思ってるんだ、今さら外野の噂が怖いとでも?」と言い返した。「お前ってやつは……!」源蔵は息を詰まらせて目をむき、「何て口の利き方だ。心配