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第2話

Author: ぽっちゃりちゃん行くよ
もう一人が答えた。「ほんとね、まったく嫌な雨」

絵筆を握る手がじわりと白くなり、無意識に絵の具をつけようとしたが、もうどこにも描き足せる場所はなかった。

実際、浩史があと二歩だけ近づいていれば、私が描いていたのが――私たちの初めての出会いの場面だと気づけただろう。

役所に離婚届を提出し、受理証明書を受け取ってアトリエに戻った。

短い沈黙の後、私は隅に置いてあった黒い絵の具の缶を開け、そのままキャンバスにぶちまけた。

一缶、二缶、三缶……

輪郭が完全に消えるまで塗り潰し、最後にその上に離婚届受理証明書を貼り付けた。

そして、白い絵の具で小さく書き添える。

【浩史、私はもう二度とあなたと復縁しない】

その夜、浩史は家に帰らなかった。

ただ一通の報告が届いただけだった。

【この七日間は朝香の家に泊まる。お前は早めに休め。七日後の午前九時に役所で合流して、結婚届を再提出しよう】

私がまだ返事をしていないうちに、朝香は待ちきれない様子でインスタに写真を投稿した。

二人が指を絡め合った手の写真に、添えられた言葉。

【離婚済み、七日間限定、彼は私だけのもの】

写真の中で、浩史の薬指にはすでに指輪がなかった。

ただ一部、肌の色が周囲と異なる淡い跡が残るだけで、私たちが愛し合った証はどこにも見当たらない。

まるでその時になって初めて、自分が離婚したことを実感する。

私も指輪を外そうと、手を持ち上げた。

だが――七年前、ぴったり合うと思って嵌めた指輪は、今では関節に食い込み、びくともしなくなっている。

どんな方法を試しても、まったく動かない。

……もう諦めようか。

ただの指輪にすぎない。何の意味もない。

そう思った矢先、朝香から突然写真が送られてきた。

そこに映っていたのは、浩史が外したはずの結婚指輪。

今は彼女が飼っているトイプードルの前足にはめられていた。

念のために、朝香は別の角度から十三枚もの写真を連続で撮り、すべてに笑顔の絵文字を添えて送ってくれた。

最後には、こんな一文まで付け加えてきた。

【観鈴、浩史が「芝居なら最後まで本気でやる」って言ってたの。だからこの七日間、うちのワンコとカップルを組んでもらうよ。お気の毒に。ハート】

血の気が引いた私は、すぐに結婚指輪を注文したジュエリーショップに電話をかけた。

どんな手段を使ってでも、明日中にこの指輪を外させなければならない。

翌日、ジュエリーショップの店員が特別に家を訪れ、取り外しの作業をしてくれることになった。

普段は明るい性格の助手、八山あんず(はちやま あんず)が、その日ばかりは何度も口を開きかけては閉じている。

「どうしたの?」

私が尋ねると、あんずは唇を噛みしめ、小さな声で答えた。

「奥さま……私、旦那さまのホテルの宿泊明細を受け取ってしまって……

リットンホテルのプレジデンシャルスイート、カップル向けの部屋に、トラック一台分のバラの花。備考欄には外島朝香の名前が……」

私は黙り込んだ。悲しみのせいではない。

ただ、不意に思い出したのだ。

かつて浩史も私にバラを贈ったことがあった。

9999本――両腕で抱えきれないほど。

彼は言った。

「もし一本のバラが一本分の愛だとしたら、俺は9999本分の愛を贈るよ。お前が二度と誰かを羨ましがらなくて済むように」

――なるほど。同じ手口を、男は二度も使うのか。

そのとき、突然、別荘の扉が乱暴に開け放たれた。

首筋にくっきりとキスマークを残した浩史が、慌ただしく中へ入ってきた。

リビングに人影を見て、何気なく声をかけた。

「なぜこんなに人が多いんだ?」

私は顔を上げずに答えた。

「ジュエリーショップの店員よ、指輪を外してもらってるの」

浩史は目を大きく見開いた。

「あと六日で復縁するっていうのに、なぜ外す必要がある?」

「それなら、あなたはどうなの?もう外してるじゃない」

言い返されると、彼は一瞬言葉に詰まり、気まずそうに目を逸らした。

だが、すぐに苛立ったように吐き捨てた。「……くだらない」

それだけ言い残すと、ドンと階段を駆け上がり、上の階で大声を張り上げた。

「おい、荷物をまとめろ!」

あんずがそっと耳元でささやいた。

「旦那さま、上でうろうろして……時々立ち止まりながら奥さまの方を見てますよ」

私は微笑みを浮かべ、気にも留めなかった。

十分後、ジュエリーショップの店員が困惑した表情で告げた。

「奥さま……この指輪があまりにもきつくて、どうしても外れません」

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