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第2話

Auteur: 麦穂
千夏は一人で、思い出の詰まったあの家に戻った。

春菜の付き添いを断り、どうしても独りになりたかった。最後のひとときを、お腹の中のまだ産まれていない子と静かに過ごし、きちんと別れを告げたかったのだ。

思いは自然と、彼女の人生を変えてしまったあの日へと遡っていった。

ある日、龍生が定期健診で不妊を告げられた。

その瞬間、彼は悪事を働いた子供のようにどうしていいか分からず、千夏の胸に顔を埋めた。

「千夏、どうしたらいいんだ……

俺は何度も夢見てたんだ。もし子供ができたら、女の子がいいなって。君みたいに目がまん丸で……でも、もう全部無理なんだ……」

普段は仕事で雷のように迅速で、誰にも怯むことのない龍生が、その時ばかりは珍しく声を震わせていた。

あの瞬間、千夏は決めた。どんな代償を払ってでも、二人だけの結晶をこの世に迎えようと。

苦いものが嫌いな彼女が、数えきれないほどの漢方を飲み、怪しげな民間療法にまで手を出した。ムカデを生で飲み込んだり、正体も分からない黒く臭う液体まで口にしたこともあった。

その度に生死の境を彷徨うような苦しみが襲ったが、決して諦めることはなかった。

最後に選んだのは、もっとも過酷な体外受精という道だった。

鋭い針が何度も彼女の腹を突き刺し、耐え難い痛みに意識が遠のきそうになった。

それでも龍生に心配をかけまいと、歯を食いしばり、一度も声を漏らさなかった。

幾度となく繰り返される拷問のような日々――それなのに千夏の心は蜜に浸かるように甘やかだった。二人の愛の希望を抱いていたからだ。

しかし、そのすべては愛莉の登場によって打ち砕かれる。

龍生が愛莉を妊婦検診に連れていったあの日、それは奇しくも千夏が初めて産婦人科を訪れる日でもあった。

すべては、すでに伏線としてそこにあったのだ。

空虚な部屋に、千夏の抑えきれないすすり泣きが響いた。積み重なった屈辱と痛みを吐き出すかのように泣き続け、ついに力尽きて眠りに落ちた。

夢の中で、誰かがそっと彼女の足首をつまみ、慣れた手つきでやさしく揉んでいる感覚があった。

ぼんやり目を開けると、酒に酔った龍生が片膝立ちでベッドの端に座り、手にはマッサージオイルを持ち、妊娠でむくんだ彼女の脚を丁寧にほぐしていた。

だが、この子は結局、この世に生まれることは叶わない。

千夏は顔を背け、音もなく涙が流れ落ちた。龍生に弱さを見せたくなくて、慌てて涙の跡を拭き隠す。

そんな彼の目には、まだ彼女が怒っているように映ったのだろう。罪の意識に顔を曇らせ、彼はベッドの縁に腰を下ろし、小声で耳元にささやいた。

「ごめん、会社が上場したばかりでさ……結婚式であんな大失態があったら、取引先に響く。まだまだ君と赤ちゃんを養うために稼がないといけないんだ。だから怒らないで。

愛莉との事は、ただの芝居だ。もう少し様子を見たら、もっと盛大でロマンチックな結婚式をやり直すから」

龍生の弁解を、千夏は顔色ひとつ変えずに聞き流した。何も言わず、何の反応も示さない。

彼女の唇の色があまりに青ざめているのを見て、龍生は一気に慌て始めた。

「怒るなって。医者が言ってたろ、妊婦の感情の波はお腹の子に悪いんだ。

結婚式の後で、ちゃんとお詫びの品を選んできたんだ。ちょっと見てくれないか?」

不安でいっぱいの瞳で、必死に許しを乞い続ける男が目の前にいる。

千夏はかすかに口角を上げた。

「ふうん……私たちにも、子供がいるってこと、まだ覚えてたんだ」

その一言に、龍生の身体がピクリと硬直した。慌ててポケットから小さな箱を取り出し、開けて見せる。そこには緑の翡翠を嵌めた胸飾りが収められていた。

龍生はそれを取り出し、千夏の手を取ってそっと触れさせ、説明を始める。

「見て、外側の銀の線はピーナッツの形をしていて、多産と繁栄の意味がある。その中に小さな翡翠が包まれているだろ。俺がそうやって、君と赤ん坊をしっかり守るって意味なんだ」

彼の甘い言葉は、相変わらず人を引き込む。子供のことを大切に思っている気持ちに嘘はなかった。

愛莉との健診の日以外は、子供に関することは何でも自ら手を動かしてくれていた。

新米ママの講習にまで参加し、赤ん坊の世話を真剣に学んだほどだ。

千夏は確かに彼の真心を感じた。けれど、それ以上に愛莉へ注がれる気遣いを敏感に悟ってしまった。

彼女の虚ろな顔色を見て、龍生は再び手を握りしめた。

「千夏……君と赤ちゃんは、俺にとって一番大切で、何よりも守りたい存在なんだ。他には誰もいない。君らのためなら、俺はなんだってやる」

その言葉に、千夏の心は揺さぶられた。

七年の歳月の中で、二人の人生は深く絡み合い、離れることなど考えられないほどだった。

無理に引き裂けば、心の肉を抉り取られるように血が滲む。

彼女は少し声を柔らげ、淡い期待を込めた。

「龍生、明日は二回目の健診なの……」

その瞬間、龍生のスマホが明るく点いた。

そこに浮かび上がったのは「愛莉」と登録されたメッセージ。

【橋本社長、お腹が急にすごく痛くて……怖いです。今すぐ来ていただけませんか?】
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