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縁語り其の十八:新たな約束

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-19 19:42:03

あれから、数日が経っていた。

日常は、何事もなかったかのように穏やかに僕の周りを流れていく。

けれど、僕の頭の中には、まだあの廃病院で体験した出来事の、薄い霧のようなものがずっと残っているようだった。

現実感がどこか希薄で、ぼんやりとした不思議な感覚が消えないまま、僕は、開いたままの教科書が置かれた机に肘をつき、ただ窓の外を眺めていた。

春の優しい風が、グラウンドの砂を運び、校庭の木々の新芽がふるふると小さく揺れている。

空は、西の端から少しずつ、美しい朱色に染まりはじめていた。

誠也君の、あの最後の笑顔。

それがまだ身体のどこかに、あの気配が微かに残っている気がしていた。

けれど、それよりもずっと強く、鮮明に僕の心に残り続けているのは──あの夜の、月明かりの下で見た、美琴の姿だった。

幼い霊に怯えるでもなく、ただ静かに、その痛みに寄り添う彼女。

そして、そのか細い唇から零れ落ちた「穢れた血」という、あまりにも重く、謎めいた言葉が、今も僕の胸の奥に、小さな棘のように引っかかっている。

「おーい、悠斗。またボーッとしてんのか? もうすぐテストも近いってのに、余裕だなぁ」

軽い、からかうような声と一緒に、背中をポンと遠慮なく叩かれる。

「……うるさいよ、僕だって色々考えてるんだから」

「はいはい、どーだか。お前の教科書、1ページも進んでねぇじゃんか!」

翔太が、悪戯っぽく笑いながら僕の机の上を覗き込んでくる。

その、どこか能天気な顔を適当にあしらおうとした、ちょうどその時、ふと、彼の口から聞き捨てならない言葉が飛び出した。

「あ、そだそだ。またあの美琴ちゃんがさ、心霊スポットで目撃されたって噂、流れてきたぜ。今回は……確か、風鳴かざなりトンネルだったかな」

「……え?」

その言葉を聞いた瞬間、僕の胸が、嫌な感じで大きくざわついた。

風鳴トンネル──郊外の山間部にある、古くて薄暗い、今ではもう誰も近づかないと言われている場所だ。過去に大きな事故が起きて以来、ずっと封鎖されているという黒い噂もある。

「Uチャンネルには“髪の長い黒い服の女”と一緒に入っていくのを見た、みてーな書き込みもあったけど……まあ、そっちはただの幽霊かもしんねーけどな!」

翔太が、いつもの調子で冗談交じりに言うけれど、僕にはとても笑えなかった。

(美琴が、また、一人で……)

誰かの痛みのそばに、危険を顧みずに立っているのかもしれない。あの夜、誠也君にそうしたように──。

もう一度、彼女に会いたい。そして、ちゃんと話を聞いてみたい。

「ごめん!翔太!用事を思い出した!!」

「えっ、ちょ!おい!!」

僕は、ほとんど衝動的に席を立ち、翔太に適当な理由を告げて、一人で校舎を飛び出した。

***

放課後の空に、燃えるような橙色の光がどこまでも広がっていく。

美琴を探して、校舎裏の大きな桜の木の下へと足を運んでいた。

そして……そこに、彼女はいた。

夕風に、丁寧に結われた茶色のポニーテールがさらさらと揺れている。静かに、どこか遠くの空を見上げるその美しい横顔が、茜色の夕暮れの光に溶け込んでいた。

「美琴!」

僕が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返る。

その唇に浮かんだ穏やかな微笑みが、まるで春の風に乗って、ふわりと僕の元へと広がってきたかのようだった。

「……先輩。お疲れ様です。どうかなさいましたか?」

「君が、また……その、風鳴トンネルっていう場所にいたって噂が流れてきたんだ」

僕の言葉に、美琴の表情が、ほんの少しだけ、微かに翳る。

「……皆さん、本当に、そういう場所がお好き、なんですね……」

小さな声で、どこか寂しげに、そして諦めたように彼女は呟いた。

霊に関する話になると、彼女は決まって、少しだけ遠くを見るような、そんな不思議な目になる。その言葉の奥には、僕などが安易に触れてはいけないような、静かで深い何かがあるのを感じた。

「……そのトンネルにも、誠也君みたいな子が……助けを求めている霊が、いるの?」

僕の問いかけに、美琴は一瞬だけ驚いたような目をして、それから、静かに、そして力強く頷いた。

「はい。とても深い後悔と、そして悲しみを残したまま、そこに囚われてしまっている方が、いらっしゃいます」

「そうなんだ……」

あの夜の、誠也君の最後の笑顔と、そして光となって消えていった記憶が、ゆっくりと僕の胸の中に戻ってくる。

「…………。もし、先輩さえよろしければ……一緒に、来てみますか? そのトンネルへ」

美琴が、夕陽の残照の中で、ふと僕の目を見て、そう問いかけてくる。

「……うん。行ってみたい」

なぜだろう。純粋に…その霊のことが気になっていた。

そして、彼女と一緒だったら、こんな僕にも、何か出来ることがあるんじゃないか……そんな、不思議な想いが、僕の心の中に確かに芽生えていた。

僕の答えに、美琴が、本当に嬉しそうに、そして安心したように微笑む。

「分かりました。では、詳しいことが分かり次第、後日また改めてご相談させてくださいね」

「あれ? 今日、すぐに行くんじゃないんだ?」

「はい。実は今日は……誠也くんの人形を、ちゃんと埋めてあげようと思って…」

そう言って、彼女は、大切そうに制服のポケットから、あの小さな木彫りの犬の人形を取り出した。

あの夜、美琴が、自分の子供のように大切そうに胸に抱えていたもの──誠也君が、この世でたった一つの心の拠りどころにした、お兄さんの温かい形見。

「このまま私が持っているのも、一つの供養なのかもしれませんが……やはり、彼にとって一番心が落ち着けるであろう場所に、きちんと返してあげたいんです」

彼女の言葉の一つ一つが、夕暮れの優しい空気の中に、静かに、そして温かく染み込んでいく。

僕は、何も言わずに、ただ黙って頷いた。

「……じゃあ、僕も一緒に行くよ。一人より、二人の方がいいでしょ? それに…僕もあの時、一緒に居たわけだしさ」

(きっと誠也君も、その方が喜んでくれるかもしれないし)

思い上がりかもしれない。でも、僕はそう信じて、そう言った。

その言葉を聞いた美琴は、少しだけ目を丸くする。

「ふふっ…そうですね。では一緒に行きましょうか」

と、嬉しそうに微笑んでくれた。

***

こうして僕たちは、夕闇が迫る廃病院の、今はもう誰も訪れない裏庭へと訪れた。

西の空が、最後の紅を燃やし尽くそうとして、その淡い色がゆっくりと夜の闇へと落ちていく。

風に揺れる雑草の影が、地面の上で静かに、そして長く伸びていた。

ひっそりとした、背の高い草むらの中、僕たちは並んで、小さなシャベルで地面を丁寧に掘った。

入り組んだ木の根や、石ころが混じる固い土を、指でそっと崩しながら、僕は、誠也君がこの場所でたった一人で過ごした、永く、孤独だったであろう時間を思う。

やがて掘り終えた小さな穴の前で、美琴はそっと膝をつき、静かに手を合わせた。

「誠也くん……どうか、ここで、安らかに眠ってね。もう、寂しいことはないから…」

そして、あの木彫りの犬の人形を、まるで宝物を安置するかのように、そっと土の中へと優しく置く。

それから、静かに、一掬いずつ、土を被せていった。

全てを終え、美琴が立ち上がり、スカートについた土をそっと手で払う。

ふわり、と。

どこからともなく、優しい風が吹いた。

それは、もう、あの夜に感じたような、肌を刺す夜の冷たさではなかった。

春の、甘い花の匂いをほんのりと含んだ、どこまでも、どこまでも優しい風。

廃病院の建物が、ゆっくりと夕闇の中へと溶けていく。

もうこの場所には、あのどうしようもないほどの寂しさや、悲しみの気配は、少しも残っていなかった。

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