風が、いつの間にか少しだけ冷たさを帯びてきた、春の夕暮れ。
僕と美琴は、あの桜翁の境内《けいだい》に、並んで静かに立っていた。 散り残った桜の花びらが、名残を惜しむように、僕たちの足元にらはらと舞い落ちる。 ふと隣を見ると、彼女はいつものきっちりとした制服姿とは違い、今日は私服だった。 落ち着いた色合いのジーンズジャケットに、風にふわりと揺れる柔らかなベージュのフレアスカート。 すらりとした脚には黒のニーハイソックス。そして足元は、同じく黒の編み上げショートブーツを合わせている。 全体的に大人びた、落ち着いた色合いでまとめながらも、どこか少女らしい可愛らしさを残した―― うん…すごく美琴らしい、素敵な私服姿だった。 美琴ちゃんが、夕風に流れた髪をそっと耳にかきあげて、横目で僕を見て小さく微笑む。 その仕草が、なぜか少しだけ大人びて見えて、僕はどきりとした。 「それでは、先輩。そろそろ行きましょうか」 美琴がそう言った時、その声には、普段の落ち着きの中に、ほんの微かな緊張が混じっているのを感じた。 僕も、ごくりと唾を飲み込み、小さく頷く。 「うん……。ところで、美琴。今回の、その風鳴《かざなり》トンネルの噂って、詳しいこと、何か知ってるの?」 「はい。おおよそは。……髪の長い女の人が、夜な夜なトンネルの中を彷徨い、 そこを通りかかった通行者を、不可解な事故に巻き込む……そんなお話でしたね」 彼女の声は、いつも通り落ち着いていたけれど、その言葉の奥には、どこか深い哀しみが潜んでいるような、そんな響きがあった。 「それって……やっぱり、本当のことなの? その女の人が、悪さを……」 「いいえ。そうなってしまった、あまりにも悲しい“原因”は、確かにそこに存在します。 でも、彼女自身が、決してそれを望んでそうなったわけではないと……私は、そう思います」 彼女は、ふっと視線を落とし、足元の、もう色褪せ始めた桜の花びらを見つめる。 その美しい横顔が、夕陽の最後の光を受けて、どこか痛々しいほどに切なくて―― 僕の胸が、また少しだけ、ぎゅっと締めつけられるのを感じた。 「彼女は……とても深い後悔を抱えたまま、ずっと、ずっとこの場所に囚われてしまっている霊なんです。 特に、忘れられない“あの出来事”のことを……今も、心の底からずっと悔いていて……。 だから、このトンネルという場所以外では、あまりその姿を目撃されることはないのだと思います」 「……後悔、か」 その言葉が、静かに、そして重く僕の胸の中に落ちてくる。 廃病院で出会った、誠也くんのあの寂しげな最後の笑顔が、ふと脳裏をよぎった。 きっと、このトンネルの霊にも、誠也くんと同じように、まだ“誰にも打ち明けられなかった想い”や、 “伝えたいけれど伝えられなかった言葉”が、たくさんあるのかもしれない。 美琴と出会ってから、そして誠也くんの記憶に触れてから、 僕の中の、霊という存在に対する見方や感じ方が、少しずつ、でも確実に変わってきているのが分かる。 ただ怖いだけの存在、というわけでは、決してないのかもしれない、と。 (母さんの言う通り…なのかな…。) *** 風鳴トンネルの前まで辿り着いた時には、あたりはもうすっかりと薄暗くなっていた。 古びたコンクリートで作られた、無骨なトンネルの入り口には、 まるで何十年もの怨念が染み付いたかのように、黒緑色の苔がびっしりとこびりつき、 名前も知らない|蔦《つる》|植物《しょくぶつ》が、まるで生きているかのように、その入り口を覆い隠そうと垂れ下がっている。 そこは、まるで、この世とあの世を繋ぐ、異界への門のようだった。 ひんやりとした、そしてどこか湿り気を帯びた淀んだ空気が、じっとりと僕たちの肌にまとわりついてくる。 「うわぁ……本当に、それっぽい雰囲気の場所だね……」 僕が、思わずそうぼそっと呟くと、隣にいた美琴が、ふふっと小さく笑った。 「ふふ……そうですね。でも、実際に、“いる”のですから、油断は禁物ですよ、先輩」 その、不意に見せた悪戯っぽい笑顔に、僕の緊張も少しだけ救われる。 けれど、彼女はすぐに真剣な表情へと戻り、トンネルの奥の暗闇を見据えた。 「ただ……今のこの時間には、まだ、その方の強い気配は感じられません。 きっと、この街のどこかを、一人で彷徨っていらっしゃるのでしょうね」 その言葉に、僕は廃病院で感じた、あの全身を押し潰すような強烈な“圧”を思い出す。 あの時は、足を踏み入れた瞬間から、まるで無数の何かに取り囲まれるような、濃密な気配があった。 でも、今は──不思議なほど、静かだった。 吹き抜ける風は確かに冷たいけれど、それはただの打ち捨てられた廃墟が持つ、虚無的な空気。 “まだ、ここには何もいない”……そんな、嵐の前の静けさのような感じがした。 「どうしますか、先輩? 少し……ここで、その方が現れるのを待ちますか?」 「うん。確かめたいんだ。僕自身の目で、そして心で」 僕のその、自分でも少し意外なほど力強い答えに、 美琴は一瞬だけ驚いたような、けれどすぐに、全てを理解したかのような、柔らかな微笑みを浮かべて、深くうなずいてくれた。 「分かりました。先輩がそうおっしゃるなら、そうしましょう。私も、その気持ち、よく分かりますから」 トンネルの入り口の脇に、僕たちは並んで腰を下ろし、ただじっと、その奥の暗闇を見つめる。 時折、少しだけ冷たい風が、僕たちの間を吹き抜けていったけれど―― 不思議と、その隣にいる彼女の存在が、僕の心を、じんわりと温かくしてくれているのを感じていた。 *** そうして、十分ほどが経った頃だろうか──。 「……きましたね」 美琴の、静かで、けれど確信に満ちた言葉とほぼ同時に、 今まで何もなかったはずのトンネルの奥から、まるで生きているかのように、 じわじわと、濃く、そして冷たい霧が、音もなくこちらへと這い出してくるのが見えた。 ひやりとした、氷のような空気が、僕たちの頬を鋭く撫でる。 肌にまとわりつくような、その霧の気配は、どこかこの世のものとは思えないほど、異質だった。 「これ……ただの、霧、なの……?」 「ええ。でも、おっしゃる通り、ただの自然現象の霧では、決してありません。 あの方が、こちらへ近づいてきている……その予兆です」 美琴が、ゆっくりと立ち上がり、トンネルの奥から迫りくる霧へと、静かに歩き出す。 その小さな背中は、まるで、これから起こるであろう全ての出来事を、ただ静かに受け入れるかのように―― どこまでも真っ直ぐで、そして、少しだけ寂しげだった。 「僕も……一緒に行くよ、美琴」 「はい、先輩」 並んで、僕たちは、その冷たく湿った霧が立ち込めるトンネルの中へと、 覚悟を決めて、一歩、また一歩と、足を踏み入れていく。 カツ、カツ……。 僕たちの靴音が、足元の剥がれたアスファルトや、散らばった小石を踏みしめ、乾いた音を立てる。 ひんやりとした濃密な湿気と、言いようのない緊張感が、まるで重い外套のように、僕たちの身体にまとわりついてくる。 そして、トンネルの中央付近まで来た、そのとき──。 目の前の、濃い霧の中に、何かが、まるで陽炎のように、ゆらりと揺らめいた。 最初は、ただの影のように輪郭が曖昧だったそれは、 僕たちが息をのんで見つめる中で、徐々に、そして確かに、“人の形”になっていく。 月明かりも届かぬであろう暗闇の中で、不自然なほどに白い肌。 顔を覆い隠すように投げ出された、力なく震えるその両の手には、痛々しい青い痣が無数に浮かんでいる。 そして、その姿全体からは、ただただ、泣いているかのような、か細く、弱々しい哀しみの気配が―― 霧と共に、このトンネルの中に満ち満ちていく。 その影は、ゆっくりと、まるで助けを求めるかのように、こちらに近づいてきた。 『……ごめん、なさい……本当に……ごめ……ん……なさい……っ……』 途切れ途切れの、まるで幼子のようなすすり泣きの声が、 反響しやすいトンネルの中で、いつまでも、いつまでも、悲しく木霊《こだま》する。 その声は、あまりにも悲しくて、あまりにも苦しくて── そして、どこか、心の底から許しを乞うような、切実な響きをしていた。宿の、あの気まずくもどこか落ち着く和室に戻った僕たちは、 小さなちゃぶ台を挟んで、しばし言葉もなく、窓の外へと視線を向けていた。 窓の外に広がる景色は、もうすっかり夕陽に照らされていて、 木々の緑や遠くの山々がきらきらと、まるで燃えるように輝いている。 どこか懐かしくて、そして物悲しいような、不思議な風情が、部屋全体を包み込んでいた。 その、静かで、でもどこか緊張感の漂う空気を破ったのは、障子戸が控えめに軋む音だった。 女将さんが、にこやかな笑顔で顔を覗かせる。 「失礼するよ、お二人さん」 穏やかな声と共に、お盆に乗せた湯呑みを二つ、ちゃぶ台の上にそっと置き、 またあの、太陽みたいに優しい笑顔を向けてくれた。 「お若いお二人さん、この温泉郷の街並みは、もう楽しんだかい?」 「はい、おかげさまで。すごく雰囲気が良くて、どこか懐かしい感じで……」 美琴が、少しだけ頬を赤らめながら微笑んで答えると、 女将さんは満足そうに頷いた。 「それは何よりだったねぇ。ところで、お二人さん、このあと何か予定は立てているのかい?」 「いえ、特にこれといっては……あ、そういえば…」 僕がふと何かを思い出したように言うと、美琴も「そうでしたね」と小さく頷いた。 「僕たち、実は、この温泉郷に古くから伝わるという、巫女の伝説について、少し調べに来たんです」 その瞬間、女将さんの表情が、ふっと興味深そうなものに変わる。 彼女は身を乗り出し、悪戯っぽく片目を瞑って言った。 「ほう、巫女様の伝説ねぇ……。それなら、行ってみるといいかもしれない場所が、ひとつあるよ」 そう言って、一度部屋を出ていった女将さんは、すぐに一枚の古びた手書き地図を持って戻ってきた。 「はい、これがその場所への、おおよその道順さね。ちょっと分かりにくいかもしれないけどね」 渡されたその和紙の地図には、温泉郷のさらに奥へ続く細い小道や、 古い石碑、変わった形の木など、特徴的な目印が丁寧に描かれていた。 「わぁ……ありがとうございます! こんなものまで……!」 美琴と僕がほとんど同時にお礼を言うと、女将さんはにっこり笑った。 「ちなみにね、その道中に、“陽菜の湯”っていう、ちょっと変わった名前の露天風呂があるんだけど……知ってるかい?」 「陽菜の湯……ですか?」 どこかで聞
夏の夕暮れが、ここ温泉郷の全てを、 優しい薄橙色にゆっくりと染め上げていく。 川沿いの、風情ある石畳の小道を歩く僕と美琴の影が、 まるで寄り添うように、長く、長く伸びていた。 軒先に灯り始めた提灯の柔らかな明かりが、木々の緑の間で淡く、そして温かく揺れている。 温泉特有の、硫黄を含んだ湯気の香りが、しっとりと夕暮れの空気に溶け込み、 時折そっと頬を撫でていく風が、汗ばんだ僕たちの首筋に、心地よいやさしい涼しさを運んできた。 美琴の白く小さな手には、さっき僕が贈った、 あの桜の形をした勾玉のアクセサリーが、大切そうに握られている。 傾きかけた夕陽の最後の光を受けたそれが、彼女の指の間で、 小さく、けれど確かに、きらりと光った。 その控えめな光を見つめながら、僕の胸の奥が、またほんのりと温かくなるのを感じる。 ……でも、それとほぼ同時に、どこか落ち着かない、 そわそわとした気持ちも、確かにそこにあった。 新学期に、あの桜の下で美琴と出会ってから、まだたった二ヶ月と少ししか経っていない。 それなのに── あの廃病院の、血の匂いがした冷たい廊下。 風鳴トンネルの、息が詰まるような静寂と恐怖。 彼女と過ごした時間は、およそ「日常」という言葉では到底語り尽くせないほどに、 あまりにも濃く、そして深かった。 時折、こうしてふと振り返るたびに思う。 ……まだ、そんなにも短い時間しか、僕たちは一緒に過ごしていないんだ、って。 「美琴、そろそろ、予約した宿に行ってみない? まだチェックインの手続きもしてないからさ」 僕が、少しだけ照れ隠しに早口でそう声をかけると、 美琴は、こくりと小さく頷いた。 「はい、先輩。そうですね、私も少し疲れましたし、お宿へ行きましょうか」 彼女の、どこまでも柔らかい声色が、 僕の耳に、そして心に、なんだかとても心地よく響いた。 *** 温泉郷の中心部へと、僕たちはゆっくりと足を進める。 そこかしこから立ち上る白い湯煙が、 美しいグラデーションを描く薄橙色の空へと、ゆらゆらと頼りなげに溶けて消えていった。 道の両脇には、風格のある木造の宿がいくつも軒を連ねている。 その軒下には、趣のある提灯がいくつもぶらさがり、 夕闇が迫る周囲に、やわらかな、温かい灯りをぽうっと灯し始めていた。 その中
さっきのお土産屋さんのおばあちゃんの言葉を思い出しては、 まだ少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、僕たちは気まずさを誤魔化すように、そそくさとその場を立ち去った。 次に僕たちの目に飛び込んできたのは、 石畳の小道沿いに佇む、|趣《おもむき》のある一軒の茶店だった。 年季の入った木の看板には、掠れた墨文字で「休み処」と書かれている。 店先には、蒸篭からほかほかと湯気を上げる温泉卵や、 冷たい緑茶の入ったガラス瓶が涼しげに並べられ、 店の奥へと続く縁側には、腰を下ろして一休みできそうな、磨かれた木のベンチがいくつか置かれていた。 店番をしていたのは、柔和な目元が優しい、白髪頭のおじいちゃんだった。 僕たちに気づくと、|皺《しわ》だらけの顔に穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと手を振ってくれた。 「おやおや、可愛らしい、若いお二人さんだねぇ。 よかったら、うちの名物の温泉卵でも、どうだい? 今できたばかりで、熱々だよ」 「温泉卵……食べる、美琴?」 隣の美琴に、僕はそう尋ねてみた。 すると、彼女の大きな茶色の瞳が、ほんの少しだけ、きらりと子供みたいに輝いたのが分かった。 「はい、先輩! 私、温泉卵が大好きなんです。ぜひ、いただきたいですね」 え、そうなの? いつも冷静で、大人びて見える彼女の、そんな意外な、そしてなんだかとても可愛らしい一面に、 僕も自然と頬が緩んで、笑顔になってしまう。 おじいちゃんから、まだ温かい温泉卵を受け取り、そっとその薄い殻を剥くと、 中からほんのりと独特の硫黄の香りが立ち上り、 つやつやと輝く白身の間から、とろりとした鮮やかなオレンジ色の黄身が、ゆっくりと溢れ出した。 美琴が、小さなスプーンでそれをそっと掬い、小さな口へと運ぶ。 すると、彼女の表情が、ふっと、どこか遠くの景色を見つめているかのような、そんな物憂げなものに変わった。 「……美味しいですね……。 なんだか、この温かさが、身体にじんわりと染みてくるようです……」 彼女の声が、最後のところで小さく途切れ、 そこには、どこか遠い日を懐かしむような、そんな響きが、確かに帯びていた。 僕も、促されるように温泉卵を一口食べてみる。 優しい塩気と、黄身の濃厚な旨味、そしてじんわりとした温もりが、口の中いっぱいに広がり── なんだか心ま
温泉郷の、どこか懐かしい街並みを眺めながら、 僕と美琴の間には、さっきからずっと、なんとも言えない微妙な沈黙が流れていた。 あの陽気なおじさんに、からかうように言われた「お似合いのカップル」という言葉が、 まるで頭の片隅にこびりついてしまったかのように、どうしても離れてくれない。 霧の中で、無意識に繋いでいた彼女の手を慌てて離した後も、 僕の指先には、まだあの小さくて柔らかな手の温もりが、じんわりと、そして確かに残っていて、 それが消えてくれないものだから、妙に意識してしまう。 隣を歩く美琴も、心なしかいつもより口数が少ないような気がした。 時折、彼女の白い頬に、ほんのりと、夕焼けみたいな優しい赤みが残っているように見えるのは、 きっと、夏の強い陽射しのせいだけじゃないのかもしれないな……なんて、 僕もらしくないことを考えてしまった。 僕たちの目の前に広がるこの温泉郷は、 古いけれど手入れの行き届いた木造建築が並び、 どこか懐かしさと、そして穏やかな時間がゆっくりと溶け合うような…本当に美しい街並みだった。 しっとりとした湯気を上げる川沿いには、 風情のある木造の旅館や、こぢんまりとした土産物屋が軒を連ね、 石畳で舗装された趣のある小道には、 色とりどりの可愛らしい提灯が、夏のそよ風に楽しげに揺れている。 遠くの源泉の方からだろうか。 硫黄の混じった独特の湯気の香りが、ふわりと僕たちの鼻先をかすめ、 そっと頬を撫でるように吹き抜けていく優しい風が、 じりじりと照りつける夏の暑さを、ほんの少しだけ和らげてくれる。 「と、とりあえず……せっかくだし、少しこの街を見て回ろうか、美琴?」 なんだか気まずいような、でもほんのり温かいような、 この沈黙を破るように、僕が努めて明るくそう提案すると、 美琴は、一瞬だけ僕の顔を見て、そしてすぐにまた視線を逸らしながらも、 静かに、そして小さく頷いた。 「はい、先輩。そうですね、せっかくですから、少しだけ散策してみたいです」 彼女の声は、いつも通り落ち着いていたけれど、 やっぱりその頬の柔らかな赤みが、まだ完全には引いていないような気がした。 僕も、なんだか照れくさくて、少しだけぎこちなく笑いながら頷くしかなか
『ふふっ、温泉郷へようこそ…』 今まで僕たちを濃い霧の中から導いてくれていた、鈴を転がすようにどこまでも優しく、そして澄んだ声が、 まるで悪戯っぽく微笑むかのように、ふふっとそう最後に告げた。 次の瞬間、その不思議な声は、まるで春の淡雪が消えるように、すっと掻き消え、 今まで僕たちの視界を覆っていた、じっとりと湿った霧の余韻だけが、辺りの空気に微かに残っていた。 *** 僕は、首から下げた勾玉にそっと触れて、意識を集中し、霊眼を発動させる。 何か、あの声の主の気配を感じ取れないかと、鋭敏になった感覚で周囲の空間へと視線を巡らせる──。 けれど、そこには何も特別なものは見えないし、何も感じられない。 あれほど濃かった霧が完全に晴れた今、僕たちの目の前には、ただ湯けむりが立ちのぼる、穏やかで長閑(のどか)な温泉郷の風景が広がっているだけだった。 「……声は、あんなにはっきりと、すぐ近くから聞こえていたのに……。 その霊的な気配は、まったくと言っていいほど感じられませんでしたね……」 美琴が、どこか狐につままれたような、不思議そうな顔でそう呟く。 横顔には、今まで経験したことのない、理解できない出来事に直面した時の、真剣な戸惑いの表情が浮かんでいた。 「そういえば……廃病院の時や、風鳴トンネルの時に感じた、あの肌を刺すような圧迫感は、今回は全然なかったような……」 さっきまでの霧の中での出来事を思い返しながら僕が言うと、美琴もまた、静かに、そして深く頷く。 「そうですね……。これほどまでに気配を消すことができる霊というのは、私にとっても、初めての経験かもしれません」 彼女の声には、ほんの少しだけ、何かを探るような、慎重な響きがあった。 今までの、助けを求めたり、強い怨念を抱えていたりした霊とは、明らかに何かが違う──。 そんな、言葉にならない不思議な感覚が、僕たちの間に、静かに、そして確かに共有されていた。 *** 「おう、そこの若い兄ちゃん達! いやぁ、こんな濃い霧の中、ここまで来るのは大変だったろう!」 そんな、やけに陽気で大きな声が、不意に僕たちの背後から飛んできた。 驚いて振り返ると、そこには、人の良さそうな笑顔を浮かべた、五十歳くらいの|恰幅《かっぷく》のいい男性が、手
やがて、バスが最終停留所に到着し、ドアが開く。外へ降り立つと——一瞬で空気が変わった。 都会の喧騒が消え、耳に届くのは蝉の声と、遠くで流れる水のせせらぎだけ。木々の濃い香りが鼻をくすぐり、ひんやりとした山風が頬を撫でていく。夏の陽射しは強いけれど、どこか清々しい空気が全身を包んだ。 「ここからは歩きですね!」 美琴がそう言って、軽やかに前へ進む。彼女の足取りは普段より弾んでいて、まるで心から楽しんでいるようだった。 「美琴がこんなに元気いっぱいなの、珍しいね」 自然と口をついて出た言葉に、美琴が一瞬驚いたように振り返る。でも、すぐに照れくさそうな笑みを浮かべた。 「えへへ……なんだか、新鮮で楽しいんです。」 そう言いながら、彼女は目を輝かせて辺りを見回す。その無邪気な表情は、初めて遠足に来た子どものようで、ついこちらまで笑顔になる。 僕たちは緩やかな坂道を登り、温泉郷へと続く山道へ足を踏み入れた。道の脇には古びた石畳が続き、苔むした石灯籠が点々と佇んでいる。夏の日差しは強いものの、木々の葉が涼しい影を落とし、吹き抜ける山風が心地よかった。 「先輩、見てください! あの木、すごく立派ですよ!」 美琴が指さした先には、堂々とした古木が立っていた。太い幹にはびっしりと苔が生え、根元が地面にしっかりと根を張っている。何百年もこの場所を見守ってきたような、威厳ある姿だ。 「確かにすごいなぁ……温泉郷って、やっぱり歴史がある場所なんだね」 僕が感心しながら見上げると、美琴が嬉しそうに頷く。 「そうですね! きっと、この温泉郷には、もっと面白いものがあるかもしれませんね!」 そんな会話を交わしながら、僕たちはさらに歩を進める。 ——けれど、ふと、周囲の雰囲気が変わり始めた。 どこからともなく、白い霧が立ち込めてくる。視界がじわじわと霞み、足元の影がぼんやりと揺らぎ始めた。まるで森が静かに息をしているような、不思議な感覚が広がる。 霧が――音もなく、しかし確実に、その深度と濃度、そして重みを増していく。 まるで足元から這い上がり、この世界そのものを静かに、そして完全に呑み込もうとしているかのように。 先ほどまでかろうじて見えていた数メートル先の木々の幹さえも、今はもう白一色の帳の向こうだ。 「……これは、まずいかもしれないね」