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第17話 想いが残る場所

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-19 19:38:39

院長室には、静寂だけが残った。

月明かりが割れた窓から差し込み、廃病院の冷えた空気がゆっくりと流れを変えていく。

誠也くんは成仏した。

最後に見せた笑顔が、ゆっくりと薄闇に溶けて消えた。

もう、彼は一人じゃない。家族の元へ、戻れたんだ。

僕の胸には、不思議なほどの静けさが広がっていた。

彼がようやく安らぎを得たのだと思うと、胸のつかえが取れるようだった。

僕はそっと息をつき、床に手をついた。

まだ、心臓の奥が微かに震えている……。

――不思議な美琴の力。

紅い光が、誠也くんの過去を映し出し、そして彼を導いた……。

巫女の力…とは言っていたけど……。

そんな事を考えていると、ふいに背後で人の気配がした。

振り返ると──そこには、誠也くんの記憶に出てきた白衣の老医師が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。

彼は美琴と僕へ、深々と頭を下げる。

そして、誠也君が成仏した時と同じ様に、彼の体から光の粒子のようなものが舞い、その姿は静かに消えていった。

「み、美琴、今のは!?」

僕は美琴を見て尋ねた。

「今まで他の霊の気配を感じなかったし…誠也君も一人だと思ってたよね…?」

「力が弱い霊だったのでしょうね…。それこそ誠也君にも見えないほどに。」

「…でもそんな誠也君をさっきの方はずっと見守ってくれていたんだと、私は思います。」

彼女は、院長室に飾られた一枚の絵……おそらく誠也君が描いたのであろう老医師の似顔絵を見つめながら、そう言った。

***

美琴が立ち上がると、床に転がる懐中電灯を拾い上げた。

「…先輩、そろそろ戻りましょう」

その言葉を聞いて、僕はふと翔太たちのことを思い出した。

「そういえば、地下倉庫で四人を見つけたんだ。」

そう、まだ彼らは、気を失ったままだ。

「どうしたら起きるかな……?」

「では、私が起こします。」

美琴が静かに言い、倉庫へと足を進める。僕は何も言わず、それに続いた。

***

倉庫の中には、まだ静寂が満ちていた。

美琴が膝をつき、ぐったりしている四人の上で、そっと手をかざす。

ふわり、と空気が震えた。

次の瞬間、柔らかな紅い光が四人を包み込む。

美琴が立ち上がる。その手を、もう片方の手で一瞬だけ、ぎゅっと握りしめるのを僕は見た。まるで、何かの痛みをこらえるように。

「……う、うぅん……?」

最初に目を覚ましたのは翔太だった。彼はぼんやりと天井を見つめ、次に僕の顔を認識すると、驚いたように目を瞬かせた。

「悠斗……? なんでここに……? それに…君は…?」

「私は一年生の月瀬美琴と申します。先輩と二人で、あなた方を探しに来ました。」

「はぁ…翔太こそ、なんでここで寝てたんだ? 心配したんだぞ…。」

翔太は頭を押さえながら起き上がり、困惑した顔を浮かべる。

「……いや、わかんねぇ……。確か、配信の準備してて……叫び声が聞こえた気がしたんだ…。そのあと……何してたっけ?」

言葉が途切れる。翔太だけじゃない。他の三人も目を覚ましたが、同じように戸惑った顔をしていた。

「俺たち、何してたっけ?」「マジで覚えてねぇ……。」

記憶が、抜け落ちている。

「おそらく霊障によるものです。」

隣で美琴が、僕にだけ聞こえるように小さく呟いた。

霊障──霊の影響で意識や記憶が曖昧になる現象。誠也君の強い未練が、彼らにも影響したのかもしれない。

四人は眉をひそめ、お互いに顔を見合わせる。

「なんか……頭がモヤモヤするな……。」「変な夢でも見てたみたいな感じ……。」

自分たちの記憶が曖昧なことに、気味の悪さを覚えているのが伝わってきた。

そんな彼らを見つめながら、僕は翔太にだけ視線を向けた。

――話すべきか、迷った。

でも、彼には関係ない話じゃない。それに、僕に霊が視える事を知っているからこそ、他の三人と違って知る権利があるような気もする。

「……翔太。昨日のこと、覚えてないの?」

僕が静かに尋ねると、翔太は困惑したまま首を振った。

「いや、マジで分かんねぇ。なんか……時間が飛んだみたいな感じ。」

少しの間を置いて、僕は小さく息をついた。

「……とりあえず、簡単に説明するよ。」

翔太だけに、小さな声で今日起きた出来事を伝えた。

誠也という少年の霊がいて、彼がここでずっと一人でいたこと。彼の家族が事故で亡くなり、彼だけが取り残されたこと。僕と美琴が彼を見つけ、──成仏させたこと。

翔太は黙って聞いていた。

「……漫画みてぇな話だな。」

ぽつりと呟いた後、彼は「いや、でも……」と考えるように視線を泳がせる。

「確かに、小さな子供の姿を見たような気がするんだよな……。」

彼は曖昧な表情のまま、後頭部を掻いた。

「まあ……いっか。とにかく、お前も無事でよかったわ。あと…心配かけて悪かったな。」

翔太は素直に謝ってくれた。

言いたいことはあったけど、彼が無事だったことに免じて、今回は許そう。僕も軽く頷く。

「……そうだね。」

その時、倉庫の隅で誰かが時計を確認した。

「ちょ、今何時?」「……うわ、もう深夜じゃん!」

配信者三人が慌てて立ち上がると、「ヤバいヤバい、早く帰らねぇと!」「母ちゃんに殺される!!」なんて言って、慌ただしく飛び出して行った。

翔太が「お前らも帰るよな?」と僕と美琴に視線を向け、そう尋ねてきた。

「うん、帰ろうか。」

「はい。帰りましょう。」

***

病院の外に出ると、夜風がひんやりと肌を撫でた。

空を見上げると、雲の切れ間から月が覗いている。

「……あ」

足元に、ひらりと何かが落ちた。

桜の花びら。

こんな場所に桜の木はないのに。

風が吹き抜ける。

まるで──誠也君が「ありがとう」と言っているかのようだった。

「……行こうか。」

僕が呟くと、美琴がふっと微笑む。

「はいっ。」

そうして、僕たちは静かに廃病院を後にしたのだった。

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