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渡瀬藍兵
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Novels by 渡瀬藍兵

【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜

【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜

──霊が視える。でも、視えないフリをして生きてきた。 平凡な高校生・櫻井悠斗の日常は、親友の失踪によって終わりを告げる。 手がかりを求め、足を踏み入れたのは『桜織旧病院』。 この町で最も不気味だと囁かれる、恐ろしい廃墟。 そこで彼を待っていたのは、絶望的な恐怖と……一人の、謎めいた少女だった。 「私の血は、穢れているんです」 月瀬美琴──。 悠斗とは対照的に、恐れることなく霊と向き合う彼女との出会いが、悠斗を千年の時を超えた壮大な呪いと宿命の渦へと巻き込んでいく。 これは、不思議な力を持つ少年と、過酷な運命を背負う少女が、互いを信じ、支え合い、絶望的な未来に抗う、切なくも美しい愛と戦いの物語。
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Chapter: 裏設定
皆さん、物語を読んでいただきありがとうございます! ここでは、物語をさらに深く楽しんでいただくために、いくつかの裏設定を少しだけ解説したいと思います。 Q1. 迦夜(かや)って、結局何だったの? 第七章で悠斗たちを苦しめた《迦夜》。彼女たちは、琴音の呪いによって生まれた「歴史への怨嗟の集合体」です。 しかし、琴音が戦いの最中に言ったこのセリフ、気になりませんでしたか? > 『ぐぅ……! 吸収し損ねた迦夜の残骸か……! はみ出し者の分際で、妾に逆らうとは……っ!!』 実は、琴音はこの千年もの間、自らが振りまいた呪いが生み出す怨念を、その身に吸収し続けていました。 迦夜の力も怨みも。 つまり、悠斗たちが戦った迦夜は、その巨大な器から**ほんの少しだけ溢れ出してしまった「残骸」**にすぎません。 Q2. なぜ沙月(さつき)の血筋だけが、他の巫女より長生きできたの? 美琴の血筋をはじめ、多くの巫女たちが二十代という若さで命を落とす中、なぜ沙月の子孫だけは比較的長く生きられたのか。 その答えは、**沙月が呪いの元凶である琴音の「実の妹」**だったからです。 力の源流に最も近い血を持つ沙月は、琴音の力を扱える器でした。 (もちろん、全く呪われていない訳ではありません) 例えるなら、他の巫女たちの呪いの進行速度を「2倍速」とすると、沙月の子孫は「等速」で進む、というイメージです。 それ故に、他の巫女よりは長く、三十代~四十代まで生きることができました。 悠斗に一切呪いがないのは、沙月の子孫への強い想いから繋がった、祈りという名の奇跡なのです。 Q3. 忘れられた創設者・沙月の歴史 桜織市の創設者である沙月の歴史は、あまりにも長すぎるため、そのほとんどが人々の記憶から忘れ去られています。 温泉郷にかすかに「清き巫女の伝説」が残るのみで、その全貌を知るのは、桜織神社の墓守である藤次郎の一族だけです。 なぜ歴史が忘れられたのか? それは、沙月自身がそう望んだからです。 彼女は、自分の子孫たちが過酷な宿命に縛られず、自由に生きてほしいと願い、藤次郎の祖先に「真実を語り継ぐ必要はない」と伝えていました。 ちなみに、沙月には**《葵(あおい)》**という娘がいました。 白蛇様の分身体を封印する覚悟を決めた沙月は、その少し前に、娘を父方の家系へと
Last Updated: 2025-08-15
Chapter: 縁語り其の結び
あれから――さらに、百年もの歳月が流れようとしていた。 悠久の風がこの白蛇山の山頂を吹き抜ける中、妾は静かに見守り続けていた。悠斗に遺した妾の血を媒体に、彼と美琴、そしてその子孫たちが紡ぐ、すべての記憶と感情を。 それが、妾が自らに課した最後の贖罪であったから。 二人は、実に満ち足りた生涯を送った。 まるで失われた時間を取り戻すかのように、笑い、愛し合い、時には些細なことで喧嘩をしながらも、固く手を携えて歩んだ。やがて、その腕に新しい命を抱き、慈しみ、育て、そして次の世代へと縁を繋いでいった。 霊砂や百合香たち、古の巫女たちもまた、穏やかに天寿を全うし、安らかな眠りについた。 その最後の魂が天へと昇ったのを見届けたとき……妾の役目も、ようやく終わったのだ。 あぁ……なんと壮大で、愛おしい記録であったことか。 妾の呪いが彼らを、そして多くの者を苦しめてしまった事実に変わりはない。 だが、妾の血を引き継いだ彼らの子孫たちが、この先も数多の物語を紡いでいく。かつてあれほど憎らしいとさえ思ったその事実が、今ではむしろ……誇らしく、喜ばしいとさえ感じるのだ。 そんなことを想いながら空を仰いでいた、その時だった。 『……姉上……』 ふと、天から懐かしい声が聞こえたような気がした。 いや、気のせいではない。魂に直接響く、凛として、それでいて慈しみに満ちた声。 『む……?』 『姉上……』 見上げると、雲間から柔らかな光が差し、天からひとつの人影が、静かに舞い降りてくる。 妾の記憶にある、ただ一人の姿。 『……沙月……!』 『迎えにまいりました』 地に降り立った妹は、以前と何ひとつ変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。 かつては、その清廉さが息苦しくもあった。だが……それがいまは、どうしようもなく心地よい。 『ふふ……そなたの蒔いた種が、見事な花を咲かせ……こうして、妾を解放するに至った。感謝するぞ、沙月』 そう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、そっと妾の手を取った。 差し出されたその手は、記憶にあるどの温もりよりも柔らかく、そして、暖かかった。千年の時を超え、ようやく妹の手に触れることができたのだ。 さぁ、天へと上がろう。 悠久の時を、今度こそ二人で。 そして、この地に生きる、まだ見ぬ愛しき子孫たちよ。
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 縁語り其の最終話:縁が結ぶ光
あれから――十六年が経った。 月日は慌ただしく流れ、私の日常も大きく姿を変えた。 私は今、この桜織市で『結び屋』という名の霊媒処を営んでいる。 古の巫女である霊砂さんたちとの交流は続き、私の方から「一緒に霊媒師をやらないか」と声を掛けたところ、彼女たちも快く受け入れてくれた。今では、皆が『結び屋』の正式な仲間だ。 皆の助けもあってか、いつしか「よく当たる」などと評判になり、かつてのような無名の存在ではなくなった。 けれど、やっていることは昔と何も変わらない。 ただ静かに、迷える霊たちの傍に寄り添い、その”想い”と向き合い――癒すだけ。 かつて、彼女がそうしてくれたように。 *** バスの車窓から、ふと紅い影を纏った霊を見つける。すぐに停止ボタンを押し、運賃を払ってバスを降りた。 いた。あの霊だ。 「こんにちは。何か、お困り事でも?」 私は、路地裏に佇むその霊に、臆することなく声をかける。 『あんた……私が見えるのね……』 「ええ。何か抱えている想いがあるはずです。私でよければお聞きしますよ」 『……なんで……なんで私が死ななきゃいけなかったの!? あいつが……あいつが悪いのに……!』 胸の内に渦巻く、未練と怒り。それはまだ”すれ違い”の最中なのだろう。 「よければ……あなたの話を、聞かせてくれませんか。私にも、力になれることがあるかもしれません」 これまで、幾度となく見てきた。怒りに呑まれ、世界を恨んだ霊たちも――きちんと”言葉”を交わせば、癒えるのだと。 *** 『……ってわけがあってねぇ……』 先ほどまで荒れ狂っていた霊は、今ではすっかり落ち着き、赤く禍々しかった気配も、まるで嘘のように消えていた。 「なるほど……それは、とてもお辛かったですね」 そう伝えると、彼女の身体が透き通り始める。成仏の兆候だ。 「あとは私が、あなたの想いを引き継ぎましょう」 『……ほんとに? いや……なんだか、あんたは信用できる気がするよ……』 彼女は、誤解の果てに彷徨っていた。だが、その誤解はいま解けた。約束通り、後日、彼女の言葉を伝えるために”その人”へ連絡を取るつもりだ。それが、私の仕事。私が選んだ、生き方。 『……あぁ……なんだか……心地がいいや……』 彼女の姿がさらに透け、やがて光の粒子となり、静かに――天へと昇っていっ
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 縁語り其の百八十:おかえりとただいま
僕は車の中で、輝信さんと……琴乃さんの話をしていた。 彼女は、魂を賭して美琴を、そして僕を守ってくれたのだ。 美琴の言葉を借りれば──魂が攻撃されて死んでしまった場合、その魂は浄土へ昇れず、消滅してしまう。それを知っていながら、琴乃さんは迷わず僕たちを守ってくれた。その事実を思えば、あの山頂での自分の行動は……あまりにも愚かだったと、今更ながら胸が痛む。 この命は、琴乃さんと美琴、ふたりの魂に支えられて今、ここにあるのだ。 琴乃さんの想い人であり、彼女を同じように深く愛していた──輝信さん。彼がどんな反応をするか、正直、不安だった。 けれど、返ってきた言葉は……想像していたものとは違っていた。 「そうか、琴乃がふたりを守ってくれたのか……なら──ちゃんと、生きないとな。きっと琴乃も、それを望んでる」 その声は、努めて明るく振る舞う中に、微かな震えが混じっていた。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に深い悲しみがよぎる。でも彼は、変わらず優しく微笑んでくれた。 「……はい」 僕は深く頷いた。 *** 車内の空気は、しばらく静寂に包まれた。それでも、輝信さんは黙って僕を自宅まで送り届けてくれた。 「元気でな、悠斗君!」 別れ際、彼は笑顔で手を振った。 「俺はこれから琴乃の亡骸を弔ってくる。……また気が向いたら、あの家に来てくれ!」 その言葉を聞いて、僕は彼に尋ねた。なにか、自分にもできることはないかと。 だけど彼は、そっと首を横に振った。 「これは俺が、一人でやりたいことだから」 彼の瞳は、どこか遠い空を見つめていた。 そして、こうも言った。呪いが消えた今、琴乃さんが住んでいたあの家に住むつもりだと。そこに、彼女のための大きな墓を建てるつもりだと── (……僕も、ちゃんとお墓参りに行かないと) そう心に誓った僕に、彼は大きく手を振って車に乗り込んだ。 「じゃあな、悠斗君! 達者でなぁ!!」 その声が遠ざかっていく。 僕は、ただ静かに頭を下げて、その車を見送った。 *** 輝信さんと別れた僕は、その足で――久しぶりに、母さんのいる病院へと向かった。 バスの振動に揺られながら、窓に映る自分の顔が、やけに強張っていることに気づいた。もう何度も来ているはずの場所なのに、今日は心が落ち着かない。大切な報告があるからか、それとも、これまで
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 縁語り其の百七十九:終幕のその先へ
「……よく戻ったな」 長老の家の前に立ったとき、あの慈愛に満ちた声が出迎えてくれた。 琴音様のことを村人たちに伝え終え、僕はひとり、この家を訪れていた。理由はふたつ。ひとつは――琴音様が告げた、美琴の転生の話を伝えるため。この人にとっても、美琴はきっと、大切な存在だったから。 「長老……琴音様から、美琴についてのお話がありました」 「ふむ……聞こう」 僕は、琴音様が語った言葉をそのまま伝えた。十数年後、美琴は再びこの世に生を受け、僕のもとへ還ってくる、と。 「琴音様が……そんなことを……?」 長老は、にわかには信じがたいといった表情で目を細めた。だが、その深く刻まれた皺の奥で、小さな希望の灯火が宿るのが見えた。 僕は静かに頷く。 「はい。あのとき、琴音様は力強くそう言ってくれました。……あの瞳に、迷いはありませんでした」 ゆっくりと、深く頷いた長老の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。 「そうかぁ……そうかぁ……」 何度も繰り返されるその声に、どれほどの想いが込められていたのか――僕は、その涙の重みを、ただ静かに見守った。 そして――もうひとつ。 「長老、もうひとつ……お願いがあります」 「ほう? なんじゃ?」 「沙月さんの情報を……すべて、正しく書き直してほしいんです」 しばしの沈黙の後、長老は目を閉じて静かに問い返す。 「それは……構わんが、なぜ今になって?」 「沙月さんのこの村での記録は、偽られたままです。本当のことが、何ひとつ残されていない……。千鶴さんが、彼女の子孫である僕達を守るためにそうしたのは分かります。でも、今はもう――その呪いも、終わったから……」 かつて琴音様が残した呪いは、もう祓われた。今の村には、彼女を知る人もいない。それなら、もう……彼女の人生を”真実”として刻んでもいいはずだ。 「ふむ……。では、文献を作り直そう」 そう言って、長老は真っ直ぐ僕を見つめ、力強く頷いてくれた。その声に、ひとかけらの迷いもなかった。 「ありがとうございます」 知らず知らずのうちに詰めていた息が、そっと吐き出された。 「して……その沙月様について詳しく話してくれるか?」 「もちろんです」 そうして、僕は語りはじめた。あの人が歩んできた、千年の祈りの軌跡を。温泉郷で呪われた霊たちを鎮めたこと。僕に呪いが宿って
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 縁語り其の百七十八:呪いからの解放
『……行ってしまわれた……』 琴音様の声が、静かに宙に溶けていく。 彼女は、白蛇様が消えた空を、ただ静かに見上げていた。その横顔に、ふと寂寥の影が落ちる。 「やっぱり……琴音様も、寂しいですよね」 僕の口から、自然とそんな言葉が漏れた。 美琴を失った時の、あの胸を抉るような悲しみとは違う。それでも、この別れを「大したことない」と割り切るべきではないと思った。 あの白蛇様との別れは、琴音様にとっても、心の奥底をじんわりと締めつけるものだったに違いない。 『うむ……そして、悠斗。そなたは……落ち着いたようだな』 琴音様が、僕を気遣うように言葉を紡ぐ。 その声に、僕は小さく頷いた。 「はい……まだ、引きずっていないと言ったら嘘になりますけど。でも、あなたの過去を見て……白蛇様や琴音様と、言葉を交わせて……」 そう言いながら、僕は自分の胸に手を当てた。 そこには、美琴への喪失感から生まれた激しい怒りも、琴音様への憎しみも、もう渦巻いてはいない。感情の嵐は去り、ただ深い悲しみが、どこか遠い場所で静かに沈んでいるのを感じる。 癒えたわけではない。けれど、確かに鎮まった悲しみだった。 「……それだけで、充分でした」 僕の言葉は、偽りない本心だった。 彼女たちの過去を知り、その想いに触れたことで、僕の心は救われていたのだ。 『……悠斗』 琴音様が、ゆっくりと僕の名を呼んだ。 『彼女……美琴が、このまま救われぬまま終わりを迎えるなど、この妾が……断じて許さぬ』 その言葉に、僕の心臓が大きく跳ねた。 彼女の声には、揺るぎない決意と、美琴への確かな想いが宿っていた。 「えっ……?」 呆然とする僕に、琴音様は真っ直ぐな目で告げる。 『故に断言しよう。美琴は、十数年後――輪廻転生を果たし、そなたの元へと帰ってくるであろう』 輪廻転生……? それは……確か幼い頃に母さんから、聞いていた。 輪廻転生……。 本当にそんなものが存在するなんて……。 でも、美琴に……会えるかもしれない……? 僕の胸に、驚きと、信じられないほどの希望が波のように押し寄せる。絶望で固まっていた心が、少しずつ溶けていくようだった。 『彼女は、それだけ偉大なことを成し遂げたのだ。それくらい転生が早くとも……世界の理も、許してくれよう。悠斗……そなたも、よくやった』
Last Updated: 2025-08-07
Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─

Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─

「心は一つ、身体も一つ。――でも、魂は二つ!?」 聖女見習いエレナの身体には、記憶を失った最強の戦士エレンが宿っていた。 昼は聖女が祈りを捧げ、夜は戦士が剣を執る——一つの身体を分かち合う、二人だけの秘密。 ある時、エレナは極秘任務を告げられる。 かつて世界を創造した"魔神"が砕け散った聖域「禁足地」にて、未知なる膨大なエネルギーが観測されたと。 聖女見習いと四人の異能者、そして夜の帳が下りる頃に現れる、彼女だけの騎士。 五つの魂を乗せた旅が、今、始まる。
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Chapter: 第87話:高鳴る鼓動
へレフィア王国へ向かう船旅は、驚くほど穏やかだった。海は陽光を受けて宝石のようにきらめき、波は柔らかく船体を持ち上げては下ろす。その規則正しい揺れが、心臓の鼓動と重なって、妙な安心感を与えてくれる。潮風は冷たく、けれど鼻を抜けるとどこか甘さを含んでいて、これから訪れる新しい土地の匂いを運んでくるかのようだった。しばらく進むと、視界の先に大きな船影が現れる。白銀の装飾をまとい、陽を浴びて輝くその姿は、海の上を行く巨大な聖堂のよう。あれが、へレフィア王国の騎士団の船――。私たちの船が近づくと、操舵手さんが甲板に立ち、胸を張って声を張り上げた。「騎士団の皆さん! お疲れ様です!」その呼びかけに、鎧を着込んだ騎士が姿を現す。鉄靴が甲板を打つ音さえ、威厳を帯びていた。「お疲れ様でございます。……そちらの方々は、見ぬ顔のようですが?」「彼らはナヴィス・ノストラのギルド受付嬢の推薦を受け、へレフィア王国へ向かっているところです!」操舵手さんが誇らしげに言うと、騎士団の人たちは一瞬だけ視線を交わし、そして私たちに柔らかな笑みを向けてくれた。「なるほど。あの方の推薦であれば、何も問題はございません。――へレフィア王国への上陸を許可します」(やっぱり……エレン、あの受付嬢さん、すごい人なんじゃない?)(ああ。ギブソンにも物怖じせぬ胆力、そして王国騎士団すら動かす信頼。ふむ……市井に埋もれさせておくには惜しい人材だ)エレンの声が、少しだけ感心を含んで響く。私は胸の奥で頷き、改めて、あの受付嬢さんに助けられたことを深く感謝した。「では、失礼します!」「皆様も、王国で実りある日々を」騎士の言葉に見送られ、船は再び速度を上げる。風が強まり、白い飛沫が甲板に散った。***やがて船着き場が近づき、仲間たちは次々と下船していった。私は最後に、木の板を踏みしめて石畳の港へ降り立つ。潮の匂いに混じって、どこか清冽な空気が流れ込んでくる。深呼吸すると、胸の奥に冷たさと同時に清らかな熱が広がるようだった。顔を上げた瞬間、言葉が喉に詰まった。――空が、狭い。正確には、空を覆い隠すかのようにそびえる建物のせいだ。天を貫くほどの巨大な大聖堂。その壁はクリーム色に近い温かな白で築かれ、どこまでも高く伸びている。首が痛くなるほど見上げても、その頂は霞に隠れて見えない
Last Updated: 2025-10-12
Chapter: 第86話:母の眠る国
**────エレナの視点────** いくつもの船が停泊する港町。その一角にあるギルドの内部で、私たちは今回の依頼の完了報告と、捕らえた海賊たちの引き渡しを行っていた。 「この度は……本当に、本当にすみませんでした……!」 カウンターの向こうで、依頼をくれたあの受付嬢さんが、深く深く頭を下げていた。その声は、申し訳なさで震えている。 「い、いえ!大丈夫ですっ!どうか、頭を上げてください……!」 私は慌ててそう言った。彼女が悪いわけじゃないのに、そんなに謝られるとこっちまで恐縮しちゃう。 「いえ……今回の不備は、完全に我々ギルドの不手際によるものです。まさか、あの『紅の海蛇』の内通者が、ギルド所属の操舵手に紛れていたなんて……」 「確かに、それはそちらの不手際だ」 今まで黙っていたシイナさんが、厳しい声でそう言った。ピリッ、と空気が少しだけ緊張する。でも、彼の言葉はすぐに和らいだ。 「だが、結果として依頼は達成できた。今後はこのようなことが無いよう、人員管理を徹底してくれればそれでいい」 「……お言葉もありません。そのお詫びと言ってはなんですが、皆様をへレフィア王国へ渡れるよう、こちらで手配いたします」 受付嬢さんの口から、思いもよらない言葉が飛び出した。 「な、なに!?それは本当だろうか!?」 シイナさんが、思わずといった様子で声を上げる。 「ええ。私、へレフィア王国の出身ですから。そのくらいの融通は利かせられます」 「きっと、明日にはへレフィア王国へと渡れるでしょう」 彼女はそう言って、少しだけはにかんだ。 へレフィア王国へ……。 その言葉が、私の胸に温かく染み渡っていく。 もうすぐ……もうすぐ、お母様に会えるんだね……。 ずっと張り詰めていた気持ちが、ふっと軽くなるのを感じた。 今まで、一度もへレフィア王国へいったこ (エレナ……二人で、君の母君に挨拶を済ませよう) エレンの、優しくて力強い声が響く。 (うん……) 私は、心の中で強く頷いた。 「そういえばなのですが」と、受付嬢さんが思い出したように付け加えた。 「あなた方が連れてこられた、ギブソンという海賊ですが……彼は船の器物破損、及びギルド所属船への無断乗船の罪で、現在、地下牢に幽閉中です」 (そ、そうなんだ……) あの人のことを考えると、正直、少
Last Updated: 2025-10-10
Chapter: 第85話:ギブソンの奇行
エレンがマリーたちを捕らえてくれた後、私たちは船内の物陰でそっと入れ替わった。荒れた甲板の中心で、マストに縛られている大海賊マリーさんと向き合う。さっきまでの喧騒が嘘のように、船の上は静かだった。 ふと、一つの疑問が浮かぶ。 「そういえば……他の海賊船はどうしたんですか?」 私の問いに、グレンさんがニカッと笑って答えてくれた。 「おう!俺が派手に一隻沈めてやった後、ギブソンの奴が潜って、もう一隻の船底に風穴開けてやったのさ!」 (そんな事になってたんだ……) エレンとマリーさんが戦っている間に、そんな激しい戦闘が繰り広げられていたなんて。グレンさんは、さらに得意げに言葉を続ける。 「残りの一隻は、シオンの奴が一人で静かに潰してたぜ」 「ああ。だが、最後の船は勝ち目がないと見て逃走した。……詰めが甘かったな」 冷静に補足してくれたのはシイナさんだった。それを受けて、ギブソンさんが吐き捨てるように言う。 「海賊なんてそんなもんさ。裏切りは日常茶飯事よ。どうせまたどこぞのバカと手を組むだけだ」 逃げた船もいるんだ……。でも、それよりも気になることがあった。 「あの、沈没した船に乗っていた海賊の方たちは……?」 (悪い事をした人達だけど……命が失われることは、やっぱり嫌だから……) 私の心からの祈りにも似た呟きに、エレンが優しく応えてくれる。 (そうだな。君のそういうところは、美徳だと思う) その時、ミストさんが「ご安心を!」とでも言うように、ぱっと明るい声を上げた。 「エレナさんが心配すると思って、全員きっちり捕獲済みですよ!」 (良かった……) ミストさんの言葉に、私は心の底からほっとした。 その声で意識が戻ったのか、マリーさんが呻きながら顔を上げた。 「くそ……この私が、こんな奴らに捕まるとはね……」 その悔しそうな声を聞き、それまで黙っていたギブソンさんがズカズカと彼女の方へ歩いていく。 「よォ、マリー。随分と派手にやってくれたじゃねえか」 「……ギブソンか。今更何の用だい」 「決まってんだろ。俺から奪っていったモンを、きっちり返してもらうだけだ」 ギブソンさんはそう言うと、どこからか取り出した巨大な斧をその手に構えた。危ない! 「待ってくれ!俺たちの依頼は海賊の掃討だ!捕まえたのなら命まで奪う契約ではない!
Last Updated: 2025-10-09
Chapter: 第84話:海賊船の戦い
私は再び剣を構え、マリーへと踏み込んだ。「はっ!!!」踏み込みと同時に、刃を振り下ろす。「甘いな!!」マリーは後退しながら、あの奇妙な銃を私に向けて連射する。赤い宝石が、唸りを上げて空を切り裂いた。一発目を身を翻して避ける。二発目は背後の船のマストを盾にする。直後――凄まじい衝撃と共に、盾にしたはずの柱が内側から弾け飛んだ。木片が、雨のように降り注ぐ。「……!」私は目を細める。「柱を貫くか……!とてつもない威力だ」正直に認めざるを得ない。「当たったら耐えられんな」だが、脅威はその程度だ。「放つ武器と理解したら」私は、マストの残骸を蹴りつける。「そこまでだ」煙幕のように舞い上がる木屑の中から、私は飛び出した。予測通り、マリーは再び銃口をこちらへ向ける。引き金に指がかかる。しかし――もう遅い。迫り来る宝石の弾丸。私は腰に差していた短剣を抜き、その側面を叩き斬るように弾いた。甲高い音を立てて、弾丸は明後日の方向へと飛んでいく。海の彼方へと消えた。「はっ!??」マリーの目が、大きく見開かれる。「斬っただと!?」彼女の顔に、初めて純粋な驚愕が浮かんだ。その一瞬の硬直が――命取りだ。「隙を見せたな!!」一気に距離を詰める。風が、頬を撫でた。「そんなモノに頼っているからだ!!」がら空きになった胴体へ、容赦なく膝蹴りを叩き込む。「ぐぅぅ……!!」マリーは苦悶の声を漏らし、くの字に折れ曲がって吹き飛んだ。船の甲板を転がり、マストにぶつかる。だが――それでも体勢を崩しながら、執念で銃を向けてくる。二発、三発。赤い閃光が、立て続けに放たれた。「ふっ!!」一発目を剣の腹で受け流す。「はっ!!」二発目も同様に。巧みに軌道を変えてやった。狙いは――彼女が守るべき背後の部下たちだ。「ぎゃぁぁぁぁぁ!!」仲間が放った弾丸に太ももを貫かれ、海賊が倒れる。「がぁっ……!!」もう一人も、肩を押さえて崩れ落ちた。その無様な光景を眺め、私は周囲の敵を見回す。「さぁ」剣を軽く振る。「お前たちも掛かってくるといい」挑発の言葉。案の定、効果は覿面だった。「くそ!!バカにしやがって!!」逆上した海賊たちが、やみくもに斬りかかってくる。素人じみた剣戟。力任せの振り下ろし。私はその全てを最小
Last Updated: 2025-10-08
Chapter: 第83話:エレンVSマリー
ギブソンの怒号が、炎と煙の渦巻く甲板に響く。 「船の炎を消せぇぇぇぇ!!!」 だが、その声は空しく、火勢は衰える気配もない。状況は最悪だ。その絶望に追い打ちをかけるように、巨大な船影が波を割って迫る。その船首には、おぞましい蛇の紋様が彫られていた。 「ひゃひゃひゃひゃ!!! 俺たちに喧嘩を売るとは、馬鹿か!? しかも、そのザマじゃあ、海の上での戦いは素人のようだなァ!!」 敵船から飛んでくる下卑た嘲笑。その声の主を視界に捉えた瞬間、全ての状況が一本の線で繋がった。 「そういうことか……!あの操舵手め!!」 敵の甲板で不快な笑みを浮かべているのは、つい先ほどまで我々の船の舵を握っていた男だった。どうりで動きが鈍いと思った。初めから、我々をここに誘い込むための芝居だったというわけだ。 (つまり……さっきの人が情報を流してたから、孤島から姿を消してた…ってこと!?) エレナの驚きに満ちた声が、思考に割り込んでくる。私は内心の舌打ちを隠しながら、静かに肯定した。 (ああ……。そのようだ) 裏切り者は、隣に立つ屈強な女海賊へ向き直り、大声を張り上げた。 「姐さん!!! 大砲の準備、完了したぜ!!」 「よし……。――放て!!!!」 女――あの船団の頭だろう――は、短い命令を下す。無駄のない、冷徹な声だった。 「おい!!マリー!!いくらなんでもこれはひでぇだろうが!!!」 ギブソンが女の名を叫ぶ。知り合いか。だが、マリーと呼ばれた大海賊は、一切動じることなく言い放った。 「黙れカスめ……!お前たちにはここで死んでもらう」 あの瞳、あの声。交渉の余地はない。純粋な殺意だ。 「ちぃ!!」 覚悟を決めるしかない。この状況、予期すべきだった。 「やはり私が付いてきて正解だったようだな……!」 こうなる可能性を考えれば、戦力は一人でも多い方がいいに決まっている。私は即座に傍らのシオンへ指示を出す。 「シオン、頼みがある」 「わかりました……!して、何をすれば…!」 話が早いのは、何より助かる。 「私に、風属性を纏わせてくれ!私があの大海賊の元へ直接殴り込みに行く!」 「しかし、それは非常に危険では…いえ、あなたの強さは我々がいちばん知ってますね…!了解しました」 一瞬の躊躇の後、シオンは力強く頷いた。それでいい。頭を潰すのが、この状
Last Updated: 2025-10-07
Chapter: 第82話:海賊の奇襲
**────エレナの視点────** こうして私たちは、「大海賊マリー」が潜むという孤島へと辿り着いた。 だが、ギルドの情報とは裏腹に、そこに人の気配は全くなかった。ただ、波に洗われ続ける古い桟橋と、中身のないまま朽ち果てた木箱が、過去に誰かがいたことだけを物語っている。 風すらも止まったかのような、不気味な静けさ。私とシイナさんは顔を見合わせ、肩をすくめて引き返すことにした。 (エレン……。ギルドの情報が、外れたってことなのかな?) (……いや。ギルドの情報網は常に的確だ。外れる時もあるだろうが、今回はそれとはどこか…違う気がするな。嫌な感じがする) 心の奥でエレンと囁き合った、まさにその瞬間だった。 ――ドンッ!! 船底から、海面そのものを殴りつけられたかのような衝撃が、船体を激しく貫いた。 腹の底まで響き渡る鈍い振動に、思わず息が止まる。 「えっ!?」 操舵室の方から、ギブソンさんの怒鳴り声が飛んできた。 「こ、こりゃあまずいぜ!!! 後戻りだ! せめて孤島へ戻れ!!」 何が起きたのかわからないまま、私たちが甲板に飛び出すと―― 視界の端から端まで、巨大な黒い影が、じわじわと海を埋め尽くしていくのが見えた。 「こ、これは…! 無理だ、いつの間にこんな…!」 シイナさんの声が、いつになく焦りを帯びている。 海は、もう逃げ場のない檻と化していた。 左右と背後に回り込んだ、四隻の海賊船。そして前方には、海面を押し潰すかのように迫る、一際巨大な旗艦。 黒布の帆は太陽の光を遮り、甲板を不吉な薄暗さに染め上げていた。 「っ…! いつの間にか、四方八方を完全に包囲されていますね……!」 シオンさんの落ち着いた声すら、冷たい緊張を孕んでいる。 その船影の間から、禍々しい旗が一斉に翻った。 赤地に、白い髑髏。海風が、血の匂いすら運んでくるような錯覚に陥る。 「おい!! 操舵手!! どうにか振り切れ!!」 再びギブソンさんの怒声が飛ぶ。 しかし、直後、彼の声が一瞬途切れた。 「ん!? おい!操舵手!? あいつ、どこへ行った……!?」 返事は、ない。 誰もいないはずの舵輪が、ギィ、と軋む音を立てて、ゆっくりと勝手に回っていくのが見えた時、私の背筋にぞくりと冷たいものが走った。 「あっ…! み、みんな! 気をつけてっ!
Last Updated: 2025-10-06
縁が結ぶ影 〜神解きの標〜

縁が結ぶ影 〜神解きの標〜

「退屈な日常が、いっそ歪んでしまえばいい──」 気だるげな高校生・浅生輝流(あさい・あきる)が抱いた破滅的な願いは、禁足地『神鳴山(かみなりやま)』で、最悪の形で現実となる。 軽い気持ちで参加した肝試しをきっかけに、彼は山を支配する怪異『百貌様(ひゃくぼうさま)』と、理不尽な縁を結ばされてしまうのだ。 その日から、輝流の日常は歪み始める。 手には、捨てても戻ってくる呪いの証『涙型の黒曜石』。 そして、これまで見えなかった、この世ならざるモノたちを視る『目』。 彼は、神の『所有物』となった。 しかし、神の悪意は、輝流の幼馴染・穂乃果(ほのか)を次の『生贄』として指名する。 神の謎を解き明かす『標(しるべ)』とは何か。 理不尽な運命を断ち切り、少女を救い出すことはできるのか。 これは、神に選ばれてしまった少年の物語。
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Chapter: 第十六話:成仏
俺たちの手のひらの上で、泥にまみれた指輪が、鈍く、けれど確かに輝いていた。 俺は、震える穂乃果の肩をそっと叩く。 「穂乃果、良くやったぞ……!」 「え、えへへ…」 穂乃果は、泥だらけの手で顔を拭って、力なく、けれど誇らしげに笑った。 俺はスマホを取り出し、時刻を確認する。液晶の光が、[21:13]という無機質な数字を映し出していた。もう、そんな時間か……。 「穂乃果、急ぐぞ」 「うん!」 俺たちは、彼女の元へ、全ての始まりとなったあの場所へと、夜道を急いで戻った。 *** 風が、ざわざわと田んぼの稲を揺らしている。 あの場所に戻ってきてから、もうどれくらい経っただろうか。俺たちが指輪を携えて待てども、彼女は現れない。ただ、虫の声だけが、俺たちの焦りを煽るように鳴り響いていた。 その時だった。 ふと、空気が揺らめいた。目の前の空間が、陽炎のように歪み、そこから、じわりと、赤い影が滲み出してくる。 空気が急速に冷えていく。虫の声が、ぴたりと止んだ。 やがて、影は、一体の女の姿になった。 血に濡れた赤い服。人間が本来、曲がってはならない方向に四肢が折れ曲がり、いくつかの場所では、皮膚を突き破って白く鋭利な骨の先端が覗いている。顔は、判別できないほどに潰れていた。あまりに痛々しい、絶望の形。 (指輪は持った。きっと大丈夫だ) 俺は、ごくりと喉を鳴らすと、一歩、前に出た。 「秋崎叶さん」 俺がその名を呼ぶと、女の体が、ビクッと大きく跳ねた。 「俺は、浅井輝流といいます」 俺は、できるだけ優しい声色を意識しながら、ゆっくりと彼女に歩み寄る。 「あなたの声が聞こえた。あなたが、何か大事なものを探しているんじゃないかって、そう感じたんです。」 「あなたの住んでいた家にも行きました。そこで、何かを訴えるお婆さんの姿があったんです」 「きっと…あなたのお母さんですよね?彼女が、あなたの大切な物を見つける手助けをしてくれました」 「だから…これを」 俺は、手のひらに握りしめていた指輪を、彼女の前にそっと差し出した。 「…指を、出してください」 その言葉に、叶さんはおどおどと、壊れた人形のようにぎこちなく、自身の左手を差し出した。指はあり得ない方向に折れ曲がり、痛々しく震えている。 俺は、その冷たい指をとり、泥を拭った指輪を、
Last Updated: 2025-10-12
Chapter: 第十五話:指輪
俺は、日記の最後のページから、顔を上げることができなかった。 スマホのライトが照らす小さな文字の上に、ぽたり、と雫が落ちて染みを作る。隣で、穂乃果が鼻をすする音が聞こえた。 「こんな…こんな幸せなことの、すぐ後に…」 「ああ……亡くなるなんてな…」 『明日が、待ち遠しい』。 その、希望に満ちた言葉が、鉛のように重く胸にのしかかる。彼女が待ち望んだ明日は、永遠に来なかった。 脳裏に、あの踏切で見た女の姿が焼き付いている。 血に濡れたワンピース。ぐちゃぐちゃに潰れた顔。 そして…。 不自然なまでに、何もつけていない、白い指。 「……そういえば」 俺は、はっとしたように呟いた。 「…指輪…してなかったな…」 「え…? そ、そんなところまで見てたの…?」 穂乃果が、涙で濡れた瞳を丸くする。 「ああ…。もしかしたら…指輪を返したら、成仏するんじゃないか?」 幽霊が、未練を残した品に執着する。それは、どの世界にも通づるルールの一つだ。彼女にとって、道政から贈られた婚約指輪以上に、大切なものがあっただろうか。 「…怖いけど」 穂乃果が、ごしごしと目元を拭う。 「…返してあげたいね、その指輪」 「ああ。そうだな」 決まれば、早い。俺たちは、叶さんの最期の未練を見つけ出すために、再びこの混沌とした家の中を捜し始めた。 机の引き出し、散らばった本の間、倒れたタンスの裏。考えられる場所は、全て。 *** だが、数十分が経過しても、小さな光を放つはずのそれは、どこからも見つからなかった。時間だけが、無情に過ぎていく。 「どこにも、ないな…」 俺が諦めかけた、その時だった。 まただ。空気が、急速に温度を失っていく。 振り返った廊下の闇の中央に、いつの間にか、あの老婆が立っていた。 そして、初めて、その口が、動いた。 「…ユ……ビ……ワ……は…………」 まるで、喉の奥から空気が無理やり漏れ出てくるような、ひび割れた音。言葉になっていない、ただのノイズの塊。 「……ジ……コ……ノ……バ……ショ……チカク……ニ……」 聞き取れたのは、それだけだった。老婆の姿は、またしても、すぅ…、と闇に溶けて消えていく。 「事故の…場所…?」 俺が、老婆の言葉を反芻していると、隣で穂乃果が、はっと息を呑んだ。 「あっ……!!」 「どうし
Last Updated: 2025-10-10
Chapter: 第十四話:叶の日記
老婆が消えた後の静寂は、やけに重く、耳に張り付くようだった。 俺は、手の中にあるノートの表紙を、指でなぞる。積もった埃を払うと、その下から現れたのは、何の変哲もない、ただの黒いノートだった。 唾を飲み込み、震える指で、最初のページを開く。 古ぼけた紙の上を、掠れた万年筆のインクが這っていた。 『──この地には古来より、山を鎮める守り神がいた』 「……守り神?」 思わず、声が漏れた。 その言葉に、背後で息を殺していた穂乃果が、びくりと肩を震わせる。恐怖よりも好奇心が勝ったのか、彼女はおそるおそる俺の肩越しに、ノートを覗き込んできた。 「えっ…」 俺たちは、顔を見合わせる。老婆は、これを俺たちに見せるために? 二人きりになったことで、少しだけ冷静さを取り戻した俺は、改めて書庫全体を見渡した。スマホのライトが、無数の本の背表紙を照らし出す。そのほとんどは、色褪せてタイトルも読めない。 光の輪をゆっくりと動かしていくと、いくつかのタイトルが目に飛び込んできた。 『この地の歴史』『桜織市の伝説』…。 なるほど、この家の主は、郷土史家か何かだったのかもしれない。 さらに棚を照らしていくと、俺の指が、ふと止まった。 一冊だけ、他とは明らかに雰囲気の違う、新しい本。 『霊との向き合い方』 その下に書かれた著者名に、俺はなぜか目を奪われた。 『著:櫻井 悠斗』 知らない名前だ。だが、そのタイトルは、今の俺たちにとってあまりに直接的すぎた。 一瞬、その本に手が伸びかける。だが、俺は首を振り、もう一度『この地の歴史』と書かれた、分厚く古びた本へと向き直った。 今は、幽霊と戦う方法じゃない。そもそも、なぜ秋崎叶さんたちが死ななければならなかったのか。その根源を知る必要がある。 俺は、『この地の歴史』を本棚から引き抜いた。 「輝流、守り神なんて話、聞いたことある?」 「いや、初耳だ。神鳴山の神が荒ぶれたって話は、嫌というほど聞かされてきたが…」 「うちのおじいちゃんも、そんな話はしてなかったな…」 どうやら、この町の人間でも知らない、忘れられた歴史らしい。 俺たちは、比較的埃の少ない床に並んで腰を下ろすと、ノートと歴史書をライトの光で照らし、そのページを読み進め始めた。 俺は、分厚
Last Updated: 2025-10-09
Chapter: 第十三話:血濡れの老婆
家が、鳴り始めた。 パキ…、と乾いた木材が軋む音。ドンッ、と壁の奥で何かが打ち付けられるような鈍い音。 ドッドッドッドッ…! まるで誰かが焦って階段を駆け上がっていくかのような、性急な足音までが家中から聞こえてくる。 「ひ…、輝流ぅ…これ…」 背後から、穂乃果の引き攣った声が聞こえる。 「大丈夫だ。俺がいる」 俺は、自分に言い聞かせるようにそう答えた。 おかしい。この音は、まるで家が生きているかのようだ。あるいは、今も誰かが、この廃墟で生前と変わらぬ暮らしを続けている、とでもいうように。 ここで時間を無駄にはできない。 窓の外は、もう夕闇に呑まれ始めている。 穂乃果が俺の服を掴む腕が、小刻みに震えているのが分かった。 ……あまり長居はできない。 「穂乃果。俺の背中に隠れて、周りを見るな」 「…うん…」 か細い声で返事をすると、穂乃果が俺の背中に額をこすりつけてくるのが気配で分かった。 俺はスマホのライトを点灯させ、その白い光で闇を切り裂くように前方を照らす。 玄関の壁には、ガラスの割れた家族写真。その先の和室からは、風もないのに、白いレースのカーテンがゆらり、ゆらりと幽霊のように揺れていた。 床に散らばるガラス片を踏まないよう、慎重に足を進める。目指すは、裏庭に面したガラス張りの扉だ。あそこからなら、外に出られるはずだ。 軋む床板に足音を殺しながら、リビングらしき部屋を抜ける。その奥に、目的のガラス戸はあった。薄汚れたガラスの向こうには、月明かりに照らされた、救いのように静かな夜の庭が見える。 「ここだ。ここを破れば…」 俺は、穂乃果を背中に庇ったまま、自分の学生服の上着を右肘に固く巻き付けた。 「少し離れてろ」 ドンッ! 体重を乗せ、ガラスの中心を肘で打つ。骨に響くような鈍い衝撃。だが、ガラスは砕けない。ひび一つ入らなかった。 「…くそっ!」 もう一度、今度はより強く、全体重を乗せて叩きつける。 ガンッ!!と、腕が痺れるほどの衝撃。しかし、ガラスはまるで分厚い鉄板でもあるかのように、沈黙を保っている。 何度、何度叩きつけても結果は同じだった。俺の荒い呼吸と、肉を打つ鈍い音だけが、不気味な家の中に響き渡る。 「輝流、もうやめて…! 無理だよ…!」
Last Updated: 2025-10-08
Chapter: 第十二話:招かれざる客
俺は、目の前にある古びた玄関のドアノブに手をかけた。ひやりとした、錆の浮いた鉄の感触。 どうせ開かないだろう、という予感はあった。力を込めて捻り、引く。が、がちり、と硬い感触が手に伝わるだけで、扉はびくともしない。 「……まあ、そうだよな」 左腕に、穂乃果の指が食い込むのを感じる。ほとんど全体重を預けられているせいで、少し動きにくいな。 「裏手を見てみるか」 「うん…」 家の側面に回り込み、生い茂った雑草をかき分ける。建物の影になった場所は、ひどく空気が湿っていた。 裏庭へ抜けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。 裏庭の、朽ちかけた縁側の下。そこに、黒く変色した染みが、べったりとこびりついていた。まるで、何か大きな獣でも引きずったかのような、おびただしい量の痕跡。 「なんだ、これは…」 声が、掠れた。隣で、穂乃果が俺の顔を不安そうに見上げる。 「ど、どうしたの…?」 穂乃果が首を傾げる。 「何か見えるの…?」 その言葉に、はっとする。俺の視線を追う穂乃果の瞳には、ただの不審だけが浮かんでいる。 ……まさか。この、おびただしい量の血痕が、こいつには見えていない、というのか? 「……いや、なんでもない」 今余計な事を言っても、こいつを不安にさせるだけだ。そう考えた俺はかぶりを振ると、その禍々しい痕跡から目を逸らし、穂乃果の腕を引いて再び玄関へと戻った。裏手の窓も、雨戸が固く閉ざされていて入れそうになかった。 「やっぱり、戸締りくらいはしてるよな…」 「うん……管理してる人がいるんだろうしね…」 穂乃果がそう呟き、諦めの空気が漂った、その時だった。 ──カチャリ。 乾いた金属音が、やけにクリアに響いた。二人同時に、音のした玄関の方を振り返る。 「今の音は……?」 俺が呟くと、穂乃果がごくりと喉を鳴らす。 「…げ、玄関……だよね」 「ああ、見てみよう」 俺は、まるで何かに引き寄せられるように玄関へ歩み寄ると、もう一度、冷たいドアノブに手をかけた。 さっきと同じように、捻って、引く。 すると、 キィィィィン……、 今までが嘘のように、重く、軋むような音を立てて、扉がゆっくりと開いた。 中から、黴と埃が混じった、淀んだ空気がどっと溢れ出す。 おかしい。さ
Last Updated: 2025-10-07
Chapter: 第十一話:抜け落ちた記憶
放課後の生ぬるい風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。太陽は少しだけ西に傾き、アスファルトに俺たちの長い影を落としていた。遠くからは、運動部の掛け声と、一日中鳴き続けた蝉の、どこか疲れたような声が聞こえてくる。 「ねぇ輝流」 「ん?なんだ穂乃果」 隣を歩く穂乃果が、ふと足を止めた。つられて俺も立ち止まる。 「この辺りがね、秋崎叶さんのお家があった場所なんだよ」 その声は、やけに静かだった。 「……なに?この辺りが?」 視線を巡らせても、見えるのはありふれた住宅街の風景だけだ。穂乃果は俺の返事を待たずに、どこか楽しんですらいるような横顔で続ける。 「うん。詳しい位置までは流石にわからないけど…探してみる? ちなみに、茶色い屋根に三階建ての、昔ながらの大きなお家だって。」 「そうおじいちゃんの資料に書いてあった」 ……やっぱりか。俺が「行く」と返事をすることを、こいつはとっくに見越していたらしい。 そしてなにより、おじいさんの情報力がいちばん怖い。 「……はぁ。助かるよ」 呆れたような、それでいて感心したような息が漏れた。 「えへへ、いいえ!それじゃ、いこ!」 穂乃果は、してやったりとでも言いたげに笑った。 *** 住宅街の細い路地を抜け、視界が拓ける。見渡す限りの青々とした田んぼが、夏の匂いを濃くしていた。 そこに、ぽつんと。まるで世界から忘れられることを望むように、一軒の家が建っていた。黒ずんだ茶色の屋根。三階建ての、古びた家。 「……穂乃果、これじゃないか?」 隣で、穂乃果が息を呑む音が聞こえた。俺のシャツの袖を、小さな手がきゅっと掴む。 一目で、廃墟だと分かった。壁のあちこちに黒い染みのような蔦が絡みつき、割れた窓ガラスが空虚な眼窩のようにこちらを見ている。人の営みが消えた建物は、こんなにも早く朽ちていくものだろうか。鼻につくのは、湿った土と黴の匂い。かつてここにあったはずの、生活の匂いなんてものは、欠片も残っていないようだった。 「…秋崎さんのご両親は?」 俺は、祖父の知恵を借りてすっかり物知りになった穂乃果に尋ねた。 「うーん…」 歯切れの悪い返事。何かを知っている人間のそれだった。 「なんだよ、その反応は」 「…ご家族の方も、不審な亡くなり方をしてるみたいなんだよね」 「それも…お父さんもお母さんも…そのど
Last Updated: 2025-10-06
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