Chapter: 修正 ズン、と。 鼓膜ではなく、心の芯を直接殴られたような衝撃。 その名が静かな和室に響いた瞬間、僕の身体は硬直し、全身の血が逆流するかのように思考が停止した。 母さんの家に遺されたあの古びた家系図。その一番上、全ての始まりとして刻まれていた、ただ一つの名前。 (美琴の推測通りだ……。僕は本当に……) 藤次郎さんは、呆然とする僕をよそに、まるで自分たちに課せられた歴史を噛みしめるように続けた。 「あまりに長すぎる歴史故にな。俺たち『墓守』の家系にも、その櫻井沙耶様という、偉大な最初の先祖の名前だけが、引き継がれてある。その間のことは、もう誰にも分からんがね」 伝説とか、おとぎ話とか、そういう次元じゃない。千年という、人間が到底把握しきれない時間の重みが、そのたった一つの名前と共に、僕の肩にのしかかってきた。 「私は、櫻井 沙耶様……その方が、沙月様である可能性が非常に高いと、私はそう考えています」 美琴が凛とした声で言う。名前を変えてまで、彼女は生き延びなければならなかったのか。千年の歴史は、一体何を隠しているのか。 そして、僕が沙耶……いや、沙月さんの子孫であるならば、琴音様と僕には、僅かだが血の繋がりがあることになる。僕に呪いがない理由は、それが関係しているのだろうか? 重たい沈黙を、文字通り切り裂くように── 「藤次郎さん!!」 神社の引き戸が、焦りを伴う音を立てて勢いよく開け放たれた。息を切らし、顔を青ざめさせた神社の関係者らしき男が、部屋に転がり込んでくる。 「何事だ、騒がしい」 「さ、桜翁に異変が!! 花が……! 花がおかしいんです!」 その言葉に、場の空気が凍りついた。 「……!? よりにもよってこのタイミングで、か……!」 藤次郎さんは忌々しげに呟き、素早く外へと駆け出す。僕と美琴もすぐに顔を見合わせ、彼の後を追った。 *** そして、たどり着いた桜翁の前。 「……っ!?」 息を呑んだのは、僕か、美琴か。 そこに広がっていたのは、僕たちの知る桜翁の姿ではなかった。 あの淡く優しいはずの桜の花びらが、まるで乾いた血糊のように、禍々しい赤黒色に変色していた。 「こ、これは……」 美琴は言葉を失い、両手で
Last Updated: 2025-11-04
Chapter: 裏設定皆さん、物語を読んでいただきありがとうございます! ここでは、物語をさらに深く楽しんでいただくために、いくつかの裏設定を少しだけ解説したいと思います。 Q1. 迦夜(かや)って、結局何だったの? 第七章で悠斗たちを苦しめた《迦夜》。彼女たちは、琴音の呪いによって生まれた「歴史への怨嗟の集合体」です。 しかし、琴音が戦いの最中に言ったこのセリフ、気になりませんでしたか? > 『ぐぅ……! 吸収し損ねた迦夜の残骸か……! はみ出し者の分際で、妾に逆らうとは……っ!!』 実は、琴音はこの千年もの間、自らが振りまいた呪いが生み出す怨念を、その身に吸収し続けていました。 迦夜の力も怨みも。 つまり、悠斗たちが戦った迦夜は、その巨大な器から**ほんの少しだけ溢れ出してしまった「残骸」**にすぎません。 Q2. なぜ沙月(さつき)の血筋だけが、他の巫女より長生きできたの? 美琴の血筋をはじめ、多くの巫女たちが二十代という若さで命を落とす中、なぜ沙月の子孫だけは比較的長く生きられたのか。 その答えは、**沙月が呪いの元凶である琴音の「実の妹」**だったからです。 力の源流に最も近い血を持つ沙月は、琴音の力を扱える器でした。 (もちろん、全く呪われていない訳ではありません) 例えるなら、他の巫女たちの呪いの進行速度を「2倍速」とすると、沙月の子孫は「等速」で進む、というイメージです。 それ故に、他の巫女よりは長く、三十代~四十代まで生きることができました。 悠斗に一切呪いがないのは、沙月の子孫への強い想いから繋がった、祈りという名の奇跡なのです。 Q3. 忘れられた創設者・沙月の歴史 桜織市の創設者である沙月の歴史は、あまりにも長すぎるため、そのほとんどが人々の記憶から忘れ去られています。 温泉郷にかすかに「清き巫女の伝説」が残るのみで、その全貌を知るのは、桜織神社の墓守である藤次郎の一族だけです。 なぜ歴史が忘れられたのか? それは、沙月自身がそう望んだからです。 彼女は、自分の子孫たちが過酷な宿命に縛られず、自由に生きてほしいと願い、藤次郎の祖先に「真実を語り継ぐ必要はない」と伝えていました。 ちなみに、沙月には**《葵(あおい)》**という娘がいました。 白蛇様の分身体を封印する覚悟を決めた沙月は、その少し前に、娘を父方の家系へと
Last Updated: 2025-08-15
Chapter: 縁語り其の結びあれから――さらに、百年もの歳月が流れようとしていた。 悠久の風がこの白蛇山の山頂を吹き抜ける中、妾は静かに見守り続けていた。悠斗に遺した妾の血を媒体に、彼と美琴、そしてその子孫たちが紡ぐ、すべての記憶と感情を。 それが、妾が自らに課した最後の贖罪であったから。 二人は、実に満ち足りた生涯を送った。 まるで失われた時間を取り戻すかのように、笑い、愛し合い、時には些細なことで喧嘩をしながらも、固く手を携えて歩んだ。やがて、その腕に新しい命を抱き、慈しみ、育て、そして次の世代へと縁を繋いでいった。 霊砂や百合香たち、古の巫女たちもまた、穏やかに天寿を全うし、安らかな眠りについた。 その最後の魂が天へと昇ったのを見届けたとき……妾の役目も、ようやく終わったのだ。 あぁ……なんと壮大で、愛おしい記録であったことか。 妾の呪いが彼らを、そして多くの者を苦しめてしまった事実に変わりはない。 だが、妾の血を引き継いだ彼らの子孫たちが、この先も数多の物語を紡いでいく。かつてあれほど憎らしいとさえ思ったその事実が、今ではむしろ……誇らしく、喜ばしいとさえ感じるのだ。 そんなことを想いながら空を仰いでいた、その時だった。 『……姉上……』 ふと、天から懐かしい声が聞こえたような気がした。 いや、気のせいではない。魂に直接響く、凛として、それでいて慈しみに満ちた声。 『む……?』 『姉上……』 見上げると、雲間から柔らかな光が差し、天からひとつの人影が、静かに舞い降りてくる。 妾の記憶にある、ただ一人の姿。 『……沙月……!』 『迎えにまいりました』 地に降り立った妹は、以前と何ひとつ変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。 かつては、その清廉さが息苦しくもあった。だが……それがいまは、どうしようもなく心地よい。 『ふふ……そなたの蒔いた種が、見事な花を咲かせ……こうして、妾を解放するに至った。感謝するぞ、沙月』 そう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、そっと妾の手を取った。 差し出されたその手は、記憶にあるどの温もりよりも柔らかく、そして、暖かかった。千年の時を超え、ようやく妹の手に触れることができたのだ。 さぁ、天へと上がろう。 悠久の時を、今度こそ二人で。 そして、この地に生きる、まだ見ぬ愛しき子孫たちよ。
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 縁語り其の最終話:縁が結ぶ光あれから――十六年が経った。 月日は慌ただしく流れ、私の日常も大きく姿を変えた。 私は今、この桜織市で『結び屋』という名の霊媒処を営んでいる。 古の巫女である霊砂さんたちとの交流は続き、私の方から「一緒に霊媒師をやらないか」と声を掛けたところ、彼女たちも快く受け入れてくれた。今では、皆が『結び屋』の正式な仲間だ。 皆の助けもあってか、いつしか「よく当たる」などと評判になり、かつてのような無名の存在ではなくなった。 けれど、やっていることは昔と何も変わらない。 ただ静かに、迷える霊たちの傍に寄り添い、その”想い”と向き合い――癒すだけ。 かつて、彼女がそうしてくれたように。 *** バスの車窓から、ふと紅い影を纏った霊を見つける。すぐに停止ボタンを押し、運賃を払ってバスを降りた。 いた。あの霊だ。 「こんにちは。何か、お困り事でも?」 私は、路地裏に佇むその霊に、臆することなく声をかける。 『あんた……私が見えるのね……』 「ええ。何か抱えている想いがあるはずです。私でよければお聞きしますよ」 『……なんで……なんで私が死ななきゃいけなかったの!? あいつが……あいつが悪いのに……!』 胸の内に渦巻く、未練と怒り。それはまだ”すれ違い”の最中なのだろう。 「よければ……あなたの話を、聞かせてくれませんか。私にも、力になれることがあるかもしれません」 これまで、幾度となく見てきた。怒りに呑まれ、世界を恨んだ霊たちも――きちんと”言葉”を交わせば、癒えるのだと。 *** 『……ってわけがあってねぇ……』 先ほどまで荒れ狂っていた霊は、今ではすっかり落ち着き、赤く禍々しかった気配も、まるで嘘のように消えていた。 「なるほど……それは、とてもお辛かったですね」 そう伝えると、彼女の身体が透き通り始める。成仏の兆候だ。 「あとは私が、あなたの想いを引き継ぎましょう」 『……ほんとに? いや……なんだか、あんたは信用できる気がするよ……』 彼女は、誤解の果てに彷徨っていた。だが、その誤解はいま解けた。約束通り、後日、彼女の言葉を伝えるために”その人”へ連絡を取るつもりだ。それが、私の仕事。私が選んだ、生き方。 『……あぁ……なんだか……心地がいいや……』 彼女の姿がさらに透け、やがて光の粒子となり、静かに――天へと昇っていっ
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 縁語り其の百八十:おかえりとただいま僕は車の中で、輝信さんと……琴乃さんの話をしていた。 彼女は、魂を賭して美琴を、そして僕を守ってくれたのだ。 美琴の言葉を借りれば──魂が攻撃されて死んでしまった場合、その魂は浄土へ昇れず、消滅してしまう。それを知っていながら、琴乃さんは迷わず僕たちを守ってくれた。その事実を思えば、あの山頂での自分の行動は……あまりにも愚かだったと、今更ながら胸が痛む。 この命は、琴乃さんと美琴、ふたりの魂に支えられて今、ここにあるのだ。 琴乃さんの想い人であり、彼女を同じように深く愛していた──輝信さん。彼がどんな反応をするか、正直、不安だった。 けれど、返ってきた言葉は……想像していたものとは違っていた。 「そうか、琴乃がふたりを守ってくれたのか……なら──ちゃんと、生きないとな。きっと琴乃も、それを望んでる」 その声は、努めて明るく振る舞う中に、微かな震えが混じっていた。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に深い悲しみがよぎる。でも彼は、変わらず優しく微笑んでくれた。 「……はい」 僕は深く頷いた。 *** 車内の空気は、しばらく静寂に包まれた。それでも、輝信さんは黙って僕を自宅まで送り届けてくれた。 「元気でな、悠斗君!」 別れ際、彼は笑顔で手を振った。 「俺はこれから琴乃の亡骸を弔ってくる。……また気が向いたら、あの家に来てくれ!」 その言葉を聞いて、僕は彼に尋ねた。なにか、自分にもできることはないかと。 だけど彼は、そっと首を横に振った。 「これは俺が、一人でやりたいことだから」 彼の瞳は、どこか遠い空を見つめていた。 そして、こうも言った。呪いが消えた今、琴乃さんが住んでいたあの家に住むつもりだと。そこに、彼女のための大きな墓を建てるつもりだと── (……僕も、ちゃんとお墓参りに行かないと) そう心に誓った僕に、彼は大きく手を振って車に乗り込んだ。 「じゃあな、悠斗君! 達者でなぁ!!」 その声が遠ざかっていく。 僕は、ただ静かに頭を下げて、その車を見送った。 *** 輝信さんと別れた僕は、その足で――久しぶりに、母さんのいる病院へと向かった。 バスの振動に揺られながら、窓に映る自分の顔が、やけに強張っていることに気づいた。もう何度も来ているはずの場所なのに、今日は心が落ち着かない。大切な報告があるからか、それとも、これまで
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 縁語り其の百七十九:終幕のその先へ「……よく戻ったな」 長老の家の前に立ったとき、あの慈愛に満ちた声が出迎えてくれた。 琴音様のことを村人たちに伝え終え、僕はひとり、この家を訪れていた。理由はふたつ。ひとつは――琴音様が告げた、美琴の転生の話を伝えるため。この人にとっても、美琴はきっと、大切な存在だったから。 「長老……琴音様から、美琴についてのお話がありました」 「ふむ……聞こう」 僕は、琴音様が語った言葉をそのまま伝えた。十数年後、美琴は再びこの世に生を受け、僕のもとへ還ってくる、と。 「琴音様が……そんなことを……?」 長老は、にわかには信じがたいといった表情で目を細めた。だが、その深く刻まれた皺の奥で、小さな希望の灯火が宿るのが見えた。 僕は静かに頷く。 「はい。あのとき、琴音様は力強くそう言ってくれました。……あの瞳に、迷いはありませんでした」 ゆっくりと、深く頷いた長老の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。 「そうかぁ……そうかぁ……」 何度も繰り返されるその声に、どれほどの想いが込められていたのか――僕は、その涙の重みを、ただ静かに見守った。 そして――もうひとつ。 「長老、もうひとつ……お願いがあります」 「ほう? なんじゃ?」 「沙月さんの情報を……すべて、正しく書き直してほしいんです」 しばしの沈黙の後、長老は目を閉じて静かに問い返す。 「それは……構わんが、なぜ今になって?」 「沙月さんのこの村での記録は、偽られたままです。本当のことが、何ひとつ残されていない……。千鶴さんが、彼女の子孫である僕達を守るためにそうしたのは分かります。でも、今はもう――その呪いも、終わったから……」 かつて琴音様が残した呪いは、もう祓われた。今の村には、彼女を知る人もいない。それなら、もう……彼女の人生を”真実”として刻んでもいいはずだ。 「ふむ……。では、文献を作り直そう」 そう言って、長老は真っ直ぐ僕を見つめ、力強く頷いてくれた。その声に、ひとかけらの迷いもなかった。 「ありがとうございます」 知らず知らずのうちに詰めていた息が、そっと吐き出された。 「して……その沙月様について詳しく話してくれるか?」 「もちろんです」 そうして、僕は語りはじめた。あの人が歩んできた、千年の祈りの軌跡を。温泉郷で呪われた霊たちを鎮めたこと。僕に呪いが宿って
Last Updated: 2025-08-07
Chapter: 第115話:立ちはだかる二人────エレナの視点──── 石造りの螺旋階段を、私たちは息を切らしながら駆け上がっていた。 ごつごつとした壁が、手に持つ灯りの光を不気味に反射している。下層から響いていた激しい戦闘音は、もう聞こえない。石段を踏みしめる足音と、荒い息遣いだけが、神殿の静寂を破っていた。 「グレンさん、大丈夫ですかね……!?」 ミストさんの不安そうな声が、静寂に包まれた階段に響いた。その声には、仲間への深い心配が込められている。 「……きっと、大丈夫!」 何の確証もない。けれど、私の胸の奥で、温かい光のようなものが「大丈夫だ」と囁いていた。それは昔から私の中に宿る、聖女としての直感のようなもの。 「私の直感が、そう告げてるの!」 「えぇ!? そ、そんな直感が……!?」 ミストさんが驚きの声を上げる。 (私も原理は分からんが……エレナには、その力が間違いなく備わっている。運命そのものを、その祈りの力で強引にねじ曲げてしまうような、不思議な力がな。だから、今回もきっと大丈夫だ) エレンの声が、私の内側で静かに響いた。 (うん……!) 彼の言葉が、私の直感を後押ししてくれる。 「それなら良いが……慢心はするなよ」 シイナさんが、冷静に釘を刺した。 「未来が見えるからと、それに胡坐をかいて行動するようでは、今の暗明の聖女と何も変わらないからな」 「……うん、そうだね。私は、この直感を絶対に正しいなんて、傲慢なことは思わないよ」 私にできるのは、この直感を信じつつ、でも決して過信しないこと。神様のお導きを感じながらも、自分の足で歩むこと。 「そこが、エレナさんの素敵なところですね」 シオンさんが、静かに微笑んだ。 その時、長く続いた階段が終わり、私たちの目の前に、だだっ広い広間が見えてきた。天井は高く、月光が差し込む窓から、青白い光が石床を照らしている。 「きっと、ここにも残りの騎士が待ち構えていることだろう」 「その時は、私が残ります」 シオンさんの言葉に、ミストさんが待ったをかける。 「いやいやいや! そこは私でしょうー!!」 「……?」 シオンさんが、心底不思議そうに首を傾げた。 「そのお顔はなんですかァァ!?」 「いえ……だってあなたは、戦いがあまり得意な方ではないでしょ
Last Updated: 2025-11-17
Chapter: 第114話:行動開始**────エレナの視点────** 「じゃあ皆、各々準備してくれ。五分後にはここを出て、リディアさんを助けに行くぞ」 シイナさんの力強い言葉に、私たちは一斉に頷いた。この小さな家の中に、静かだが確固たる決意が満ちている。みんなの表情に迷いはない。先ほどまでの混乱が嘘のように、今は一つの目標に向かって心が結束していた。 五分という短い時間の中で、私たちはそれぞれの装備を確認し、心の準備を整える。月光が窓から差し込み、武器の金属部分を青白く照らしていた。この静寂が、嵐の前の静けさのように感じられてならない。 「準備はいいか? 今回、ジンが大方の騎士は無力化してくれたという話だ。恐らく…すぐに四騎士との戦闘になるだろう」 シイナさんの声に緊張が走る。四騎士——この国の最強戦力との戦いが待っているのだ。 「ここの騎士たちの数は多かったからね。でも、気を付けて」 ジンさんが軽やかに言葉を続ける。 「流石に全部を倒すわけにもいかなかったから、十人程度は残ってるはずだから」 「それでも、そんなに多くの騎士を戦闘不能にするなんて……」 私は驚きを隠せなかった。一人でそれほどの騎士を相手にするなんて、どれほどの実力者なのだろう。 「はは、聖女様に褒めてもらえるなんて。なんだか嬉しいよ」 ジンさんの表情に、子供のような無邪気さが浮かんでいる。しかし、その奥に潜む何かが、私の心に小さな不安を芽生えさせた。 「ね、念の為に聞くのですが……殺しはしてないですよね……?」 恐る恐る尋ねた私の質問に、ジンさんの表情がふっと変わった。まるで別人のような、冷たい光が瞳に宿る。 「……剣を抜いた以上、お互いの命が尽きるまで刀を振り合うべきだと僕は思っているんだ」 その一言に、背筋が凍りつくような恐怖を感じた。ジンさんの声音には、戦いへの狂気じみた情熱が込められている。私の心臓が、ドクドクと激しく鼓動を刻んでいた。 「でも……今回は大丈夫。殺してないよ」 そう言って見せる笑顔は、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。しかし、その急激な変化が、かえって不気味さを増している。 (今回は……? ということは、普段は……?) 心の奥で、暗い想像が渦巻いていた。 * * * 五分後。静寂を破って、私たちは行動を開始した
Last Updated: 2025-11-16
Chapter: 第113話:助けたい心は皆同じ**────エレナの視点────**「という訳なんだ」ジンさんの軽やかな口調で語られた残酷な現実に、私の心は氷のように凍りついてしまった。リディアさんが捕らえられて、処刑される。その事実が、どうしても受け入れることができなかった。「そ、そんな……嘘ですよね??」私の声が震えている。まるで悪夢から覚めたいと願うかのように、その言葉にすがりついた。「……こんな時に嘘なんてつかないよ」ジンさんの飄々とした口調が、現実の重さをより一層際立たせる。「……くっ!!!」シイナさんが拳を強く握りしめ、歯を食いしばっている。その青白い顔に、激しい怒りと悲しみが刻まれていた。「皆は先にこの国を脱出してくれ……!俺は……俺はリディアさんを助けに行く!!」シイナさんが勢いよく立ち上がり、扉に向かって歩き出そうとする。その瞳に宿る決意の炎は、誰にも止められないほど激しく燃えていた。「待てよ!!そんなの俺たちだって同じ気持ちだ!」グレンさんが力強く立ち上がる。彼の声には、シイナさんに負けないほどの強い意志が込められていた。「ええ……彼女には計り知れないほど多大な恩があります。なので……グレンと私でリディアさんを救出に向かいます」シオンさんの顔に、鋼のような決意が浮かんでいる。「シイナ、あなたこそエレナさんやミストさんと共に先に脱出してください」「だめだ!今回はパーティリーダーの責任として、俺が行く!」「シイナ!」「俺が、彼女を助けてすぐに戻ればいいことだろう!」「おいシイナ!俺がやられたテッセンとかいうやつの事を忘れたわけじゃないだろ!?少し落ち着け!」三人の激しい言い争いが、小さな家の中に響き渡る。誰も一歩も引かない様子で、感情のままに言葉をぶつけ合っていた。「あわわわわ……みなさん!こんな時に言い争ってる場合じゃないですって!」ミストさんが慌てて三人の間に割り込もうとするが、激しい感情の渦に巻き込まれ、弾き飛ばされてしまう。「ぎゃー!!」(みんな……冷静さがすっかり抜けて、これじゃあ救える命だって救えないよ……!)(それに……私だってリディアさんを助けたいのに……)私の心の中で、やりきれない想いが渦巻いている。みんなの気持ちは痛いほど分かるけれど、このままでは誰も救えない。そう考えていた、まさにその瞬間だった。私の意識が、まるで深い
Last Updated: 2025-11-14
Chapter: 第112話:リディアの交渉**────ジンのの視点────** やる気か、と。僕は心の中で、小さく呟いた。 ここは冒険者ギルド。依頼と情報が交差する、いわば中立の聖域だ。そんな場所で騎士が刀を抜き、殺し合いを演じようというのだから、面白い。実に、面白い。 僕は向かってきた騎士の剣戟をいなすどころか、その勢いを逆に利用して体ごと弾き飛ばした。空中で無様に体勢を崩した彼の喉笛へ、僕は逆手に持ち替えた刃を、まるで吸い込まれるかのように滑らせる。「がぁっ……!」 声にならない呻きを漏らし、騎士が床に崩れ落ちた。口からごぼりと泡を吹き、痙攣する手足が、彼の命が尽きかけていることを示している。 仲間の一人が一瞬で無力化されたというのに、残された騎士たちは状況が飲み込めていないらしい。驚愕に見開かれた目が、滑稽なほどにこちらを向いていた。「き、貴様っ! 正気か!?」「あはは、面白いことを言うね、君。先にその物騒な鉄の獲物を抜いたのは、そっちじゃないか」「そ、それにしてもだ! 我々騎士に刃向かうなど、あってはならないことだぞ!?」「残念だけど、僕はそんな立派な冒険者様じゃない。僕はジン。世界を渡り歩く、ただの傭兵だからね」「ジン……!?」 その名に、騎士の一人が息を呑んだ。どうやら僕の名も、多少は裏の世界に知れ渡っているらしい。「くそっ……! やられて黙っていては、騎士の名が廃る! こいつも捕縛しろ!」 別の騎士が、その手に蒼い水の魔力を纏わせながら、僕へと突進してくる。ギルドの中で属性魔法を放つ? ああ、本当に、愚かだな。「はぁ……後悔しても、知らないよ」 僕は腰に差した愛刀「雪月花」の鯉口を切ると、一閃、抜き放った。 (鳴神式抜刀術――神威の型。) 空気を切り裂く音だけが響き、騎士の右腕が、ごとり、と鈍い音を立てて石床に転がった。「ぎゃぁぁぁぁぁぁっ!!!! お、俺の腕がァァァァッ!!」 やかましいね。腕の一本や二本、飛んだくらいで喚くなんて。自分から仕掛けておきながら、いざ返り討ちに遭えば獣のように吠え立てる。弱者の典型だ。「お、お前……! 自分が何をしたか、分かっているのか!?」「さっきも言ったはずだよ。先に始めたのは、そっちだってね」 僕は刀身に付いた血を振るい、ゆらり、と笑みを浮かべた。「まだまだ足りないな。……もっと、殺り合おうよ」 ああ、い
Last Updated: 2025-11-12
Chapter: 第111話:届いた悲報(この声に気配……覚えがある)エレンの意識が、私の奥底で警戒の炎を燃やし始める。(私もそう感じてた……なんだか、すごく(身に覚えがあるような……)(確か、夜の街で我々を襲撃してきた傭兵……名は確かジン……と言ったか)その名前を耳にした瞬間、あの記憶が、鮮血のように鮮やかに脳裏へと蘇ってきた。霊たちが彷徨う夜の街で、昼間の平穏な探索が一変した瞬間。突如として現れた謎の傭兵——。その圧倒的な実力は私には理解の範疇を超えていたけれど、エレン曰く、これまで戦った敵の中でも別格の強さを誇っていた……と。(そ、その人がなんでこんな場所に!? まさか、私たちを追ってきたの!?)(さあな。だが……敵意は微塵も感じられない。それに何か重要な情報を知っているようだ)(ここは一か八か、直接対峙してみるのも選択肢の一つだろう)「エレンが敵意は感じないから……出てみるのも一つの手だって……」私はシイナさんに、内心の不安を隠しながらそう告げる。「敵意を感じない……か。グレンもミストも意識を取り戻したことだし、直接話してみるか?」シイナさんの声に、慎重な判断力が込められている。(ああ、そうしてみてくれ)「そうして見てほしいって……」エレンの助言をそう伝えると、シイナさんが深く頷き、警戒を込めて扉の前へと歩を進めた。「何用だ」シイナさんの声が、扉越しに響く。「あれ、やっぱりいるんじゃないですかー」その飄々とした口調に、底知れない余裕が滲んでいる。「やあ、僕はジン。リディアっていう方からの重要な伝言があるんだけど、扉を開けてもらえないかな?」「残念だが、こちらにも複雑な事情があってな。このままでお願いしたい」シイナさんの慎重な対応に、扉の向こうから軽やかな笑い声が響く。「……あーそっか、いまこの国から追われてるんだっけ。それなら心配しなくていいよ」「大体の騎士は僕が片付けたから」「な、何だと!?」シイナさんの声が、驚愕に震える。「えっ!??」私も思わず声を上げてしまった。「ま、待て! この国の騎士一人一人は精鋭と言っても過言ではないほどに優秀だ。それをお前は単身で制圧したというのか?」「はは。まぁ確かにこの国の騎士はよく鍛錬されていたね。でも、僕も実力には自信があるんだ」その軽やかな口調で語られる内容の恐ろしさに、私たちは言葉を失った
Last Updated: 2025-11-10
Chapter: 第110話:二人の目覚め**────エレナの視点────**次の日。「みなさん!!!!本当にご迷惑をおかけしました!!!」「本当に面目ねぇ……!!!今回迷惑かけた分は、必ず挽回するぜ!」二人が目を覚ましたんだ。あんなに傷だらけで、ずっと目を覚まさなかったグレンさんも元気になって、本当に良かったと思う……。でも……。聞かないといけない。二人に、何があったのか。「それより……二人に何があったんですか?なんで……グレンさんはあんなに傷だらけだったんですか……?」私がそう尋ねると、グレンさんが急に口を噤んでしまう。数秒の重い沈黙が部屋を支配すると、やがて言いにくそうにグレンさんが口を開き始めた。「お前たちが情報収集に行った数時間後、とんでもなく強い奴が現れたんだ」「とんでもなく強い奴?」シイナさんの声に、緊張が走る。「ああ。全身に見たこともない鎧を着て、刀を使っていた」(見たこともない鎧に刀……か)エレンの声が、意識の奥で静かに響く。「そいつは……全く俺の攻撃が通じなかった」「なに!?グレン、お前の攻撃がか!?」シイナさんは心底驚いたような様子を見せる。グレンさんの実力を知っている彼だからこその驚きだった。(…………)エレンが沈黙している。何かを考えているみたいだ。「ああ、正直全く底が見えなかったぜ。戦ってる感触としては……エレンに近かったかもな」「エレンに……?」私の声が震える。エレンと同じくらい強いなんて……。「それは……かなり厄介そうですね」シオンさんの美しい顔に、珍しく深刻な表情が浮かんでいる。「厄介なんてもんじゃねぇよ。あいつは俺の攻撃を全部受け止めやがった」グレンさんは、私たちのパーティ内でも屈指の攻撃力を持つ
Last Updated: 2025-11-09
Chapter: 第四十九話:小さな棘「……ありがとう、ございます」どこか夢見心地のまま、俺は絞り出すように礼を述べた。右手の中に握りしめた紅い勾玉が、まるで生きているかのように、じんわりと熱を帯びている。手のひらに伝わる不思議な温かさは、悠斗さんと、そして美琴さんの想いそのものであるかのように感じられた。「神鳴山へ入るということ。それは、この町において、今も禁忌とされていることだよ」悠斗さんが、厳しくも諭すような声で言う。その瞳は、ただの専門家ではない、幾多の霊災を乗り越えてきた者の深みを湛えていた。「町の皆さんに余計な不安を与えないよう、誰にも見られず、慎重に行動するんだ」「その御守りが君を護ってくれることは、私が保証するから」ふ、と彼の表情が和らぎ、柔らかな笑みが向けられる。その緩急に、この人の持つ器の大きさを感じずにはいられなかった。「さて、私たちから伝えられるのは、こんな所かな」「うん、そうだね。あなた、早く琴音様に助言をいただきに行きましょう?」美琴さんが、少しだけ急かすように言った。「そうだね」凛とした所作で、二人がすっと立ち上がる。部屋の空気が、彼らの動きに合わせて静かに揺れた。「じゃあ、輝流くん。私たちは、これで失礼するねっ」美琴さんが、ぺこりと可愛らしく頭を下げ、どこか名残惜しそうに微笑む。そして、悠斗さんの背中を押すようにして、二人分の影が障子の向こうへと消えていった。***「――って、ことだ」線香の香りが微かに漂う寺の一室。智哉の部屋の畳の上で胡坐をかきながら、俺は櫻井さん夫婦から聞いた話を一通り親友へと伝えた。話の締めくくりに、受け取った勾玉に付けられていた紐を首にかける。冷たいはずの石が首筋に触れた瞬間、先ほどよりも確かな熱を放ち、心臓の鼓動と呼応するように、とくん、と脈打った気がした。不思議な力が、身体の芯から満ちていくような感覚だ。「はえぇぇ〜…。とんでもねぇ話だな、おい……」智哉が、漫画の主人公を見るような目で、心底感心したように息を漏らした。「へへっ。でも、その勾玉、なんか似合ってるじゃん。お守りって感じがしてさ」「まぁ、普段は服で隠れてて、見えないけどな」そんな他愛もない軽口を叩き合った、その時だった。ズボンのポケットに入れていたスマホが、ぶ、と短く震えて着信を知らせる。画面に浮かび上がったのは、【穂乃果】の三文字だった。
Last Updated: 2025-11-17
Chapter: 第四十八話:受け継がれる物「お二人は、『山姥』って、ご存知ですよね?」俺の、唐突な問いかけ。その言葉に、夫婦の間に、ぴり、とした緊張が走った。「……山姥。彼女たちが現れるのは、決まって、かつて『姥捨て』があった場所だよ」悠斗さんの答えに、俺は息を呑んだ。やはり、俺の立てた仮説は、的を外してはいなかったらしい。「実は、まだ定かじゃないんです。ただ、俺の考えでは……この神鳴山には、姥捨てがあった可能性があります」「っ……!」二人が、同時に息を呑むのが分かった。「あくまで……俺の推測です。それでも、聞いてもらえますか?」「……うん。聞かせてもらおう」悠斗さんの、真剣な眼差し。俺は、一度だけ、ぎゅっと拳を握りしめ、ゆっくりと口を開いた。「昔、この土地は痩せこけていて、食べるのにも苦労したと、教科書や資料には書いてありました」俺は、頭の中で組み立てたパズルを、一つ一つ、並べていく。「そして、山の神がもたらす天災。それらを恐れた昔の人々は、神を鎮めるための『生贄』と、単純な『口減らし』……その、両方の意味を込めて、姥捨てを行っていた可能性があると……そう、思ってます」なんて、恐ろしいことだろうか。確かに、当時の事情を考えれば、致し方ない部分もあったのかもしれない。だが、捨てられた側は? 救いを求めたはずの神に見捨てられ、家族に裏切られた人々の魂は、どうなる?恨みを募らせ、やがて、人ならざる恐ろしい存在へと、変貌してしまうのではないか?俺には、そう思えてならなかった。重い沈黙の後、悠斗さんが、ぽつりと呟いた。「…………。君は……本当に、賢いね」「……いえ。俺のクラスメイトだった女の子が、そいつに殺されたんです」その言葉に、美琴さんが「えっ……!」と口元を抑え、悲痛な表情を浮かべた。「殺された後、魂として漂っていたその子は、言っていました。山にある渡瀬川の奥深くに、百人ほどの、老人たちの魂があった、とそう教えてくれました」「なるほど……。ちなみに、そのクラスメイトの子は、その後どうなったんだい?」「……成仏、しました」俺の、その一言に、今度は悠斗さんが、心底驚いた表情を浮かべた。「なんだって? き、君……霊が視えるようになって、まだどのくらいなんだい?」「一ヶ月ほど……だと思います」「……君は、強いんだね。私は、昔から霊が視えていたが、ずっと怖くて、
Last Updated: 2025-11-16
Chapter: 第四十七話:救えない「え?」時が、止まったように感じられた。美琴さんの言葉が、意味を伴わない、ただの音の羅列として、俺の頭の中を反響する。『私はね、一度、死んでるの』これは……言葉通りに、受け取っていいんだよな……?何かの比喩、というわけでは、ないだろう。だって、彼女はさっき、言ったのだ。『寿命が尽きかけていた』と。目の前に座る美琴さんは、確かに生きている。温かな笑顔を浮かべ、夫である悠斗さんと穏やかな時間を過ごしている。だが、その言葉は間違いなく『一度、死んでいる』だった。「そ、それは、一体……」俺が、かろうじて絞り出した声に、答えたのは悠斗さんだった。彼は、どこか遠い目をして、静かに語り始めた。「彼女はね、白蛇山にいた白蛇様を……その呪いの根源を、祓ったんだ。その際に、命を落とした」──え?白蛇様を、祓った?俺の頭の中で、博物館で見た資料の内容が蘇る。『蛇琴村最後の巫女』。『白蛇様の呪いを解いた少女』。まさか、その伝説の人物が、目の前に座っているのと言うのか。「それは……どういうことですか……?つまり……美琴さんが、あの博物館にあった伝説に幕を下ろした……その『少女』本人、ということですか?」脳が、そのとんでもない事実を理解するのに、時間がかかった。美琴さんが、伝説に幕を下ろした人物。一度、死んでいる。常識で考えれば、到底信じられる話ではない。だけど、不思議なことに、俺の心の中に「疑う」という気持ちは、一切湧いてこなかった。目の前の二人が語る言葉には、嘘偽りのない、絶対的な真実の重みがあったからだ。「……そうだね」悠斗さんが、静かに肯定する。その表情には、当時を振り返る複雑な感情が宿っていた。「でも、それは、あなたもでしょ?」不意に、美琴さんが、少し悪戯っぽく、夫に向けて言った。まるで長年連れ添った夫婦の、気安い会話のようだった。「私は、あの時、まだ無力でね。君のそばにいることしか、できなかったから」悠斗さんは、どこか照れくさそうに、そう言って目を伏せる。だが、その言葉には深い愛情と、当時の無力感への悔恨が込められていた。(悠斗さんも、その場にいた……?)その発言が、新たな衝撃となって、俺の脳内に何度も響いた。つまり、二人は共に、あの伝説的な出来事の当事者だったということなのか。「この人ったらね、私が全て解決したってことにして、自分
Last Updated: 2025-11-14
Chapter: 第四十六話:呪われた巫女静まり返った和室に、俺の告白が、乾いた音を立てて落ちた。櫻井さん夫婦は、驚きもせず、ただ静かに俺の言葉を受け止めてくれている。やがて、悠斗さんが、諭すように、そして慎重に言葉を選びながら、俺に尋ねてきた。「差し支えなければ……その時のことを、もう少し詳しく教えてくれるかな?」「はい……。俺、実は小さい頃に、一度だけ、神鳴山に入ったことがあるんです」「山に? それは……何故? 確か、この町では、昔から神鳴山は禁忌の地と呼ばれていたはずだけど……」悠斗さんの言う通りだ。だが、幼い頃の俺にとって、その禁忌は、ただの挑戦状でしかなかった。「……小さい子特有の、無鉄砲さ、ですね。周りの友達がみんな怖がるから、逆に『俺に怖いものなんてないぞ』っていう、意地みたいなものでした」「うんうん、わかるよ。小さい頃って、そういう『ダメ』って言われたこと、したくなるものね」隣で、美琴さんがふふっと柔らかく笑いながら、そう呟いた。その優しい相槌に、俺の張り詰めていた緊張が、少しだけ解けていくのを感じる。「はぁ……美琴……」悠斗さんが、少しだけ呆れたように、けれど温かい眼差しで妻の名前を呼ぶ。「少なくとも、『今世』の私は、そうだったもの」美琴さんは、悪戯っぽく笑いながら、そう告げた。その言葉に、俺の思考が、ぴたりと止まった。(……今世?)まるで、当たり前のように使われた、その単語。俺は、会話の流れを断ち切ってしまうことを承知の上で、尋ねずにはいられなかった。「あの……『今世』って……どういうことですか?」その瞬間、夫婦は二人、はっとしたように顔を見合わせた。まずいことを言った、という空気が、和室に満ちる。何か、俺には言えないような、言いづらいことがあるんだろうか。「……うーん、あなた、話してみる?」「……そう、だね。輝流君なら、信じてもらえるかは分からないけど、話すべきかもしれない」夫婦は、短い視線のやり取りで、覚悟を決めたようだった。美琴さんが、すぅ、と一度息を吸い込む。そして、俺の目をまっすぐに見て、こう切り出した。「ねぇ、輝流くん。すごく驚くかもしれないけど……私はね、昔、巫女だったの」巫女……?「巫女って言っても、ちょっと特別でね。……呪われた巫女、だった」呪われた、巫女。その言葉を聞いた瞬間、俺の中で、全てのピースがはまるよう
Last Updated: 2025-11-12
Chapter: 第四十五話:櫻井夫婦との面会あれから、数日が経った。旅行の余韻は、じりじりと肌を焼くような猛暑に、とっくの昔にかき消されていた。テレビをつければ「観測史上、最高の暑さを記録」という言葉が毎日のように繰り返されている。俺は、そのうんざりするような現実から逃れるように、自室の椅子に深く沈み込んでいた。その時、机の上に置いていたスマホが、けたたましい着信音を鳴らした。画面に表示された名前は、『浅生智哉』。俺は、気怠げにそれを手に取り、通話ボタンをスライドさせた。「はぁい……もしもしぃ……」『おー! 相変わらず気だるそうだなー!』スマホのスピーカーが割れんばかりの、太陽のような声が鼓膜を叩く。(当然だろ。こんだけ暑いと、何をするのも億劫になる……)「で……? 何か用件か……?」『実はさ、櫻井さん夫婦がウチに来ててよ。お前と少し話したいって言うんで、電話したわけだ』──なに? 櫻井さん夫婦が?その名前に、俺の意識は一瞬で覚醒した。気怠さなんて、言っていられない。俺は、椅子の上で、無意識に背筋を伸ばしていた。「……わかった。すぐ行く」『お! 輝流にしては決断が早いな!?』「当たり前だろ。穂乃果のこともある。……それに、お前のこともな」あの夜、智哉だけが視たという、手足の長い影。その正体も、何か分かるかもしれない。『……そう、だよな。じゃあ、待ってるぜ!』智哉の声のトーンが、少しだけ真剣なものに変わる。通話が切れるやいなや、俺はTシャツを着替え、財布とスマホだけをポケットに突っ込むと、玄関のドアを勢いよく開けた。燃えるような日差しの中、アスファルトの照り返しが、全身の水分を奪っていく。だが、そんなことは気にしていられない。俺は、智哉の家――寺へと続く道を、ただひたすらに駆け出した。十数分後。山門の前で、智哉が腕を組んで立っていた。「おー!! 輝流! 待ってたぜ!」「……はぁ……はぁ……。中に、二人が?」「おう! そうだぜ! 上がってくれ!」智哉に促され、俺は息を整えながら、慣れた足取りで本堂の縁側へと向かう。そして、カラリと音を立てて、その引き戸を開けた。「……お邪魔します」本堂の引き戸を開けると、ひやりとした空気が、火照った俺の身体を包み込んだ。外の猛暑が嘘のように、静かで、涼やかな空間。そこに、見覚えのある男女が座っていた。「あっ、智哉、悪ぃ。
Last Updated: 2025-11-10
Chapter: 第四十三話:智哉だけに見えたもの『…………ミ……ミツ…………ケタ…………』(……え? 女の声、だろうか? それにしても……やけに低く、しゃがれているな)俺が冷静に声の質を分析している間に、隣では智哉が完全にパニックに陥っていた。「な、な、な、なんだいまの!??」「何って……声だろ?」「そういうこと言ってんじゃねぇよ!?」「………」ふと、燈子の方に視線をやると、彼女は小刻みに肩を震わせていた。だが、それは恐怖から来るものではない。その瞳は、暗闇の中でらんらんと輝いていた。「いまのは……本物!? 本当に、霊と会話ができるかもしれない!」テンションが、完全におかしな方向へと振り切れている。燈子は、一度は消したはずのスピリットボックスの電源を、再び起動させた。『ガガッ! ザザザッ!』と、耳障りなノイズが松林に響き渡る。「ね、ねぇ……輝流……」穂乃果が、震える声で俺の袖を強く引っ張った。そして、とある方向を、その指が恐る恐る指し示す。「ん? どうした?」「あ、あれ……」穂乃果が指さす方へ視線を送ると……暗闇の奥、松の木の幹の間から、青白い光が、ふわふわと浮かび上がってくるところだった。「ひ、ひ、ひ、人魂!???」智哉までもが、裏返った悲鳴を上げる。だが、燈子の反応は、やはり俺たちの斜め上を行っていた。「こ、これは……!! 面白くなってきたわね……!」まるで最高のエンターテイメントを前にしたかのように、彼女は一歩、その人魂へと踏み出そうとする。「そ、そ、そ、そんなこと言ってる場合か!!! 逃げるぞ!!!」その瞬間、智哉が叫んだ。そして、常人離れした動きで燈子の背後に回り込むと、「うぉりゃ!」という掛け声と共に、その華奢な身体を俵のように担ぎ上げた。「ちょ、降ろして、お兄ちゃん!」「うるせぇ! こうでもしねぇとお前、ついてこ
Last Updated: 2025-11-09