平凡な高校生・悠斗は、自身の特別な霊感ゆえに、どこか影を秘めた少女・月瀬美琴と運命的な出会いを果たす。 その邂逅は、彼らの日常を大きく変え、千年もの時を超えて現代に蘇る恐ろしい「呪い」と、深く絡み合う「絆」の物語へと誘うものだった。 古き因縁が息づく町で、悠斗と美琴は、過去の悲劇に由来する異形の存在たちと対峙していく。なぜ、この地は呪われたのか?なぜ、彼らの血には抗いがたい宿命が刻まれているのか? しかし、解き明かされる真実の先には、彼らの想像を絶する残酷な運命が待ち受けていた。愛、友情、そして避けられぬ喪失――輝かしい日々の中に忍び寄る、底知れぬ影。 果たして彼らは、魂を蝕む呪いの連鎖を断ち切り、愛する者たちを救い、自らの「縁」を輝かせることができるのか。 これは、二人の少年少女が、痛みと絶望を乗り越え、互いを支え合いながら、運命という名の「縁」を紡ぎ、自らの生を、そして世界を輝かせる、壮大で切ない和風ミステリーホラー。 全ての縁が、やがて光となる。
View More「先輩! 絶対にその人の刃物に触れないでください!」
鼓膜を劈くような、切羽詰まった少女の警告。その声が響き渡ると同時、少年の喉が、ひゅっと鳴った。 眼前に立ちはだかるのは、虚ろな眼でこちらを睨みつける、一人の男。その手には、鈍色のサバイバルナイフが握られ、尋常ならざる気配を放っている。 「彼の周囲には……彼に殺された人たちの、怨霊が渦巻いて漂っています!」 少女の言葉が、現実感を伴って脳髄に突き刺さる。 「その怨念が、ナイフを、ただの凶器じゃない……“呪われた霊の武器”として成り立たせてしまっているんです!」 あれを浴びれば、命はない。 その事実だけが、冷たく思考を支配する。掌にじっとりと汗が滲み、指先が微かに震えていた。 これまで遭遇してきた不成仏霊とは、魂の在り方がまるで違う。明確な殺意と、それを実行する手段を、その霊は確かに保有していた。 ──ダンッ! 鋭い踏み込みの音。男の身体が、獣じみた俊敏さで宙を舞う。 空気を裂き、ナイフが横薙ぎに閃いた。少年はほとんど反射で後ろへ飛び退く。凶刃が鼻先を数ミリで掠め、ぞっとするような冷気が肌を撫でた。 「……遅ぇよ、ガキが」 掠れた、嘲るような声。 次の瞬間、背後から風を裂く音。そして、左腕に走る、灼けるような鋭い痛み。 「……っ!」 呻きが、少年の唇から漏れた。咄嗟に庇った腕の袖が裂け、赤黒い血が迸る。骨には達せずとも、傷は決して浅くはない。 それは、生と死が瞬時にせめぎ合う闘諍《とうじょう》。 そして、彼らが否応なく歩むこととなる茨の道、その現実の一端に他ならなかった。 だが──全ての始まりは、そこにはない。 もっとずっと静かで、穏やかな春の風が吹く日々の内にこそ、その根は芽吹いていた。 これは、一人の少年と一人の少女、二つの魂の邂逅の記録。 そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた、宿業の物語である。 *** ──桜織市の日々── 柔らかな風が、春の訪れをそっと街へと運んでくる。桜の花びらが、まるで空に溶けていくかのようにふわりと舞い上がり、優しい陽射しが、この街全体を祝福するように包み込んでいる。 ここ、桜織市《さくらおりし》は、風穂県《かざほけん》のなだらかな平野部に広がる、どこまでも穏やかな表情をした町だ。 遠い昔、この土地に最初に根付いた桜の木々が、毎年春になると美しい花を咲かせ、そこに住まう人々を、ずっと静かに見守ってきたという。 言い伝えによれば、街を見下ろす丘の上に佇む桜織神社《さくらおりじんじゃ》に宿る古き神が、その身を削って桜の枝に聖なる命を吹き込み、この町を災いから護ってきたのだ、と。 川沿いに続く桜並木が、長い冬の眠りからゆっくりと目を覚まし始める。そして、春風がそよぐたび、無数の花びらがはらはらと舞い落ちて、地面に淡く、美しいピンク色の絨毯《じゅうたん》を敷き詰めていく。 その一瞬一瞬が、まるで小さな幸せをそっと閉じ込めた、一枚の絵画のようだった。 新学期の、少しだけ浮き足立った朝。 僕が自分の教室に足を踏み入れると、大きな窓から差し込む朝の陽射しが、まだ誰のものでもない真新しい机の表面に、柔らかく落ちていた。小さな光の粒が、空気中に漂う微かな埃と一緒に、きらきらと静かに揺れている。 少し離れた場所からは、クラスメイトたちの他愛ない笑い声が微かに漂ってきて、まだ糊の匂いが残る新しい制服の香りが、春の甘い空気とそっと混じり合っていた。 自己紹介は、特に目立つこともなく、当たり障りなく簡単に済ませて。僕にとっての、ごくごく平凡な一日が、また静かに流れ始めた。 *** 昼休み。購買で買った焼きそばパンを頬張りながら、僕は数人の友人と、本当にたわいもない話をしていた。 「なぁ、今年は何か面白いこととか、あったりすんのかなぁ?」 誰かが、期待と少しの気怠さを込めた声で、笑いながら呟く。 僕は、その言葉に小さく首を横に振り、「別に、これまで通り、普通でいいよ」と答えた。 そんな、何の変哲もない時間が、僕の胸に、温かい綿のようにそっと積もっていく。 教室の窓の外には、小高い丘の上に鎮座する桜織神社の、あの大きな桜の古木──桜翁が、春の柔らかな光の中で、穏やかに枝を揺らしているのが見えた。 なぜだろう、あの桜翁の方を見ると、時折、誰かに呼ばれているような……そんな不思議な感覚に襲われることがある。 (この不思議な感覚は一体……。) *** 放課後。 騒がしい昇降口を抜け出すと、西に傾いた夕陽が、校庭全体を淡い金色に染め上げていた。 その先には、桜織市で最も古く、そして最も大きな桜の木として、皆から慕われている桜翁。そして、その向こうの、夕闇が迫る森の奥には──古社、桜織神社が静かに佇んでいる。 教室の窓からも毎日見えていた桜翁《さくらおきな》が、今はもうその枝いっぱいに見事な花を咲かせ、茜色の夕陽に照らされて、風にその薄紅の花びらを揺らめかせている。 神社の周辺は、いつ来ても、どこか他とは違う、凛とした特別な空気が漂っているように感じられた。 「昔から、この土地を見守り続ける、静かで力ある守り手が宿っているんだよ。」 ──そんな、この町に古くから伝わる噂話が、ふと春の夕風に混じって、僕の耳に届いた気がした。 そしてまた、あの桜翁の方から、僕を呼ぶような、微かな気配を感じる。 その時だった──。 夕陽がまさに地平線に触れようとする、その瞬間。 桜翁の、太く逞しい幹の根元に、ふわりと舞い落ちる花びらの中に、まるで最初からそこにいたかのように、一人の少女が、静かに立っていた。 茜色の光に照らされたその横顔は、どこか儚げで、そして息をのむほどに透き通るように美しかった。艶やかな茶色の髪が、ポニーテールにひとつでまとめられていて、春の夕風に、その毛先が揺れるたび、なぜだか見ていて胸が締め付けられるような、どこか切なげな雰囲気を漂わせていた。 その姿が、満開の桜と、燃えるような夕陽の光と、そして神社の持つ静謐な空気の中に、一枚の絵画のように、音もなく、ただ静かに、そこに在った。 その、あまりに美しい光景に僕の目が、釘付けになって、どうしても離せなくなってしまった。 ──ああ。その、あまりに静かな邂逅こそが、永い永い旅路の始まり。「はぁ……っ、はぁ……っ……どうにか……防げた……」全身から汗が噴き出し、肺が酸素を求めて喘ぐ。手のひらは、まだジンジンと焼けるように痛む。けれど、結界は割れなかった。──守りきれた。彼女を。『……貴様……白蛇様の加護を得た我が術を……受け止めたというのか……』琴音様の声が揺れていた。純粋な怒りと、信じがたいものを見るような響きで。「琴音様……あなたの……気持ちは……少しだけ……分かります……っ!」そう、たしかに僕は、その“怒りの源”を見た。文献に刻まれた過去を、想像し、心でなぞった。けれど──『妾の気持ちが分かるだと……!?』『なにがわかる!! 戯けた事を言うな!!!!』怒りが爆ぜた。琴音様が再び掌を掲げ、呪いの焔がその指先に集う。瞬く間に膨れあがった炎が、再びこちらへと吐き出された。「ぐっ……ぐうぅぅぅっ!!!」灼けるような痛み。全身を揺さぶる呪いの熱が、またも結界を削っていく。「ゆ、悠斗君っ……!」美琴が僕の名を呼ぶ。不安に震える声。でも、僕は笑って応えた。「大丈夫……絶対に君を傷つけさせたりしない……!」だから。「美琴……次の手だよ……!」その言葉に、美琴は真っ直ぐに頷いた。彼女の瞳にあるのは、不安じゃない。僕への、絶対的な信頼だった。「悠斗君……これから私は──浄化の舞いを舞います」“あの舞”。かつて琴音様が神を鎮めたという、伝説の祈り。「でも……その間、私は……完全に無防備になる」──なるほど。僕の役目は、変わらない。彼女を、守る。命を懸けて、守る。……いや。今まで以上に、“絶対に守り抜く”と、魂に誓う瞬間だ。「任せて。舞う君を……僕が、守りきってみせる」そう口にした瞬間、胸の奥から燃え上がるような力が湧き上がってきた。美琴の瞳が、きゅっと細められて微笑む。それは、信じる者にしか見せない、“覚悟の笑み”だった。彼女は両手を胸の前で交差し、「御魂よ清め給え、鎮め給え──」古来よ
美琴の放った光の焔が、まっすぐに琴音様へと向かっていく。その輝きは、まるで夜空に放たれた一筋の祈り。ただひたすらに、真っ直ぐで──美しかった。そして、──ドォォォンッ!!!衝撃音と共に、浄化の術が琴音様へと直撃した。まばゆい光の爆風が空間を包み、呪われた血桜の枝を激しく揺らす。「どうだ……っ!? やった…!?」僕の言葉に、美琴がぴしりと首を振る。「……っ! まだ、だよ……!!」晴れていく煙の向こう。そこには──寸分たがわぬ姿で、宙に浮かぶ琴音様の姿があった。そして、その威圧的な瞳で、僕たちを見下ろしていた。『この程度の浄術で……妾の怒りを、消せるとでも?』声は冷たくて、重くて、そして、どこか哀しかった。(“この程度”…だって……?)あれは、僕の見てきた中でも比べ物にならないほど、最も強く、美しい術だった。それなのに──この程度だって?『妾の怒りは……そんな薄っぺらな光で潰えはせぬ…!!』琴音様の怒気が爆発する、その瞬間。──上空にいた「黒い蛇」が、グォォォォォォォォォォ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!……咆哮した。「っ……!!!」全身が粟立つ。肌が、見えない力に押し潰されるような錯覚に襲われた。僕たちは咄嗟に耳を塞ぐ。でも、意味なんてなかった。あまりにも低く、あまりにも“厚い”その咆哮は、音というより──呪いの波動そのものだった。骨の髄まで響き渡り、心臓の鼓動すら掻き消されそうな衝撃。(な、なにこれ……ッ!?)身体が、意思に反して震えている。恐怖というより、もはや──抗いようのない、本能的な絶望だった。空を這う、あの黒き蛇の瞳が、僕たちを覗き込む。その眼光には、悪意すらない。ただただ──「世界の断罪」を下す者の、それだけのまなざしだった。黒い蛇は、再びうねり出す。空の裂け目──世界の幕を食い破って、ズルズルと、音を立てるように、その巨体をこちら側へと侵食させてくる。ズシ……ズシ……鈍く、音なき重
「美琴ッ!!」叫ぶよりも先に、身体が動いていた。彼女の前へ飛び込むように駆け寄り──「神籬ノ帳っ!!!!」指先が桜色の光を引き裂くように滑る。凄まじい反動が腕を駆け上がり、空間そのものを掴んで固定するような感覚と共に、結界が張られた。ただの防壁じゃない。それは、“想い”を刻んだ防人の檻。かつてより遥かに強く、硬く、揺るがない。迦夜戦で得た術式の理解と、沙月さんから受け継いだ「信念」が、それを可能にしていた。──そして。琴音様の「星燦ノ礫」が、怒涛のごとく迫る。……が、桜色の結界に触れた瞬間、憎しみの光は音を立てて砕け散った。『貴様……その術は……』琴音様の声が震える。ただの驚きではない。怒りと、悲しみと、そして“疑念”がない交ぜになった声。『その術は……沙月の術……っ』気づいたのだろう。これは、あの琴音様の妹──沙月様の力が宿る結界。『……おのれ、おのれ……おのれ、おのれ……っ!!』琴音様の体が、わなわなと震え出す。怒りに。苦しみに。そして──たった一人の妹にまで裏切られたという、深い悲哀に。『沙月までもが……!! 妾を……妾を封じた……!!!』『妾の苦しみを知っていながら……妾の声を、怒りを、痛みを……全て知っていたはずなのに……!!』『……許さぬ……! 断じて許さぬ……!!』その声は、もはや雷鳴だった。空がさらに裂け、地がうねり、血桜が泣き叫ぶ。『そなたらまとめて──疾く滅びよ!!!!』魂そのものが燃え尽きそうなほどの呪詛と共に、琴音様から黒き力の奔流が噴き上がった。(やっぱり、駄目か……)一縷の希望は、あまりにもあっけなく潰えた。これほどまでに心が壊れ、怒りで染まった魂に、対話の余地などあるはずがない。「美琴! 僕が、君を守る!!」「だから君は……攻撃を!!!」叫んだ僕の言葉に、美琴が顔を上げた。その目に宿るのは、涙でも迷いでもない。ただただ、真っ直ぐな“覚悟”。彼女は、力強く頷いた。『穢れを焔にて放て……』『
「じゃあ、悠斗君……これから、封印を解くよ」その一言に、僕は思わず息を呑んだ。声は穏やかなのに、そこに込められた決意があまりにも重くて、胸が軋む。美琴はゆっくりと、神楽髪飾りを頭につけた。白蛇を象ったその装飾が、禍々しい神木の前で、清らかな光を放つ。その姿は、まるでこの地に遣わされた“最後の巫女”のようだった。ただそこに立っているだけなのに、神聖で、そして今にも消えてしまいそうに儚げだった。僕たちは、ゆっくりと木の幹へと近づいていく。目の前には、“神木”。巨大な桜の幹が、墓標のように静まり返っていた。そして、その目前で、美琴が立ち止まる。「悠斗君……改めて、ありがとう。ここまで一緒に来てくれて……本当に、ありがとう」彼女が振り返る。その声は、ふっと吹いた風のように優しくて、でもどこか泣きそうだった。「きっと、私ひとりだったら……とっくに心が折れてたと思うから」その言葉を聞いた瞬間、胸が詰まる。当たり前だ。これほどの重圧の中、自らの命を削る覚悟を抱えて、誰が一人で歩けるというのか。この木から溢れ出る“怒り”は、僕の本能に「逃げろ」と絶えず叫ばせている。「……じゃあ、解除するよ」美琴が静かに右手を掲げた。次の瞬間、彼女の掌から放たれた紅い閃光が、音もなく木の幹に吸い込まれていった。そして。ドンッ……ッ!!!腹の底に響くような地鳴りと共に、世界が揺れた。僕の体が、意思と無関係にふらつく。足元の石畳が波打ち、思わず膝をつきそうになった。「うっ……!」──さらに…赤い霧が、木の幹から溢れ出した。ふわり、なんて生易しいものじゃない。空気を塗り潰すように、ぐにゃりと重く、どこまでも濃密な瘴気が、こちらに押し寄せてくる。鼻をつく、鉄の匂い。古く腐りきった血の悪臭が、脳を直接殴る。吐き気が、込み上げてきた。「……っ……うぐ……」喉が焼けるように熱く、目が染みるように痛い。それでも僕は、目を逸らすことができなかった。霧が、少しずつ晴れていく。そして、そこに──“それ”はいた。
整地された山道を、僕たちは並んで登っていた。石畳の足元はしっかりしているのに、心の中だけが妙にぐらついている。冷たい山の空気が、やけに重く感じられた。その時──「ねえ、悠斗君」美琴が、ふと立ち止まって僕を振り返った。「ん? どうしたの?」「悠斗君って、琴音様の伝説……ちゃんと知らなかったよね?」「うん。詳しくはまだ聞いてない」彼女は小さく頷き、少し寂しそうに微笑んだ。「これから、琴音様と向き合うんだもん。少しでも伝説を知ってた方がいいと思って」「……うん。そうだね」想いが力になるのなら、こういう“知ること”もきっと意味がある。それに、あの琴音様がどんな存在だったのか……僕も知っておきたかった。「まあ、知らなかったのは当然かも。私がちゃんと教えてなかったから……」ぽつりと、美琴が視線を落として言う。きっとそれも、僕を巻き込まないように、遠ざけようとしていた結果なんだ。……その選択がどれだけ辛いものだったか、今ならよく分かる。「だから……今から、その文献の内容を話すね」「……うん。お願い」美琴は一度だけ小さく深呼吸して──目を閉じ、古の物語を静かに語り始めた。> 【一、無垢の童女】> 無垢の童女、泣かず、笑わず。> 村人これを忌みて、「鬼の子」と呼びて遠ざく。> 時至りて、生贄として御神に捧げらる。> 然れど神、己が声を唯一聴く童女を深く気に入り、> 常世の底より命を繋ぎ、此の世へと還し給う。> 是により童女は命を落とさず、村へと帰還を果たす。> この出来事、後に「第一の生還」として語らる。> 【二、神を鎮めし舞い】> 還りし童女、村に迎えられ、> 「救世の子」と崇めらる。> その身、唯一神の言葉を聴きし者なり。> 童女、不可思議なる力をもって神威を鎮め、> 御神の怒り、やがて静寂へと至る。> 再びの生贄を求めし神に、童女は応えず、> 「我、命を捧げぬ。ただ、祈りを捧げよう」と言い放つ。> 神は沈黙を
鳥のさえずりが、遠くの森からかすかに届いてくる。ひんやりと澄んだ朝の空気が、部屋の静けさを際立たせていた。……朝が、来てしまった。眠っていたはずなのに、胸のざわつきのせいか、いつもより早く目が覚めてしまった。布団の中で身を起こし、ぼんやりと窓の外を見つめる。夜明け前の空はまだ薄暗く、遠くの地平線がわずかに白んでいた。隣では、美琴が静かな寝息を立てている。その寝顔は穏やかで、まるで何事もない日常の続きのように見えた。「……美琴」僕はそっと、彼女の方へ身体を向けて、再び横になる。起こさないように、その柔らかな髪をそっと撫でた。指先に感じる温もりが、胸を締め付ける。(沙月さん……)心の中で、静かに祈る。どうか、彼女を守りきれる力を……僕に。たったそれだけでいい。どうか、力を貸してください。そう願いながら、もう一度そっと目を閉じた。 ***朝日が畳の上に長い影を落とし始めた頃、僕たちは長老の家を訪れていた。「悠斗。もう一度だけ、尋ねる」長老が、真剣な眼差しで僕を見つめる。「おぬしは、本当に──自分まで死ぬかもしれない地へ赴くという、その気持ちは変わらぬのか?」「はい」迷いはなかった。「この心は、もう揺らぐことはありません」そう答えると、長老は深いため息をついて目を伏せた。その横顔には、困ったような色が浮かんでいる。だけど同時に、どこか少しだけ……誇らしそうにも見えた。「……はぁ。美琴も大概じゃが……おぬしも大概じゃな……」ぽつりと、呆れたように言う。でもその声には、確かな温かさが滲んでいた。「……だからこそ、礼を言おう」長老が、静かに言葉を継いだ。「美琴を、これほどまでに想ってくれて……儂は感謝しておるよ」その言葉に、胸の奥が熱くなる。本当は、長老もこんな犠牲……望んでなんかいないんだ。この人の優しさは、先日のやり取りで十分に伝わっていた。だからこそ、今の言葉が、余計に重く感じられる。「よし……美琴。琴音様の巫女服に、着替えておいで」
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