【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜

【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜

last updateLast Updated : 2025-08-15
By:  渡瀬藍兵Ongoing
Language: Japanese
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9.5
4 ratings. 4 reviews
183Chapters
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──霊が視える。でも、視えないフリをして生きてきた。 平凡な高校生・櫻井悠斗の日常は、親友の失踪によって終わりを告げる。 手がかりを求め、足を踏み入れたのは『桜織旧病院』。 この町で最も不気味だと囁かれる、恐ろしい廃墟。 そこで彼を待っていたのは、絶望的な恐怖と……一人の、謎めいた少女だった。 「私の血は、穢れているんです」 月瀬美琴──。 悠斗とは対照的に、恐れることなく霊と向き合う彼女との出会いが、悠斗を千年の時を超えた壮大な呪いと宿命の渦へと巻き込んでいく。 これは、不思議な力を持つ少年と、過酷な運命を背負う少女が、互いを信じ、支え合い、絶望的な未来に抗う、切なくも美しい愛と戦いの物語。

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Chapter 1

縁語り其の一:桜舞う街

 「先輩! 絶対にその人の刃物に触れないでください!」

 鼓膜をつんざくような、切羽詰まった少女の警告。その声が響き渡ると同時、少年の喉が、ひゅっと鳴った。

 眼前に立ちはだかるのは、虚ろな眼でこちらを睨みつける、一人の男。その手には、鈍色のサバイバルナイフが握られ、尋常ならざる気配を放っている。

 「彼の周囲には……彼に殺された人たちの、怨霊が渦巻いて漂っています!」

 少女の言葉が、現実感を伴って脳髄に突き刺さる。

 「その怨念が、ナイフを、ただの凶器じゃない……“呪われた霊の武器”として成り立たせてしまっているんです!」

 あれを浴びれば、命はない。

 その事実だけが、冷たく思考を支配する。掌にじっとりと汗が滲み、指先が微かに震えていた。

 これまで遭遇してきた不成仏霊とは、魂の在り方がまるで違う。明確な殺意と、それを実行する手段を、その霊は確かに保有していた。

 ──ダンッ!

 鋭い踏み込みの音。男の身体が、獣じみた俊敏さで宙を舞う。

 空気を裂き、ナイフが横薙ぎに閃いた。少年はほとんど反射で後ろへ飛び退く。凶刃が鼻先を数ミリで掠め、ぞっとするような冷気が肌を撫でた。

 「……遅ぇよ、ガキが」

 掠れた、嘲るような声。

 次の瞬間、背後から風を裂く音。そして、左腕に走る、灼けるような鋭い痛み。

 「……っ!」

 呻きが、少年の唇から漏れた。咄嗟に庇った腕の袖が裂け、赤黒い血が迸る。骨には達せずとも、傷は決して浅くはない。

 それは、生と死が瞬時にせめぎ合う闘諍《とうじょう》。

 そして、彼らが否応なく歩むこととなる茨の道、その現実の一端に他ならなかった。

 だが──全ての始まりは、そこにはない。

 もっとずっと静かで、穏やかな春の風が吹く日々の内にこそ、その根は芽吹いていた。

 これは、一人の少年と一人の少女、二つの魂の邂逅の記録。

 そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた、宿業の物語である。

 ***

 ──桜織市の日々──

 柔らかな風が、春の訪れをそっと街へと運んでくる。桜の花びらが、まるで空に溶けていくかのようにふわりと舞い上がり、優しい陽射しが、この街全体を祝福するように包み込んでいる。

 ここ、桜織市《さくらおりし》は、風穂県《かざほけん》のなだらかな平野部に広がる、どこまでも穏やかな表情をした町だ。

 遠い昔、この土地に最初に根付いた桜の木々が、毎年春になると美しい花を咲かせ、そこに住まう人々を、ずっと静かに見守ってきたという。

 言い伝えによれば、街を見下ろす丘の上に佇む桜織神社《さくらおりじんじゃ》に宿る古き神が、その身を削って桜の枝に聖なる命を吹き込み、この町を災いから護ってきたのだ、と。

 川沿いに続く桜並木が、長い冬の眠りからゆっくりと目を覚まし始める。そして、春風がそよぐたび、無数の花びらがはらはらと舞い落ちて、地面に淡く、美しいピンク色の絨毯《じゅうたん》を敷き詰めていく。

 その一瞬一瞬が、まるで小さな幸せをそっと閉じ込めた、一枚の絵画のようだった。

 新学期の、少しだけ浮き足立った朝。

 僕が自分の教室に足を踏み入れると、大きな窓から差し込む朝の陽射しが、まだ誰のものでもない真新しい机の表面に、柔らかく落ちていた。小さな光の粒が、空気中に漂う微かな埃と一緒に、きらきらと静かに揺れている。

 少し離れた場所からは、クラスメイトたちの他愛ない笑い声が微かに漂ってきて、まだ糊の匂いが残る新しい制服の香りが、春の甘い空気とそっと混じり合っていた。

 自己紹介は、特に目立つこともなく、当たり障りなく簡単に済ませて。僕にとっての、ごくごく平凡な一日が、また静かに流れ始めた。

 ***

 昼休み。購買で買った焼きそばパンを頬張りながら、僕は数人の友人と、本当にたわいもない話をしていた。

 「なぁ、今年は何か面白いこととか、あったりすんのかなぁ?」

 誰かが、期待と少しの気怠さを込めた声で、笑いながら呟く。

 僕は、その言葉に小さく首を横に振り、「別に、これまで通り、普通でいいよ」と答えた。

 そんな、何の変哲もない時間が、僕の胸に、温かい綿のようにそっと積もっていく。

 教室の窓の外には、小高い丘の上に鎮座する桜織神社の、あの大きな桜の古木──桜翁が、春の柔らかな光の中で、穏やかに枝を揺らしているのが見えた。

 なぜだろう、あの桜翁の方を見ると、時折、誰かに呼ばれているような……そんな不思議な感覚に襲われることがある。

 (この不思議な感覚は一体……。)

 ***

 放課後。

 騒がしい昇降口を抜け出すと、西に傾いた夕陽が、校庭全体を淡い金色に染め上げていた。

 その先には、桜織市で最も古く、そして最も大きな桜の木として、皆から慕われている桜翁。そして、その向こうの、夕闇が迫る森の奥には──古社、桜織神社が静かに佇んでいる。

 教室の窓からも毎日見えていた桜翁《さくらおきな》が、今はもうその枝いっぱいに見事な花を咲かせ、茜色の夕陽に照らされて、風にその薄紅の花びらを揺らめかせている。

 神社の周辺は、いつ来ても、どこか他とは違う、凛とした特別な空気が漂っているように感じられた。

 「昔から、この土地を見守り続ける、静かで力ある守り手が宿っているんだよ」

 ──そんな、この町に古くから伝わる噂話が、ふと春の夕風に混じって、僕の耳に届いた気がした。

 そしてまた、あの桜翁の方から、僕を呼ぶような、微かな気配を感じる。

 その時だった──。

 夕陽がまさに地平線に触れようとする、その瞬間。

 桜翁の、太く逞しい幹の根元に、ふわりと舞い落ちる花びらの中に、まるで最初からそこにいたかのように、一人の少女が、静かに立っていた。

 茜色の光に照らされたその横顔は、どこか儚げで、そして息をのむほどに透き通るように美しかった。あでやかな茶色の髪が、ポニーテールに一つでまとめられていて、春の夕風に、その毛先が揺れるたび、なぜだか見ていて胸が締め付けられるような、どこか切なげな雰囲気を漂わせていた。

 その姿が、満開の桜と、燃えるような夕陽の光と、そして神社の持つ静謐な空気の中に、一枚の絵画のように、音もなく、ただ静かに、そこに在った。

 その、あまりに美しい光景に僕の目が、釘付けになって、どうしても離せなくなってしまった。

 ──ああ。その、あまりに静かな邂逅かいこうこそが、永い永い旅路の始まり。

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Comments

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高め
読み始めてすぐに、この物語の持つ独特の魅力に惹き込まれました。 主人公・悠斗の持つ繊細な霊感と、クールでミステリアスな少女・美琴との出会い。彼らの何気ない日常が、ごく身近な心霊現象から、次第に、しかし確実に、予測不能な「影」に侵食されていく展開に、ページをめくる手が止まりませんでした。
2025-05-28 22:03:34
3
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塚田空
霊に寄り添うなんてホラー見た事ありませんでした。 ただ怖いものとして扱われていた霊がこんな風に悲しい存在として扱われて救われる優しい物語…。 なんだか本当にすごい作品を見つけてしまった様な気がします。
2025-05-28 18:01:35
4
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NoA
物語の背景、情景が文面から 読み取りやすく且つテンポがいいので 読み進めやすいです。 主要人物だけではなく この物語の要である霊に寄り添った 描写も多く、読み進めるうちに 惹かれていくような内容ですね。 続き楽しみにしてます!
2025-05-25 20:24:03
2
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ネム……
キャラクター、一人一人の個性はもちろん物語としてもしっかりとしていて読み応えがありますね!! ただ、成仏させるだけでなくしっかりとそのキャラクターに寄り添ってあげるところも気に入ってるところです!! ホラーだけで怖いだけでなくたくさんのことを感じられる小説なので他の人にも読んで頂きたいですね!!
2025-06-10 11:53:32
1
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縁語り其の一:桜舞う街
 「先輩! 絶対にその人の刃物に触れないでください!」  鼓膜を劈くような、切羽詰まった少女の警告。その声が響き渡ると同時、少年の喉が、ひゅっと鳴った。  眼前に立ちはだかるのは、虚ろな眼でこちらを睨みつける、一人の男。その手には、鈍色のサバイバルナイフが握られ、尋常ならざる気配を放っている。  「彼の周囲には……彼に殺された人たちの、怨霊が渦巻いて漂っています!」  少女の言葉が、現実感を伴って脳髄に突き刺さる。  「その怨念が、ナイフを、ただの凶器じゃない……“呪われた霊の武器”として成り立たせてしまっているんです!」  あれを浴びれば、命はない。  その事実だけが、冷たく思考を支配する。掌にじっとりと汗が滲み、指先が微かに震えていた。  これまで遭遇してきた不成仏霊とは、魂の在り方がまるで違う。明確な殺意と、それを実行する手段を、その霊は確かに保有していた。  ──ダンッ!  鋭い踏み込みの音。男の身体が、獣じみた俊敏さで宙を舞う。  空気を裂き、ナイフが横薙ぎに閃いた。少年はほとんど反射で後ろへ飛び退く。凶刃が鼻先を数ミリで掠め、ぞっとするような冷気が肌を撫でた。  「……遅ぇよ、ガキが」  掠れた、嘲るような声。  次の瞬間、背後から風を裂く音。そして、左腕に走る、灼けるような鋭い痛み。  「……っ!」  呻きが、少年の唇から漏れた。咄嗟に庇った腕の袖が裂け、赤黒い血が迸る。骨には達せずとも、傷は決して浅くはない。  それは、生と死が瞬時にせめぎ合う闘諍《とうじょう》。  そして、彼らが否応なく歩むこととなる茨の道、その現実の一端に他ならなかった。   だが──全ての始まりは、そこにはない。  もっとずっと静かで、穏やかな春の風が吹く日々の内にこそ、その根は芽吹いていた。  これは、一人の少年と一人の少女、二つの魂の邂逅の記録。  そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた、宿業の物語である。  ***  ──桜織市の日々──  柔らかな風が、春の訪れをそっと街へと運んでくる。桜の花びらが、まるで空に溶けていくかのようにふわりと舞い上がり、優しい陽射しが、この街全体を祝福するように包み込んでいる。  ここ、桜織市《さくらおりし》は、風穂県《かざほけん》のなだらかな平野部に広が
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縁語り其の十:廃病院に住まう者
 僕は、翔太のスマホをポケットへとしまい、重苦しい空気が漂う診察室を後にした。  誠也という名の男の子が遺した手紙。あの消え入りそうな文字と、寂しげな笑顔の似顔絵が、まだ瞼の裏に焼き付いている。  右手の廊下は、闇が深かった。  進むほどに、空気が変わる。  やがて、底のない暗闇が、ぽっかりと口を開けていた。  そこから吹き上げてくる空気は、これまでとは明らかに質が違った。まるで生きたものの体温を全て吸い取っていくような、淀んだ風が肌を撫でる。  足が、自然と止まった。  (……噂に聞いていた、地下への入口だ)  “院長が、何かを地下に隠していた”。  この病院にまつわる黒い噂が、不意に頭をよぎる。  懐中電灯の震える光を差し込んでも、その奥は光を吸い込むような闇に包まれ、何も映し出せない。  「一体……何を隠したって言うんだ……?」  氷のように冷たく湿った空気が、僕の肌を粟立たせる。  (……今は、まだだ。先に、他の場所を探そう)  ゴクリ、と乾いた喉を鳴らし、僕は一度だけその暗闇を振り返り、踵を返した。  ***  ギシギシと不気味に軋む古い階段を慎重に上がり、二階へと向かう。  二階の廊下は、一階よりもさらに色褪せた、濃密な気配が漂っていた。  古い病院特有の、埃と錆びた金属、そして微量の薬品が混じった、鼻の奥をツンと刺激する独特の匂い。  廊下の両脇には小さな患者部屋が並び、突き当たりには比較的大きな共同部屋。その奥に、重い扉で閉ざされた手術室とレントゲン室。  どの部屋も、時代に取り残されたような、陰鬱で古びた造りだった。  僕は、一番手前にあった、扉が少しだけ開いている小さな患者部屋のドアを、そっと押してみる。  きぃぃ……ぃぃ。  鈍く軋む蝶番の音が、この静まり返った二階の空間に、やけに大きく響き渡った。  部屋の中には、マットレスが剥き出しになった、ボロボロのパイプベッドが一台だけぽつんと置かれている。壁紙は広範囲にわたって剥がれかけ、その下のコンクリートが覗いていた。  部屋の隅に、埃を分厚くかぶった大きな姿見が、誰かに忘れ去られたように壁に立てかけられている。  何気なく、その鏡の前に立った。  映し出された自分の顔は、ひどく青ざめて、まるで知らな
last updateLast Updated : 2025-05-17
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