【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜

【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜

last updateLast Updated : 2025-08-15
By:  渡瀬藍兵Ongoing
Language: Japanese
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183Chapters
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──霊が視える。でも、視えないフリをして生きてきた。 平凡な高校生・櫻井悠斗の日常は、親友の失踪によって終わりを告げる。 手がかりを求め、足を踏み入れたのは『桜織旧病院』。 この町で最も不気味だと囁かれる、恐ろしい廃墟。 そこで彼を待っていたのは、絶望的な恐怖と……一人の、謎めいた少女だった。 「私の血は、穢れているんです」 月瀬美琴──。 悠斗とは対照的に、恐れることなく霊と向き合う彼女との出会いが、悠斗を千年の時を超えた壮大な呪いと宿命の渦へと巻き込んでいく。 これは、不思議な力を持つ少年と、過酷な運命を背負う少女が、互いを信じ、支え合い、絶望的な未来に抗う、切なくも美しい愛と戦いの物語。

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Chapter 1

縁語り其の一:桜舞う町

「先輩! 絶対にその刃物に触れないでください!」

切羽詰まった少女の警告が響くと、少年の喉がひゅっと鳴った。

眼前に立ちはだかるのは、虚ろな目をした一人の男。その手には鈍色にびいろのサバイバルナイフが握られ、尋常ならざる気配を放っている。

「彼の周囲には……彼に殺された人たちの怨霊が渦巻いています!」

少女の言葉が、嫌というほどリアルに、目の前の光景と結びつく。

「その怨念が、ナイフをただの凶器じゃない……“呪具”にしてしまっているんです!」

あれを浴びれば、命はない。

それが、直感でわかってしまったのだ。

少年の掌にじっとりと汗が滲み、指先が微かに震える。

今まで対峙してきた不成仏霊とは、魂の密度がまるで違う。明確な殺意と、それを実行するための物理的な手段。その両方を、目の前の『悪霊』は確かに持っていた。

──ダンッ!

鋭い踏み込みの音。男の身体が空気を裂き、ナイフが横薙ぎに閃いた。少年はほとんど反射で後ろへ飛び退く。凶刃が鼻先を数ミリで掠め、全身の毛が逆立つ。

「……遅ぇんだよ、ガキが」

掠れた、嘲るような声。

次の瞬間、背後から風を裂く音。そして、左腕に走る、灼けるような鋭い痛み。

「……っ!」

呻きが唇から漏れる。咄嗟に庇った腕の袖が裂け、赤黒い血が迸った。骨には達せずとも、傷は決して浅くない。

これは、少年たちが否応なく歩むことになる茨の道の、ほんの始まりに過ぎなかった。

だが──全ての始まりは、そこにはない。

もっとずっと静かで、穏やかな春の風が吹く日々の内にこそ、その根は芽吹いていた。

これは、一人の少年と一人の少女、二つの魂の邂逅の記録。

そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた、宿業の物語である。

──────────

柔らかな風が、春の訪れをそっと街へと運んでくる。桜の花びらが、まるで空に溶けていくかのようにふわりと舞い上がり、優しい陽射しが、この街全体を祝福するように包み込んでいた。

ここ、桜織市《さくらおりし》は、風穂県《かざほけん》のなだらかな平野部に広がる、どこまでも穏やかな表情をした町だ。

遠い昔、この土地に最初に根付いた桜の木々が、毎年春になると美しい花を咲かせ、そこに住まう人々を、ずっと静かに見守ってきたという。言い伝えによれば、街を見下す丘の上に佇む桜織神社《さくらおりじんじゃ》に宿る古き神が、その身を削って桜の枝に聖なる命を吹き込み、この町を災いから護ってきたのだ、と。

川沿いに続く桜並木が、長い冬の眠りからゆっくりと目を覚まし始める。そして、春風がそよぐたび、無数の花びらがはらはらと舞い落ちて、地面に淡く、美しいピンク色の絨毯《じゅうたん》を敷き詰めていく。

その一瞬一瞬が、まるで小さな幸せをそっと閉じ込めた、一枚の絵画のようだった。

***

新学期の、少しだけ浮き足立った朝。

「今日から皆さんは二年生となります。一年生にとってお手本となるような、そんな素敵な二年生になってくださいね」

担任が柔らかい笑みを浮かべてそう告げた。

「さて、それじゃ皆さん顔馴染みもいると思うけど、念のために自己紹介から入りましょうか」

次々とクラスメイトが自己紹介をしていく。そして、僕の番が訪れた。

櫻井さくらい 悠斗ゆうとです。趣味は読書と…植物を育てることです」

「よろしくお願いします」

我ながら、なんて地味な自己紹介だろう。

(まあ、目立つのは好きじゃないし、これくらいが丁度いいのかもしれないけど)

特に目立つこともなく、当たり障りのない自己紹介を済ませる。

こうして僕にとっての、ごくごく平凡な日々が、また静かに流れ始めた。

昼休み。購買で買った焼きそばパンを頬張りながら、僕は数人の友人と、本当にたわいもない話をしていた。

「なぁ悠斗、今年のクラス、どう思った? 何か面白いこととか、あったりすんのかなぁ?」

友人の一人が、期待と少しの気怠さを込めた声で笑いながら問いかける。

「俺は可愛い子がいるかどうかが最重要課題だったぜ!」

もう一人が、おどけてそう言った。

「……別に、僕は今まで通り普通でいいかな」

僕がそう答えると、案の定、友人たちからブーイングが飛んでくる。

「えー!そんなのつまんねぇよ〜! 悠斗はもっと刺激を求めろって!」

「そうそう! 読書と園芸だけじゃジジくさいぞー?」

「……僕はこれで満足してるんだよ」

そんな、何の変哲もないやり取りが、僕の胸に、温かい綿のようにそっと積もっていく。

ふと、教室の窓の外に目をやる。小高い丘の上に鎮座する桜織神社の、あの大きな桜の古木──桜翁が、春の柔らかな光の中で、穏やかに枝を揺らしているのが見えた。

あの桜翁の方を見ると、時折、誰かに呼ばれているような……そんな不思議な感覚に襲われることがある。

(まただ……。気のせいで片付けるには、あまりにもはっきりとした感覚。これは一体、何なんだろう……?)

全く嫌な感じはしないのが、実に不思議だった。

***

放課後。

騒がしい昇降口を抜け出すと、西に傾いた夕陽が、校庭全体を淡い金色に染め上げていた。

その先には、桜織市で最も古く、そして最も大きな桜の木として、皆から慕われている桜翁。そして、その向こうの、夕闇が迫る森の奥には──古社、桜織神社が静かに佇んでいる。

教室の窓からも毎日見えていた桜翁《さくらおきな》が、今はもうその枝いっぱいに見事な花を咲かせ、茜色の夕陽に照らされて、風にその薄紅の花びらを揺らめかせていた。

神社の周辺は、いつ来ても、どこか他とは違う、凛とした特別な空気が漂っているように感じる。

『昔から、この土地を見守り続ける、静かで力ある守り手が宿っているんだよ』

──そんな、この町に古くから伝わる噂話が、ふと春の夕風に混じって、僕の耳に届いた気がした。

そしてまた、あの桜翁の方から、僕を呼ぶような、微かな気配を感じる。

その時だった──。

夕陽がまさに地平線に触れようとする、その瞬間。

桜翁の太い幹。その根元に降りしきる花びらの中に、一人の少女が立っていた。まるで、ずっと前からそこにいたかのように、静かに。

夕陽の茜色が、少女の輪郭を金色に縁取る。その横顔は、まるで精巧なガラス細工のように儚く、息を呑むほどに美しかった。

艶やかな茶色の髪は、ポニーテールに結われている。春の夕風にさらさらと揺れる毛先が、なぜだか胸を締め付けた。桜の花びらのように、触れた瞬間に消えてしまいそうな、そんな切ない雰囲気を漂わせていたからだ。

その姿が、満開の桜と、燃えるような夕陽の光と、そして神社の持つ静謐な空気の中に、一枚の絵画のように、音もなく、ただ静かに、そこに在った。

あまりに幻想的な光景に、僕は心臓を鷲掴みにされたかのように、その場から一歩も動けなくなってしまった。

──────────

──ああ。その、あまりに静かな邂逅《かいこう》こそが、永い永い旅路の始まりだったのだ。

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高め
読み始めてすぐに、この物語の持つ独特の魅力に惹き込まれました。 主人公・悠斗の持つ繊細な霊感と、クールでミステリアスな少女・美琴との出会い。彼らの何気ない日常が、ごく身近な心霊現象から、次第に、しかし確実に、予測不能な「影」に侵食されていく展開に、ページをめくる手が止まりませんでした。
2025-05-28 22:03:34
3
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塚田空
霊に寄り添うなんてホラー見た事ありませんでした。 ただ怖いものとして扱われていた霊がこんな風に悲しい存在として扱われて救われる優しい物語…。 なんだか本当にすごい作品を見つけてしまった様な気がします。
2025-05-28 18:01:35
4
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NoA
物語の背景、情景が文面から 読み取りやすく且つテンポがいいので 読み進めやすいです。 主要人物だけではなく この物語の要である霊に寄り添った 描写も多く、読み進めるうちに 惹かれていくような内容ですね。 続き楽しみにしてます!
2025-05-25 20:24:03
2
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ネム……
キャラクター、一人一人の個性はもちろん物語としてもしっかりとしていて読み応えがありますね!! ただ、成仏させるだけでなくしっかりとそのキャラクターに寄り添ってあげるところも気に入ってるところです!! ホラーだけで怖いだけでなくたくさんのことを感じられる小説なので他の人にも読んで頂きたいですね!!
2025-06-10 11:53:32
1
183 Chapters
縁語り其の一:桜舞う町
「先輩! 絶対にその刃物に触れないでください!」 切羽詰まった少女の警告が響くと、少年の喉がひゅっと鳴った。 眼前に立ちはだかるのは、虚ろな目をした一人の男。その手には鈍色のサバイバルナイフが握られ、尋常ならざる気配を放っている。 「彼の周囲には……彼に殺された人たちの怨霊が渦巻いています!」 少女の言葉が、嫌というほどリアルに、目の前の光景と結びつく。 「その怨念が、ナイフをただの凶器じゃない……“呪具”にしてしまっているんです!」 あれを浴びれば、命はない。 それが、直感でわかってしまったのだ。 少年の掌にじっとりと汗が滲み、指先が微かに震える。 今まで対峙してきた不成仏霊とは、魂の密度がまるで違う。明確な殺意と、それを実行するための物理的な手段。その両方を、目の前の『悪霊』は確かに持っていた。 ──ダンッ! 鋭い踏み込みの音。男の身体が空気を裂き、ナイフが横薙ぎに閃いた。少年はほとんど反射で後ろへ飛び退く。凶刃が鼻先を数ミリで掠め、全身の毛が逆立つ。 「……遅ぇんだよ、ガキが」 掠れた、嘲るような声。 次の瞬間、背後から風を裂く音。そして、左腕に走る、灼けるような鋭い痛み。 「……っ!」 呻きが唇から漏れる。咄嗟に庇った腕の袖が裂け、赤黒い血が迸った。骨には達せずとも、傷は決して浅くない。 これは、少年たちが否応なく歩むことになる茨の道の、ほんの始まりに過ぎなかった。 だが──全ての始まりは、そこにはない。 もっとずっと静かで、穏やかな春の風が吹く日々の内にこそ、その根は芽吹いていた。 これは、一人の少年と一人の少女、二つの魂の邂逅の記録。 そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた、宿業の物語である。 ────────── 柔らかな風が、春の訪れをそっと街へと運んでくる。桜の花びらが、まるで空に溶けていくかのようにふわりと舞い上がり、優しい陽射しが、この街全体を祝福するように包み込んでいた。 ここ、桜織市《さくらおりし》は、風穂県《かざほけん》のなだらかな平野部に広がる、どこまでも穏やかな表情をした町だ。 遠い昔、この土地に最初に根付いた桜の木々が、毎年春になると美しい花を咲かせ、そこに住まう人々を、ずっと静かに見守ってきたとい
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そこには、月明かりの下、白髪の穏やかなおじいさんの姿があった。 どこか寂しそうに、そして心細そうに、ぽつんと一人でそこに立っている。 その輪郭は、まるで春の夜霧のように淡くぼやけていて、現実感が希薄だった。 「悠斗、怖がらないで……しっかり見ていてね」 母さんはそう言うと、おじいさんの元へと歩いていく。 そっと膝をつき、そのおじいさんの霊と、静かに視線を合わせた。 「……初めまして。夜分に申し訳ありません。何か、お困りのことでもおありですか?」 母さんの声は、夜のしじまに溶け込むように静かで、けれど、不思議なほどはっきりと、そして温かく、その霊へと確かに届いていた。 おじいさんの霊は、ゆっくりと母さんの方を振り返り、その瞳に、深い戸惑いと、そしてほんのわずかな驚きの色を浮かべる。 『……おお……おお……。あんたには……儂の、この姿が、視えているのかね……?』 掠れた、そしてどこか弱々しい声が、神社の冷えた夜気に溶けていくようだった。 「ええ、はっきりと視えていますし、あなたの声も聞こえていますよ」 母さんのその微笑みは、本当にあたたかくて、慈愛に満ちていた。まるで、何十年も会っていなかった、旧い友人に再会した時に向けるような、そんな優しい眼差し。 その言葉と眼差しに、おじいさんの強張っていた肩が、ふっと力を失って落ちるのが分かった。 『……このまま、儂は……消えてしまうんじゃろうか?そう思うと……それが、怖くて怖くて、仕方ないんじゃ……』 か細く、震える声。その瞳には、拭いきれない不安の色が浮かんでいる。 『最近……少しずつ、自分の意識というものが、薄れて薄れて……まるで霞のように、なってきてのぉ……』 神社の静まり返った境内に、さぁ……と風が吹き抜ける。桜の木がざわざわと揺れ、はらり、はらりと、夜目にも白い花びらが数枚舞い落ちた。 『儂は、一体どうなってしまうんじゃ……?このまま、本当に何もかも消えて、無くなってしまうのか……?』 おじいさんの霊は、すがるような目で、じっと母さんを見つめる。 母さんは、その不安を受け止めるように、そっと穏やかに首を横に振った。 そして、目を細め、包み込むように、やさしく答える。 「大丈夫ですよ。たとえ記憶が薄れて、今のあなたの形が失われたとして
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last updateLast Updated : 2025-05-16
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縁語り其の九:錆びついた記録と幼子の願い
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縁語り其の十:廃病院に住まう者
僕は、翔太のスマホをポケットへとしまい、重苦しい空気が漂う診察室を後にした。 誠也という名の男の子が遺した手紙。あの消え入りそうな文字と、寂しげな笑顔の似顔絵が、まだ瞼の裏に焼き付いている。 右手の廊下は、闇が深かった。 進むほどに、空気が変わる。 やがて、底のない暗闇が、ぽっかりと口を開けていた。 そこから吹き上げてくる空気は、これまでとは明らかに質が違った。まるで生きたものの体温を全て吸い取っていくような、淀んだ風が肌を撫でる。 足が、自然と止まった。 (……噂に聞いていた、地下への入口だ) “院長が、何かを地下に隠していた”。 この病院にまつわる黒い噂が、不意に頭をよぎる。 懐中電灯の震える光を差し込んでも、その奥は光を吸い込むような闇に包まれ、何も映し出せない。 「あの噂は本当だったりして……」 氷のように冷たく湿った空気が、僕の肌を粟立たせる。 (……今は、まだだ。先に、他の場所を探そう) ゴクリ、と乾いた喉を鳴らし、僕は一度だけその暗闇を振り返り、踵を返した。 *** ギシギシと不気味に軋む古い階段を慎重に上がり、二階へと向かう。 二階の廊下は、一階よりもさらに色褪せた、濃密な気配が漂っていた。 古い病院特有の、埃と錆びた金属、そして微量の薬品が混じった、鼻の奥をツンと刺激する独特の匂い。 廊下の両脇には小さな患者部屋が並び、突き当たりには比較的大きな共同部屋。その奥に、重い扉で閉ざされた手術室とレントゲン室。 どの部屋も、時代に取り残されたような、陰鬱で古びた造りだった。 僕は、一番手前にあった、扉が少しだけ開いている小さな患者部屋のドアを、そっと押してみる。 きぃぃ……ぃぃ。 鈍く軋む蝶番の音が、この静まり返った二階の空間に、やけに大きく響き渡った。 部屋の中には、マットレスが剥き出しになった、ボロボロのパイプベッドが一台だけぽつんと置かれている。壁紙は広範囲にわたって剥がれかけ、その下のコンクリートが覗いていた。 部屋の隅に、埃を分厚くかぶった大きな姿見が、誰かに忘れ去られたように壁に立てかけられている。 何気なく、その鏡の前に立った。 映し出された自分の顔は、ひどく青ざめて、まるで知らない誰かのよ
last updateLast Updated : 2025-05-17
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