Semua Bab 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Bab 1 - Bab 10

184 Bab

一話:春風が紡ぐもの

 ──────────────── 『私は……何のために生まれてきたんだろう』 「……君にしか成し得ないことがあったからだ」 『でも、そこに私の気持ちが入り込む隙間なんてなかった』 「君は、それでもその命を燃やし続けた。鮮やかに——春になれば咲いては散る桜のように…」 「君が成し遂げたことは無駄ではない。払った代償はたしかに大きかった。だが、私は知っている。……私こそが、君がここにいた証だ」  ─────────────────  桜が、ひらひらと舞っていた。  淡い花びらは春の風にほどかれ、街のいたるところへ静かに降り積もってゆく。見上げれば枝という枝が薄紅に霞み、目を落とせば石畳の端にまで花の色が入り込んでいた。  ここは風穂県にある古い都、桜織市。  この街が、いつから桜によって彩られていたのか――その起こりを正確に知る者はいない。けれど、少なくとも人々の記憶よりはるか昔から、この地では春になるたび桜が咲き誇り、街を桃色に染め上げてきたという。時代が移り、人の営みが変わっても、その景色だけは絶えず受け継がれてきた。  人と桜が寄り添い、重なり合って、長い歴史を織り上げてきた街。  だから人々は、この都を桜織市と呼んだ。  その名は土地を示すだけのものではない。春が来れば誰もが思い出す、花に包まれた記憶そのものだった。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸  そんな春の気配をまとった街の中で、悠斗は新学期の熱が漂う教室へ足を踏み入れた。  新しいクラスは、二年い組。桜織高校では、学級を「いろは」で分けている。つまり今日は、二年生としての学校生活が始まる最初の日でもあった。 「お! お前と一緒か!」 「うわ、今年も同じかよ〜!」  教室のあちこちで、そんな声が弾ける。再び同じクラスになれたことを素直に喜ぶ者もいれば、わざと大げさに肩を落としてみせる者もいて、そのどちらにも春先らしい浮ついた明るさがあった。窓から差し込む陽の光まで、どこか落ち着きなく揺れて見える。  悠斗はそんな賑わいの中を、騒ぎ立てるでもなく、自分の席へ向かった。  そのとき、始業を告げるチャイムが鳴る。  ほとんど同時に教室の扉が開き、担任が姿を見せた。時間ぴったり――いや、ぴったりすぎるほどの登場に、何人かが小さく笑う。 「
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二話:桜翁の下で

 どれくらいそうしていたのか、分からない。  ふと、少女が振り返った。 「……あの。私に、なにかご用でしょうか?」  硝子の縁を指先で弾いたような声だった。澄んでいて、けれど芯がある。春風の隙間を縫うようにして、まっすぐに届いた。  悠斗は我に返った。見つめていた、という自覚が一拍遅れてやってくる。 「——ごめん。用ってわけじゃないんだけど……」  言ってから、自分の言葉の響きに気づいた。咄嗟に視線を逸らすと、風がちょうど頬を撫でていった。やけにあたたかい。自分の顔が熱を帯び始めていることに気づいてしまい、悠斗は話題を変えるように彼女の制服へ目を落とす。  桜織高校の紺のブレザー。胸元には、一年生を示すリボンが揺れていた。 「君、僕と同じ桜織高校の生徒だよね?」 「はい。今日から桜織高校の一年生になりました、月瀬美琴と申します」  美琴はリボンに手を添え、折り目正しく頭を下げた。言葉の選び方にも、背筋の伸ばし方にも、どこか古い時代の行儀がそのまま息づいているような丁寧さがあった。悠斗はわずかに気圧される。  ——随分、礼儀正しい一年生だな。  けれど顔を上げた美琴の口元にはやわらかな微笑みが浮かんでいて、それだけで、境内に張り詰めていた空気がふっとほどけた。つられるように、悠斗も笑みを返す。 「僕は二年の櫻井悠斗。こちらこそよろしくね」 「ふふっ、先輩でいらっしゃいましたか」  春の陽だまりが、そのまま声になったような笑い方だった。風が二人のあいだを吹き抜け、花びらが一枚、美琴の足元へゆっくりと降りていく。 「実は、こちらの桜がとても綺麗だと一年生のあいだで話題になっていまして。それで見に来たのですけれど……」  美琴は桜翁を仰いだ。言葉がそこで途切れる。隣に立つ悠斗にも、彼女が息を呑んだのが分かった。 「本当に……息を呑むほど、美しいですね」  声は夕風に溶けるようにして、枝の向こうへ消えていった。悠斗も同じ梢を見上げ、小さくうなずく。 「この桜翁は地元じゃ有名なんだ。——もしかして、この辺りは初めて?」  半ば確信に近い問いかけだった。この土地で育った人間なら、桜翁を知らないはずがない。 「はい。遠い地方から先日引っ越してきたばかりで……まだ右も左も分からない状態なのです」 「どうりで見かけない顔だと思った」  悠
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三話:少女の翳り

 放課後の教室には、まだ生徒たちの熱が残っていた。  慌ただしく机を引きずる音、弾けるような笑い声——それらが入り混じって、ひとつの騒がしい午後をつくっている。黒板には授業の終わりに書かれた数式が消し忘れたまま残り、西日を浴びてチョークの粉ごとぼんやり白く光っていた。 「なぁなぁ……! 今日本当に行くんだってよ……!」  隣の席から、潜めているつもりらしいのに妙な熱を帯びた声が飛んでくる。 「え? どこに行くって?」 「ほら、奏多が言ってただろ? あそこだよ、あ・そ・こ!」 「ん〜……?」 「——桜織旧病院。夜中に配信するんだってさ」 「あー!! まじか!? あそこ、ガチでヤバいって噂じゃん……!」 「まじまじ! 今日の深夜、リアルタイムでやるって言ってたぜ!」 「うわぁ……アイツら正気かよ。あそこ、入った奴が二度と出てこなかったとか、夜な夜な女の泣き声が聞こえるとか……そういう話しか聞かねぇぞ……!」 「だよな……俺なら絶対行きたくねぇよ……!」  ——配信?  教室の隅で交わされるやりとりが、断片的に耳へ届く。悠斗は横目でちらりとそちらを見やったが、特に興味を引かれることもなく、静かにバッグのチャックを閉じた。 「おっす、悠斗! 放課後、暇だったりしないか?」  不意に、屈託のない声が降ってくる。顔を上げると、隣のクラスの幼馴染——不動翔太が、人懐っこい笑顔でこちらを覗き込んでいた。  空手部の次期主将と目される実力者であり、困った人間を放っておけないお人好し。そして、悠斗の秘密を知る数少ない友人でもある。 「ごめん。今日は母さんの見舞いに行く日なんだ」 「あ、そうか……」  翔太の表情がわずかに曇る。 「おふくろさん……早く目が覚めるといいな」 「うん。ありがとう。——ところで、翔太は何か用事があったの?」  翔太はふっと視線を逸らした。口ごもるような間があり、それだけで悠斗には嫌な予感が走る。 「それがさ、ちょっと言いづらいんだけどよ——俺、今夜、桜織旧病院に行くことになったんだ」 「……えっ?」  胃の底が、すとんと冷えた。 「あの、旧病院に……?」  桜織旧病院。戦後間もない頃に建てられた、かつてこの一帯で最大の総合病院だった建物だ。五十年以上前に閉鎖されて以来、桜織市内でも有数の——そして最も質の悪
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四話:影が這う道

 彼女の口から出た言葉は、十五、六の少女が選ぶにはあまりにも静かだった。悠斗は思わず目を見開く。 「……すごく、大人びたことを言うんだね」 「ふふっ、そうでしょうか?」 「うん。少しびっくりした」  二人は、どちらからともなく笑い合った。桜翁の枝が風に揺れ、花びらがはらはらとその間を抜けていく。 「先輩は、この桜翁へよく足を運ばれるのですか? この間、初めてお会いしたときも、ここでしたから」 「……変かもしれないけど」  一瞬、躊躇が喉元をかすめた。けれど不思議なことに、美琴の前では言葉が自然と口をついて出てしまう。 「なんだか、この桜翁に呼ばれてるような気がするんだ」  言ってから、悠斗は内心で凍りついた。樹に呼ばれている——そんなことを口にすれば、誰だって引くに決まっている。  なぜ美琴の前だと、こんなことまで——理解が追いつかないまま、気まずさだけが先に立った。意味もなく視線を逸らす。 「呼ばれている……ですか」  美琴の声には、驚きの色がなかった。 「へ、変だよね! 忘れて!」  慌てて取り繕おうとする悠斗を、美琴は少しいたずらっぽく瞳を輝かせて見つめ、静かに首を横に振った。 「ふふっ。いえ、変だなんて思いませんよ。きっと、この桜翁には誰かの強い想いが込められているのかもしれませんね」  その穏やかな微笑みに、張り詰めていたものがすっとほどけた。悠斗は小さく息をつく。  それきり、二人は言葉を交わさなかった。散りゆく花びらが薄紅のしずくとなって降り注ぐなか、ただ同じ空を見上げている。静かで、穏やかで——どこか懐かしい時間だった。 「では、先輩。私はそろそろこれで失礼しますね」  美琴が軽く手を振る。悠斗も自然にそれへ応えた。 「うん、またね」  もう一度丁寧に頭を下げると、彼女は夕焼けに染まった小道を静かに歩き去っていく。その背中が茜の光に溶けるように薄れ、やがて見えなくなった。 「……本当に、不思議な子だな」  呟きが、誰にも届かないまま風にさらわれていく。美琴といると心が安らぐのに、同時にどこか切ない。その感覚は——桜翁に呼ばれるあの感覚に、少しだけ似ている気がした。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸  母が入院している総合病院へ向かう道すがら、美琴と話し込んだぶん、あたりはす
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五話:消えゆく人へ

──病室。  窓から差し込む月の光が、母の横たわるベッドを淡く照らしていた。風がカーテンの裾を揺らすたび、壁には光と影が溶け合う模様が現れては消えていく。  悠斗はベッドのそばのパイプ椅子に、いつものように腰を下ろした。 「……来たよ、母さん」  誰に聞かせるつもりもない。ただそう口にしないと、この部屋に足を踏み入れた気がしなかった。ベッドから投げ出されたままの母の手を、両手でそっと包む。指先に伝わる温もりだけが、母──遥がまだここにいると教えてくれる唯一のものだった。  十年。もう十年も、この手は握り返してくれない。  見舞いに来るたびに、病衣に包まれた身体は少しずつ細くなっている。そのことに気づくまいとしても、握った手の頼りなさが否応なく現実を突きつけてくる。ふた回りほど大きくなった自分の手のひらの中で、母の指はあまりにも軽かった。  ──遠い土地で身を粉にして働く父から、毎月、入院費の振込通知だけが届く。いつも金額だけが並んだ素っ気ない画面を見るたびに、悠斗は父の背中を思い出そうとして、うまく像を結べない自分に気づく。  それでも、穏やかに上下する母の胸元と、安らかな寝顔だけは変わらない。まるで遠い場所で、美しい夢でも見ているかのように。  ──あの夜のことだった。  悠斗がまだ幼い頃、生まれつきの霊感に怯えてばかりいた自分に、母が「道」を教えてくれた夜。あの時、親子は”何か”に襲われた──悠斗はそう感じている。  正確には、記憶そのものが濃い霧の奥に沈んでいて、どうしても掴み取れない。思い出そうとするたびに全身の肌が粟立ち、心臓を氷水で握り潰されるような痛みが走って、思考がそこで強制的に途切れてしまう。  それでも、二人を襲ったのがこの世ならざる霊的な存在だったということだけは、今なお確信を持って覚えていた。  静まり返った病室に、時間だけが残酷なほどゆっくりと流れていく。 「……また、明日も来るよ、母さん」  温もりの残る手をそっと離し、悠斗は病室をあとにした。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸  桜織市の夜は、古い街並みに似合わず街灯がきらびやかに灯っている。  病院の自動ドアを抜けた途端、先程の幽霊との遭遇で張り詰めていた神経が一気に緩んだ。精神的な疲労が、足首に錘を括りつけたように重く絡
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六話:消えた配信者

 いつものように昇降口をくぐった瞬間、悠斗の足がわずかに鈍る。  教室へ向かう廊下の空気が、ほんの少しだけ色を失っている──そんな感覚が、胸の底をかすめた。 「おい、悠斗、ちょっと聞いてくれよ!」  教室に入るなり、隣の席のクラスメイトが弾けるような声で肩を叩いてきた。面白い悪戯を見つけた子供が、真っ先に誰かへ報告したくてたまらない──そういう類の上擦り方だ。 「朝からどうしたの?」  悠斗が眉を顰めるより先に、別の友人がスマートフォンをぐいと突きつけてくる。 「これ見ろって! 昨日、奏多たちが廃病院に突撃したらしいんだけど──途中でマジもんの心霊に遭遇して、動画が大炎上してんだよ!」 「ヤバいから見てみろって!」  けたたましい笑い声。誰かが興奮に任せて机を叩く乾いた音が、教室のあちこちに無神経に跳ね回る。  促されるまま手に取った画面には、まさに再生中の動画。その隅に、まるで血で書かれたような禍々しいフォントが踊っていた。 ───────────────────── 【恐怖の心霊スポット 桜織旧病院へ突撃!!】 ─────────────────────  がくん、と画面が大きく揺れた。  手持ちカメラ特有のざらついた映像が走り出す。スマートフォンの小さな画面の中で、桜織旧病院の外観が映し出された。割れた窓ガラスの奥は黒く口を開け、無残に崩れたコンクリートの壁を夕陽が赤く染めている。 「よっしゃ、みんな! 準備はいいかー!? 今からこの廃病院に、俺たちが突撃だぜ!」  配信主の奏多と思しき甲高い声がスピーカーから弾けた。 「コメント、高評価よろしくなー! チャンネル登録もな!」  無理に作った明るさだった。その端々から、隠しきれない緊張が滲んでいるのが画面越しでも手に取るように分かる。  錆びついた鉄の扉をこじ開ける軋みが響き、懐中電灯の白い光が建物の内部をなぞった。 「うわっ、暗っ! 中は思ってたより全然暗ぇじゃん!」 「カビ臭っ! こりゃあ本格的だなぁ!」  仲間の一人がおどけて笑い、別の仲間の背中を乱暴に押す。だがその笑い声はどこか強張っていて、廊下の闇に吸い込まれるように消えていった。  ──スマートフォンを握る悠斗の指先が、じわりと冷たくなって
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七話:封じた言葉は水のように

悠斗が押し黙ったままスマートフォンを返すと、友人はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。 「な? ヤバいだろ? アイツら、マジでアホだよな!」 「……うん。やばいってレベルじゃないね」 努めて平静を装って相槌を返す。けれど、その声が自分の耳にどう響いたかまで気にする余裕は、もうなかった。 勝手に霊の領域へ土足で踏み込んで、そこに留まる者たちを怒らせただけではないか。 ──霊が視える自分には、それが分かる。 長く居ついた場所は、彼らにとって人間の家とそう変わらない。面白半分で踏み込まれ、好き勝手に騒がれて、笑って迎え入れる住人などいるはずがなかった。 友人はまだ何か言いたげだったが、悠斗は適当に話を合わせ、その場を静かに離れた。 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 昼休み。 悠斗はひとり、屋上のフェンス際に腰を下ろしていた。買ってきたパンを無心にかじりながら、眼下に広がる校庭の桜をぼんやりと眺める。 小高い丘の上の桜翁だけが、何も知らない顔で春風に枝を揺らしていた。古い神社の境内に立つその一本桜は、毎年この季節になると見事な花を咲かせる。けれど今日の悠斗には、そのやわらかな薄紅さえ、ひどく遠い景色のように思えた。 教室で見た動画の光景が、頭の奥に張りついて離れない。 あの手術室の闇。画面越しにまで伝わってきた冷気。そして──あの子どもの霊の、底の見えない目。 それだけではない。どうしても振り払えないことが、もうひとつあった。あの動画を配信していた数人が、昨日から学校に来ていないらしいという話だ。 ──『霊はね、怖くないのよ。ただ、道に迷っているだけなの』 ふいに、母の声が記憶の底から浮かび上がった。幼い悠斗に何度も語りかけてくれた、やさしい声音だった。母が倒れてからずっと、触れないようにしてきた言葉でもある。 けれど、どうしてもそうは思えなかった。 霊は、怖い──それは悠斗にとって、変わらぬ確信だった。 現に母は──あの優しかった母は、何かに襲われて、十年ものあいだ意識の戻らないまま白いベッドの上で眠り続けている。 本当に霊が怖くないものなら、母があんなふうになるはずがない。そう思わずにはいられなかった。 そのとき、屋上の重い鉄扉が、錆びた音を立てて開いた。 「あの……櫻井君……」 振
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八話:けん玉の音

 街の喧騒から切り離された外れの一角に、その場所はぽつんと取り残されていた。  まるで時間そのものに忘れ去られたみたいに。  かつては多くの命を救ったはずの白い建物も、いまでは不気味な噂ばかりをまとっている。得体の知れない何かが棲みつく廃墟。興味本位で、あるいは己の勇気を試すように足を踏み入れた者が、時折、神隠しにでも遭ったように姿を消す――そんな話が、この町では昔からまことしやかに囁かれてきた。  そして昨日もまた。  動画配信で注目を集めようとした若者たちが、誰ひとりとして戻らなかった。悠斗の幼なじみである翔太も、その中にいた。  喉の奥が重く張る。  ――これは、僕の責任でもある。  誰もいない放課後の教室を飛び出し、悠斗は固く閉ざされた校門へ向かった。鉄柵にかけた手に、金属の冷たさがじわりと移る。緊張でこわばった指先が、その無機質な温度を妙にはっきり拾っていた。  関係ない。そう何度も言い聞かせようとした。  けれど、この学校であの廃病院に潜む“何か”の気配に気づけるのは、おそらく自分だけだ。友人が危ないかもしれない。その可能性を知りながら、何もせずにいられるはずがなかった。  もっと強く止めるべきだった。  あのとき、もっと真剣に、あそこへ踏み込むことの危うさを伝えるべきだったのだ。後悔だけが喉の奥に引っかかって、ずっと取れないまま残っている。  大きく息を吐く。  それでも悠斗は覚悟を決め、夕暮れの道をひとり歩き出した。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸  病院へ向かう途中、帰り道沿いにある古びた商店へ立ち寄った。  年季の入った床板を踏むと、それだけで店の奥まで小さく軋む。夕暮れの静けさの中では、その音さえ妙に大きく響いた。 「おう、いらっしゃい! 坊主、どうしたんだい?」  カウンターの奥から顔を覗かせた店主は、悠斗の姿を見るなり人の好い笑みを浮かべた。 「あの……懐中電灯を、ひとつください」 「キャンプでも行くのかい?」 「いえ……その……友達が道に迷ったみたいで。これから探しに行くんです」 「おー、そりゃ大変だ。坊主も気をつけなきゃいかんぞ。暗いとこは足元がよく見えねえからな!」  渡された懐中電灯は、少し埃をかぶっていた。試しにスイッチを入れると、頼りない白い光が細く暗が
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九話:消えない証

 まるで季節がひとつ逆戻りしたような冷気が、廃墟の隅々まで染み渡っていた。春の終わりの陽気など、この場所にだけは届いていない。そんなふうに思えるほど、そこは外の世界から切り離されていた。  それでも悠斗は、濃い闇の中へ足を踏み入れる。懐中電灯の頼りない光が、静まり返った空間をゆっくりと舐めるように照らしていった。  朽ちて脚の折れた椅子。無造作に転がった錆びた車椅子。床に散乱し、元の色も分からなくなった黄ばんだシーツ。壁には破れて変色した掲示物が、剥がれかけたまま虚しく貼りついている。  空気は鉛みたいに重く、淀んでいた。  永い時間だけが置き去りにされたような、ひどく異質な空間だった。  喉の奥がじわりと張る。  濃い埃と、壁や床から滲み出したようなカビの臭い。そこに、かすかに残る古い消毒液の刺激臭まで混じっている。呼吸をするたび、それらがねっとりと喉に貼りついてくるようだった。  それだけじゃない。  この空間のどこかに潜む得体の知れない“何か”の気配が、冷たい糸みたいに背中へまとわりついて離れなかった。  ふと、懐中電灯の光が足元の紙切れを拾う。 「これは……構内図か」  悠斗はしゃがみ込み、埃まみれの紙片を拾い上げた。端は破れ、インクもひどく掠れている。それでも光を寄せて目を凝らせば、辛うじて文字は読めた。 「病室エリア」「第一倉庫」「第二倉庫」「一般診察室」「院長室」――。 「思ったより、広いな……」  戦後から長く使われてきた病院だと聞いていたが、こうして見ると想像以上だった。部屋数も多い。翔太たちを探すなら、一つずつ確かめていくしかない。  そのときだった。  闇に沈んだ廊下の奥から、きぃぃ……と、古い床を踏むような軋みが微かに届く。 「っ……」  呼吸が止まる。  自分の心臓の音だけがやけに大きく、耳の奥で早く脈打っていた。 「……翔太?」  足が竦みそうになるのに、身体は逆に音のしたほうへ引かれていく。息を殺したまま廊下を進むと、薄汚れたプレートが光の中にぼんやり浮かび上がった。 「第一診察室」 「今の音、この中から……?」  震える指先で、錆びついたドアノブに触れる。冷たい感触が掌からじわりと伝わり、腕の奥まで嫌に残った。  ギィィ……と、古い蝶番が長い悲鳴を上げる。  ゆっくりと、慎重に、ドア
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十話:動き出した歯車

 翔太のスマートフォンをポケットにしまい、悠斗は重苦しい空気の漂う診察室を後にした。  誠也という名の男の子が遺した手紙が、まだ頭から離れない。消え入りそうな文字も、隅に添えられていた寂しげな笑顔の似顔絵も、瞼の裏に焼きついたままだった。  廊下を進むほどに、空気の質が少しずつ変わっていく。  壁に取りつけられた古い照明はとうに役目を終え、割れたガラスを晒したまま、力なく宙にぶら下がっていた。懐中電灯の細い光がそこを掠めるたび、砕けた縁が鈍く白く浮かび上がる。  足音だけが、やけに大きく響いた。  やがて、廊下の先で闇がぽっかりと口を開けているのが見えた。  ――地下か。  懐中電灯を向けても、その暗がりは光を飲み込むばかりで、何ひとつ返してこない。底があるのかどうかさえ分からない黒だった。  喉が小さく鳴る。 「今は、まだだ……。どのみち他を探して居なかったら、来るしかないし……先に、他の場所を探そう」  自分に言い聞かせるように呟いて、悠斗は一度だけその暗闇を振り返り、踵を返した。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸  古びた階段が、足をかけるたびギシギシと悲鳴を上げる。  二階へ足を踏み入れた瞬間、悠斗は思わず息を詰めた。 「うっ……!」  一階とは圧が違った。  下の階にも淀んだ空気は満ちていたが、ここまで露骨に押し返してくるような重さはなかった。二階には、まるで侵入者を拒むみたいな異様な圧が沈んでいる。胸のあたりがじわりと圧され、呼吸の深さがうまく定まらない。 「あの霊がいるとしたら……この階に違いない……!」  確信に近いものが、喉の奥で固くなる。  さらに奥へ進むと、埃と錆びた金属の臭いに、わずかな薬品の刺激臭が混じって鼻の奥を刺した。廊下の両脇には小さな患者部屋が並び、突き当たりには少し広い共同部屋。そのさらに奥には、重そうな扉で閉ざされた手術室とレントゲン室がある。  どの部屋も、時代に置き去りにされたままだった。陰鬱で、古びていて、何かを抱え込んだまま沈黙している。  悠斗は、一番手前の患者部屋で足を止めた。  扉が、わずかに開いていた。  そっと手を添えて押す。  きぃぃ……ぃぃ、と鈍く軋む蝶番の音が、静まり返った二階にやけに大きく広がった。  中にあったのは、マットレ
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