All Chapters of 【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 1 - Chapter 10

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縁語り其の一:桜舞う街

 「先輩! 絶対にその人の刃物に触れないでください!」  鼓膜を劈くような、切羽詰まった少女の警告。その声が響き渡ると同時、少年の喉が、ひゅっと鳴った。  眼前に立ちはだかるのは、虚ろな眼でこちらを睨みつける、一人の男。その手には、鈍色のサバイバルナイフが握られ、尋常ならざる気配を放っている。  「彼の周囲には……彼に殺された人たちの、怨霊が渦巻いて漂っています!」  少女の言葉が、現実感を伴って脳髄に突き刺さる。  「その怨念が、ナイフを、ただの凶器じゃない……“呪われた霊の武器”として成り立たせてしまっているんです!」  あれを浴びれば、命はない。  その事実だけが、冷たく思考を支配する。掌にじっとりと汗が滲み、指先が微かに震えていた。  これまで遭遇してきた不成仏霊とは、魂の在り方がまるで違う。明確な殺意と、それを実行する手段を、その霊は確かに保有していた。  ──ダンッ!  鋭い踏み込みの音。男の身体が、獣じみた俊敏さで宙を舞う。  空気を裂き、ナイフが横薙ぎに閃いた。少年はほとんど反射で後ろへ飛び退く。凶刃が鼻先を数ミリで掠め、ぞっとするような冷気が肌を撫でた。  「……遅ぇよ、ガキが」  掠れた、嘲るような声。  次の瞬間、背後から風を裂く音。そして、左腕に走る、灼けるような鋭い痛み。  「……っ!」  呻きが、少年の唇から漏れた。咄嗟に庇った腕の袖が裂け、赤黒い血が迸る。骨には達せずとも、傷は決して浅くはない。  それは、生と死が瞬時にせめぎ合う闘諍《とうじょう》。  そして、彼らが否応なく歩むこととなる茨の道、その現実の一端に他ならなかった。   だが──全ての始まりは、そこにはない。  もっとずっと静かで、穏やかな春の風が吹く日々の内にこそ、その根は芽吹いていた。  これは、一人の少年と一人の少女、二つの魂の邂逅の記録。  そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた、宿業の物語である。  ***  ──桜織市の日々──  柔らかな風が、春の訪れをそっと街へと運んでくる。桜の花びらが、まるで空に溶けていくかのようにふわりと舞い上がり、優しい陽射しが、この街全体を祝福するように包み込んでいる。  ここ、桜織市《さくらおりし》は、風穂県《かざほけん》のなだらかな平野部に広が
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の二:春の風、初めての言の葉

 突然、ふわりと柔らかな風が吹き抜けた。  それに呼応するように、桜翁の枝々から無数の花びらが、一斉に舞い上がり、まるで彼女の存在を祝福するかのように、その周りで雅やかな渦を巻く。  その光景を目の当たりにした瞬間──僕の胸の奥深くで、今まで感じたことのない何かが、確かに揺らいだ気がした。  彼女が、ふと、こちらに気づく。吸い込まれそうなほど澄んだ茶色の瞳が、春の午後の柔らかな光を映して、優しく揺れていた。  「……この桜、とても綺麗だよね」  自分でも驚くほど自然に、僕は不意に、そんな言葉をかけていた。  彼女は一瞬だけ小さく目を見開いたけれど、すぐに穏やかな微笑みを浮かべて応えてくれる。  「はい。本当に……息をのむほど綺麗ですね」  その声は、まるで春のそよ風のように軽やかで、それでいて、不思議と心が落ち着くような、澄んだ響きを持っていた。  「私、月瀬 美琴と申します。この春から、こちらの高校の一年生になりました」  「どうぞ、よろしくお願いいたします」  そう言って、彼女は丁寧に、深々と頭を下げる。  (この一年生……礼儀正しくて、しっかりした子だなぁ……)  その佇まいに、僕は少しだけ気圧されながらも、彼女に倣って自己紹介をする。  「僕は、二年の櫻井 悠斗。こちらこそ、よろしくね」  そう言葉を交わした瞬間、彼女の穏やかな笑顔が、まるで春の陽射しそのものみたいに柔らかくて。  いつもなら気にも留めないはずの、ありふれた自己紹介の言葉一つ一つが、なんだか今日だけは、とても特別で、かけがえのないもののように感じられた。  「ふふっ 先輩でいらっしゃいましたか」  彼女が少しだけ驚いたように愛らしく目を丸くして、小さく悪戯っぽく笑う。  その気取らない、自然な仕草や言葉遣いが、春らしい温かな空気を僕たちの間に運んできた。  ふたたび、優しい風が吹く。桜の花びらが、祝福のライスシャワーのように、僕たちの肩にもはらりはらりと舞い落ちた。  「本当は、この美しい桜の写真を撮ろうと思っていたんですけど……どうやら、スマートフォンを忘れてきてしまったみたいです……」  そう言って、美琴はほんの少しだけ残念そうに肩を落とした。  彼女が名残惜しそうに見上げる視線の先には
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の三:桜翁の呼び声

 ふわり、と桜の花びらが一枚、僕の頬を優しくかすめていった。  甘く澄んだ春の風が、そっと肌を撫でていく。その清浄な香りが、ほんのりと胸の奥に残る。  ──なんとなく、また、桜翁に呼ばれたような気がする。  一体、どうしてこんなにも、あの古木に心が引かれるのだろうか? まるで、見えない糸で手繰り寄せられているような、そんな不思議な感覚。  ……気づけば、僕は今日もまた、桜並木を抜け、この巨大な桜の木の前に一人、立っていた。  ***  放課後の、まだ賑わいの残る教室。  ざわざわとした空気の中に、誰かが慌てて机を引く音や、弾けるような甲高い笑い声が混じり合っている。  黒板には、今日の授業の最後に書かれたであろう数式が消し忘れられ、それが西日を受けて、チョークの粉と共にぼんやりと白く光っていた。  「なぁ、今日、あいつらマジで行くんだってよ…」  「うわ、マジかよ? ……よりによって、あそこにか?」  教室の隅の方で、そんなひそひそとした会話が交わされているのが耳に入る。僕は横目でその様子をちらりと見ながら、特に興味も示さず、静かに自分のバッグのチャックを閉じた。  「よっ、悠斗! お前、今日この後、空いてたりする?」  不意に、隣のクラスの幼なじみが、いつもの人の好い笑顔で近づいてきた。その屈託のない声に、僕は顔を上げる。  彼は 不動 翔太《ふどう しょうた》  僕の親友だ。  彼は、空手部の副主将となり、時期主将と呼ばれるほどの実力者で、  性格は、困った人を放っておけないお人好しだ。  「ああ、ごめん、翔太。今日は母さんのお見舞いに行く日なんだ」  「あ、そうか……。そっかそっか、それなら仕方ないよな!」  翔太はあっけらかんとそう言った後、少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、口ごもるように言葉を続けた。  「それがさ、ちょっと言いづらいんだけどよ、俺、今夜、桜織旧病院の方に、ちょっとした金稼ぎで行くことになっててさ」  「……えっ? あの、旧病院に……?」  その名を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。  桜織旧病院《さくらおりきゅうびょういん》──。戦後間もない頃に建てられた、かつてはこの辺り一帯で最も大きな総合病院だった場所。  だが、もう五十年も前に閉鎖されて以来、今では桜織市内でも有数の、そして最もたちの
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の四:母が眠る場所

 病室の窓から、夕陽の最後の光が、淡く、そして優しく差し込んでいた。  風に揺れる薄手のカーテンが、壁の上で光と影の柔らかい模様を静かに描き、そして溶け合わせていく。  薬と消毒液の、ツンとしながらもどこか清潔な匂いが、この部屋の静謐な空気に、そっと混じり合っている。  その中で、僕はいつも通り、ベッドのそばに置かれた簡素なパイプ椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。  「……来たよ、母さん」  誰に聞かせるともなく小さく呟き、僕はベッドから投げ出された母さんの、細く冷たい手をそっと両手で包み込むように握る。  その手は、まだ確かな温もりを僕に伝えてくれる。  けれど、病衣に包まれたその身体は、お見舞いに来るたびに、少しずつ、でも確実に細く、小さくなっているように感じられた。  その姿に、胸が締め付けられる。  それでも、穏やかな呼吸を繰り返す母さんの寝顔は、不思議なほど安らかで、どこか遠い夢を見ているかのようだった。  「そういえばさ、母さん。この間、学校の桜の木の下で、ちょっと不思議な雰囲気の女の子に出会ったんだ」  独り言のように、でも、確かにそこにいる母さんに話しかけるように。  「月瀬美琴っていうんだけど……すごく礼儀正しくて、なんだか、とても綺麗な子でね……」  母さんの閉じられたままの瞼は、ぴくりとも動かない。もちろん、返事はない。  それでも、この誰にも邪魔されない、母さんと二人きりの静かな時間が、今の僕にとっては、  かけがえのない大切なものだった。  母さんは、もう十年もの間、ずっと意識のないまま、この殺風景な病院の一室に入院している。  その理由は、表向きには、“原因不明の突発的な意識障害”とされている。  けれど僕には、本当の理由が、分かっていた。いや、分かりたくなくても、魂に刻み付けられてしまっている。  ──今から、十年前。  まだ幼かった僕が、この生まれ持った厄介な霊感という力に振り回され、怯えてばかりいないようにと、母さんが、特別な帰り道を教えてくれた、あの日のこと。  その時、僕たち親子は、“何か”に、不意に襲われたんだ。正確に言えば、僕自身……その時の記憶が、まるで濃い霧に包まれたように曖昧で、どんなに思い出そうとしても、肝心な部分が…。  はっきりとは思い出せない。  でも、僕たちを襲った
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の五:鎮魂の教え

 そこには、月明かりの下、白髪の穏やかなおじいさんの姿があった。  どこか寂しそうに、そして心細そうに、ぽつんと一人でそこに立っている。  その輪郭は、まるで春の夜霧のように淡くぼやけていて、現実感が希薄だった。  「悠斗、怖がらないで…しっかり見ていてごらんなさい」  母さんはそう言うと、僕の隣でそっと膝をつき、そのおじいさんの霊と、静かに視線を合わせた。  「……初めまして。夜分に申し訳ありません。何か、お困りのことでもおありですか?」  母さんの声は、夜のしじまに溶け込むように静かで、けれど、不思議なほどはっきりと、そして温かく、その霊へと確かに届いていた。  おじいさんの霊は、ゆっくりとこちらを振り返り、その瞳に、深い戸惑いと、そしてほんのわずかな驚きの色を浮かべる。  『……おお……おお……。あんたには……儂の、この姿が、視えているのかね……?』  掠れた、そしてどこか弱々しい声が、神社の冷えた夜気に溶けていくようだった。  「ええ、はっきりと視えていますし、あなたの声も聞こえていますよ」  母さんのその微笑みは、本当にあたたかくて、慈愛に満ちていた。まるで、何十年も会っていなかった、旧い友人に再会した時に向けるような、そんな優しい眼差し。  その言葉と眼差しに、おじいさんの強張っていた肩が、ふっと力を失って落ちるのが分かった。  『……このまま、儂は……消えてしまうんじゃろうかと思うと……それが、怖くて怖くて、仕方ないんじゃ……』  か細く、震える声。その瞳には、拭いきれない不安の色が浮かんでいる。  『最近……少しずつ、自分の意識というものが、薄れて薄れて……まるで霞のように、なってきてのぉ……』  神社の静まり返った境内に、さぁ……と風が吹き抜ける。桜の木がざわざわと揺れ、はらり、はらりと、夜目にも白い花びらが数枚舞い落ちた。  『儂は、一体どうなってしまうんじゃ……?このまま、本当に何もかも消えて、無くなってしまうのか……?』  おじいさんの霊は、すがるような目で、じっと母さんを見つめる。  母さんは、その不安を受け止めるように、そっと穏やかに首を横に振った。  そして、目を細め、包み込むように、やさしく答える。  「大丈夫ですよ。たとえ記憶が薄れて、今のあなたの形が失われたとしても…」  「あなたの魂そ
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の六:蠢く影

  いつものように学校に着くと、教室の空気が、いつもよりほんの少しだけ、色を失っているように感じた。   大きな窓から燦々と差し込む、春の淡い光。   その光の帯の中を、名前も知らない誰かの記憶の欠片のように、微細な埃がふわふわと無数に舞っている。   何列にも並んだ机の天板に落ちた光は、まるで薄氷のようだ。黒板には、今朝の一限目の授業の跡が、チョークの粉となって儚く残るのみ。   「おい、悠斗、ちょっと聞いてくれよ!」   隣の席のクラスメイトが、何か面白い悪戯を見つけた子供のように、やけに上擦った声で僕の肩を叩く。   「朝からどうしたの?」   僕がわずかに眉を顰めると、別の方向から、もう一人の友人がスマートフォンを突きつけてきた。   「これ! 昨日、うちのクラスの連中がまたやらかしたんだって!」   「マジでヤバいから、もう一回見よーぜ!」   けたたましい笑い声。誰かが興奮して机を叩く乾いた音が、教室のあちこちに無神経に響き渡る。   ( ……まさか。)   胸の奥で、冷たい何かが急速に膨れ上がっていく感覚。   促されるままに手に取ったスマートフォンには、まさに今、再生中の動画だ。   その画面隅には、まるで血で書かれたような、禍々しいフォントでタイトルが表示されていた。   ─────────────────────   【恐怖の心霊スポット 桜織旧病院へ突撃!!】   ガクン、と画面が大きく揺れ、手持ちカメラ特有の、薄暗くノイズの多い映像が始まった。   そこに映し出されたのは──桜織旧病院。   夕陽だろうか。斜めに差し込む赤い光に照らされた、無残に崩れたコンクリートの壁。割れた窓ガラスの奥は、冥界への入り口のようにぽっかりと黒い口を開けている。そのたたずまいは、もはや誰からも忘れ去られた巨大な骸のようだった。   「よっしゃ、みんな! 準備はいいかー!? 今からこの廃病院に、俺たちが突撃だぜ!」   配信主と思われる、やけに弾んだ甲高い声がスピーカーから響く。   「
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の七:母の言葉、僕の現実

僕が押し黙ってスマートフォンを返すと、友人はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。 「な? ヤバいだろ? アイツら、マジでアホだよな!」 「……うん。本当に、やばいってレベルじゃないね」 努めて冷静に相槌を返す。その裏で、心はとっくに冷え切っていた。 (なんて、馬鹿な真似をしたんだ……) 勝手に霊の領域に土足で踏み込んで、そこの住人を怒らせただけじゃないか。 僕には、視える。普通の人には視えないはずの、彼らが。だからこそ、彼らの感情は……少しだけ分かるつもりでいる。 霊にとって、長年住み着いた場所は、人間にとっての”家”と同じだ。その大切な家に、ある日突然、見ず知らずの人間が、興味本位で、面白半分でズカズカと入り込んでくる。それを「ようこそ」と笑顔で歓迎する住人など、いるはずもない。 僕には霊が視えるけれど…霊という存在が、苦手だ。でも、そのくらいの最低限の”感覚”は、嫌というほど分かっている。心霊スポットだなんて面白半分にそういう場所へ行って、もし何かあっても、それは自業自得なんだ。 動画の中で映っていた光景が、また頭の中でちらつく。あの廃屋に踏み込んだ数人の若者たちの、最初は軽薄だった表情が、次第に青ざめていく様子。そして最後に響いた、あの声。 カメラが捉えた、人影とも呼べない何かの姿。 友人はまだ何か言いたげだったが、僕は適当に話を合わせて、その場を離れた。 *** 昼休み。 僕は一人、屋上のフェンス際で、買ってきたパンを無心にかじりながら、眼下に広がる校庭の桜をぼんやりと眺めていた。 小高い丘の上の桜翁だけが、何も知らずに春の風の中、のんびりと枝をそよがせている。古い神社の境内に立つ、その一本桜は、毎年この季節になると見事な花を咲かせる。 けれど、さっき教室で見た怪奇現象の動画の光景が、頭の奥に貼り付いて離れない。あの廃屋の中で起こった出来事を思い返すたび、胸の奥がざわめく。 そしてもう一つ、どうしても気がかりなこと。あの動画を配信していた数人が、昨日から学校に来ていないらしい、という。 (僕には関係ないことだ。そう割り切ってしまえば、それまでのはずなのに) 胸の奥が、嫌な感じでずっとざわついている。まるで、暗い水の底から何かが這い上がってくるような、そんな感覚。 パンを一口かじって、僕は目を閉じる。春の陽射しはこんなに
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の八:黄昏の門

 町の喧騒から切り離された外れ。  ぽつんと取り残されたそこは、時間に忘れ去られた場所だ。  かつて多くの命を救ったはずの白い建物は、いまや不気味な噂と共に、得体の知れない何かが巣食うと囁かれる廃墟になっていた。  興味本位で、あるいは自らの勇気を試すように。  そこに足を踏み入れた者たちは、時折、神隠しにでも遭ったかのように姿を消す。  そして昨日もまた──。  動画配信で注目を集めようとした者たちが、誰一人として戻ることはなかった。  ……翔太も、その中の一人として。  「……やっぱり……行かないと、ダメだ……」  (これは、僕の責任でもあるんだから……)  重いため息と共に、誰もいない放課後の教室を飛び出す。  固く閉ざされた校門の冷たい鉄柵に手をかけた。金属の、ひやりとした無機質な冷たさが、緊張した指先にじわりと染みる。  僕には関係ない。  そう何度も自分に言い聞かせ、無理やり思い込もうとした。  けれど──この学校で、あの廃病院に潜む“何か”に気づけるのは、おそらく、この妙な力を持つ僕だけだ。  友人が危ないかもしれない。  その可能性を知っていながら、何もしないでいられるはずもなかった。  翔太を、もっと強く、止めるべきだった。  あの時、もっと真剣に、あそこへ行くことの危うさを伝えるべきだったんだ。  後悔が、喉に詰まった小骨みたいに、ずっとちくちくと痛んだ。  大きく、深く息を吐き出す。  乾いた春の空気が肺の奥をざらりと擦り、わずかに咳き込みそうになった。  それでも僕は覚悟を決め、夕暮れの道を一人、あの場所へと歩き出す。  ***  病院へ向かう途中、帰り道にある古びた商店の、軋む床をそっと踏んだ。  年季の入った床板が、ギィ、と悲鳴をあげ、夕暮れの静寂を鋭く切り裂く。  「おう、いらっしゃい! 坊主、どうしたんだい?」  カウンターの奥から顔を覗かせた人の良さそうなおじさんは、僕の顔を見るなり、にこにこと人の好い笑みを浮かべた。  「あの……懐中電灯を、一つください」  「おんや? こんな夕暮れ時に懐中電灯
last updateLast Updated : 2025-05-16
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縁語り其の九:錆びついた記録と幼子の願い

 季節が一つ逆戻りしたかのような、肌を刺す冷気が、この廃墟全体を支配していた。  春の終わりの暖かさなど、この場所にだけは届いていないようだ。  懐中電灯の頼りない光が、静まり返った空間をゆっくりと撫でるように照らし出す。  朽ち果てて脚の折れた椅子。無造作に転がったままの錆びた車椅子。そして床に散乱し、元の色も分からぬほど黄ばんでしまったシーツの数々。  壁には、破れて変色した掲示物が、打ちつけられたまま虚しく残っている。  空気は鉛のように重く、淀み、ぴくりとも動かない。  永い時間だけがここに置き去りにされたような、異質な空間だった。  濃密な埃と、壁や床から滲み出すようなカビの匂い、そして微かに残る古い消毒液の刺激臭が混ざり合い、呼吸をするたびに、喉の奥にねっとりと張り付いてくる。  そして何より、この空間のどこかに潜む、得体の知れない“何か”の気配が、冷たい蜘蛛の糸のように背中にまとわりついて離れない。  僕は、床に埃まみれで落ちていた、この病院の古い構内図を拾い上げた。  「これは……構内図か」  掠れたインクで書かれた文字を追う。  「病室エリア」「第一倉庫」「第二倉庫」「一般診察室」「院長室」……。  翔太が、この廃墟のどこにいるのか、皆目見当もつかなかった。  でも、もうここまで来てしまった。引き返すことはできない。  逃げ出したい恐怖と、友人を見捨てられない気持ちが、体の中でせめぎ合う。  その時──。  奥の、闇に沈んだ廊下から、きぃぃ……と、古い木の床を踏むような、不気味な軋む音が微かに響いてきた。  息が、止まる。  自分の心臓の音だけが、やけに大きく、速く、耳の奥でドクドクと鳴り響いていた。  恐怖で足が竦むはずなのに、僕の身体は、何かに引かれるように、勝手にその音のする方へと動いていた。  「第一診察室」──。  一部が剥がれ落ち、茶色く変色した古いプレートの文字が、懐中電灯の光の中にぼんやりと浮かび上がる。  錆び付いたドアノブに手をかけ、ゆっくりとド
last updateLast Updated : 2025-05-17
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縁語り其の十:廃病院に住まう者

 僕は、翔太のスマホをポケットへとしまい、重苦しい空気が漂う診察室を後にした。  誠也という名の男の子が遺した手紙。あの消え入りそうな文字と、寂しげな笑顔の似顔絵が、まだ瞼の裏に焼き付いている。  右手の廊下は、闇が深かった。  進むほどに、空気が変わる。  やがて、底のない暗闇が、ぽっかりと口を開けていた。  そこから吹き上げてくる空気は、これまでとは明らかに質が違った。まるで生きたものの体温を全て吸い取っていくような、淀んだ風が肌を撫でる。  足が、自然と止まった。  (……噂に聞いていた、地下への入口だ)  “院長が、何かを地下に隠していた”。  この病院にまつわる黒い噂が、不意に頭をよぎる。  懐中電灯の震える光を差し込んでも、その奥は光を吸い込むような闇に包まれ、何も映し出せない。  「一体……何を隠したって言うんだ……?」  氷のように冷たく湿った空気が、僕の肌を粟立たせる。  (……今は、まだだ。先に、他の場所を探そう)  ゴクリ、と乾いた喉を鳴らし、僕は一度だけその暗闇を振り返り、踵を返した。  ***  ギシギシと不気味に軋む古い階段を慎重に上がり、二階へと向かう。  二階の廊下は、一階よりもさらに色褪せた、濃密な気配が漂っていた。  古い病院特有の、埃と錆びた金属、そして微量の薬品が混じった、鼻の奥をツンと刺激する独特の匂い。  廊下の両脇には小さな患者部屋が並び、突き当たりには比較的大きな共同部屋。その奥に、重い扉で閉ざされた手術室とレントゲン室。  どの部屋も、時代に取り残されたような、陰鬱で古びた造りだった。  僕は、一番手前にあった、扉が少しだけ開いている小さな患者部屋のドアを、そっと押してみる。  きぃぃ……ぃぃ。  鈍く軋む蝶番の音が、この静まり返った二階の空間に、やけに大きく響き渡った。  部屋の中には、マットレスが剥き出しになった、ボロボロのパイプベッドが一台だけぽつんと置かれている。壁紙は広範囲にわたって剥がれかけ、その下のコンクリートが覗いていた。  部屋の隅に、埃を分厚くかぶった大きな姿見が、誰かに忘れ去られたように壁に立てかけられている。  何気なく、その鏡の前に立った。  映し出された自分の顔は、ひどく青ざめて、まるで知らな
last updateLast Updated : 2025-05-17
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