All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 1 - Chapter 10

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縁語り其の一:桜舞う街

「先輩! 絶対にその人の刃物に触れないでください!」 鼓膜を劈くような、切羽詰まった少女の警告。その声が響き渡ると同時、少年の喉が、ひゅっと鳴った。 眼前に立ちはだかるのは、虚ろな眼でこちらを睨みつける、一人の男。その手には、鈍色のサバイバルナイフが握られ、尋常ならざる気配を放っている。 「彼の周囲には……彼に殺された人たちの、怨霊が渦巻いて漂っています!」 少女の言葉が、現実感を伴って脳髄に突き刺さる。 「その怨念が、ナイフを、ただの凶器じゃない……“呪われた霊の武器”として成り立たせてしまっているんです!」 あれを浴びれば、命はない。 その事実だけが、冷たく思考を支配する。掌にじっとりと汗が滲み、指先が微かに震えていた。 これまで遭遇してきた不成仏霊とは、魂の在り方がまるで違う。明確な殺意と、それを実行する手段を、その霊は確かに保有していた。 ──ダンッ! 鋭い踏み込みの音。男の身体が、獣じみた俊敏さで宙を舞う。 空気を裂き、ナイフが横薙ぎに閃いた。少年はほとんど反射で後ろへ飛び退く。凶刃が鼻先を数ミリで掠め、ぞっとするような冷気が肌を撫でた。 「……遅ぇよ、ガキが」 掠れた、嘲るような声。 次の瞬間、背後から風を裂く音。そして、左腕に走る、灼けるような鋭い痛み。 「……っ!」 呻きが、少年の唇から漏れた。咄嗟に庇った腕の袖が裂け、赤黒い血が迸る。骨には達せずとも、傷は決して浅くはない。 それは、生と死が瞬時にせめぎ合う闘諍《とうじょう》。 そして、彼らが否応なく歩むこととなる茨の道、その現実の一端に他ならなかった。 だが──全ての始まりは、そこにはない。 もっとずっと静かで、穏やかな春の風が吹く日々の内にこそ、その根は芽吹いていた。 これは、一人の少年と一人の少女、二つの魂の邂逅の記録。 そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた、宿業の物語である。 *** ──桜織市の日々── 柔らかな風が、春の訪れをそっと街へと運んでくる。桜の花びらが、まるで空に溶けていくかのようにふわりと舞い上がり、優しい陽射しが、この街全体を祝福するように包み込んでいる。 ここ、桜織市《さくらおりし》は、風穂県《かざほけん》のなだらかな平野部に広がる、どこまでも穏
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の二:春の風、初めての言の葉

突然、ふわりと柔らかな風が吹き抜けた。 それに呼応するように、桜翁の枝々から無数の花びらが、一斉に舞い上がり、まるで彼女の存在を祝福するかのように、その周りで雅やかな渦を巻く。 その光景を目の当たりにした瞬間──僕の胸の奥深くで、今まで感じたことのない何かが、確かに揺らいだ気がした。 彼女が、ふと、こちらに気づく。吸い込まれそうなほど澄んだ茶色の瞳が、春の午後の柔らかな 光を映して、優しく揺れていた。 「……この桜、とても綺麗だよね。」 自分でも驚くほど自然に、僕は不意に、そんな言葉をかけていた。 彼女は一瞬だけ小さく目を見開いたけれど、すぐに穏やかな微笑みを浮かべて応えてくれる。 「はい。本当に……息をのむほど綺麗ですね。」 その声は、まるで春のそよ風のように軽やかで、それでいて、不思議と心が落ち着くような、澄んだ響きを持っていた。 「私、月瀬美琴《つきせみこと》と申します。この春から、こちらの高校の1年生になりました。」 「どうぞ、よろしくお願いいたします」 そう言って、彼女は丁寧に、深々と頭を下げる。 (この一年生……礼儀正しくて、しっかりした子だなぁ……) その佇まいに、僕は少しだけ気圧されながらも、彼女に倣って自己紹介をする。 「僕は、2年の櫻井悠斗《さくらいゆうと》。こちらこそ、よろしくね。」 そう言葉を交わした瞬間、彼女の穏やかな笑顔が、まるで春の陽射しそのものみたいに柔らかくて。 いつもなら気にも留めないはずの、ありふれた自己紹介の言葉一つ一つが、なんだか今日だけは、とても特別で、かけがえのないもののように感じられた。 「ふふっ 先輩でいらっしゃいましたか。」 彼女が少しだけ驚いたように愛らしく目を丸くして、小さく悪戯っぽく笑う。 その気取らない、自然な仕草や言葉遣いが、春らしい温かな空気を僕たちの間に運んできた。 ふたたび、優しい風が吹く。桜の花びらが、祝福のライスシャワーのように、僕たちの肩にもはらりはらりと舞い落ちた。 「本当は、この美しい桜の写真を撮ろうと思っていたんですけど……どうやら、スマートフォンを忘れてきてしまったみたいです……。」 そう言って、美琴はほんの少しだけ残念そうに肩を落とした。 彼女が名残惜しそうに見上げる視線の先には、夕陽に照らさ
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の三:桜翁の呼び声

ふわり、と桜の花びらが一枚、僕の頬を優しくかすめていった。 甘く澄んだ春の風が、そっと肌を撫でていく。その清浄な香りが、ほんのりと胸の奥に残る。 ──なんとなく、また、桜翁に呼ばれたような気がする。 一体、どうしてこんなにも、あの古木に心が引かれるのだろうか? まるで、見えない糸で手繰り寄せられているような、そんな不思議な感覚。 ……気づけば、僕は今日もまた、桜並木を抜け、この巨大な桜の木の前に一人、立っていた。 *** 放課後の、まだ賑わいの残る教室。 ざわざわとした空気の中に、誰かが慌てて机を引く音や、弾けるような甲高い笑い声が混じり合っている。 黒板には、今日の授業の最後に書かれたであろう数式が消し忘れられ、それが西日を受けて、チョークの粉と共にぼんやりと白く光っていた。 「なぁ、今日、あいつらマジで行くんだってよ…」 「うわ、マジかよ? ……よりによって、あそこにか?」 教室の隅の方で、そんなひそひそとした会話が交わされているのが耳に入る。僕は横目でその様子をちらりと見ながら、特に興味も示さず、静かに自分のバッグのチャックを閉じた。 「よっ、悠斗! お前、今日この後、空いてたりする?」 不意に、隣のクラスの幼なじみが、いつもの人の好い笑顔で近づいてきた。その屈託のない声に、僕は顔を上げる。 彼は 不動 翔太《ふどう しょうた》 僕の親友だ。 彼は、空手部の副主将となり、時期主将と呼ばれるほどの実力者で、 性格は、困った人を放っておけないお人好しだ。 「ああ、ごめん、翔太。今日は母さんのお見舞いに行く日なんだ」 「あ、そうか……。そっかそっか、それなら仕方ないよな!」 翔太はあっけらかんとそう言った後、少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、口ごもるように言葉を続けた。 「それがさ、ちょっと言いづらいんだけどよ、俺、今夜、桜織旧病院の方に、ちょっとした金稼ぎで行くことになっててさ」 「……えっ? あの、旧病院に……?」 その名を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。 桜織旧病院《さくらおりきゅうびょういん》──。戦後間もない頃に建てられた、かつてはこの辺り一帯で最も大きな総合病院だった場所。 だが、もう五十年も前に閉鎖されて以来、今では桜織市内でも有数の、そして最もたちの悪
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の四:母が眠る場所

病室の窓から、夕陽の最後の光が、淡く、そして優しく差し込んでいた。 風に揺れる薄手のカーテンが、壁の上で光と影の柔らかい模様を静かに描き、そして溶け合わせていく。 薬と消毒液の、ツンとしながらもどこか清潔な匂いが、この部屋の静謐な空気に、そっと混じり合っている。 その中で、僕はいつも通り、ベッドのそばに置かれた簡素なパイプ椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。 「……来たよ、母さん」 誰に聞かせるともなく小さく呟き、僕はベッドから投げ出された母さんの、細く冷たい手をそっと両手で包み込むように握る。 その手は、まだ確かな温もりを僕に伝えてくれる。 けれど、病衣に包まれたその身体は、お見舞いに来るたびに、少しずつ、でも確実に細く、小さくなっているように感じられた。 その姿に、胸が締め付けられる。 それでも、穏やかな呼吸を繰り返す母さんの寝顔は、不思議なほど安らかで、どこか遠い夢を見ているかのようだった。 「そういえばさ、母さん。この間、学校の桜の木の下で、ちょっと不思議な雰囲気の女の子に出会ったんだ」 独り言のように、でも、確かにそこにいる母さんに話しかけるように。 「月瀬美琴っていうんだけど……すごく礼儀正しくて、なんだか、とても綺麗な子でね……」 母さんの閉じられたままの瞼は、ぴくりとも動かない。もちろん、返事はない。 それでも、この誰にも邪魔されない、母さんと二人きりの静かな時間が、今の僕にとっては、 かけがえのない大切なものだった。 母さんは、もう十年もの間、ずっと意識のないまま、この殺風景な病院の一室に入院している。 その理由は、表向きには、“原因不明の突発的な意識障害”とされている。 けれど僕には、本当の理由が、分かっていた。いや、分かりたくなくても、魂に刻み付けられてしまっている。 ──今から、十年前。 まだ幼かった僕が、この生まれ持った厄介な霊感という力に振り回され、怯えてばかりいないようにと、母さんが、特別な帰り道を教えてくれた、あの日のこと。 その時、僕たち親子は、“何か”に、不意に襲われたんだ。正確に言えば、僕自身……その時の記憶が、まるで濃い霧に包まれたように曖昧で、どんなに思い出そうとしても、肝心な部分が…。 はっきりとは思い出せない。 でも、僕たちを襲った
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の五:鎮魂の教え

そこには、月明かりの下、白髪の穏やかなおじいさんの姿があった。 どこか寂しそうに、そして心細そうに、ぽつんと一人でそこに立っている。 その輪郭は、まるで春の夜霧のように淡くぼやけていて、現実感が希薄だった。 「悠斗、怖がらないで…しっかり見ていてごらんなさい」 母さんはそう言うと、僕の隣でそっと膝をつき、そのおじいさんの霊と、静かに視線を合わせた。 「……初めまして。夜分に申し訳ありません。何か、お困りのことでもおありですか?」 母さんの声は、夜のしじまに溶け込むように静かで、けれど、不思議なほどはっきりと、そして温かく、その霊へと確かに届いていた。 おじいさんの霊は、ゆっくりとこちらを振り返り、その瞳に、深い戸惑いと、そしてほんのわずかな驚きの色を浮かべる。 「……おお……おお……。あんたには……儂の、この姿が、視えているのかね……?」 掠れた、そしてどこか弱々しい声が、神社の冷えた夜気に溶けていくようだった。 「ええ、はっきりと視えていますし、あなたの声も聞こえていますよ。」 母さんのその微笑みは、本当にあたたかくて、慈愛に満ちていた。まるで、何十年も会っていなかった、旧い友人に再会した時に向けるような、そんな優しい眼差し。 その言葉と眼差しに、おじいさんの強張っていた肩が、ふっと力を失って落ちるのが分かった。 「……このまま、儂は……消えてしまうんじゃろうかと思うと……それが、怖くて怖くて、仕方ないんじゃ……」 か細く、震える声。その瞳には、拭いきれない不安の色が浮かんでいる。 「最近……少しずつ、自分の意識というものが、薄れて薄れて……まるで霞のように、なってきてのぉ……。」 神社の静まり返った境内に、さぁ……と風が吹き抜ける。桜の木がざわざわと揺れ、はらり、はらりと、夜目にも白い花びらが数枚舞い落ちた。 「儂は、一体どうなってしまうんじゃ……?このまま、本当に何もかも消えて、無くなってしまうのか……?」 おじいさんの霊は、すがるような目で、じっと母さんを見つめる。 母さんは、その不安を受け止めるように、そっと穏やかに首を横に振った。 そして、目を細め、包み込むように、やさしく答える。 「大丈夫ですよ。たとえ記憶が薄れて、今のあなたの形が失われたとしても…」 「あなたの魂
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の六:蠢く影

いつものように学校に着くと、教室の空気が、いつもよりほんの少しだけ、色を失っているように感じた。 大きな窓から燦々と差し込む、春の淡い光。 その光の帯の中を、名前も知らない誰かの記憶の欠片のように、微細な埃がふわふわと無数に舞っている。 何列にも並んだ机の天板に落ちた光は、まるで薄氷のようだ。黒板には、今朝の一限目の授業の跡が、チョークの粉となって儚く残るのみ。 「おい、悠斗、ちょっと聞いてくれよ!」 隣の席のクラスメイトが、何か面白い悪戯を見つけた子供のように、やけに上擦った声で僕の肩を叩く。 「朝からどうしたの?」 僕がわずかに眉を顰める《ひそめる》と、別の方向から、もう一人の友人がスマートフォンを突きつけてきた。 「これ! 昨日、うちのクラスの連中がまたやらかしたんだって!」 「マジでヤバいから、もう一回見よーぜ!」 けたたましい笑い声。誰かが興奮して机を叩く乾いた音が、教室のあちこちに無神経に響き渡る。 ( ……まさか。) 胸の奥で、冷たい何かが急速に膨れ上がっていく感覚。 促されるままに手に取ったスマートフォンには、まさに今、再生中の動画だ。 その画面隅には、まるで血で書かれたような、禍々しいフォントでタイトルが表示されていた。 ───────────────────── 【恐怖の心霊スポット 桜織旧病院へ突撃!!】 ガクン、と画面が大きく揺れ、手持ちカメラ特有の、薄暗くノイズの多い映像が始まった。 そこに映し出されたのは──桜織旧病院。 夕陽だろうか。斜めに差し込む赤い光に照らされた、無残に崩れたコンクリートの壁。割れた窓ガラスの奥は、冥界への入り口のようにぽっかりと黒い口を開けている。そのたたずまいは、もはや誰からも忘れ去られた巨大な骸のようだった。 「よっしゃ、みんな! 準備はいいかー!? 今からこの廃病院に、俺たちが突撃だぜ!」 配信主と思われる、やけに弾んだ甲高い声がスピーカーから響く。 「コメント、高評価よろしくなー!」 無理に作ったその明るさの端々に、隠しきれない緊張が滲んでいるのが画面越しに伝わってくる。 「うわっ、暗っ! 思ってたより全然暗ぇじゃん! マジでビビるわ、これ…」 仲間の一人がおどけて笑い、別の仲間の背中を乱暴に押す。埃っぽくカ
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の七:日常の亀裂

僕が押し黙ってスマートフォンを返すと、友人はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。 「な? ヤバいだろ? アイツら、マジでアホだよな!」 「……うん。本当に、やばいってレベルじゃないね。」 努めて冷静に相槌を返す。その裏で、心はとっくに冷え切っていた。 (なんて、馬鹿な真似をしたんだ……) 勝手に霊の領域に土足で踏み込んで、そこの住人を怒らせただけじゃないか。 僕には、視える。普通の人には視えないはずの、彼らが。 だからこそ、彼らの感情は……少しだけ分かるつもりでいる。 霊にとって、長年住み着いた場所は、人間にとっての“家”と同じ。 その大切な家に、ある日突然、見ず知らずの人間が、興味本位で、面白半分でズカズカと入り込んでくるんだ。 それを「ようこそ」と笑顔で歓迎する住人など、いるはずもない。 僕には 霊が視えるけれど…霊という存在が、苦手だ。 でも、そのくらいの最低限の“感覚”は、嫌というほど分かっている。 心霊スポットだなんて面白半分にそういう場所へ行って、もし何かあっても、それは自業自得なんだ。 *** 昼休み。 僕は一人、屋上のフェンス際で、買ってきたパンをかじりながら、眼下に広がる校庭の桜をぼんやりと眺めていた。 小高い丘の上の桜翁だけが、何も知らずに春の風の中、気持ちよさそうに枝をそよがせている。 でも、さっき教室で見た怪奇現象の動画の光景が、頭の片隅に焼き付いて離れない。 そしてもう一つ、どうしても気がかりなこと。 あの動画を配信していた数人が、昨日から学校に来ていないらしい、という。 僕には関係ないことだ。そう割り切ってしまえば、それまでのはずなのに。 胸の奥が、嫌な感じでずっとさざ波を立てていた。 パンを一口かじって、僕は目を閉じる。 春の陽射しはこんなに暖かいのに、心は少しも安まらない。 その瞬間。 ── 霊はね、怖くないのよ。ただ、道に迷っているだけなの。 遠い記憶の底から、優しい母さんの声が、ふいに水面に浮かぶように蘇る。 母さんが倒れてからずっと、意識の奥に封じ込め、聞かないようにしてきた言葉。 でも、僕は、どうしてもそうは思えない。 霊は、怖い。間違いなく、恐ろしい存在だ。 現に僕の母さん…あの優しかった母さんは、正体
last updateLast Updated : 2025-05-15
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縁語り其の八:黄昏の門

町の喧騒から切り離された外れ。 ぽつんと取り残されたそこは、時間に忘れ去られた場所だ。 かつて多くの命を救ったはずの白い建物は、いまや不気味な噂と共に、得体の知れない何かが巣食うと囁かれる廃墟になっていた。 興味本位で、あるいは自らの勇気を試すように。 そこに足を踏み入れた者たちは、時折、神隠しにでも遭ったかのように姿を消す。 そして昨日もまた──。 動画配信で注目を集めようとした者たちが、誰一人として戻ることはなかった。 ……翔太も、その中の一人として。 「……やっぱり……行かないと、ダメだ……」 (これは、僕の責任でもあるんだから……) 重い溜息と共に、誰もいない放課後の教室を飛び出す。 固く閉ざされた校門の冷たい鉄柵に手をかけた。金属の、ひやりとした無機質な冷たさが、緊張した指先にじわりと染みる。 僕には関係ない そう何度も自分に言い聞かせ、無理やり思い込もうとした。 けれど──この学校で、あの廃病院に潜む“何か”に気づけるのは、おそらく、この妙な力を持つ僕だけだ。 友人が危ないかもしれない。 その可能性を知っていながら、何もしないでいられるはずもなかった。 翔太を、もっと強く、止めるべきだった。 あの時、もっと真剣に、あそこへ行くことの危なさを伝えるべきだったんだ。 後悔が、喉に詰まった小骨みたいに、ずっとちくちくと痛んだ。 大きく、深く息を吐き出す。 乾いた春の空気が肺の奥をざらりと擦り、わずかに咳き込みそうになった。 それでも僕は覚悟を決め、夕暮れの道を一人、あの場所へと歩き出す。 *** 病院へ向かう途中、帰り道にある古びた商店の、軋む床をそっと踏んだ。 年季の入った床板が、ギィ、と悲鳴をあげ、夕暮れの静寂を鋭く切り裂く。 「おう、いらっしゃい! 坊主、どうしたんだい?」 カウンターの奥から顔を覗かせた人の良さそうなおじさんは、僕の顔を見るなり、にこにこと人の好い笑みを浮かべた。 「あの……懐中電灯を、ひとつください」 「おんや? こんな夕暮れ時に懐中電灯とは、珍しいな。キャンプでも行くのかい?」 「いえ……その……友達が、道に迷ってしまったみたいで……これから探しに行くんです」 「おー、そりゃあ大変だ。坊主も、気をつけなきゃいか
last updateLast Updated : 2025-05-16
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縁語り其の九:錆びついた記録と幼子の願い

「寒い……」 季節が一つ逆戻りしたかのような、肌を刺す冷気が、この廃墟全体を支配していた。 春の終わりの暖かさなど、この場所にだけは届いていないようだ。 懐中電灯の頼りない光が、静まり返った空間をゆっくりと撫でるように照らし出す。 朽ち果てて脚の折れた椅子。無造作に転がったままの錆びた車椅子。そして床に散乱し、元の色も分からぬほど黄ばんでしまったシーツの数々。 壁には、破れて変色した掲示物が、打ちつけられたまま虚しく残っている。 空気は鉛のように重く、淀み、ぴくりとも動かない。 永い時間だけがここに置き去りにされたような、異質な空間だった。 濃密な埃と、壁や床から滲み出すようなカビの匂い、そして微かに残る古い消毒液の刺激臭が混ざり合い、呼吸をするたびに、喉の奥にねっとりと張り付いてくる。 そして何より、この空間のどこかに潜む、得体の知れない“何か”の気配が、冷たい蜘蛛の糸のように背中にまとわりついて離れない。 僕は、床に埃まみれで落ちていた、この病院の古い構内図を拾い上げた。 「これは……構内図か」 掠れたインクで書かれた文字を追う。 「病室エリア」「第一倉庫」「第二倉庫」「一般診察室」「院長室」……。 翔太が、この廃墟のどこにいるのか、皆目見当もつかなかった。 でも、もうここまで来てしまった。引き返すことはできない。 逃げ出したい恐怖と、友人を見捨てられない気持ちが、体の中でせめぎ合う。 その時──。 奥の、闇に沈んだ廊下から、きぃぃ……と、古い木の床を踏むような、不気味な軋む音が微かに響いてきた。 息が、止まる。 自分の心臓の音だけが、やけに大きく、速く、耳の奥でドクドクと鳴り響いていた。 恐怖で足が竦むはずなのに、僕の身体は、何かに引かれるように、勝手にその音のする方へと動いていた。 「第一診察室」──。 一部が剥がれ落ち、茶色く変色した古いプレートの文字が、懐中電灯の光の中にぼんやりと浮かび上がる。 錆び付いたドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた瞬間、室内の空気が明らかに変わった。 ぴたり、と風の流れが止まる。 光に照らし出されたのは、埃を被った古い診察台と、用途の分からない、錆びついた医療器具の数々。 そして、この部屋だけが時間を止められたかの
last updateLast Updated : 2025-05-17
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縁語り其の十:廃病院に住まう者

僕は、翔太のスマホをポケットへとしまい、重苦しい空気が漂う診察室を後にした。 誠也という名の男の子が遺した手紙。あの消え入りそうな文字と、寂しげな笑顔の似顔絵が、まだ瞼の裏に焼き付いている。 右手の廊下は、闇が深かった。 進むほどに、空気が変わる。 やがて、底のない暗闇が、ぽっかりと口を開けていた。 そこから吹き上げてくる空気は、これまでとは明らかに質が違った。まるで生きたものの体温を全て吸い取っていくような、淀んだ風が肌を撫でる。 足が、自然と止まった。 (……噂に聞いていた、地下への入口だ) “院長が、何かを地下に隠していた”。 この病院にまつわる黒い噂が、不意に頭をよぎる。 懐中電灯の震える光を差し込んでも、その奥は光を吸い込むような闇に包まれ、何も映し出せない。 「一体……何を隠したって言うんだ……?」 氷のように冷たく湿った空気が、僕の肌を粟立たせる。 (……今は、まだだ。先に、他の場所を探そう) ゴクリ、と乾いた喉を鳴らし、僕は一度だけその暗闇を振り返り、踵を返した。 *** ギシギシと不気味に軋む古い階段を慎重に上がり、二階へと向かう。 二階の廊下は、一階よりもさらに色褪せた、濃密な気配が漂っていた。 古い病院特有の、埃と錆びた金属、そして微量の薬品が混じった、鼻の奥をツンと刺激する独特の匂い。 廊下の両脇には小さな患者部屋が並び、突き当たりには比較的大きな共同部屋。その奥に、重い扉で閉ざされた手術室とレントゲン室。 どの部屋も、時代に取り残されたような、陰鬱で古びた造りだった。 僕は、一番手前にあった、扉が少しだけ開いている小さな患者部屋のドアを、そっと押してみる。 きぃぃ……ぃぃ。 鈍く軋む蝶番の音が、この静まり返った二階の空間に、やけに大きく響き渡った。 部屋の中には、マットレスが剥き出しになった、ボロボロのパイプベッドが一台だけぽつんと置かれている。壁紙は広範囲にわたって剥がれかけ、その下のコンクリートが覗いていた。 部屋の隅に、埃を分厚くかぶった大きな姿見が、誰かに忘れ去られたように壁に立てかけられている。 何気なく、その鏡の前に立った。 映し出された自分の顔は、ひどく青ざめて、まるで知らない誰かのようだった。 「はは……僕はこんな
last updateLast Updated : 2025-05-17
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