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二十三話:待ち合わせの鼓動

作者: 渡瀬藍兵
last update 公開日: 2025-05-23 19:00:10

 さらに数日後——。

 桜織駅のホーム。悠斗は改札の前に立ち、スマートフォンで時刻を確認していた。

(約束の十五分前……。早く来すぎたかな)

 そう思いながらも、視線は自然と身だしなみへ向かう。

「別に変じゃないよね……」

 小さな呟きが唇から零れた。何度目かの確認。襟元、袖口、髪の流れ——鏡がないから、ガラス越しに映る自分の輪郭を頼りに指先で整えるしかない。

 今日は私服だった。

 制服でしか顔を合わせたことのない美琴と、初めて——私服で会う。

 その事実が、じわりと胸の奥で重みを増していく。心臓の鼓動がいつもより一拍だけ早い。襟元に触れる指先の、かすかな震え。気づかないふりをしているが、確かにそこにある高揚が、悠斗の呼吸を浅くしていた。

 それから数分後。

「先輩、お待たせしました」

 背後から、凛とした声。

 ——美琴だ。

 約束の十分前。時間を正確に守る几帳面さに、悠斗は思わず口元を緩めた。息を乱した様子もなく、ただ静かにそこに立っている。

「……待たせてしまいましたか?」

 穏やかな問いかけ。けれどわずかに寄せられた眉に、不安がにじんでいた。

「あ、あはは……。念のために早く出てきたら、思ったより早く着いちゃって」

 軽い口調で返したつもりだった。けれど胸の内では、別の感情がひそかに渦を巻いている。

 ——本当は、違う。

 穏やかで、恋愛に興味がなさそうに見える悠斗でも。いや、だからこそかもしれない。制服ではない美琴に会えることを、密かに、確かに楽しみにしていたのだ。

 美琴は学校の中でも指折りの美少女だと、客観的に見ても悠斗はそう思う。清楚で控えめな佇まいが、彼女の魅力を一層引き立てていた。実際、二年生の間では「とてつもなく可愛い後輩がいる」という噂がすでに広まっていて、その話は悠斗の耳にも何度か届いている。今後さらに人気が出るのは間違いないだろう。

 そんな彼女の私服姿は——デニムジャケットの下に白いTシャツ、ベージュのスカート。装いはシンプルだった。だが、かえってそれが彼女の清楚な空気を際立たせている。春の風に軽く揺れるスカートの裾が、どこか初々しい。

(可愛い……)

 心の中で呟いた瞬間、頬に熱が走った。

 その言葉を口にすることなど、到底できない。喉の奥でつかえたまま、形にならず溶けていく。ただ美琴の姿を目で追うことしかできなかった。

 美琴がクスッと微笑んだ。春の陽光のように柔らかなその笑顔が、悠斗の張りつめた緊張をゆるやかにほどいていく。

「そうではなかったみたいで、安心しました」

「う、うん!」

 少し大きすぎる頷き。自分でも気づいているが、もう取り繕えなかった。

「さて、先輩。移動しながら説明しますね。ひとまず……あちらのバスに乗りましょう」

 美琴の指先が示す方向に、山間部へと続く路線バスが停まっていた。白い車体が午後の陽射しを受けて、鈍く光っている。

「わかった」

 二人はバスに乗り込み、後方の席に腰を下ろした。乗客はまばらで、低いエンジン音だけが静けさの底に沈んでいる。悠斗は窓ガラスに映る自分の顔をちらりと見て、それからそっと視線を車窓の外へ逃がした。

 やがてバスが動き出す。緩やかな揺れに身を任せながら、美琴が小さく息を吐いた。

「風鳴トンネルまでは、ここから三十分ほどかかります。その間に、今日の件について詳しくお話ししますね」​​​​​​​​​​​​​​​​

「調べたところ、そのトンネルは約二十年前に廃止された旧道の一部だそうです。新しいバイパスが開通してからは、ほとんど人が立ち入らなくなりました」

「二十年前か……」

 悠斗は小さく呟いた。自分が生まれるよりも前のこと。まだ見ぬ過去の影が、ゆっくりと輪郭を結び始める。

「はい。そして——あの場所で霊が目撃されるようになったのも、ちょうど二十年前からだそうです」

 美琴の声がわずかに沈んだ。語尾が吐息に溶け、車内の静けさに吸い込まれていく。

「茶色のコートを着た女性の霊が、トンネルの中を彷徨っているのが見えるのだとか。地元の方々の間では、ちょっとした噂になっているみたいで……」

「茶色いコート……」

 悠斗の脳裏に、ぼんやりとした人影が浮かんだ。誠也のときとは違う——もっと漠然とした、輪郭のない不安を纏った存在。

「誠也くんの場合は、彼自身の記憶や想いがはっきりしていました。だからこそ、私も彼の悲しみに寄り添うことができたのですが……」

 美琴は一度言葉を切り、バスの揺れに身を委ねてから続けた。

「風鳴トンネルの霊は、まだ何も語りかけてきません。ただ、そこにいる。ただ、悲しみを纏っている。——それだけしか分からないんです」

「……だから、不安定なんだね」

「はい」

 静かな頷き。

「今日はより慎重に向き合わなければなりません。誠也くんのときのようにうまくいくとは限りませんから」

 そこで一拍、間を置いて——美琴の瞳に、揺るぎない光が宿った。

「それでも、私はあの人を祓うつもりはありません。もし彼女に救いを求める心があるのなら、それに応えたいですから……」

 祓うのではなく、寄り添うために。声なき声に耳を傾けるために——美琴はただそこに立とうとしている。その在り方が、悠斗の胸に改めて深く沁み込んでいった。

(……僕もなにか力になれるといいんだけど)

 視線を車窓の外へ向ける。街並みはいつしか田園風景へと移り変わり、やがて山の緑が視界を覆い始めていた。

「そういえば、美琴」

「はい、どうしました?」

「美琴は前回、風鳴トンネルに行った時にその人に会えたの?」

「……私が行ったときは、姿すら見せてもらえませんでした。だからこそ今回は、せめて話を聞ければと思っています」

 美琴の言葉が、静かに車内の空気へ溶けていく。低いエンジン音だけが、沈黙を埋めるように響いていた。

 そして——。

『まもなく、風鳴トンネル前です。お降りのお客様は、ボタンを押してお知らせください』

 機械的なアナウンスが、静寂を断ち切った。

 美琴が静かに手を伸ばし、停車ボタンを押す。

『次、停車します』

 バスが速度を落とし、やがて停まった。二人は座席から立ち上がる。

「行きましょう」

「うん」

 運賃箱へ向かう途中、背中にいくつもの視線が突き刺さるのを感じた。車内に残った乗客たちの、好奇と不審が混じった眼差し。人気のない廃トンネルへ向かう若い二人——その事実が、無言の圧となって背中にのしかかった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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