ログイン「退屈な日常が、いっそ歪んでしまえばいい──」 気だるげな高校生・浅生輝流が抱いた破滅的な願いは、禁足地『神鳴山』で、最悪の形で現実となる。 軽い気持ちで参加した肝試しをきっかけに、彼は山を支配する怪異『百貌様』と、理不尽な縁を結ばされてしまうのだ。 その日から、輝流の日常は歪み始める。 手には、捨てても戻ってくる呪いの証『涙型の黒曜石』。 そして、これまで見えなかった、この世ならざるモノたちを視る『目』。 彼は、神の『所有物』となった。 神の謎を解き明かす『標』とは何か。 理不尽な運命を断ち切り、少女を救い出すことはできるのか。 これは、神に選ばれてしまった少年の物語。
もっと見る静寂という名の絶望が、俺たちを支配していた。 そっと置いた俺の手の下で、親友の肩が微かに震えている。それだけが、智哉がまだ石になってしまったわけではないことの、唯一の証明だった。 無機質な心電図の電子音だけが、まるで止まってしまった時を無理やり進ませる秒針のように、冷たく、正確に、響き続けている。 「……智哉」 喉に張り付いた声を、なんとか絞り出す。 「燈子に……なにがあったんだ?」 自分の声なのに、どこか遠くで鳴っているように現実感がない。いっそ、このまま悪い夢であってくれと、心のどこかでまだ願っていた。だが、目の前の光景が、ガラスの向こうの親友の妹が、それが叶わぬ祈りだと突きつけてくる。 何が起きたのか、知らなければならない。目を逸らすことは、もう許されない。 「わ、わかんねぇ……」 ようやく聞こえた智哉の声は、ひび割れたガラスみたいにか細く、頼りなかった。虚ろな瞳はガラスの向こう側を彷徨い、どこにも焦点を結ばない。 「わかんない…? 様子が普段と違ったりはしなかったのか?」 言葉の一つ一つを、薄氷を踏むように慎重に選ぶ。今のこいつに、ほんの少しでも追い打ちになるようなことは言いたくなかった。 「ああ……全くいつもと同じ様子だった。朝だって、普通に『行ってきます』って…。……それなのに…っ」 言葉尻が、嗚咽に変わる。再び震えだした肩を、俺はもう一度、強く握りしめた。それ以外に、かけてやれる言葉が見つからない。 (燈子……) 視線をガラスの向こうに戻す。 無数のチューブに繋がれ、痛々しい包帯で巻かれた小さな身体。 数日前、海の家ではしゃいでいた、あの笑顔が脳裏をよぎった。カレーを頬張り、少し焼けた肌で無邪気に笑っていた、かけがえのない思い出。その眩しい記憶が、目の前の残酷な現実とのコントラストで、胸を鋭く抉っていく。 こんなことになるなんて、誰が想像できただろう。 心電図の音だけが、俺たちの間の重苦しい沈黙を埋めていた。 どれほどの時間が経っただろうか。十数分が、まるで数時間にも感じられた、その時だった。 コン、コン。 静寂に慣れた耳に、控えめなノックの音がやけに大きく響いた。 放心状態の智哉は反応しない。俺は壁に寄りかからせていた重い身体を起こし、ぎこちない足取りで扉へと向かった
――翌日。 俺はまた、神鳴山を訪れていた。 理由はひとつしかない。あの夜、ようやく理性を取り戻し、そして静かに消えていった山姥たちへの手向けだ。 山の斜面にしゃがみ込み、それなりの大きさの石をひとつ、またひとつと積み重ねていく。形ばかりの、粗末な墓だった。けど、何もしないままではいられなかった。せめて、ここに確かにいたのだと、誰かが覚えていたのだと、そう示すものが欲しかった。 傍らに添えた花は、山の空気の中でひっそりと揺れている。俺は麓から汲んできた水をバケツごと持ち上げ、積み上げた石の上へ、静かにかけた。冷たい水が石肌を伝い、土を濃い色に変えていく。 こうでもしなければ、あの人たちはあまりにも報われない。そんな思いが、胸の奥で重たく沈んでいた。「黒い木箱……。あなたたちが言ってたそれを、まずは何とかしないといけなくなったよ」 声に出してみても、事態の異様さは少しも薄れなかった。 黒い木箱は持ち去られた。 そう、あの老婆は言っていた。 この山にわざわざ足を踏み入れるような物好きなんて、そう多くはない。少なくとも、俺が知る限りではほとんどいないはずだ。だとしたら、一体誰が持ち去った? この町の人間なのか。それとも、たまたま外から来た誰かだったのか。 考えれば考えるほど、答えの出ない問いばかりが増えていく。思考がまた、嫌なループへ落ちかけた。 俺は小さく息を吐いて、それを無理やり振り払う。いま考えるべきことは、そこじゃない。そう自分に言い聞かせながら、その場にしゃがみ込み、作ったばかりの墓石へ静かに手を合わせた。「ごめんな。こんなものしか出来なくて」 自分の声が、思っていたよりずっと小さく、弱々しく響く。「でも、あなたたちが少しでも安らかに眠れるように祈るよ」 山は何も答えなかった。 ただ、乾いた風だけが吹き抜けて、供えた花の花弁をかすかに震わせた。 * ――山を降り、鳥居をくぐる。 俺は周囲を素早く見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、何食わぬ顔で参道を外れた。 そのまま少し進んだところで、ざわついた人だかりが目に入る。「ま、まさか……山に入ったのか!?」「だから罰が下ったのよ!」「だが、山に入った以上……儂らにも何か起きるやもしれん……」 怯えと興奮がないまぜになった声が、あちこちから飛び交っていた。
「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう
憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ
「お二人は、『山姥』って、ご存知ですよね?」俺の、唐突な問いかけ。その言葉に、夫婦の間に、ぴり、とした緊張が走った。「……山姥。彼女たちが現れるのは、決まって、かつて『姥捨て』があった場所だよ」悠斗さんの答えに、俺は息を呑んだ。やはり、俺の立てた仮説は、的を外してはいなかったらしい。「実は、まだ定かじゃないんです。ただ、俺の考えでは……この神鳴山には、姥捨てがあった可能性があります」「っ……!」二人が、同時に息を呑むのが分かった。「あくまで……俺の推測です。それでも、聞いてもらえますか?」「……うん。聞かせてもらおう」悠斗さんの、真剣な眼差し。俺は、一度だけ、ぎゅっと拳を
「え?」時が、止まったように感じられた。美琴さんの言葉が、意味を伴わない、ただの音の羅列として、俺の頭の中を反響する。『私はね、一度、死んでるの』これは……言葉通りに、受け取っていいんだよな……?何かの比喩、というわけでは、ないだろう。だって、彼女はさっき、言ったのだ。『寿命が尽きかけていた』と。目の前に座る美琴さんは、確かに生きている。温かな笑顔を浮かべ、夫である悠斗さんと穏やかな時間を過ごしている。だが、その言葉は間違いなく『一度、死んでいる』だった。「そ、それは、一体……」俺が、かろうじて絞り出した声に、答えたのは悠斗さんだった。彼は、どこか遠い目をして、静かに語り始めた
静まり返った和室に、俺の告白が、乾いた音を立てて落ちた。櫻井さん夫婦は、驚きもせず、ただ静かに俺の言葉を受け止めてくれている。やがて、悠斗さんが、諭すように、そして慎重に言葉を選びながら、俺に尋ねてきた。「差し支えなければ……その時のことを、もう少し詳しく教えてくれるかな?」「はい……。俺、実は小さい頃に、一度だけ、神鳴山に入ったことがあるんです」「山に? それは……何故? 確か、この町では、昔から神鳴山は禁忌の地と呼ばれていたはずだけど……」悠斗さんの言う通りだ。だが、幼い頃の俺にとって、その禁忌は、ただの挑戦状でしかなかった。「……小さい子特有の、無鉄砲さ、ですね。周りの友達
あれから、数日が経った。旅行の余韻は、じりじりと肌を焼くような猛暑に、とっくの昔にかき消されていた。テレビをつければ「観測史上、最高の暑さを記録」という言葉が毎日のように繰り返されている。俺は、そのうんざりするような現実から逃れるように、自室の椅子に深く沈み込んでいた。その時、机の上に置いていたスマホが、けたたましい着信音を鳴らした。画面に表示された名前は、『浅生智哉』。俺は、気怠げにそれを手に取り、通話ボタンをスライドさせた。「はぁい……もしもしぃ……」『おー! 相変わらず気だるそうだなー!』スマホのスピーカーが割れんばかりの、太陽のような声が鼓膜を叩く。(当然だろ。こんだけ