縁が結ぶ影 〜神解きの標〜

縁が結ぶ影 〜神解きの標〜

last updateLast Updated : 2025-11-06
By:  渡瀬藍兵Updated just now
Language: Japanese
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「退屈な日常が、いっそ歪んでしまえばいい──」 気だるげな高校生・浅生輝流(あさい・あきる)が抱いた破滅的な願いは、禁足地『神鳴山(かみなりやま)』で、最悪の形で現実となる。 軽い気持ちで参加した肝試しをきっかけに、彼は山を支配する怪異『百貌様(ひゃくぼうさま)』と、理不尽な縁を結ばされてしまうのだ。 その日から、輝流の日常は歪み始める。 手には、捨てても戻ってくる呪いの証『涙型の黒曜石』。 そして、これまで見えなかった、この世ならざるモノたちを視る『目』。 彼は、神の『所有物』となった。 しかし、神の悪意は、輝流の幼馴染・穂乃果(ほのか)を次の『生贄』として指名する。 神の謎を解き明かす『標(しるべ)』とは何か。 理不尽な運命を断ち切り、少女を救い出すことはできるのか。 これは、神に選ばれてしまった少年の物語。

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Chapter 1

第一話:神鳴山

白く焼けたアスファルトが陽炎かげろうに揺らめいている。耳の奥で飽和した蝉時雨せみしぐれが、脳の芯までをじわりと痺らせていた。汗で肌に張り付くワイシャツの感触が、意識の表面を絶えず削っていく。

夏。

この季節が、どうしようもなく嫌いだった。思考も身体も、何もかもが熱に溶けて弛緩していく。その気怠さの象徴のように、教室の窓の外、一つの山塊さんかいが横たわっていた。

神鳴山かみなりやま

ここ、霞沢県かすみさわけんにありながら、まるでその美しい名前を嘲笑うかのように、不吉な響きを持つ山。

夏草の深い緑におおわれているはずの山肌が、遠目には黒々とよどんで見える。まるで、この世ならざるものが滲み出した巨大な染みだ。地元では有名なその山が、畏敬いけいの念をもって語られることはない。

かつては人を守る神がいた、と古書にはあるらしい。陳腐ちんぷ御伽噺おとぎばなしだ。

今、あの山は人を**“招く”**。

行方不明者ゆくえふめいしゃしらせが流れるたび、町の人々は誰も口にはせずとも、あの黒い山のことを思った。

「おーい、輝流あきるぅ!」

背後から聞こえた間の抜けた声に、思考が現実へと引き戻される。鬼龍院きりゅういん智哉ともちかだった。

「……なんだよ」

「また随分ずいぶん気怠けだるそうだな、相変あいかわらず」

「気怠そう、じゃない。気怠いんだ。俺はもともとこういう性質たちだろ」

「ちがいねぇ!」

太陽みたいに笑って、智哉はそんな俺を肯定する。その屈託のなさが、少しだけ眩しかった。

「でさ! 輝流! 今日の約束……覚えてるよな!」

「ああ。山に行くんだよな?」

俺の言葉に、智哉は子犬のように何度も頷いた。

「そうそう! どうだ? 来れそうか?」

来れそうか、か。

退屈がゆっくりと静脈に流れ込み、身体を内側から蝕んでいくような毎日。禁じられた遊びは、大人たちに見つかれば面倒な説教が待っている。だが、そんなものは、この色褪いろあせた日常から抜け出す理由を打ち消すほどの重さを持たない。

「いいぜ。お前こそ、逃げんなよ?」

挑発するように口角を上げると、智哉は「こいつー!」なんて言いながら、椅子に座る俺の首に腕を回してきた。その手首を掴み、軽くひねげる。

「いだだだだ!」

「今日の放課後、楽しみにしてる」

俺がそう告げると、智哉は痛みに顔を歪めながらも、親指を立ててみせた。嵐のように去っていく背中を見送る。

その、直後だった。

「ねぇ、浅生あさいくん」

鼓膜こまくを心地よく震わせる、鈴が鳴るような声。振り返ると、白石 穂乃果しらいし ほのかがそこにいた。切り揃えられたショートヘアが、窓から差し込む西日に透けて、輪郭りんかくを淡く光らせている。

「ん?」

「私も、行きたいな〜なんて」

こいつは、俺の幼馴染だ。学校では「浅生くん」と呼ぶくせに、プライベートになると「輝流」呼びになる。そういうところがある女だった。

「……聞いてたのかよ」

「だって、智哉くんがあんなに楽しそうなんだもん。どうせ、心霊スポットとかでしょ?」

「まあな。だけど、今回は神鳴山だぞ。やめておけ」

その名を告げた瞬間、穂乃果の顔からすっと血の気が引くのが分かった。

「うそ……!? さすがに、あの山は……|まずいんじゃない……!?」

「それくらいが、丁度いい」

なぜ、そんな言葉が口から滑り出たのか。

自分でも分からなかった。ただ、目の前の日常があまりに色褪いろあせているから、いっそ、禁忌の色にでも染まってみたいと、心のどこかで願っていたのかもしれない。

終わりのチャイムが、やかましく鳴り響いた。

……それが、全ての始まりを告げる合図だった。

***

山の麓に立つ。昼間の熱気と山から吹き下ろす湿った冷気が混じり合い、生ぬるい空気が肌を撫でた。

スマホが示す時刻は、十七時二十分。西の空は燃えるような茜色に染まっているが、その光は俺たちの頭上までは届かない。見上げる山のシルエットが、空との境界を黒々と切り取っていた。

「うぉ……」

隣で、智哉が喉の奥で乾いた音を立てる。その視線の先、夕闇に浮かぶ山の入り口には、赤黒く錆びついた鳥居が、まるで巨大な獣のあごのように口を開けていた。

「……戻るなら今のうちだぞ」

昼間の教室での軽口が、嘘のように冷めて響く。冗談でこいつを死地に追いやる趣味はない。ここで怖気づくのは、臆病なのではなく、正常な判断というやつだ。

「……でも、輝流は行くんだろ?」

「ああ」

俺の即答に、智哉の肩が揺れる。一人でも行くつもりだった。

「お前ってすげぇよな……昔から全然ビビんないもんな」

「それは…褒められたことじゃないさ」

恐怖は、生き物が持つべき正常な生存本能だ。危険を知らせるための警報。

それが上手く機能しないのは、俺がどこか壊れているからだ。

だが、それでも。

俺は今日、この鳥居をくぐる。

このまま何も変わらない日常をなぞり続けるくらいなら、いっそ禁忌きんきにその身を浸して、この退屈な世界ごと歪んでしまえばいい。

そんな、破滅への渇望かつぼうにも似た何かが、確かに俺の背中を押していた。

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第一話:神鳴山
白く焼けたアスファルトが陽炎に揺らめいている。耳の奥で飽和した蝉時雨が、脳の芯までをじわりと痺らせていた。汗で肌に張り付くワイシャツの感触が、意識の表面を絶えず削っていく。夏。この季節が、どうしようもなく嫌いだった。思考も身体も、何もかもが熱に溶けて弛緩していく。その気怠さの象徴のように、教室の窓の外、一つの山塊が横たわっていた。神鳴山。ここ、霞沢県にありながら、まるでその美しい名前を嘲笑うかのように、不吉な響きを持つ山。夏草の深い緑に覆われているはずの山肌が、遠目には黒々と淀んで見える。まるで、この世ならざるものが滲み出した巨大な染みだ。地元では有名なその山が、畏敬の念をもって語られることはない。かつては人を守る神がいた、と古書にはあるらしい。陳腐な御伽噺だ。今、あの山は人を**“招く”**。行方不明者の報せが流れるたび、町の人々は誰も口にはせずとも、あの黒い山のことを思った。「おーい、輝流ぅ!」背後から聞こえた間の抜けた声に、思考が現実へと引き戻される。鬼龍院智哉だった。「……なんだよ」「また随分と気怠そうだな、相変わらず」「気怠そう、じゃない。気怠いんだ。俺はもともとこういう性質だろ」「ちがいねぇ!」太陽みたいに笑って、智哉はそんな俺を肯定する。その屈託のなさが、少しだけ眩しかった。「でさ! 輝流! 今日の約束……覚えてるよな!」「ああ。山に行くんだよな?」俺の言葉に、智哉は子犬のように何度も頷いた。「そうそう! どうだ? 来れそうか?」来れそうか、か。退屈がゆっくりと静脈に流れ込み、身体を内側から蝕んでいくような毎日。禁じられた遊びは、大人たちに見つかれば面倒な説教が待っている。だが、そんなものは、この色褪せた日常から抜け出す理由を打ち消すほどの重さを持たない。「いいぜ。お前こそ、逃げんなよ?」挑発するように口角を上げると、智哉は「こいつー!」なんて言いながら、椅子に座る俺の首に腕を回してきた。その手首を掴み、軽く捻り|上《あ
last updateLast Updated : 2025-08-20
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第二話:社
舗装された道は、とうの昔に闇に溶けて消えた。今はもう、月明かりすら拒む木々の合間を縫う、湿った獣道が続くだけだ。腐葉土の甘い匂いと、土の生々しい気配。それはまるで、山そのものの呼吸が、濃密な空気となって肺腑を満たしていくかのようだった。一歩、また一歩と足を踏み出すたび、心臓が肋骨の裏でやかましく脈打つ。その音だけが、自分がまだこの世界の輪郭の内側にいることを証明しているようだった。「はぁ……っ、はぁ……! おい、輝流……! 少し、待てって……!」ほとんど悲鳴に近い声が、背後で揺れる。振り返れば、智哉が木の幹に両手をつき、ぜいぜいと苦しげに肩で息をしていた。その姿は、この山の深淵に呑まれまいと必死にもがく、小さな生き物に見えた。「……情けないなぁ」「うるせぇ! 元サッカー部のお前と、生粋の帰宅部を一緒にしてんじゃねぇ! 少しは気を遣え! 気を!」「くだらないことで胸を張るなよ…」智哉の叫び声すら、この深い静寂に触れた瞬間、音もなく吸い込まれて消える。日暮れと共に急速に冷えていく空気が、汗ばんだ首筋を撫で、ぞくりと肌を粟立たせた。ああ、そうか。この感覚は、悪くない。色のない教室の椅子に沈み込み、ただ過ぎていく時間を殺すより、よほど、自分が「生きている」と感じられる。「……早くしろ。置いていくぞ」そう短く告げて、再び斜面に向き直る。背後で「悪魔ー! 人でなしー!」という情けない声が聞こえたが、不思議と心は凪いでいた。どれほどの時間、そうして登り続けたか。木々の隙間から覗いていた空の色が、深い藍色に沈みきった頃、息を切らして最後の斜面を登りきった。不意に木々の天井が途切れ、満天の星が、まるで音もなく降ってくるかのように目に飛び込んできた。「……ぁ」思わず、喉の奥で息が止まる。街の喧騒も、その偽りの光も届かない山頂だからこそ許される、神々しいまでの夜空。天の川が白くぼやけた光の帯となって空を横断し、手の届きそうなほど近くで、無数の星屑が玻璃の粒のように瞬いていた。流れ星が一つ、神様が気まぐれに空を引っ掻いた痕のように、音もなく夜の帳を切り裂いて消える。噂に聞く不吉な山の姿とは、あまりに不釣り合
last updateLast Updated : 2025-08-20
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第三話:謎の石仏
「……ふぅ。綺麗になったな」社を見上げ、手に付いた最後の蜘蛛の巣を払いながら、俺は誰に言うでもなく呟いた。分厚い埃の化粧を落とした社は、満天の星の光を浴びて、どこか誇らしげに、静かにそこに佇んでいる。「ああ……。心なしか、さっきまでの淀んだ空気が、嘘みたいに澄んでる気がするぜ」智哉の声も、先程までの怯えた響きが消え、穏やかな安堵が滲んでいた。風が、山の稜線を撫でる音がする。その音色ですら、どこか優しくなったように感じられた。この不思議な静寂の中で、ふと、疑問が湧いた。臆病なくせに、誰よりも真っ直ぐなこいつが、なぜ、この禁足地に俺を誘ったのだろうか。「そういえば、智哉」「ん?」「なんでお前、そんなに怖がりなのに、こんな山で肝試しなんてやろうと思ったんだ?」俺の問いに、智哉は少しだけ黙り込んだ。その視線は、夜空の星屑の海を彷徨い、やがて、自嘲と、ほんの少しの期待が混じり合った、歪な笑みをその口元に浮かべる。「……俺はさ、輝流が言ったように、才能ゼロだから」「……」「親父みたいに霊は視えないし、仏様の難しい話とか、全く分からなくてさ。……だから、ここに来て、そういうヤバい体験の一つでもすれば、もしかしたら……何かが、開花するんじゃないかって。そう、思ったんだよ」その言葉が、喉の奥に張り付いたガラスの破片のように、息をするたび鈍い痛みとなって胸に広がった。自分にないものを渇望し、自分ではない誰かになろうとするその姿が、ひどく危うく見えたから。「……馬鹿か、お前は」「え……」「霊能力者の才能がないなら、別の才能を信じろ。人には、得手不得手がある。光の当たる場所が、それぞれ違うだけだ。日陰でしか咲けない花があるだろ。無理して日に当たったら、お前みたいなのはすぐ干からびる」それは、俺の偽らざる本心だった。「おぉぉぉぉ〜……|輝流ぅぅ……! お前、やっぱ世界一良い奴だぁぁぁ……!!」感極まった智哉が、両手を広げて突進してくる。俺はそれを、ひらりと半身を引いて躱した。「おま、避けんなって!」「男と抱き合う趣味はない」「なんだよそれ! じゃあ穂乃果ちゃんならいいのかよ!?」穂乃果。その名前を心の中で転がすと、春の|陽だま
last updateLast Updated : 2025-08-20
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第四話:黒い涙石
「いや〜……相変わらず智哉くんは、いいリアクションするねっ!」闇の中から現れた穂乃果は、まるで悪戯が成功した子供のように、くすくすと楽しげに笑う。その姿は、この山の禁忌の空気とはあまりに不釣り合いで、まるで異世界から迷い込んできたかのようだった。「……あの怖がりを、これ以上ビビらせてやるな」俺がそう呟いてから数分後。闇に消えたはずの智哉が、木の影からおそるおそる顔を覗かせた。「……輝流? 今の声は……ゆ、幽霊じゃ、ないのか?」「残念だったな。こいつのだ」俺が親指で示すと、背中に隠れていた穂乃果がひょっこりと顔を出す。「じゃーん! 智哉くん、こんばんは」「うっそだろぉぉぉ……! なんで穂乃果ちゃんがここにいるんだよぉぉぉ……! めっちゃ情けないとこ見られたじゃねぇか……!」地面に崩れ落ち、本気で頭を抱える智哉。その姿に、俺は静かに言葉を重ねた。「大丈夫だ。お前が怖がりなのは、ここにいる全員が知ってる」「……っ!」智哉が、心底恨めしそうな目で俺を睨みつける。「で……? 本当に、なんで穂乃ちゃんがここにいるんだ??」「心配だからついて来たの。それなのに、輝流ったら本当に先に行っちゃうんだもん。流石にちょっと傷ついたかなー」穂乃果がわざとらしく頬を膨らませる。その仕草に、智哉の怒りの矛先が俺へと向いた。「おま……! 輝流ぅ! そういう大事なことは先に言えよ!」「ああ、うるさい。そもそも、こんな形で合流するとは俺も思ってなかった」 俺は二人の非難の声を背中で受け流し、麓へと続く道を歩き出した。***山を抜け、蛙の鳴き声が響く田んぼのあぜ道を歩く。月明かりが、風にそよぐ稲の葉を銀色に照らしていた。二人の漫才のようなやり取りをどこか遠くに聞きながら、俺は不意に、ポケットの中の違和感に気がついた。「ん……? なんだ、これ」指先に触れたのは、ひんやりとした硬い感触。というより、まるでポケットの中に小さな氷の欠片でも紛れ込んでいるかのような、不自然な冷たさだった。取り出して、スマホのライトで照らす。それは、夜の闇そのものを雫にして固めたかのような、真っ黒な石だった。涙の形をした、黒曜石。社の掃除をした時に紛
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第五話:怪異
じり、じり、と。脳髄を直接焼くかのような蝉時雨が、窓の外から絶え間なく降り注いでいる。熱を帯びた空気にチョークの粉が混じり合い、汗ばんだ腕が机のニスに張り付く。思考も、身体も、教室に澱むこの気怠さの中にゆっくりと溶けていく。あぁ……暑い。ほんとうに、この季節は嫌いだ。机の上に突伏し、意識を飛ばしかけていた俺の頭上に、不意にいくつかの影が落ちた。「浅生〜! 悪い……! 今日、サッカーの応援頼めねぇかなぁ……!」汗を光らせたサッカー部の主将の声。それに被さるように、別の声が響く。「おい! この間も浅生に来てもらっただろ! 今日はうちの練習試合だ、こっちが先約だ!」野球部の主将が、俺という駒を挟んで睨み合っている。「頼むって! 野球部も大変なのは分かるけど、こっちはマジで人が足りてないんだ! キーパーが熱中症で倒れたんだよ!」 サッカー部主将の切実な声に、野球部の主将がぐっと言葉を詰まらせる。「……ったく、しょうがねぇな。今回だけだからな」「サンキュ!! 助かる!」その熱量が、この茹だるような暑さの中で、ひどく億劫だった。「……おい。俺の意思はどこにいったんだ」俺が気怠く顔を上げると、二人が悪びれもなく笑った。「お前はいつも気だるそうだけど、なんだかんだ言って、最後は手伝ってくれるからな」はぁ……。返す言葉もない。期待されることの面倒さと、それを断れない自分の性分に、うんざりする。「……わかったよ。サッカー部な?」「おう! 頼むぜ!」嵐のように、二人は去っていった。その喧騒が消えた机の前に、ひょっこりと智哉が顔を出す。「相変わらず人気者だねぇ、輝流は」「……うるさい。誰もこんな人気は望んじゃいない。「まぁまぁ、いいじゃねぇか! じゃ、俺は先に帰るんで!」「おい、帰宅部」俺は、帰ろうとする智哉の肩を掴んだ。「お前も来いよ。体力作りのいい機会だろ?」すると智哉は、まるで世界の終わりでも見るかのような顔で、ぶんぶんと首を横に振った。「馬鹿野郎! 俺が応援なんて行ったら、呪いでチームを大敗させるぜ!?」胸を張って言
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第六話:日常の亀裂
『なんで……私が……』背後で響いた声は、今にも泣き出しそうなほど悲痛に震えていた。間違いない。これは、この世の者の声じゃない。音の響き方が、空気を震わせるのではなく、脳の柔らかい部分を、冷たいインクが汚していくように直接染み込んでくる。俺はその声に耳を傾けながら、ただ、同じ速度で歩き続ける。こつべちゃこつべちゃ俺の靴音と、背後の水音。二つの音は、まるで連弾のように、完璧な|間隔を保って夜道に響く。『痛い……辛い……もう……解放されたい……ぃ』ガラスが砕けるような、悲痛な哀願。その声を聞いた直後、俺は、衝動的に振り返っていた。──なのに。そこには、誰もいなかった。音も気配も完全に消え、ただ生ぬるい夜風が、俺の頬を撫でていくだけ。「……?」だが、ソレが確かにそこに居たという痕跡だけが、アスファルトの上に残っていた。まるで、咲いては枯れた彼岸花のように、一瞬だけ紅い残像が揺らめき、そして消えた。***次の日の昼休み。蝉時雨が降り注ぐ教室の喧騒の中で、俺は昨夜の出来事を、智哉と穂乃果に話していた。「うぅ……! お、お、お、お前、そんな状況で振り返ったのかよ……」「そ、それは流石に私も怖くて出来ないかも……」智哉は顔を青くし、穂乃果は心配そうに眉を寄せる。その反応が、ひどく当たり前で、正しいものに思えた。「……幽霊だって、元は生きた人間だろ。だから、別に怖いとか、そういう感情は湧かなかった」「お前……うちの寺の誰より霊媒師に向いてるんじゃねぇか?」「確かに! 普通、そんな簡単に割り切れないよ?」二人の言葉を聞きながら、俺はやはりどこかが壊れているのだと、嫌なほどに実感する。この恐怖への共感の欠如が、俺と世界の間に、薄い膜を一枚隔てているかのようだった。「うーん……その女の人の声を聞いて、本当に、怖さを感じなかったの?」穂乃果が、俺の瞳を覗き込むように問う。「ああ……。どっちかっていうと、何がそんなに辛いのか、その理由が引っかかったくらいだ」怖い、という感情より、なぜ彼女はあんなにも苦ししんでいるのか。その問いだけが、まるで胸に刺さった棘のように、今も鈍く痛み続けている。「浅生くんはさ、きっと、その人を助けたいんじゃないかな?」
last updateLast Updated : 2025-09-25
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第七話:赤い服の女
茜色の光がアスファルトを長く伸ばし、世界の輪郭が曖昧に溶けていく時間。断末魔のような鴉の声が、空に吸い込まれて消えた。「よしっと……私は準備完了だよ」穂乃果が、これから始まる冒険に心を躍らせるかのように、ぱんと一つ手を叩いた。「まず、輝流は、この辺りで女の人を見たんだよね?」「……そうだ。丁度あの自販機の所辺りだった」俺は昨日通り過ぎた、点滅する自販機を指さしてそう告げた。「うぉぉ……そんな話を聞いてると……今にもその霊が見えるんじゃないかって……気が気じゃねえよ……」身体をぶるぶると震わせながら、智哉が俺の後ろに隠れる。「この辺りで起きた事件……は、っと……」穂乃果の指が、スマホの画面を滑る。古い新聞記事のスキャンデータや、郷土史家のブログまで、慣れた手つきで次々とタブを開いていく。だが、数分後、彼女は困ったように首を傾げた。「うーん……特に、ないね。事故や事件の記録は、ここ数十年は一件も」「手詰まりが早くないか……?」「そうは言っても、本当にインターネット上には載ってないんだもん。もう少し、見てみるけど」沈んでいく太陽と同じように、俺たちの高揚感もまた、ゆっくりと地平線の下に消えていくようだった。「あ、そうだ。穂乃果、ついでに後でいいからこれも調べてくれないか?」そう言って、俺はポケットからあの涙型の黒い石を取り出した。ポケットから出した途端、周囲の熱を吸い込むかのように、石の表面にじわりと水滴が滲む。穂乃果の顔が怪訝なものになった。「良いけど……なに? これ」「先日、智哉と肝試しに行った帰りに、いつの間にかポケットに入ってた。多分だけど、社の掃除をした時に紛れたのかもしれねぇ」「お前そんなもん持ち歩いてんのかよ……」智哉の言葉より先に、穂乃果が目を丸くして叫んだ。「輝流が……!? 社の掃除を……!?」そんなに驚くことか……?「ちなみに、実はこれ、一度落としたんだ。でも、いつの間にかポケットに戻ってた」そう言い終えるより先に、二人は俺からさっと距離を置いていた。その視線が、まるで得体の知れない蟲でも見るかのように、俺の手の中の石に突き刺さる。「そ、それほんと……?」「捨てても戻ってくる……ってことか……?」「ああ。智哉に押されて田んぼに落とした。でも、帰ったらまたポケ
last updateLast Updated : 2025-09-26
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第八話:壊れているのは
恐怖ではなく、純粋な『問い』が口をついて出た。 「…………あなたは、なんでそんな姿になってしまったんですか」 しかし、女は答えてはくれない。ただ、濁った瞳で虚空を見つめている。 「……どうして、彷徨っているんですか?」 『ァ……ァ……ァァァ……』 意味をなさない、苦痛の音だけが漏れ聞こえる。 「ちょ、ちょっと!!! 輝流!! なにしてるの……! だ、誰と話してるの!?」 「おいおい……急にどうしたんだよ……!」 穂乃果と智哉の悲鳴のような声。二人の瞳は、俺の背後にある『無』を捉えている。俺だけが、この世界の理から外れた一点を視ている。 「……お前たちには、目の前にいるこの人が見えないのか?」 その俺の言葉に、二人の顔が真っ青になっていく。 「えっ……輝流……まさか、今、目の前にゆ、幽霊がいるの……?」 「ひ、ひっ…!!!」 「ああ……」 俺は、目の前の惨状を、検分するように、淡々と口にした。 「顔は潰れてて、多分目は見えてない。それに……ありとあらゆる関節が真逆に折れてる。……余程強い衝撃を受けたんだろうな」 智哉に至っては、もうガクガクと震え、声にならない喘ぎを漏らしている。 「輝流……そ、そんな説明は……いらないって……」 穂乃果の声が悲鳴に変わる。 その時だった。 『なんで……私が……ぁ……ぁ』 『なんで…! どうして……!! なんで私がァァァァァ……!!!!!』 『なんで…!!! なんでなんでなんでなんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇえぇ!!!!!!!!』 女が、天に向かって絶叫した。 空気がガラスのように震え、耳鳴りと共に脳が圧迫されるような感覚。それは音というより、純粋な『苦痛』の波動だった。 「っ……」 隣で、智哉の身体がぐらりと揺れる。その鼻から、つ、と赤い血が垂れた。 っ……!まずい。これは、ただそこにいるだけの霊じゃない。 「穂乃果、智哉を連れて離れるぞ!」 「う、うん!」 俺は智哉の腕を肩に回し、駆け出した。背後から、穂乃果の必死の息遣いが聞こえる。大丈夫、ちゃんと付いてきている。 *** 俺たちはすぐにその場を離れたが、女はあの場所から動くことはなかった。 「……智哉、大丈夫か?」 「あ……あぁ……悪ぃ……」 唇を紫
last updateLast Updated : 2025-10-01
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第九話:モノクロの世界で
街灯の光が作る小さな円の中で、重い沈黙が俺たち三人を支配していた。遠くで車の通り過ぎる音が、まるで別の世界の出来事のように聞こえる。 「……落ち着いたか?」 俺は隣で俯き、座り込んでいる智哉に、そう尋ねた。 「……あぁ。悪かったな、取り乱して」 「謝るな。……今回は、俺が悪い。お前を巻き込んだ。悪かった」 「流石に、実際に被害が出るとなると……危険すぎるよ……」 穂乃果が、心配そうに呟く。 その通りだ。現に智哉は鼻血を出し、今も唇を紫色にして、どこか具合が悪そうに見える。 だが、俺は、あの女を。 見ず知らずの人間を助けたいだなんて、そんな大層なことを思っているのか、自分でも分からない。 それでも。 あの絶望の形を、あの場所から解放したいと……さらに強く思った。 仮に、十年前の踏切で亡くなったのだとしたら、彼女は十年もの間、あの苦しみを味わい続けているということだ。 そんなのは……間違っている。人の尊厳じゃない。 幸いにも、俺に恐怖心は何故かない。 だからこそ、これは、俺にしか出来ない事なのではないだろうか? 退屈を憎んでいたはずの俺が、自ら厄介事の中心に飛び込もうとしている。そんな、使命にも近いような感情が芽生えていることに、俺は気がついた。 驕りかもしれない。 だが、それでも、この色褪せた世界で前を向くには、十分すぎる理由だった。 「ねぇ……輝流」 「なんだ?」 穂乃果が俺に目で合図をして、智哉に聞こえないよう、そっと声を潜めた。 「輝流……智哉君は……この話からは、外した方がいいよね?」 そう、不安そうに穂乃果が言う。俺もそれが正解だと思った。 だが……それであいつは満足するのだろうか? 厄介事に首を突っ込む俺の隣には、いつもこいつがいた。 ……いや、本当は、俺としても大人しく引き下がってくれた方が良いとさえ思っている。これ以上、こいつを危険な目に遭わせたくない。 それは穂乃果も同じだ。 ……こいつも俺にとっては大切な幼馴染だから。 「な、なぁ……」 智哉が、震える声で俺たちを呼んだ。 「どうした?」 「輝流は……あの女の、後ろにいた……化け物を……見たか……?」 化け
last updateLast Updated : 2025-10-02
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第十話:秋咲 叶
じりじりと肌を焼くような陽射しが、教室の窓ガラスを白く光らせている。外からは、空気を揺らすほどの蝉時雨。まるで世界の輪郭が、その音で溶けてしまいそうだった。 あぁ、また退屈な一日が始まる。 そんなことを考えていた俺の視界に、ひとつの空席が映り込む。いつもなら、馬鹿みたいにでかい声が聞こえてくるはずの、智哉の席だった。 昨日のアレが、よほど堪えたんだろうか。 机に頬杖をつきながら、ぼんやりとそんなことを思う。あいつのことだ、今頃部屋の隅で布団でも被っているのかもしれない。 「……何か、見舞いでも持っていくか」 誰に言うでもなく呟いた、その時だった。 「ねぇ、浅井くん」 ふわりと、シャンプーの匂いがした。すぐ隣の席の穂乃果が、俺の机を覗き込んでいる。 「どうした?」 「放課後、智哉くんに何か持って行ってあげない?」 ……心でも読まれたかと思った。 「ああ、俺も考えてた。コンビニで適当に菓子でも買って、顔だけ見てくるか」 「うん! それがいいと思う!」 穂乃果は嬉しそうに頷くと、ふと真面目な顔つきになって声を潜めた。 「それで…ね。昨日二人が見たっていう、赤い服の女の人なんだけど…」 すっ、と目の前に差し出されたスマホの画面。そこに映っていたのは、一枚の古い写真だった。白いワンピースを着て、幸せそうに微笑む、知らない女。 「……この人、かもな」 喉の奥から、乾いた声が出た。 昨日見たあの顔は、ぐちゃぐちゃに潰れていて判別もつかなかった。けれど、この写真の女性が着ている服の形には、見覚えがあるような気がする。 俺が見たのは、赤。けれど、画面の中のそれは、白。 いや、あれは元々、白だったのかもしれない。何か、おびただしい量の液体を浴びて、ああなっただけで。 「名前は…」 俺は、写真の下に添えられた名前を、汗で湿った指先でなぞった。 ──秋崎 叶 「秋崎…叶さん、か」 「うん。おじいちゃんの資料にあったんだけど、裕福な家庭の人だったみたい。…それでね、夏祭りの夜、恋人と一緒に出かけた帰り道で、踏切に飛び込んだんだって」 穂乃果の言葉に、窓の外の蝉の声が、一瞬遠のいた気がした。 「えっ…恋人の、目の前でって事だよな?」 「うん…。その恋人さ
last updateLast Updated : 2025-10-05
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