Masuk「退屈な日常が、いっそ歪んでしまえばいい──」 気だるげな高校生・浅生輝流(あさい・あきる)が抱いた破滅的な願いは、禁足地『神鳴山(かみなりやま)』で、最悪の形で現実となる。 軽い気持ちで参加した肝試しをきっかけに、彼は山を支配する怪異『百貌様(ひゃくぼうさま)』と、理不尽な縁を結ばされてしまうのだ。 その日から、輝流の日常は歪み始める。 手には、捨てても戻ってくる呪いの証『涙型の黒曜石』。 そして、これまで見えなかった、この世ならざるモノたちを視る『目』。 彼は、神の『所有物』となった。 しかし、神の悪意は、輝流の幼馴染・穂乃果(ほのか)を次の『生贄』として指名する。 神の謎を解き明かす『標(しるべ)』とは何か。 理不尽な運命を断ち切り、少女を救い出すことはできるのか。 これは、神に選ばれてしまった少年の物語。
Lihat lebih banyak「なん……ですって……?」 かろうじて、声が漏れた。 目の前の老婆が、今、何と言った? 俺の思考が、目の前の現実についていけない。 『……儂らはあの娘を殺してはおらぬ』 『あの娘の亡骸へ憑依し、百貌様へ取られないようにしたつもりだったが、結局、あの娘は百貌様へ奪われてしまった』 ……憑依、したのは……百貌様から、守るため……? 頭の中で、あの夜の記憶が、全く違う意味を持って再生される。 俺の首を締め上げた、あの異常な力。あれは、俺を殺すためではなく、雪峰の亡骸を「渡さない」という、必死の抵抗だったのか? 『……儂の中の誰かにも、あのくらいの孫がいたからの…その名残りか、理性が無い状態でも、あの娘を守ろうとしたようじゃ』 その言葉に、胸を抉られるような、どうしようもない悲しみがこみ上げてきた。 この人たちは、化け物なんかじゃない。ただの、孫を想う、祖母だったのか。 じゃあ、雪峰を殺したのは……百貌様ということか? 俺の思考が、ようやく一つの結論にたどり着く。そうだ、元凶は山の神だ。この人たちも、雪峰も、全て……。 「じゃあ…百貌様が…!」 だが、その結論すらも、老婆は、静かに否定した。 『……それも、ちと違う。今の百貌様はな、猛毒を呑んだお方じゃ。毒に狂い、もはや善悪の区別もつかぬ』 猛毒……? 『あの娘を殺したのは、百貌様ではない。……百貌様が、その身のうちに抱え込んでしまった、猛毒そのもの……あの黒い木箱から漏れ出した、おぞましい呪いじゃよ』 俺の思考は、今度こそ、完全に停止した。 山姥が、犯人じゃない。 山の神も、直接の犯人じゃない。 雪峰を殺したのは、神をも狂わせる、「黒い木箱の呪い」? 黒い木箱…って、なんだ? 俺は、一体、何と戦おうとしているんだ……? 「……その、黒い木箱っていうのは……一体、何なんですか?」 俺は、震える声で、全ての元凶について尋ねた。 『儂らが姥捨てに合う、数十年前。まだ儂らが子供だった頃に、鳴神村から、神へと捧げられたものじゃと聞いた』 鳴神村……確か今の神鳴町の、過去の名前。 『じゃが、その当時に残されていた手記によれば……それを捧げてから、神は狂った、とされておる』 ──神が、狂った。 その言葉が、雷のよう
憎悪に歪んでいたはずの顔から、全ての力が抜け落ち、ただ、ぼろぼろと大粒の涙を流している。 その涙は、顔にこびりついた血と腐肉の汚れを洗い流し、幾筋もの、透明な軌跡を描いていた。 あれほど燃え盛っていた瞳の憎しみの炎は、完全に身を潜め、そこには、底なしの悲しみだけが、静かに揺らめいている。 やがて、そのひび割れた唇から、壊れた怨嗟ではない、本当の声が、嗚咽と共に漏れ始めた。 それは、何百年もの間、誰にも聞かれることのなかった、魂の叫びだった。 『なんで……なんで……儂は…儂らは…捨てられなければならなかったのか…』 その声は、もはや化け物のものではなかった。ただの、弱々しい老婆の声だ。 『儂らの犠牲によって……村が町へ発展したのは……分かります……』 『じゃが……生きている人たちは……儂たちという犠牲者を忘れてしまった……』 『どうして……!どうして……!儂らは……供養してくれれば……こんな怒りに囚われずに済んだのに……』 堰を切ったように溢れ出した言葉は、やがて、声にならない慟哭へと変わり、山姥はその場に崩れ落ちるように膝をついた。 (この人たちは……姥捨てそのものを、仕方ないと受け入れていたのか……。ただ、忘れられることが……供養されないことが、これほどの怒りに……) 俺は、静かに山姥の前まで歩み寄り、彼女と同じように、その場に膝をついた。 そして、泥にまみれ、骨張ったその手を、俺は両手で、そっと握った。 氷のように冷たい手に、俺の体温が、ゆっくりと伝わっていく。 「あなたたちを……忘れたのは、俺たち生きてる人間の罪だ。恨む気持ちは……少し分かる」 「動けなくなったら、捨てられるなんて辛かったよな……」 俺の言葉に、山姥は顔を覆い、さらに激しく泣きじゃくった。 『うぅぅぅぅぅ……!!!!!』 「だからさ、俺があなたたちの事を、町のみんなが思い出せるようにする」 俺は、握った手に、さらに強く力を込めた。 「時間はかかるけど……俺が、この町を変えるから、信じて欲しい」 しばらく泣き続けた後、山姥は、震える声で、俺に問いかけた。 その瞳は、初めて、俺という人間を、まっすぐに見ていた。 『お前さんは……儂たちの気持ちが分かるのか……?』 「完全に分かるわけじゃない…なんたっ
再び、その冷たい手が、俺の首を締め上げてきた。一度ならず、二度までも。俺の意識は、今度こそ、深い闇の底へと沈んでいくように感じられた。薄れていく意識の中、ごぼり、と喉が嫌な音を立てる。(……ここまで、か……)雪峰に続き、俺もここで……。脳裏に、穂乃果の不安そうな顔が浮かんだ、その瞬間だった。胸元が、灼けるように熱い。突然、心臓の真上あたりから、太陽が生まれたかのような、凄まじい熱が発生した。それは、ただの熱ではない。生命力そのものとでも言うべき、力強く、そして、どこまでも優しい温かさだった。カァンッ、と。頭蓋の内側で、澄み切った鐘の音が響き渡る。同時に、俺の身体から、真紅の光が爆発した。光は、俺の身体を中心に、薄い障壁のように展開する。それは、俺を締め上げていた老婆の腕を弾き飛ばし、凄まじい勢いでその本体を後方へと吹き飛ばした。「がっ……! げほっ、ごほっ……! はぁっ……はぁ……!」何が起きたのか、分からない。地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく肺に空気が流れ込み、俺は激しく咳き込んだ。朦朧とする意識で顔を上げる。数メートル先で、老婆が地面に突っ伏し、もがくように身体を動かしているのが見えた。俺が、やったのか……? いや、違う。俺には、こんな力は……。そう思い、無意識に、熱の発生源である胸元へと手を伸ばす。そして、気づいた。「……これ、か」首から提げた、悠斗さんから譲り受けた勾玉。それが、自ら光を放つ恒星のように、鮮やかな紅い光を脈打たせていた。まるで、俺を守るために覚醒した、もう一つの心臓のように。その時、体勢を立て直した老婆が、再び俺へと向かってきた。憎悪に歪んだ顔は、先ほどよりもさらに凄まみを増している。だが、老婆が俺から三歩ほどの距離まで踏み込んだ、その瞬間。再び、勾玉から、紅い気の波紋が弾けるように放たれた。それは、目に見えない壁となり、突進してきた老婆の動きを、ぴたり、と防ぐ。『ギ……ッ……!』老婆は、見えない壁に阻まれ、それ以上一歩も前に進めない。まるで、檻に囚われた獣のように、虚空を何度も掻きむしり、その怒りをぶつけてくる。口が、声にならない形でおぞましく開閉し、その灼けつくような憎悪が、脳に直接ねじ込まれてきた。『ユルサナィィィ……ナゼ……ジャマヲ……スル……ッッ!!!』俺は、ま
対岸に渡りきったことで、背後を流れる渡瀬川の轟音は、まるで世界の境界線のように、俺を現世から切り離した。神域。だが、そこに神聖な空気など欠片もなかった。木々の間を流れる風は止み、空気が粘り気を持って肌にまとわりつく。そして、漂ってくるこの匂い。「……間違いない。この匂いだ」一度嗅いだら、二度と忘れられない。死そのものが放つ、強烈な腐敗臭。俺は懐中電灯を構え、記憶を頼りに、匂いの源流へと足を進めた。すぐに、あの声が聞こえてくる。壊れたからくり人形のように、途切れることなく怨嗟を紡ぐ、単調な声。───ゆる……さな……い……前回ここに来た時、俺はこの声と匂いに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。だが、今は違う。懐中電灯の光が、見覚えのある山姥の姿を捉える。そこにいた。あの時と、全く同じ姿で。肌は、血で染め上げたように真っ赤だった。痩せこけた身体には、薄汚れてボロボロになった着物が、死装束のようにまとわりついている。べったりと額に張り付いた白髪には、ぶんぶんと、黒いハエが集っていた。その光景は、記憶していたものと寸分違わず、そして、記憶以上に悲惨だった。顔の左半分は腐り落ち、剥き出しになった骨と歯茎が、言葉を紡ぐたびに不気味に動いている。前回は、何も知らなかった。ただ、圧倒的な怨念を前に、どうすることもできなかった。だが今は……。(あんたたちの苦しみが、少しだけ分かる気がするよ)飢えと、寒さと、そして何より、信じていた者に裏切られた絶望。老婆は、俺の存在に気づく様子もなく、ただ、虚ろな瞳で虚空を見つめ、同じ言葉を唱え続けている。その声は、もはや何の感情も宿さない、ただの音の羅列だった。「──許サない……ユるサなイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……ユルサナイ……」憎悪と怨嗟を煮詰め、凝縮させた言葉の刃。俺は、目の前の、友の仇を見据えた。永い永い絶望の果てにいる、救うべき魂を。その瞳の奥に映る、遠い過去の悲劇に、意識を集中させた。一歩、また一歩と、俺はゆっくりと山姥へと近づいて行く。山姥の周囲に群がる黒いハエが、俺の接近に気づいて数匹、羽音を立てて飛び立った。腐敗臭が、息をするたびに思考を鈍らせるほど濃く