Mag-log in第5章
エレーナが正式に離婚したわずか翌日、元夫の結婚式の招待状が早くも彼女のもとに届いていた。
「あのクソ野郎の結婚式に招待されたの!?」ダミアン・ランカスターとイザベラ・モンローの名が刻まれた金の招待状をエレーナに見せられると、タマラの声が跳ね上がった。
エレーナはただ苦笑いを浮かべた。「もちろんよ。招待されないわけがないでしょう? あの最低男とあの女は、私が傷つく姿を見たいのよ」
タマラは鼻を鳴らした。「で、行くつもり?」
エレーナはうなずいた。「ええ」
タマラは目を丸くした。「エル、正気なの!? 何のために!?」
エレーナは冷ややかな目で招待状を見つめた。「この目で確かめたかったのよ。誰かがどれほど素早く私の代わりになるのかを見届けて、二度と同じ愚かな真似には引っかからないのだと自分に言い聞かせるためにね」
タマラはため息をついた。「……はあ、だったら行って、あのクソ野郎にあなたが平気だってことを見せつけてやりなさい。もっと格調高く決めなきゃね」
タマラの言いたいことを理解し、エレーナは微笑んだ。
「分かったわ、それならオリヴィア、カティ、デリャをあなたに預けるわね」
「任せて!」
夜が更けると、エレーナは自信に満ちた足取りで高級ホテルの披露宴会場へと足を踏み入れた。自らデザインした黒のサテンのドレスが彼女の身体を完璧に包み込み、控えめさの陰に隠されていた優美なシルエットを露わにしていた。長い髪は低い位置でお団子にまとめられ、赤い唇には薄く意味ありげな笑みが浮かんでいた。
彼女が一歩前へ踏み出すと、あちこちから whispers が聞こえ始めた。
「あの人は誰?」
「まあ、なんて完璧なの。とても美しくてエレガントだわ」
しかし、ダミアンとイザベラがメインステージに姿を現すと、あらゆる称賛の声はかき消された。
イザベラはダイヤモンドホワイトのドレスを身に纏い完璧な美しさを誇り、その隣にはダミアンが誇らしげに立っていた。彼の腕の中には、安らかな顔で丸まる小さな赤ん坊が抱かれていた。
「ランカスター家の跡継ぎ、デヴィッド・ランカスター・モレノです!」
来客たちは歓声を上げ、拍手を送った。貴族たちはイザベラを、ダミアンにお似合いの価値ある女性だと称えた。
一方、エレーナは立ち尽くし、胸の内に得体の知れない感情が這い上がってくるのを感じていた——自身が嫌悪する嫉妬という感情を。
10年間の結婚生活の中で、ダミアンが自分や子供たちをこのような華やかな場に連れてくることは一度もなかった。オリヴィア、カティ、デリャが誇らしげに紹介されたことなど一度もない。彼女たちはまるでランカスター家の一員ではないかのように、常に隠され続けてきたのだ。
だが今、イザベラとその赤ん坊は世界中に披露されている。
視界が熱くなった。
ダミアンが赤ん坊の額に優しくキスをした時、エレーナは心臓がぎゅっと握りつぶされるような感覚を覚えた。
これまで一度だって、ダミアンが自分たちの3人の子供にそんなことをしてくれたことはなかった。
くそっ。
エレーナはこれ以上見たくなくて背を向けた。今にも涙がこぼれ落ちそうだったが、力づくで押し殺した。
だが、あまりにも急ぎすぎた。
ドンッ!
彼女は誰かとぶつかってしまった。
男が手にしていた赤ワインのグラスがこぼれ、彼の高価なスーツを濡らした。
エレーナは顔を上げ、その男を見つめた。
引き締まった顎のラインを持つ鋭い顔立ち、冷たげなグレーの瞳、そして威圧感のある高い背丈。
ナサニエル・ドレイク・セバディアン。
その名を知らない者などいるだろうか。
彼は社交界で最も権力を持つ男であり、望めば王室をも揺るがすことができるビジネス帝国を所有していた。
ナサニエルは濡れたスーツに視線を落とし、それから信じられないといった様子でエレーナに目を向けた。「僕のスーツを濡らしてくれたね、お嬢さん!」
エレーナは息をのんだが、謝罪するどころか背を向け、素早い足取りで男から離れていった。
ナサニエルは眉をひそめた。「一体何なんだ?」
彼は去っていく女性の後姿を見つめた。
「謝りもしないのか?」と、信じられない様子で呟いた。
通常、彼に非礼を働いた者は誰であれ即座に謝罪するか、賠償を申し出るものだ。だがあの女性はただ逃げ去った。
ナサニエルは汚れたスーツを見下ろし、くすりと笑った。「面白い」
そして、先ほどワインをひっかけた女性の姿を再び瞳で追った。
自分を無視する度胸のある女性など、初めてだった。
エレーナは化粧室の鏡の前に立ち、茫然と自分の映り込みを見つめていた。瞳はかすかに赤らみ、唇は感情で震えていた。
「馬鹿ね」と自分自身にささやいた。「あんな最低男のために泣くなんて無意味わ」
彼女は頬に残る涙の痕を素早く拭い去った。弱みを見せている場合ではない。外ではイザベラがこちらの苦しみを面白がっているはずだ。自分が打ちのめされる姿を見せてあの女を満足させるわけにはいかなかった。
深呼吸をし、エレーナはメイクを直した。その顔に薄い笑みが浮かぶ——冷ややかで、計算高い笑みが。
「さあ行きなさい、エレーナ。諦めている場合じゃないわ」高らかに頭を上げ、踏み出す前に彼女は呟いた。
披露宴会場に戻ると、空気は相変わらず華やかだった。クラシック音楽が静かに流れ、ゲストたちはシャンパングラスを手に歓談し、群衆の中央にはイザベラがまるで誰かを待っているかのように優雅に立っていた。
案の定、エレーナが数メートル進んだだけで、鋭い声が投げかけられた。
「エレーナ、あなたもいらしたのね」
イザベラの声のトーンは甘ったるかったが、その裏には毒が仕込まれていた。
エレーナは薄く微笑んだ。「ええ、もちろん来たわ」
イザベラは皮肉めいた笑みを浮かべた。「本当に勇敢な女性ね。元夫の結婚式に来て、他の女性と結婚した彼の幸せな姿を見るなんて。すべての女性がそこまで勇敢になれるわけじゃないわよ?」
エレーナはただ無表情でイザベラを見つめた。「幸せなんて見えないわ。二人の裏切り者が愛をひけらかしている姿しか見えなかったけれど」
イザベラの顔が一瞬引きつったが、すぐに再び笑みを浮かべた。
しかし、イザベラはそれだけでは収まらなかった。エレーナの身なりに視線を編み込ませると、鼻で笑った。
「あなたが身につけているそのネックレス……伝説のデザイナーのものじゃない?」イザベラは軽蔑するような視線を送った。「あら、でも待って。本物を買えるわけがないわよね。偽物に決まっているわ、でしょう?」
来客の数人が二人のやり取りに気づき始め、背景でヒソヒソと話し始めた。
エレーナは笑みを絶やさなかった。心の中ではこの女を黙らせてやりたい衝動に駆られていたが。
「言葉を選びなさいな、イザベラ夫人。どう見ても、このネックレスは本物よ!」
イザベラはくすくすと笑い、ずる賢い目つきで近づいてきた。
「そうなの? じゃあ、あなたのドレスも偽物かどうか確かめてみましょうか」と言うやいなや、イザベラは突然エレーナのドレスを掴み、破り捨てようとした。
エレーナは反射的に身を引いたが、イザベラがそれ以上引っ張る前に、大きな手が突如として彼女の手首を強く掴んだ。
「イザベラ・モンロー嬢、少々やりすぎのようですな」
低く冷ややかな声に、イザベラは瞬時に硬直した。彼女が顔を向け、自身を制止した男を目にすると、その瞳が大きく見開かれた。
ナサニエル・ドレイク・セバディアン。
会場内が一瞬にして静まり返った。すべての視線が、圧倒的なオーラを纏って立つ黒いスーツの男に注がれた。
エレーナも驚いていた。先ほどぶつかった男がここに現れ、イザベラを止めるとは思ってもみなかった。
「ナ……ナサニエル様?」イザベラは言葉を詰まらせた。
ナサニエルは彼女に冷たい視線を浴びせると、掴んでいた手を離した。「人前で子供じみた振る舞いをする女性は好みではないのでね。ましてや、これほど安っぽい方法で人を辱めようとする女性など」
イザベラは唾を呑み込んだ。「私……私はただの冗談のつもりでしたの、ナサニエル様」
「冗談?」ナサニエルは片方の眉を上げると、依然として佇んでいるエレーナに目を向けた。
イザベラは微笑もうとしたが、その顔色が少し蒼白になっているのは明白だった。
そして、ナサニエルはエレーナへと視線を転じた。
「それから君」彼は幾分砕けたトーンで言った。「僕たちの用件はまだ終わっていないようだが?」
エレーナは眉をひそめた。「はい?」
ナサニエルはかすかに微笑むと、ワインのシミがついた自身のスーツを指さした。
「あ……」エレーナはついに察した。
まだ近くにいたイザベラもそのシミを目にし、くすくすと笑った。「まあ、彼女があなたのスーツを汚したのですか? ナサニエル様、その女にお仕置きをお与えになるべきですわ」
ナサニエルは答えなかった。彼は返答を待つように、エレーナから目を離さなかった。
エレーナはため息をつき、男を見つめ返した。「分かりましたわ。スーツはお弁償いたします」
ナサニエルは興味深そうな表情で彼女を見つめた。「何で弁償してくれるのかな? お金でかね?」
エレーナはくすりと笑った。「私にはデザイナーの友人がおりますの。彼に頼んで、新しいスーツをお仕立てさせますわ。間違いなく、あなたが今お召しのものよりも素晴らしいスーツをですわ、お客様!」エレーナによくもまあそんな口が叩けたものだ。
ナサニエルは一瞬絶句し、それからくすくすと笑った。
「自信のある女性は嫌いじゃない」彼は言いながら、名刺を差し出した。
「3日以内に連絡したまえ。約束を果たしてもらう」
エレーナはその名刺をじっと見つめてから受け取った。
イザベラは奥歯を噛み締めながら二人を凝視していた。こんな展開は気に入らなかった。
エレーナは冷静にナサニエルを見つめた。「分かりましたわ。約束は守ります」
ナサニエルはうなずいた。そして背を向け、パーティー会場を後にした。
手の中の名刺を見つめ、エレーナは小さく微笑んだ。
「なるほど、彼が噂の最高権力者というわけね……まあ」エレーナは心の中で呟いた。
第60章「なぜ急に防犯カメラが壊れるのよ!?」静まり返った職員室に、エレナの悲痛な叫びが響き渡った。学校のIT担当職員が、気まずそうに視線を落とす。「私どもにも分かり兼ねます、エレナ様。今朝までは正常に稼働していたのですが……今日の午後に至り、突如として正門の映像が読み込めなくなってしまいまして。システムの不具合かと……」「システムの不具合……?」エレナは怒りと挫折感に満ちたた息を吐き出した。「じゃあ、私の子を連れ去った人物の手がかりは、これで完全に絶たれたというの!?」アルヴァの担任の教師が、必死にエレナを宥めようと寄り添う。「本当に申し訳ございません、エレナ様。ですが私どもも、あのお方がエレナ様のお使いで迎えにいらしたものとばかり……」「もういいわ!」エレナは声を荒らげ、その瞳にじんわりと赤みが差した。「二度とそんな弁明をしないで! これは誘拐よ……誘拐なのよ!」蒼白な顔のまま、エレナは職員室を飛び出した。バッグからスマートフォンを取り出す手が激しく震える。彼女はすぐさまタマラの番号をダイヤルした。「タマラ! 落ち着いて聞いて……アルヴァが……アルヴァがいなくなったの。誘拐されたわ!」エレナの声は震え、息も絶え絶えだった。「なんですって!? 嘘でしょう、エレナ……落ち着いて、今どこにいるの!?」電話の向こうでタマラが焦燥を露わにする。「学校よ。アルヴァの幼稚園の防犯カメラも壊されていて、誰が連れ去ったのか分からないの! こんなの偶然じゃない、仕組まれたことよ! お願い、タマラ、今すぐ我が家へ向かって。警備員を全員呼び集めて! 市内全域を捜索させて、アルヴァを見つけ出すのよ!」「分かった、分かったわ! すぐに家へ戻るわね。防犯カメラの映像を復元できるか、腕の立つ専門家にも連絡してみるわ!」タマラが素早く答えた。返事を待つことなく、エレナは通話を切った。車に飛び乗り、猛スピードで我が家へとアクセルを踏み込む。目頭を熱くさせながら、脳裏にはアルヴァの笑顔が何度も浮かんでは消えた。(どうかアルヴァをお守りください……神様、お願いです……)彼女が帰宅してわずか数分後、門の前に別の車が猛スピードで滑り込んできた。引き締まった表情を浮かべたネイサンが、車から跳び出してきた。「エレナ!」ポーチに佇むエレナの姿を目にし、ネイサンが叫んだ。エレナはす
第59章エレナの車は、夕暮れの混雑した道路をゆっくりと進んでいた。スピーカーからはクラシック曲が静かに流れ、アルヴァの顔を思い浮かべる彼女の心を落ち着かせていた。今日、エレナは自ら息子を迎えに行くと約束していたのだ。ブティックの忙しいスケジュールのせいで、最近は滅多にできないことだった。「私がお迎えに行ったら、アルヴァはきっと大喜びするわね」エレナは笑みを浮かべて小さくささやいた。ダッシュボードの時計に目をやる。下校のベルが鳴るまで、まだ10分あった。遅れないようにと、エレナは少しだけアクセルを踏み込んだ。その時突然、歩道からレジ袋を手にした老女が、左右も確認せずに道路を横切ってきた。エレナは反射的にブレーキを強く踏み込んだ。キィィィィッ!車は老女のほんの数センチ手前でどうにか停車した。「なんてこと……!」エレナはドアを開けて外へ飛び出した。「おばあさん! 大丈夫ですか!?」老女は驚いた様子で道路の真ん中に棒立ちになっていたが、突如として大声をあげて泣き崩れた。「痛い……痛いわ、足が! ぶつかられそうになったじゃないの!」エレナは慌てて近づいた。「まあ、本当にごめんなさい、おばあさん。でも、横断されているのに気づかなくて……」「あなただって悪いのよ! なんで悪魔に追いかけられているみたいにスピードを出しているのよ!? 今の若い人はこれだから!」老女は啜り泣きながら叫び立てた。後続車のドライバーたちが一斉にクラクションを鳴らし始めた。エレナは生唾を呑み込み、周囲からの冷ややかな視線を全身に浴びているのを感じた。「わかりました、わかりましたから。さあ、歩道までお連れしますね」落ち着こうと自分に言い聞かせながら、エレナは老女の手をとって通りを渡るのを手貸した。歩道に辿り着くと、老女は小さな公園のベンチに腰掛け、さらに激しく泣き叫んだ。「ああ、うちの孫が……孫をお迎えに行かなきゃいけないのに……足がこんなことになって……」「お足は大丈夫ですよ。私も急いでいて、子供を学校へ迎えに行かなければならないんです。ご家族に連絡するのをお手伝いしましょうか、それとも……」「だめよ、あなたが責任を取りなさい! ここに座りなさい! 私が歩けるようになるまで、ここにいなさい!」老女はエレナの手を引っ張り、強引に座らせようとした。「おばあさん、本当にお願いで
第58章イザベラは自らのサングラスを部屋の床へと叩きつけた。レンズが鋭い音を立てて砕け散る。乱れた息を吐き出しながら、未だ冷めやらぬ怒りにその顔を赤く染めていた。「よくも私をぶったわね、ダミアン! しかもあの泥棒猫の前で!」彼女は歯を食いしばりながら低く呟いた。半ば崩れた髪を掻き乱しながら、彼女は部屋の中を行ったり来たりした。屈辱、怒り、そして傷つけられたプライドが胸の中で混ざり合う。ダミアンが自分をかばうのではなく……あの女、エレナをかばった時の声が脳裏に蘇る。「そんな女の方がいいというの……? エレナがランカスター家の跡取りを産んだからというだけで……?」イザベラは溢れ出そうになる涙を必死に押し殺した。その時、突如としてテーブルの上のスマートフォンが彼女の視線をとらえた。素早く手に取り、連絡先を開くと、長らくかけていなかった名前に指を押し当てた。通話が繋がった。「用件は?」電話の向こうから低く重い声が聞こえた。「仕事があるの」イザベラは素早く、冷ややかに言った。「報酬は?」男は事務的に尋ねた。「幼い男の子を拐ってほしいの。名前はアルヴァ。5歳くらいよ。写真と通っている幼稚園の場所を送るわ」「本気ですか、ベラさん? 小さなガキを誘拐しろと?」男は小さく鼻で笑った。「リスクが大きすぎますね」「どうでもいいわ。いくら欲しいのか早く言いなさい!」「分かりました。5億ルピア請求します。現金で」イザベラは歯を強く噛み締めた。決して小さな額ではない。しかし、ダミアンの冷酷な眼差しと、自分を切り捨ててあの女をかばった強い声が再び彼女の脳裏を打ちつけた。「いいわ、5億払う。口座番号を送りなさい。ただし、手際よくやりなさいよ。それと……この計画の裏に私がいることは、絶対に誰にも知られてはダメよ」「お安心ください、ベラさん。しかし……本当に後悔しませんね?」イザベラは冷酷に低く笑った。「ええ、後悔なんてしないわ。あのガキのせいでダミアンがエレナに執着し始めたというなら……あのガキを排除するしかないでしょう」一方、ダミアンは車内で一人佇んでいた。「エレナの言う通りだ。俺は良い父親ではない。だが、このまま引き下がるつもりはない」ネイサンの存在。ダミアンは彼が未だエレナの周囲にいることを知っていた。だからこそ、焦燥感は増すばかりだった。罪悪感、喪失
第57章「ネイサン……さっき、お家に帰ったんじゃなかったの……?」まだ彼の腕の中に抱かれたまま、エレナは低く尋ねた。速くなりすぎた鼓動と鼓動の間に埋もれるように、その声はほとんど聞き取れないほど小さかった。ネイサンは息を吐き出すと、ゆっくりと抱擁を解き、穏やかな眼差しでエレナを見つめた。「ああ。でも、君が僕の車に携帯を忘れていくだから」彼は助手席に残されていたスマートフォンを指し示した。「それに……どういうわけか胸騒ぎがして離れなかったんだ」エレナは小さく頷き、震える手でスマートフォンを受け取った。「……ありがとう」二人は見つめ合った。一瞬が永遠のように感じられた。時間が凍りつく。ネイサンは彼女の隣に腰掛け、依然として微かな距離を保っていた。しかし空気の中には、互いに押し込めてきた感情、耐え難いほどの熱情、そして息の詰まるような緊張感が途方もなく濃厚に漂い始めていた。「エレナ……」ネイサンがささやくような低い声で呼んだ。「ねえ……僕は君のことが頭から離れないんだ」エレナはゆっくりと顔を向けた。その眼差しは――鋭くも柔らかく、切なくも必死に抑え込まれていた。その一瞬で、彼女が築き上げてきたあらゆる防壁が、ひと欠片ずつ瓦解していった。エレナが答える前に、ネイサンはすでに身を乗り出していた。そして一瞬、エレナは身を引かなかった。ネイサンの唇が、エレナの唇にゆっくりと、温かく、祈りを込めるように触れた。それは欲望に任せたものではなく、あまりにも長い間抑え込まれてきた想いの溢れだった。最初はショックのあまり凍りついていたエレナだったが、やがて彼女も吻を返した――ゆっくりと、不安げに、けれど偽りのない本心で。彼女の心は、もう抗うことができなかった。口づけは熱を帯び、静かなものから深く、濃厚なものへと変わっていった。ネイサンの手がエレナの頬へ伸び、うなじをなぞりながら、彼女の身体をより近くへと引き寄せた。二人が腰掛けるソファが、その一部始終の目撃者となった。ネイサンの唇が首元へと移動し、甘く愛撫するように愛を囁くと、エレナは小さく息を漏らした。肌に鳥肌が立ち、冷たさからではなく、何年も忘れていた甘美な戦慄に全身が震えた。「ネイサン……」エレナは掠れた声を漏らしたが、それは制止を求める声ではなかった。ただ溢れ出てしまった告白のような響きだった。ネイサ
第56章夜の7時を知らせる時計の針とともに、空はしだいに闇に包まれていった。街の灯りがひとつ、またひとつとゆっくり灯り、窓の隙間からひんやりとした夜の空気が忍び込んでくる。エレナがアルヴァにミルクを与え終えたところで、デリヤは床の上でおもちゃに夢中になっていた。その時、インターホンが鳴り響いた。こんな夜遅くに訪問者など心当たりがなく、エレナは不審に思いながら眉をひそめた。急ぎ足でドアへ向かい、扉を開ける。そこに立っていたのはネイサンだった。体に完璧にフィットするダークスーツを身に纏い、仕立て良く、洗練された姿を見せている。「やあ」ネイサンは挨拶した。どういうわけか、いつもエレナの鼓動を早くさせてしまうあの独特の笑みを浮かべて。「ネイサン?」エレナは少し驚いた。「どうしたの? 来るなんて言っていなかったじゃない」ネイサンは背後から小さな箱を持ち上げた――百合と白いバラの花束だ。「君をディナーに連れ出そうと思ってね」彼は期待を込めた眼差しで言った。「お店も予約してあるんだ。一緒に行ってくれるかい?」エレナは反射的に家の中、遊んでいる子供たちの方向へと視線を向けた。「無理よ。子供たちを置いて出かけるわけにはいかないわ」「行ってらっしゃい、エレナ。子供たちの面倒は私がみるから」家の中から声が響いた。エレナの忠実なアシスタントであるタマラが、コーヒーを手にキッチンから姿を現したのだ。「私も仕事が終わったところだし、この子たちも私になれているから大丈夫よ」「でも、タマラ……」タマラは片方の眉を上げた。「エレナ、あなたはずっと頑張ってきたわ。あなたの人生は、ただ母親で社長であるためだけにあるんじゃないのよ。たまには自分の時間を楽しみなさい。ネイサン様が誘ってくださっているんだから」ネイサンは誇らしげな笑みを噛み殺しながら、期待の眼差しでエレナを見つめた。エレナはタマラを見つめ、子供たちを見つめ、そして最後にネイサンに視線を合わせた。「分かったわ。でも、少しの間だけね」ネイサンは満足気な笑みを浮かべた。「ああ」レストランは、市街地の中心部に位置するブティックホテルの最上階にあった。足を踏み入れた瞬間、控えめな照明、心地よいジャズの音色、そして高級アロマキャンドルの香りがエレナを出迎えた。ネイサンは恭しく彼女の椅子を引いて座らせ、エレナを頬を赤らめさせた
第55章エレナは依然として沈黙を守っていた。その顔が火照っているのは、キスの余韻からだけではなく、ネイサンが彼女の首筋に落としていった追撃のキスのせいでもあった――熱く、深く、そして不意を突くようなキス。「あぁっ……」彼女の口から漏れた吐息に、ネイサンは小さく笑みを浮かべた。もう否定しようのない何かに触れたのだと確信している男の笑みだった。「エレナ」ネイサンの声は掠れ、ほとんど囁き声のようだった。「君の首筋に愛の印を刻んだよ。君は俺のものだ、エレナ」エレナは素早く顔を向け、少し目を見開いた。「ネイサン……」「今すぐ答えなくていい」ネイサンは優しく言った。「でも、何も感じていないなんて言わせないよ」エレナの身体が熱を帯び始めた。心臓が激しく脈打ち、頭の中が乱れていた。半分は彼にキスを返し、その顔に触れ、自分の唇で彼の首筋を辿りたいと望んでいた。だがエレナはただ唇を噛み締め、必死に欲望を抑え込もうとした。右手でネイサンのスーツの襟元に触れようとしたが、すぐにその手を降ろした。彼女は素早く窓の方を向いた。「中に戻らなきゃ。バラがまだ待っているわ」「エレナ……」ネイサンはまだ情熱的な眼差しで彼女を見つめていた。「本気よ、ネイサン。これ以上ここにいたら、自分がどうなってしまうか分からないわ」彼女は素直な気持ちを呟くように漏らした。ネイサンは無理に引き止めなかった。急ぎ足で車を降りていく彼女の姿をただ見送った。ドアが閉まると、ネイサンはシートの背もたれに頭を預けた。そして、確信に満ちた笑みを静かに浮かべた。「彼女も同じ気持ちだ」彼は呟いた。「時間の問題だな」エレナは深く息を整えながら、レストランの中へと足を踏み入れた。バラはまだ席に残っており、すっかり冷めてしまったコーヒーを忙しなくかき混ぜていた。「遅くなってごめんなさい」エレナは平静を装いながら素早く腰掛けた。だがバラは即座に違和感に気づいた。その視線は鋭かったが、表情は落ち着いたままだった。「大丈夫かい?」と彼は尋ねた。エレナは気まずそうに微笑んだ。「ええ。何でもないわ」バラは頷いたが、その視線はエレナの首元へと落ちた。そこに残されたものが、彼の目を一瞬強張らせた。無視するにはあまりにも目立つ赤みだった。「エレナ」彼は静かに言った。「さっきのは誰だい?」エレナは固唾を呑んだ。友人だ