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バーの個室では騒がしい音楽と笑い声が響いていた。
綾川紗良は、目の前に寄り添う二人を呆然と見つめていた。
今日は、会社創立四周年を迎える記念すべき日。 そして紗良と四年間付き合ってきた恋人・柏木凌平との交際記念日だ。会社の上場も具体的に動き始めた。
紗良は、いずれ結婚するのだと疑いもしなかった。——けれど
この数か月の間、凌平への愛は少しずつ確実にすり減ってきた。
原因は、彼が義妹の水野澪奈を何度も何度も優先し庇い続けたことだ。「上場出来るまで大きな会社になったのは、お前たちのおかげだ。そして澪奈、お前がいつも俺を支えてくれるおかげだよ」
そう優しく微笑みながら、凌平は義妹の水野澪奈を強く抱きしめる。
その瞬間店内に多くの口笛が吹かれ、恥ずかしそうにする澪奈と満足そうに笑う凌平が見える。
紗良は、目の前で起こっていることが受け入れられず、足から温度が抜けていくような冷たい感覚の中で頭が真っ白になる。 それに追い打ちをかける声が店内に響き渡った。「紗良じゃなくて、もうこのまま澪奈と結婚しちまえよ。会社が大きくなったのは澪奈の支えがあってじゃないか?」
その声の主たちは、会社の役員たちだ。
彼らに認められた二人の関係。 それに気をよくした澪奈は、凌平に抱かれたまま悲しそうな顔をして服の袖を掴む。「私はそんなことを望んでいないわ。ただ、紗良さんは一人で会社を作ったように、凌平のことを馬鹿にした態度で接するでしょ。せめて私が凌平を支えてあげたいの」
そう言って潤んだ目で凌平を見つめている。
馬鹿にした態度って何?
凌平が嫌がる仕事や出資者を募る仕事、研究は全部私が請け負ったのにどうしてそんなふうに……入り口で立ち尽くしたままの紗良は困惑する。
「本当だよ。もう少し紗良が婚約者を立てようという気なら俺たちだって応援する。でも、あの性格で、ブスで地味な姿をみるとゾッとするよ」
その声にどっと笑いが起きる。
「お前の助けがないと俺はここまで頑張れなかったと思う。ありがとう、澪奈」
凌平は抱きしめた腕を首筋に伸ばし、その唇に舌を絡めた。
もう周囲は囃し立てない。 むしろ、見ないように背中を見せて気を配っている。見られていないのにみられている。
その背徳感にぞくぞくして澪奈は上目遣いに凌平を見つめ、「凌平、愛してる」と呟いた。
「澪奈、俺も愛している」
そう言い、再び深い口付けを交わしながら、その手はみんなに見えない背後に進み、太ももを撫で上げスカートの中に入っていく。
だが、その瞬間。
ガタン
凌平の背後で誰かが椅子を倒したような音を立て、振り返る。
中にいたメンバーが二人から目を逸らした瞬間、入り口の紗良を視界に捉えたからだった。「……紗良、どうしてここに」
顔面蒼白になり見るからにショックで体が震えた状態の紗良に対して、眉間に皺を寄せた凌平は見るからに嫌な顔をした。
婚約者がなぜここにいるかは気にしても、どうしてこんなにショックを受けているのかは気にならないのね。
「……どうして?いえ、それは私が聞きたいものね」
紗良の視線は澪奈のスカートに差し込まれたままの凌平の手から逸らすことはない。
この状況、説明出来るのかしら?
そう態度で示した。
「ゲームをしてふざけ合っていただけだよ。」
その手を何ごともなかったかのように抜き、凌平は澪奈に「心配しなくていいからね」と優しく声をかける。
そして、憎々しげに紗良の方を睨んだ。
「今日は、みんなに俺の慰労パーティーを開いてもらっていたんだ。紗良は呼ばれてないと思うが?」
「ああ、功労者だけが招かれる会だからな。お前は招待してないよ」
経理の大谷誠司が声を荒げて、入り口にいた紗良を強く押す。
それにより紗良の体はよろけ、かけていた度の合わない安物のメガネが顔からずり落ちる。「この店はドレスコードがあるんだ。そんな薄汚れた格好でこられたら迷惑だ」
凌平の秘書の剣崎優が凌平と澪奈の間に立ち、紗良は自分より大きな男性二人から囲まれる形になる。
それを凌平は庇うことも止めることもしない。「剣崎さん、紗良さんだってみんなと親しくなりたくてきただけかもしれないよ。やり方が強引だとは思うけど……」
凌平の袖から手を離さない澪奈は、紗良は困った人を見るように眉を下げた。
「慰労……というのは、今日が会社設立4周年だから?」
そう力なく微笑みながら聞く紗良に、凌平の顔は強張る。
紗良は、会社の設立資金を出し、更には研究資金を出資してくれる人を探し、AI開発を進め製品化まで漕ぎ着けた。
それを手伝った者はここにいない。それでも、凌平が4年前に言ってくれた言葉を信じていたからここまで頑張れたのに……
紗良は、今までの自分の行動が情けなくなる。
「……あなたの言うとおりね」
紗良は小さくため息をついた。
「ただのゲームだよね。邪魔してごめんなさい。二人で楽しんで」
乾いた笑いを漏らし、その場を立ち去ろうとした。
だが——
「せっかく来たんだし、紗良さんも一緒に楽しみましょう。このお酒、凌平が私のためにバーテンダーに作らせたの。ねえ、紗良さんも飲んでみて」
澪奈はわざと開けている胸元にカクテルグラスをかざし、いくつか赤い痕が残っているのを見せつける。
そしてその上には——滲んだ口紅。「あら、他人の彼氏の唾液とそのお酒、どちらがおいしかった?義妹さん?」
紗良は冷やかな目で澪奈のキスマークをわざと覗き込む。
「おい!その言い方はないだろう?呼ばれてないのに場を乱して更には澪奈にまで!謝れよ」
拳に血管が浮き出るほどの怒りを滲ませ凌平が迫る。
だが、その怒りの表情を見れば余計に冷静になっていく。紗良は、背後から怒鳴り声が聞こえるのを無視してバーを後にした。
◇四年前——
紗良と凌平が出会ったのは兄将暉の墓前だった。 実験事故によって、大好きだった兄を突然失った紗良はまるで世界そのものが崩れ落ちてしまったかのように感じていた。 そんな彼女の前に現れたのが凌平だ。 自分は将暉の親友だと名乗り兄の思い出や紗良の知らないエピソードをいくつも聞かせてくれた。あの瞬間、紗良は心から信じた。
——この人は、兄が自分に残してくれた最後の贈り物なんだと 結局、結婚どころか、会社を大きくするために利用されただけ。紗良が家まで帰る途中、何度かスマホのバイブが鳴る。
それを取り出して再びため息をついた。
スマホに示される凌平の名前を見た一瞬の期待と絶望がそこにある。
「あの態度は何だ?」
「みんなに謝れ」
「澪奈がお前のせいでショックを受けている」
「澪奈に謝れ」
メッセージの件数は30件を超えていた。
全て紗良を否定するものと、謝罪を求めるものだ。紗良はそれに返答することはなかった。
代わりに表情を変えることなく、久しぶりに一つの番号をタップする。電話の相手は元婚約者の藤代宗明。
「ご無沙汰ね。半月後東京に戻ります。あなたとやり直したい」
続いて響いたのは、冷たくよそよそしい男の声だった。
「紗良、俺の記憶違いでなければ、以前君は『恋人』が出来て俺たちの婚約を破棄したはずだ」
「その男とは別れる……」
「……俺の手はいるか?」
冷え切った宗明の声には、相変わらず有無を言わせない強引さと、強い侵略性が滲んでいた。
「大丈夫」
紗良はキッパリと答えた。
「彼とのことは私が綺麗に片をつけるから。手は煩わせない」
——私のものを私の手で取り戻す。
ただ、それには少し時間が必要だった。東山ホテルは、日本では知らないものはいないと言われる五つ星ホテルだ。 その中でも、302号は隣の301号とコネクティングルームになっており軽いパーティーができるぐらいの広さがあった。「凌平、皆さんお待ちかねよ」そのままベッドに倒れ込んだ凌平だったが、眠りにつくと言うよりは頬を赤らめ、胸や呼吸の動きが荒くなっていく。 どうやら薬は、睡眠よりも快楽が勝りはじめたようだ。「皆さん、彼は大人の女性との快楽を求めたいみたいなの。どうもね、お付き合いしている子がお子様すぎて物足りないんですって」紗良は豊満な胸と体を持つ熟女クラブから何人か派遣を依頼する。名前は全員「紗良」 年齢は60から80代の高齢者対象クラブだ。301号の待機室からゾロゾロと下着姿の女性たちが凌平を囲んだ。「いい男じゃないの」「ええ、これから上場するかもしれない会社の社長さんよ。羽目を外して開放的になりたいみたい」紗良は、長い重圧の中で戦い続けた可哀想な男だと告げた。まずその中でも比較的若い60代の娼婦の1人がさらりと衣服の下から触れるとすでに熱い反応が始まっているらしく「ああ……紗良……」と吐息が漏れ始めていた。「皆さん、自由恋愛ですからね。必ず恋してくださいよ。これは、お互いが求め合った結果ですから。そうそう、彼は大人の遊びをお付き合いしているお子様に見せてあげたいんですって」「あら、じゃあいろんなプレーを見せてあげる方がいい?」大人の玩具から手錠に蝋燭、なわ、おしゃぶりとおむつまでずらりとベッドの横に置いていく。「そうね。童心に帰りたいようなら彼の希望に合わせてセッティングしてあげて。もし、嗜虐されたいならそれも。そして……もし、そのお子様が混じって遊びたいというなら仲間に入れてあげてね」紗良はくすくす笑うと、凌平の耳元に触れる。 そして、ふっと息を吹きかけると、凌平は恍惚とした顔でぼんやりと目を開いた。「あら、私恋をしたみたいだわ」娼婦たちが話すと、紗良はそのまま耳元で囁く。「皆さんあなたに恋をしたみたいよ。凌平……お返事できる?」すでに娼婦たちは、凌平の服の下に入れた手に動きを見せ始める。「はは、俺も恋したみたい……気持ち良くなってきた……」「そう。そのままお任せしましょうね」紗良が退いた耳もとには、すでに豊満な胸を持った娼婦が占拠し始め、とろんと
翌日、研究支援基金のトラブルを聞きつけた理沙が、紗良の事を心配して別荘に駆けつけた。「なにを凌平は企んでいるのかしら……紗良、まさか行く気じゃないよね」紗良は、ティーカップを机に置きながら微笑んだ。「もちろん行く気よ。やられてばかりじゃ気が済まないでしょう?」「やめなさい。病院であなたを強引に連れ去ろうとした凌平を見たよね?」理沙は、紗良の腕に巻かれた包帯を見つめた。 二人きりになれば、凌平は容赦ない暴力と残虐な思考を隠そうとしないのではないか。 再び紗良を傷つける可能性が高いと思った。「危険すぎる。あなたのことが心配なの……」「理沙……もちろん凌平のことは全く信用していないわ。今回は私から反撃するだけよ」「反撃って……何を考えているの?」理沙は今までの慈悲深く穏やかな紗良とは雰囲気が変わったと感じて少したじろぐ。「凌平には私が受けたものと同じ思いをしてもらうだけ……」紗良の顔にはもう笑みは見られなかった。 紗良は、東山ホテルの最上階にあるフレンチレストラン「ラ・ヴェリテ」に向かっていた。持ち込み料はすでに支払い済。 ワインは最高級で手に入りにくいものを準備した。そのコルクに針を刺し、注射器で「凌平への最後のプレゼント」を注ぎ込み渡す。「連絡していた持ち込みのワインです」凌平はラベルの年号と銘柄を見たら間違いなく瓶を空にする。 味なんてわからない男に飲ませるのは勿体ないけど、最後の慈悲よ。紗良は冷たい瞳でその高級ワインを見つめる。「すまない。早めに来たつもりだったんだが……」凌平は、約束の10分前にやって来た。「いいの。4周年のお祝いに一緒に飲もうと思っていた高級ワインをレストランに預けたところよ」「そんな準備までしてくれたのか。遅くなってすまなかった。いや、すべてが言い訳だ」「そうね……でも謝罪のチャンスをもう一度上げてもいいかと思って」凌平の言いなりになりうつむいていた紗良はそこにはいない。今日の紗良は、シンプルに首元は詰めたロングドレスにあえて小粒のダイヤモンドを一つだけ首元に飾り、上品な装いを見せた。だが、背中は美しく開き、ゆるく巻いてサイドをまとめた髪の下にのぞくうなじは色気にあふれている。松田に磨き上げられ、深いワインレッドの唇を上げる紗良は、もう凌平から視線をそらすことはしなかった。むしろ
紗良は、実妹の里美に今後を相談した。「別荘を用意したから、あの男も簡単に潜りこむことは出来ないはず。お父様とお母様にはここに匿うことは話してある。ただ、4年前に家を飛び出てしまったあなたと、以前のような関係に戻るのは難しいみたい」紗良にも、その理由は分かっていた。綾川財閥の長女であり、その相続権を持つ自分が、兄を亡くした直後に婚約者を捨て、別の男と駆け落ち同然で姿を消したのだ。戻ってきたからといって、何事もなかったように迎え入れられるはずもない。「反省はしてる。あの頃の私は間違えていた。すぐに許されるとも思っていない。それでも、私は藤代宗明とやり直すと決めた」「それならいい」里美との通話も必要最低限だった。 紗良は小さく息を吐く。 今の自分には、まだ家族という後ろ盾がない。それでも別荘には本宅から、自分の専属使用人だった松田幸恵が派遣されていた。 それだけで、両親が本当は心配していることが伝わってくる。「松田さん、またお世話になります。しばらくは部屋で仕事をするつもりなので、食事もここに運んでもらえますか」「もちろんです。遠慮なくお申し付けください」松田はそう言って、紗良が好きなダージリンを置くと部屋から出ていった。少しして、静かになった室内でスマートフォンが鳴る。「休む暇もないわね……」紗良は、苦笑しながら電話に出る。「綾川副社長、お世話になっております」「渋谷さん、どうされました?」 渋谷は兄の名を冠した綾川将暉研究支援基金の利用者だ。 その彼の少し慌てたうわずった声が、スマホから響いていた。「AIとドローンを活用して、山間部の集落に薬と食料を届ける実験中だとご存知ですよね。来月ももう基金でその予算を組んでいて、待っている人もいるんです。給与もそこから……」渋谷の声は明らかに動揺している。「それなのに、本日突然、柏木凌平社長の名前で通知が届きまして、綾川将暉研究支援基金は終了する、と」「……は?」紗良は思わずその場に立ち上がった。「その文書を転送して下さい」届いた文面には【綾川将暉研究支援基金中止のお知らせ】とだけ記されていた。その理由の説明もない、 一方的な中止の通告だ。 そして柏木凌平の署名もあった。紗良は、唇を噛み締めた。この基金を頼りに研究している人たちにとって、中止は研究の継続そのもの
関口の目からは怒りが伝わり、凌平を睨みつけることを隠していない。それだけで、複数の株主たちの目は泳ぎ、ざわつき始める。「このメールは、明らかに私の名前を使って偽造されていた。そこで独自のルートを使い調べさせていただいたよ。柏木社長、あんたの実家が発信源だ。説明いただこうか?」「私も説明願いたい。この席で私の名前を騙るものが副社長に暴行を働こうとしたと聞いている。私の名刺とは違うものが現場には落ちており、その映像の男は柏木社長や他の幹部の学生時代の友人だとか?」理沙がレーザーポインターで指したのは、紗良に関口勉と名乗った男だ。その瞬間、凌平が抱き込んだ株主たちは次々様子を見る姿勢になった。役員変更は否決、更には紗良がいないことによって、中身のない研究報告をするしかなくなり会場は紛糾する。凌平たちはひたすら頭を下げたり、身に覚えがないと言い続ける騒ぎになる。「私はこういう行為は許さない!被害届を提出すると同時に、民事訴訟も起こして徹底的に責任を追及する」関口の言葉に、会社は上場どころではない騒ぎとなる。積み上げたものが壊れるのは一瞬――その騒ぎを、紗良は複雑な心境で見つめるしかなかった。会社は連日問い合わせが殺到し、関口が巻き込まれたことでニュースになった。実績がないのに副社長になろうとした義妹の澪奈にも、嫌疑の目がむけられ始める。紗良は、そのニュースを見終わると、病室のテレビを切った。「退院準備できた?荷物を持つよ」車を病院入り口に回すために、理沙が、駐車場に車を取りに行った時だ。「紗良!」入り口に凌平が待ち構えている。「帰るぞ!」凌平は、突然紗良の腕を掴む。「やめて!もうあなたとは終わりよ!帰るつもりなんてないわ。よくもこんな目に合わせて、すごすごやってきたものね」「俺と一緒に帰るんだ」「離して。もう別れたって言ったでしょう。私たちはもう何も関係ない。終わったの」再び、凌平は強く紗良の腕を掴み、無理やり引っ張って自分の車に乗せようとする。その車の中には――澪奈!助手席に座り、微笑んで紗良を見つめている。「彼女から手を離してもらおうか!」その凌平の手を葛城が掴む。そして、遅れてすぐ理沙も飛び込んできた。「彼女に触れないで!こちらも護衛はつけさせてもらっている。力でねじ伏せるなら彼が相手よ。また、前回、自宅で
「紗良!目が覚めた?無事でよかった。本当に!」「理沙……なの?」まだぼんやりとする。そこには、紗良が目覚めたことに気づいてボロボロと涙を流す親友の理沙がいた。紗良は、自分にはきちんと味方がいるのだという安心感と同時に、どうしてここに運ばれたのかと思い出して、ぞわっと冷たいものが体を駆け巡った。あの下品な男たちの顔を思い出すと同時に、安易に信じてしまった自分の馬鹿さ加減に怒りが抑えきれない。 紗良は、たくましい理沙の言葉に少しだけ目元を和らげて、ひきつった頬を引き上げて、笑顔を見せようとした。「理沙、私は大丈夫よ」そう言って、目線を理沙に合わせようとする。——そんなはずがない。理沙は病院に駆けつけたとき、医師から聞かされた言葉を思い出していた。「彼女の精神状態はかなり不安定です。くれぐれも刺激しないようにしてください」理沙は再び紗良を見つめる。その瞳には、隠し切れない心配と痛々しいほどの慈しみが滲んでいた。紗良は、小さく二度ほど咳き込むと、水を二口飲んでから再び口を開いた。「凌平と組んでいる株主たちの件だけど……今どうなっている?」「あなたを陥れようとしている株主たちと凌平は、あなたの会社の持ち株を、水野澪奈の名義に移そうとしていたみたい」「そんなものに私が頷くわけないでしょう」「ええ、そんな事、あなたが譲渡契約書にサインをするしか手がないもの。意識がないことをいいことにサインをさせようとしていたのか、動画で脅そうとしていたのか……」「凌平からは恨まれたものね。ただ、関口義男やその息子の名前を語ったのは失敗ね」紗良の口元は少し上がる。関口は誰も信用しない。それだけに、自分の名前を騙った奴がいればそれは誰なのか必ず突き止める。「関口を味方につけましょう。あと今回名前を騙られた株主たちも味方にするわ。上場の役員に澪奈は絶対に絡ませない」紗良は、関口からの偽メールが来たことや、関口の息子の名前を騙る男が現れたので、注意喚起をしたいと関口に伝える。「これで充分よ。後は勝手に関口が、自分の名前を騙った奴に制裁を加えるわ。防犯カメラのようなものに、昨日の男たちの映像が残っていたら押さえて欲しいの。あとゴミの中に名刺などが残っていたら、それも回収しましょう」「それを使うというわけね」理沙の言葉に紗良も頷く。「偽物だったなら、
翌朝——紗良は、地下の人目のない場所にある自身の研究室にいく。副社長の立場にはあるものの、研究の中には自ら手を動かして取り組まなければならないものがあった。その研究室の社用パソコンのメールボックスを開くと、会社の大株主の一人である関口義男から連絡が入っていた。関口の巷の評判は、彼の持つ株は絶対と言われ、彼の手放す会社の株は未来がないといわしめるほどの投資家だ。「新商品の開発について臨時株主総会の前に相談したいことがある……突然な話ね?」紗良は、昨夜の理沙からの留守番電話が頭をよぎっていた。まず、この株主は自分を引きずり下そうとしている人物なのか?それとも澪奈が副社長になることを阻止しようとしているのか?理沙から、すでに凌平側についている株主については把握していたが、関口はその株主には入っていない。偶然だろうか?紗良は少し思案したが、関口の対応を凌平にさせた場合を想定してみる。「関口が私の敵に回る方が厄介ね」凌平は、兄将暉と大学時代の同級生だったにもかかわらず、紗良の研究を理解し、説明できるほどの能力はない。訳の分からない嘘を、大株主に伝えられても困る。更に現在、凌平と共に動く株主たちの動きも気になっていた。紗良の悪口でも吹き込まれ、澪奈を副社長に推されても困る。紗良が、関口に会いに行くという選択しかなかった。「当社の研究や、その商品開発の状況を説明させていただく機会を与えていただき、ありがとうございます」日程と場所はこちらでセッティングが必要だろうか?すぐその返信はあった。「えっ?今日……かなり急な話……」紗良は困惑が隠せなかったが、関口ぐらいの大物なら、すでに他の株主が紗良が上場後の役員名簿から外れる動きがあるのを耳にしているのかもしれないと思いなおした。商品や研究だけではなく、紗良が抜けた後の会社に価値があるかどうかを判断したいようだ。紗良は、指示された料亭に一人資料を抱えて向かっていった。料亭さくら——「お客様お待ちしておりました」上品な店構えと一見さんお断りの高級料亭。「すでに関口様は到着されていますか?」関口より後にくることなどあってはならない。自分は迎える側なのだからと早めについたつもりだったが……「ええ、すでに皆様お揃いですよ」「皆様お揃い?」予定時間より30分前に到着している。しか







