LOGINバーを出た紗良は、凌平と暮らしていたマンションへ戻る。
4年前、紗良は、未来への希望にあふれていた。職場から近く、美しい夜景を二人で見ながら過ごせるようにと選んだ最上階の部屋だ。その部屋に入ると、真っ暗な人気のない室内の窓から夜景が広がっていた。
この部屋は4年間、紗良が帰るより先に明るくなったことはない。
凌平は、理由をつけて家に滅多に戻ってこないからだ。紗良はカーテンを閉めて明かりをつけた。
ウォルナットの落ち着いた色合いが醸し出す重厚な机の上でパソコンを開き、親友の浅倉理沙から送られてきた証拠を一つ一つクリックしていく。
「何が出張よ。AI研究にビーチが必要なわけないでしょう」
そこには、貸し切りの砂浜でビキニトップを取った澪奈のあらわになった胸に手を這わせてキスをしている凌平の写真が目に入る。
他にも様々な5つ星ホテルのスイートで二人で過ごした宿泊記録、車の助手席で澪奈に覆いかぶさる凌平の姿、二人きりでいくどとなくいかがわしい行為をしている写真や動画が大量にあった。
「全部、嘘をついて私をごまかしてきたということよね」
紗良は信じられないというように頭を振り、パソコンを閉じた。
凌平との出会いは兄の墓地だ。
紗良は、心のどこかで凌平は兄が自分に残してくれたプレゼントだと思い込んでいた。
だからこそすべてを捨てて彼のもとに向かった。でもそれは違ったのだ——
今度は違う。
紗良はかつて凌平と一緒になるために藤代財閥の新当主、藤代宗明との婚約を自ら破棄していた。今さら、宗明が自分を受け入れてくれるか不安だったが……
先ほどの電話の冷たい反応を思い出して顔が曇る。
拒否……まではされていない気がする。 手伝いがいるかと聞いてくれたわけだし。完全に心が覚めた紗良は、自分の荷物をまとめ始める。
凌平との関係を終わらせるために。◇
それからどのぐらいの時間が経ったのだろう。
紗良が、今後の仕事に必要なものをトランクにまとめていると、凌平が帰宅した。「どうして俺のメッセージに返信をくれないんだ?澪奈は、ただの妹だ。どうしてそこまで……」
紗良は無視したまま荷物を入れ続ける。
「紗良、いい加減にしろ。俺のためにもふざけないでくれ」
凌平は、苛立たし気に紗良の腕をつかむ。
だが、凌平の顔を一切見ず答えようとする紗良が、いつもと違う雰囲気であることは感じたようだ。突然、紗良の背後から抱きしめるように腕を回そうとした。
「記念日のことは俺が悪かった。でも、澪奈はまだ会社に入ったばかりなんだ。俺がちゃんと支えてやらないといけないだろう」
だが、その体からは、先ほど澪奈が発していた香水の匂いがべったりと張り付いている。
その瞬間——
「触らないで。気持ち悪い」
紗良は、吐き気を催しそうになりながら、凌平が自身に伸ばしてくる手をはねのけた。
「週末改めて記念日を祝おう。まずは、澪奈に謝ってくれ」
「いらない。私たち、別れましょう」
何の感情を滲ませることもなく、紗良は、淡々とその言葉を口にした。
「またそんなことを言っているのか。俺との不貞を疑われて、どれだけ澪奈が驚き、傷ついたと思っているんだ」
「疑い……ね。じゃあ、あの胸のキスマークは、凌平以外の不特定多数の男との思い出なのね。どちらにしても、股が緩い女なんじゃない?」
二人の濃厚な情事の証拠写真を思い出す。
明確な嘘を平然とつく凌平に騙されていた自分が情けなくなる。
「お前!」
今、凌平が紗良に向ける憎悪の顔は、間違えても愛する婚約者に向ける顔ではない。
澪奈を軽んじられたと感じただけで、怒りをコントロール出来ていないことを凌平は気づいているのかしら。「それとも……やはり、あなたがべたべたつけたものだと認める気になった?」
「違うって言っているだろう。どうしてお前は澪奈をそんなに目の敵にする?あいつは父親も亡くなって、誰も頼れる人がいない。支えてやるのは当然のことだろうが!」
「そうよね。手までスカートの中に入れているし、さぞ優しく支えてあげたんでしょうね」
凌平は、一瞬、目が泳いだように見えた。
しかし、何を馬鹿なことをと呟き、その後も白々しい嘘を並べたてながら、何度も澪奈をかばい続ける。
紗良はこの茶番をいつまで続けるつもりなのかと鼻で笑って笑顔を見せた。
「もういい、私は出ていく……」
紗良が再び荷物をまとめようとした時だ。
沈黙を裂くように、テーブルに置いた凌平のスマホが震えた。
画面に表示された名前は——「澪奈」画面に浮かんだ名前を見た凌平の目から、さっきまでの苛立ちが嘘のように消え、優しく目じりが下がる。
もう紗良には、何年も向けられたことがない顔だ。「どうした?何か……澪奈、泣いているのか?」
まるで壊れ物に囁くかのような甘い声が止まる。
「誰かにつきまとわれている?どこにいる?今すぐそっちに行く」
凌平のスマホからは、激しい争う音が響いている。
「いや!服を破らないで……お願い、やめて!」
その最後の悲鳴を残して、澪奈の声はぷつりと途切れた。
そして凌平のスマホの画面もまた、完全に黒くなる。一瞬、呆然と立ち尽くした凌平はすぐさま我に返り、電話をかけて澪奈を探すように人を手配した。
「紗良、澪奈はどこにいる?」
凌平は、通話を終えると怒りに満ちた目で紗良を睨みつけた。そして、腕をつかんだかと思うと、力いっぱいひねり上げた。
「私には関係ない……」
紗良が暴れてその手を解こうとすると、更に力を入れていく。
その時、凌平のスマホが再び鳴った。
「剣崎か……ああ、無事に逃げられたんだな。良かった。澪奈のもとにすぐ向かうからそれまでいてやってくれ」
凌平は、紗良の腕をひねり上げていた手を放して、部屋から出る時、一言だけ紗良に声をかけた。
「今夜は戻らない。腕は……冷やしておけ」
紗良は大きく息を吸い込み、信じられないという顔で凌平を見つめる。
掴まれていた腕には、くっきりと凌平の手形が残っていた。
そして、その痛みも......結局、凌平は、自分の誤りを認めることもなく立ち去った。
その時、親友の理沙がスマホに留守電を残していることに気づいた。
「紗良、落ち着いて聞いてね。凌平と一部の株主の動きがおかしいの。上場にあわせて臨時株主総会を開くよね。その役員名簿に紗良、あなたの名前がない。代わりに副社長になるのは澪奈よ」
東山ホテルは、日本では知らないものはいないと言われる五つ星ホテルだ。 その中でも、302号は隣の301号とコネクティングルームになっており軽いパーティーができるぐらいの広さがあった。「凌平、皆さんお待ちかねよ」そのままベッドに倒れ込んだ凌平だったが、眠りにつくと言うよりは頬を赤らめ、胸や呼吸の動きが荒くなっていく。 どうやら薬は、睡眠よりも快楽が勝りはじめたようだ。「皆さん、彼は大人の女性との快楽を求めたいみたいなの。どうもね、お付き合いしている子がお子様すぎて物足りないんですって」紗良は豊満な胸と体を持つ熟女クラブから何人か派遣を依頼する。名前は全員「紗良」 年齢は60から80代の高齢者対象クラブだ。301号の待機室からゾロゾロと下着姿の女性たちが凌平を囲んだ。「いい男じゃないの」「ええ、これから上場するかもしれない会社の社長さんよ。羽目を外して開放的になりたいみたい」紗良は、長い重圧の中で戦い続けた可哀想な男だと告げた。まずその中でも比較的若い60代の娼婦の1人がさらりと衣服の下から触れるとすでに熱い反応が始まっているらしく「ああ……紗良……」と吐息が漏れ始めていた。「皆さん、自由恋愛ですからね。必ず恋してくださいよ。これは、お互いが求め合った結果ですから。そうそう、彼は大人の遊びをお付き合いしているお子様に見せてあげたいんですって」「あら、じゃあいろんなプレーを見せてあげる方がいい?」大人の玩具から手錠に蝋燭、なわ、おしゃぶりとおむつまでずらりとベッドの横に置いていく。「そうね。童心に帰りたいようなら彼の希望に合わせてセッティングしてあげて。もし、嗜虐されたいならそれも。そして……もし、そのお子様が混じって遊びたいというなら仲間に入れてあげてね」紗良はくすくす笑うと、凌平の耳元に触れる。 そして、ふっと息を吹きかけると、凌平は恍惚とした顔でぼんやりと目を開いた。「あら、私恋をしたみたいだわ」娼婦たちが話すと、紗良はそのまま耳元で囁く。「皆さんあなたに恋をしたみたいよ。凌平……お返事できる?」すでに娼婦たちは、凌平の服の下に入れた手に動きを見せ始める。「はは、俺も恋したみたい……気持ち良くなってきた……」「そう。そのままお任せしましょうね」紗良が退いた耳もとには、すでに豊満な胸を持った娼婦が占拠し始め、とろんと
翌日、研究支援基金のトラブルを聞きつけた理沙が、紗良の事を心配して別荘に駆けつけた。「なにを凌平は企んでいるのかしら……紗良、まさか行く気じゃないよね」紗良は、ティーカップを机に置きながら微笑んだ。「もちろん行く気よ。やられてばかりじゃ気が済まないでしょう?」「やめなさい。病院であなたを強引に連れ去ろうとした凌平を見たよね?」理沙は、紗良の腕に巻かれた包帯を見つめた。 二人きりになれば、凌平は容赦ない暴力と残虐な思考を隠そうとしないのではないか。 再び紗良を傷つける可能性が高いと思った。「危険すぎる。あなたのことが心配なの……」「理沙……もちろん凌平のことは全く信用していないわ。今回は私から反撃するだけよ」「反撃って……何を考えているの?」理沙は今までの慈悲深く穏やかな紗良とは雰囲気が変わったと感じて少したじろぐ。「凌平には私が受けたものと同じ思いをしてもらうだけ……」紗良の顔にはもう笑みは見られなかった。 紗良は、東山ホテルの最上階にあるフレンチレストラン「ラ・ヴェリテ」に向かっていた。持ち込み料はすでに支払い済。 ワインは最高級で手に入りにくいものを準備した。そのコルクに針を刺し、注射器で「凌平への最後のプレゼント」を注ぎ込み渡す。「連絡していた持ち込みのワインです」凌平はラベルの年号と銘柄を見たら間違いなく瓶を空にする。 味なんてわからない男に飲ませるのは勿体ないけど、最後の慈悲よ。紗良は冷たい瞳でその高級ワインを見つめる。「すまない。早めに来たつもりだったんだが……」凌平は、約束の10分前にやって来た。「いいの。4周年のお祝いに一緒に飲もうと思っていた高級ワインをレストランに預けたところよ」「そんな準備までしてくれたのか。遅くなってすまなかった。いや、すべてが言い訳だ」「そうね……でも謝罪のチャンスをもう一度上げてもいいかと思って」凌平の言いなりになりうつむいていた紗良はそこにはいない。今日の紗良は、シンプルに首元は詰めたロングドレスにあえて小粒のダイヤモンドを一つだけ首元に飾り、上品な装いを見せた。だが、背中は美しく開き、ゆるく巻いてサイドをまとめた髪の下にのぞくうなじは色気にあふれている。松田に磨き上げられ、深いワインレッドの唇を上げる紗良は、もう凌平から視線をそらすことはしなかった。むしろ
紗良は、実妹の里美に今後を相談した。「別荘を用意したから、あの男も簡単に潜りこむことは出来ないはず。お父様とお母様にはここに匿うことは話してある。ただ、4年前に家を飛び出てしまったあなたと、以前のような関係に戻るのは難しいみたい」紗良にも、その理由は分かっていた。綾川財閥の長女であり、その相続権を持つ自分が、兄を亡くした直後に婚約者を捨て、別の男と駆け落ち同然で姿を消したのだ。戻ってきたからといって、何事もなかったように迎え入れられるはずもない。「反省はしてる。あの頃の私は間違えていた。すぐに許されるとも思っていない。それでも、私は藤代宗明とやり直すと決めた」「それならいい」里美との通話も必要最低限だった。 紗良は小さく息を吐く。 今の自分には、まだ家族という後ろ盾がない。それでも別荘には本宅から、自分の専属使用人だった松田幸恵が派遣されていた。 それだけで、両親が本当は心配していることが伝わってくる。「松田さん、またお世話になります。しばらくは部屋で仕事をするつもりなので、食事もここに運んでもらえますか」「もちろんです。遠慮なくお申し付けください」松田はそう言って、紗良が好きなダージリンを置くと部屋から出ていった。少しして、静かになった室内でスマートフォンが鳴る。「休む暇もないわね……」紗良は、苦笑しながら電話に出る。「綾川副社長、お世話になっております」「渋谷さん、どうされました?」 渋谷は兄の名を冠した綾川将暉研究支援基金の利用者だ。 その彼の少し慌てたうわずった声が、スマホから響いていた。「AIとドローンを活用して、山間部の集落に薬と食料を届ける実験中だとご存知ですよね。来月ももう基金でその予算を組んでいて、待っている人もいるんです。給与もそこから……」渋谷の声は明らかに動揺している。「それなのに、本日突然、柏木凌平社長の名前で通知が届きまして、綾川将暉研究支援基金は終了する、と」「……は?」紗良は思わずその場に立ち上がった。「その文書を転送して下さい」届いた文面には【綾川将暉研究支援基金中止のお知らせ】とだけ記されていた。その理由の説明もない、 一方的な中止の通告だ。 そして柏木凌平の署名もあった。紗良は、唇を噛み締めた。この基金を頼りに研究している人たちにとって、中止は研究の継続そのもの
関口の目からは怒りが伝わり、凌平を睨みつけることを隠していない。それだけで、複数の株主たちの目は泳ぎ、ざわつき始める。「このメールは、明らかに私の名前を使って偽造されていた。そこで独自のルートを使い調べさせていただいたよ。柏木社長、あんたの実家が発信源だ。説明いただこうか?」「私も説明願いたい。この席で私の名前を騙るものが副社長に暴行を働こうとしたと聞いている。私の名刺とは違うものが現場には落ちており、その映像の男は柏木社長や他の幹部の学生時代の友人だとか?」理沙がレーザーポインターで指したのは、紗良に関口勉と名乗った男だ。その瞬間、凌平が抱き込んだ株主たちは次々様子を見る姿勢になった。役員変更は否決、更には紗良がいないことによって、中身のない研究報告をするしかなくなり会場は紛糾する。凌平たちはひたすら頭を下げたり、身に覚えがないと言い続ける騒ぎになる。「私はこういう行為は許さない!被害届を提出すると同時に、民事訴訟も起こして徹底的に責任を追及する」関口の言葉に、会社は上場どころではない騒ぎとなる。積み上げたものが壊れるのは一瞬――その騒ぎを、紗良は複雑な心境で見つめるしかなかった。会社は連日問い合わせが殺到し、関口が巻き込まれたことでニュースになった。実績がないのに副社長になろうとした義妹の澪奈にも、嫌疑の目がむけられ始める。紗良は、そのニュースを見終わると、病室のテレビを切った。「退院準備できた?荷物を持つよ」車を病院入り口に回すために、理沙が、駐車場に車を取りに行った時だ。「紗良!」入り口に凌平が待ち構えている。「帰るぞ!」凌平は、突然紗良の腕を掴む。「やめて!もうあなたとは終わりよ!帰るつもりなんてないわ。よくもこんな目に合わせて、すごすごやってきたものね」「俺と一緒に帰るんだ」「離して。もう別れたって言ったでしょう。私たちはもう何も関係ない。終わったの」再び、凌平は強く紗良の腕を掴み、無理やり引っ張って自分の車に乗せようとする。その車の中には――澪奈!助手席に座り、微笑んで紗良を見つめている。「彼女から手を離してもらおうか!」その凌平の手を葛城が掴む。そして、遅れてすぐ理沙も飛び込んできた。「彼女に触れないで!こちらも護衛はつけさせてもらっている。力でねじ伏せるなら彼が相手よ。また、前回、自宅で
「紗良!目が覚めた?無事でよかった。本当に!」「理沙……なの?」まだぼんやりとする。そこには、紗良が目覚めたことに気づいてボロボロと涙を流す親友の理沙がいた。紗良は、自分にはきちんと味方がいるのだという安心感と同時に、どうしてここに運ばれたのかと思い出して、ぞわっと冷たいものが体を駆け巡った。あの下品な男たちの顔を思い出すと同時に、安易に信じてしまった自分の馬鹿さ加減に怒りが抑えきれない。 紗良は、たくましい理沙の言葉に少しだけ目元を和らげて、ひきつった頬を引き上げて、笑顔を見せようとした。「理沙、私は大丈夫よ」そう言って、目線を理沙に合わせようとする。——そんなはずがない。理沙は病院に駆けつけたとき、医師から聞かされた言葉を思い出していた。「彼女の精神状態はかなり不安定です。くれぐれも刺激しないようにしてください」理沙は再び紗良を見つめる。その瞳には、隠し切れない心配と痛々しいほどの慈しみが滲んでいた。紗良は、小さく二度ほど咳き込むと、水を二口飲んでから再び口を開いた。「凌平と組んでいる株主たちの件だけど……今どうなっている?」「あなたを陥れようとしている株主たちと凌平は、あなたの会社の持ち株を、水野澪奈の名義に移そうとしていたみたい」「そんなものに私が頷くわけないでしょう」「ええ、そんな事、あなたが譲渡契約書にサインをするしか手がないもの。意識がないことをいいことにサインをさせようとしていたのか、動画で脅そうとしていたのか……」「凌平からは恨まれたものね。ただ、関口義男やその息子の名前を語ったのは失敗ね」紗良の口元は少し上がる。関口は誰も信用しない。それだけに、自分の名前を騙った奴がいればそれは誰なのか必ず突き止める。「関口を味方につけましょう。あと今回名前を騙られた株主たちも味方にするわ。上場の役員に澪奈は絶対に絡ませない」紗良は、関口からの偽メールが来たことや、関口の息子の名前を騙る男が現れたので、注意喚起をしたいと関口に伝える。「これで充分よ。後は勝手に関口が、自分の名前を騙った奴に制裁を加えるわ。防犯カメラのようなものに、昨日の男たちの映像が残っていたら押さえて欲しいの。あとゴミの中に名刺などが残っていたら、それも回収しましょう」「それを使うというわけね」理沙の言葉に紗良も頷く。「偽物だったなら、
翌朝——紗良は、地下の人目のない場所にある自身の研究室にいく。副社長の立場にはあるものの、研究の中には自ら手を動かして取り組まなければならないものがあった。その研究室の社用パソコンのメールボックスを開くと、会社の大株主の一人である関口義男から連絡が入っていた。関口の巷の評判は、彼の持つ株は絶対と言われ、彼の手放す会社の株は未来がないといわしめるほどの投資家だ。「新商品の開発について臨時株主総会の前に相談したいことがある……突然な話ね?」紗良は、昨夜の理沙からの留守番電話が頭をよぎっていた。まず、この株主は自分を引きずり下そうとしている人物なのか?それとも澪奈が副社長になることを阻止しようとしているのか?理沙から、すでに凌平側についている株主については把握していたが、関口はその株主には入っていない。偶然だろうか?紗良は少し思案したが、関口の対応を凌平にさせた場合を想定してみる。「関口が私の敵に回る方が厄介ね」凌平は、兄将暉と大学時代の同級生だったにもかかわらず、紗良の研究を理解し、説明できるほどの能力はない。訳の分からない嘘を、大株主に伝えられても困る。更に現在、凌平と共に動く株主たちの動きも気になっていた。紗良の悪口でも吹き込まれ、澪奈を副社長に推されても困る。紗良が、関口に会いに行くという選択しかなかった。「当社の研究や、その商品開発の状況を説明させていただく機会を与えていただき、ありがとうございます」日程と場所はこちらでセッティングが必要だろうか?すぐその返信はあった。「えっ?今日……かなり急な話……」紗良は困惑が隠せなかったが、関口ぐらいの大物なら、すでに他の株主が紗良が上場後の役員名簿から外れる動きがあるのを耳にしているのかもしれないと思いなおした。商品や研究だけではなく、紗良が抜けた後の会社に価値があるかどうかを判断したいようだ。紗良は、指示された料亭に一人資料を抱えて向かっていった。料亭さくら——「お客様お待ちしておりました」上品な店構えと一見さんお断りの高級料亭。「すでに関口様は到着されていますか?」関口より後にくることなどあってはならない。自分は迎える側なのだからと早めについたつもりだったが……「ええ、すでに皆様お揃いですよ」「皆様お揃い?」予定時間より30分前に到着している。しか