LOGIN「わあ……」 思わず、小さな感嘆の声が漏れた。 先ほどまでの悲しみを忘れたように、千温は窓の外へ見入っている。やがて抑えきれないほど目を輝かせ、嬉しそうに優和を振り返った。「優和、ここ……すごくきれいだね」 何も知らない子供のようにはしゃぐ千温を見て、優和は小馬鹿にするように鼻で笑った。 それだけで、返事をしようとはしなかった。* 最後にいつだったか思い出せないほど長い間、千温は優和と外で夕食をともにしていなかった。 ましてや、これほど素敵な店へ連れてきてもらったのは初めてだ。 優和の家で暮らすようになってから、彼が千温を連れて外出することはほとんどなくなった。恋人らしいデートも、一度としてしたことがない。 二人の関係は、もう恋人とは呼べないほど曖昧なものになっている。ほんの数時間前まで、千温は悲しみに耐えきれず泣いていた。 それでも今この瞬間、胸が紛れもない喜びで高鳴っている。 美しい夜景を眺めながら、向かい合って食事をする。 まるで本当に、優和とデートをしているようだった。 食事の間、優和は終始気乗りしない様子だった。 食欲もないらしく、メインのステーキにはほとんど手をつけない。その一方で、料理に合わせて出された赤ワインだけは何杯も飲み続け、とうとう一本すべて空けてしまった。 千温は何度も優和へ話しかけようとした。 内容など何でもよかった。ほんの少しでも、彼と言葉を交わしたかった。 けれど、表情を失ったように冷たい顔をしている優和を見ると、声をかけるのが怖くなる。何度も唇を開きかけ、そのたびに言葉を呑み込んだ。 ようやく声をかけることができたのは、食後のデザートが運ばれてきてからだった。「優和……私、もうお腹いっぱいかも……」「そうか。もう食べられないなら、帰るぞ」 優和の前に置かれたデザートにも、まだ一口も手がつけられていなかった。 千温が本当にもう食べなくていいのか、せっかく運ばれてきたデザートを残しても構わないのか。そんなことを尋ねることもない。 千温が満腹だと言うなり、優和は迷いなく席を立った。 そばにいた給仕を呼び止め、ポケットから取り出したカードを渡して会計を済ませる。その一連の動作にも、食事の余韻を惜しむ様子は少しもなかった。 優和が酒を飲んでいたため、食事を終える頃には、車を運転するために沢
結局、優和は自分が満足するまで、千温を離そうとはしなかった。 彼女の身体に自分の子供がいることさえ、忘れてしまったかのようだった。 この数日間、満たされずにいた欲望をすべてぶつけるように、優和の動きには少しの容赦もない。 千温はついに耐えきれなくなり、身体を小さく縮こまらせた。 両手で下腹部を庇う姿を目にして、優和はようやく子供の存在を思い出したらしい。そこで初めて、彼女を押さえつける力をわずかに緩めた。 すべてを終えたあとも、優和の口から千温の身体を気遣う言葉が出ることはなかった。「千温、もう考えはまとまったか? 子供は諦めろ。お前一人でまともに育てられるはずもないし、俺も厄介事を抱えるつもりはない」 千温は何も答えなかった。 脚にはほとんど力が入らない。それでも震える手を動かし、乱れきったワンピースを慌てて整えた。 優和は手を貸そうともせず、千温が一人でどうにか身なりを整える様子を、黙って眺めているだけだった。 しばらく待っても、子供を諦めるという返事はない。 優和はそれ以上問い詰めず、無言のまま運転席へ戻った。 帰りの車内でも、優和は終始黙り込んでいた。重苦しい空気に押し潰されそうになり、千温も何一つ口にできない。 車が自宅へ向かっていないことに気づいたのは、しばらく走ってからだった。 やがて車は、高級ホテルの地下駐車場へと入っていく。 優和は千温をホテルの一室へ連れていき、シャワーを浴びて着替えるよう命じた。 レストランへ連れていくと約束した以上、このままの格好で店へ入らせるわけにはいかない。乱れた服をまとった女を連れて歩けば、自分が恥をかく。 彼が考えていたのは、千温の気持ちではなく、どこまでも自分の体面だった。 シャワーを終えた千温が部屋へ戻ると、優和の秘書が届けた新しい服が、すでに用意されていた。 用意されていたのは、真新しいワンピースだった。洗練されたデザインと上品な色合いは、先ほどまで千温が着ていたものとは比べものにならない。 床の隅へ無造作に置かれた紙袋には、千温でも知っている高級ブランドの名が記されていた。 優和が自分のために用意してくれたものなら、きっと今季の新作なのだろう。 そう思っただけで、沈みきっていた千温の胸に、ほんのわずかな温かさが灯った。 千温はワンピースを大切そうに手に取り、言われ
「……ああ、ある案件で問題が起きてね。現場を確認しに来てるんだ」「そうなの?」 千鶴の問いかけは、優和の言葉の裏を探っているようにも聞こえた。 優和の胸に、わずかな緊張が走る。どう説明すれば疑われずに済むのか、頭の中で素早く言葉を探した。 千温を迎えに来たことは、絶対に知られるわけにはいかない。 幸い、千鶴はそれ以上追及しなかった。少し間を置き、電話をかけてきた本来の用件を告げる。「今夜は家族と食事することになったから、優和とは会えないの。出かける前に顔くらい見たいと思ってたけど、仕事中なら邪魔しないでおくね」 疑われずに済んだらしい。 優和は悟られないよう、静かに安堵の息を吐いた。 傍らへ目を向ける。 千温は命じられたとおり、声一つ漏らさず座っていた。俯いたまま、小さな身体を縮こまらせている。 先ほど乱したワンピースから、白い肌が覗いていた。 それを目にした途端、優和の眼差しに再び暗い熱が灯る。 千鶴との通話を続けたまま、空いた手を千温へ伸ばした。近づいてくる指先に気づき、千温の肩が小さく揺れる。それでも逃げることはできず、唇を固く結んだまま身を強張らせた。 優和はそんな千温を弄ぶように触れながら、電話の向こうの千鶴へは、蜜が滴りそうなほど優しい声で囁いた。「分かった。今夜はゆっくり家族と過ごすといい。食事が終わって、それでも俺に会いたくなったら電話して」「それなら、私が電話する前に寝ちゃ駄目だからね」「もちろんだよ」 もともと今夜は、千鶴と夕食をともにする予定だった。その約束がなくなった今、優和には千温を相手にする時間が十分にある。「千温、服を脱げ」 千温へ向けた途端、その声は有無を言わせぬ命令へと変わった。 先ほどまで千鶴に聞かせていた甘く優しい声音とは、まるで別人のようだった。優和の頭にあるのは、一刻も早く自身の昂りを千温の奥深くへ埋めることだけだった。 それなのに、千温はすぐには従おうとしない。「ちっ」 苛立たしげに舌打ちし、自ら服を脱がせようと手を伸ばす。 俯いていた千温が顔を上げた瞬間、その手が止まった。 頬には、いくつもの涙の跡が残っていた。目元も赤く腫れ、今も新たな雫が睫毛の先で震えている。「……何を泣いてる」 優和が千鶴と話している間、千温はすぐそばで、彼のあまりにも優しい声を聞き続けて
ここ数日、優和はほとんどの時間を千鶴とともに過ごしていた。 長年想い続けてきた女が、今は手を伸ばせば触れられる場所にいる。眺めることも、抱き締めることも、唇を重ねることも許されていた。 それでも、最後の一線だけは越えられない。 千鶴はわざと優和を焦らしているようにも見えた。外国で暮らすうちに、男の心を弄ぶような駆け引きを覚えたのかもしれない。 優和をその気にさせては、彼の身体が自分に反応していることを確かめ、満足そうに笑う。それでいて、その先を求められると、決まってするりと腕の中から逃げていった。「優和も知ってるでしょう? 私、そういうところは古風なの。結婚するまでは、誰とも寝ないって決めてるから」「もちろん分かってる。結婚するまで、ちゃんと待つよ」 耐えるのは、決して楽ではなかった。 それでも千鶴は、優和がずっと大切に守りたいと願ってきた女だ。彼女の望みであれば、何もかも受け入れるつもりだった。 一人で昂りを鎮めるたび、優和は何度も千温のことを思い出した。 もし今も千温がそばにいれば、自分一人でこんな思いをせずに済んだのに――そんな身勝手な考えが、決まって頭をよぎった。 千温なら、優和が何を求めても拒まない。少し怯えた顔をしながらも、最後には従順に受け入れる。そう思うと、無性にあの柔らかな身体へ触れたくなることさえあった。 一度、千温の存在を目にしてから、千鶴は何かを警戒するようになった。以前より優和の行動を気にかけ、ここ数日はほとんど彼のそばを離れようとしない。 今日も祐理から電話がかかってこなければ、優和が予定を切り上げ、千温を迎えに来ることなどなかっただろう。 それなのに、病院へ駆けつけてみれば、千温は見知らぬ男の病室で楽しそうに笑っていた。 自分は千鶴のために彼女を放っておいたくせに、別の男が千温のそばにいることだけは許せなかった。 こうして連れ出した以上、この数日間溜め込んでいた苛立ちも欲望も、すべて千温へぶつけるつもりだった。「んっ……」 狭い車内で、千温は優和に強く押さえつけられ、身を起こすことさえできなかった。 優和の動きには、普段のような余裕がまるでない。千温が苦しそうに身を捩っても、怯えた目で見上げても、少しも手を緩めなかった。 自分の欲求を満たすことしか考えていないのだろう。 千温は何度か逃れよう
千温は二人の間に漂う刺々しい空気に気づかなかった。ただ、今日会ったばかりの自分を気遣ってくれる祐理は、本当に親切な人なのだと思った。 千温は小さく首を横に振る。「大丈夫だよ。優和は、私に優しくしてくれるから」 口にした途端、優和がこの数日、一度も会いに来なかったことを思い出した。 この前告げられた言葉も、病室で子供を堕ろすよう命じられたことも忘れてはいない。それでも千温は、祐理に向かって優和のことを悪く言いたくなかった。 無意識に優和の顔を窺う。 優和は小さく鼻を鳴らし、祐理へ冷たい目を向けた。「千温は俺の女だ。赤の他人に心配してもらう必要はない」 千温の手を握る力が、わずかに強くなる。 祐理は何か言い返しかけたが、千温が二人の顔を交互に見ていることに気づき、口を閉じた。 優和はそれ以上祐理を相手にせず、千温を連れて病室を出る。 扉が閉まるまで、千温の手は強く握られたままだった。 廊下へ出た途端、その手が乱暴に振り払われる。 急に支えを失い、千温はよろめいて壁へ手をついた。冷たい壁の感触に驚きながら、優和を見上げる。「優和……」 返ってきたのは、怒りを含んだ声だった。「千温、俺が数日来なかっただけで、そんなに大人しくしていられないのか? よく知らない男に誘われるまま、病室までついていって。少し男と離れただけで、もう我慢できなくなったのか?」 千温は首をすくめ、顔から血の気を失った。 祐理とは、ただ話をして、シャボン玉を吹いていただけだ。 沢田へ電話をしても優和が来なかったことも、優和の声を聞きたかっただけだということも、伝えようと思えば伝えられる。 けれど、優和の険しい顔を見ると、言葉が喉につかえた。「ご、ごめんなさい、優和……。でも、祐理さんは悪い人じゃ……」 千温がその名を口にしただけで、優和の表情はさらに険しくなった。 病室で祐理と笑い合っていた千温の顔が、また脳裏に浮かぶ。自分が現れた途端に消えてしまった、あの無邪気な笑みも。 優和は何も答えず、千温を元の病室へ連れ戻した。 千温は退院してもよいのか、医師に確認を取る。優和が手続きを進めている間、千温はベッド脇に置いていたわずかな荷物をまとめた。 同じ部屋に戻ったのに、二人はほとんど言葉を交わさなかった。 病棟を出るとき、優和はまた千温の手を取った
この一年で、優和が千温に怒ることは増えた。 怒ったときの彼がどれほど怖いか、千温はもうよく知っている。これ以上、機嫌を損ねたくなかった。「優和……」 名を呼ぶ声は、自分でも驚くほど頼りなかった。 気づけば足は、命じられたとおり優和へ向かっていた。祐理の前から離れることに迷いはない。ただ、近づくほどに優和の険しい表情がはっきり見えて、胸の奥が強張っていく。 あと数歩というところで、優和が待ちきれずに千温の手首を掴んだ。 強く引かれ、千温の身体は彼の胸元へ倒れ込む。抱き留められたはずなのに、逃がさないために捕まえられたように感じた。 かつては安心できた腕の中だった。 優和の体温も、衣服越しに伝わる胸の硬さも覚えている。それなのに今は、そこに身を預けても、少しも温かいと思えない。 優和のもう片方の手が顎を捉えた。 千温が顔を上げた途端、唇を塞がれる。 驚いて息を呑んだ隙に、口づけはさらに深くなった。 押し当てられた唇の熱さに反して、顎を支える指は容赦がない。千温がわずかに身じろぐと、優和は手首を引き寄せ、二人の間に残っていた距離まで奪った。 祐理がすぐそばにいる。 そう思うと頬が熱くなるのに、優和は少しも気にしていなかった。むしろ見せつけるために口づけているのだと、千温にも分かった。 呼吸が乱れ、膝から力が抜けていく。優和の腕に支えられていなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。 唇が離れた。 千温がようやく息を吸い込む、そのわずかな間に、優和は祐理へ目を向けた。 怒りを露わにする顔が見たかった。だが、返ってきたのは呆れたような眼差しだけだった。 祐理は千温と今日知り合ったばかりで、特別な関係などない。優和を彼女の兄か保護者だと思い込んでいたから、二人が口づけを始めた瞬間は確かに驚いた。 けれど、それ以上に気になったことがある。 ここは祐理の病室だ。そして千温は、望んで口づけを受けているようには見えなかった。 この男は、いったい何を考えているのだろう。 優和が完全に唇を離すと、千温は浅い呼吸を繰り返しながら、熱くなった顔を彼の胸元へ伏せた。顎にはまだ優和の指の感触が残っている。 祐理が同じ部屋にいることを思い出すと、恥ずかしさと申し訳なさで、ますます顔を上げられなくなった。「千温。今から退院の手続きをして、一緒に