LOGIN「……ああ、ある案件で問題が起きてね。現場を確認しに来てるんだ」「そうなの?」 千鶴の問いかけは、優和の言葉の裏を探っているようにも聞こえた。 優和の胸に、わずかな緊張が走る。どう説明すれば疑われずに済むのか、頭の中で素早く言葉を探した。 千温を迎えに来たことは、絶対に知られるわけにはいかない。 幸い、千鶴はそれ以上追及しなかった。少し間を置き、電話をかけてきた本来の用件を告げる。「今夜は家族と食事することになったから、優和とは会えないの。出かける前に顔くらい見たいと思ってたけど、仕事中なら邪魔しないでおくね」 疑われずに済んだらしい。 優和は悟られないよう、静かに安堵の息を吐いた。 傍らへ目を向ける。 千温は命じられたとおり、声一つ漏らさず座っていた。俯いたまま、小さな身体を縮こまらせている。 先ほど乱したワンピースから、白い肌が覗いていた。 それを目にした途端、優和の眼差しに再び暗い熱が灯る。 千鶴との通話を続けたまま、空いた手を千温へ伸ばした。近づいてくる指先に気づき、千温の肩が小さく揺れる。それでも逃げることはできず、唇を固く結んだまま身を強張らせた。 優和はそんな千温を弄ぶように触れながら、電話の向こうの千鶴へは、蜜が滴りそうなほど優しい声で囁いた。「分かった。今夜はゆっくり家族と過ごすといい。食事が終わって、それでも俺に会いたくなったら電話して」「それなら、私が電話する前に寝ちゃ駄目だからね」「もちろんだよ」 もともと今夜は、千鶴と夕食をともにする予定だった。その約束がなくなった今、優和には千温を相手にする時間が十分にある。「千温、服を脱げ」 千温へ向けた途端、その声は有無を言わせぬ命令へと変わった。 先ほどまで千鶴に聞かせていた甘く優しい声音とは、まるで別人のようだった。優和の頭にあるのは、一刻も早く自身の昂りを千温の奥深くへ埋めることだけだった。 それなのに、千温はすぐには従おうとしない。「ちっ」 苛立たしげに舌打ちし、自ら服を脱がせようと手を伸ばす。 俯いていた千温が顔を上げた瞬間、その手が止まった。 頬には、いくつもの涙の跡が残っていた。目元も赤く腫れ、今も新たな雫が睫毛の先で震えている。「……何を泣いてる」 優和が千鶴と話している間、千温はすぐそばで、彼のあまりにも優しい声を聞き続けて
ここ数日、優和はほとんどの時間を千鶴とともに過ごしていた。 長年想い続けてきた女が、今は手を伸ばせば触れられる場所にいる。眺めることも、抱き締めることも、唇を重ねることも許されていた。 それでも、最後の一線だけは越えられない。 千鶴はわざと優和を焦らしているようにも見えた。外国で暮らすうちに、男の心を弄ぶような駆け引きを覚えたのかもしれない。 優和をその気にさせては、彼の身体が自分に反応していることを確かめ、満足そうに笑う。それでいて、その先を求められると、決まってするりと腕の中から逃げていった。「優和も知ってるでしょう? 私、そういうところは古風なの。結婚するまでは、誰とも寝ないって決めてるから」「もちろん分かってる。結婚するまで、ちゃんと待つよ」 耐えるのは、決して楽ではなかった。 それでも千鶴は、優和がずっと大切に守りたいと願ってきた女だ。彼女の望みであれば、何もかも受け入れるつもりだった。 一人で昂りを鎮めるたび、優和は何度も千温のことを思い出した。 もし今も千温がそばにいれば、自分一人でこんな思いをせずに済んだのに――そんな身勝手な考えが、決まって頭をよぎった。 千温なら、優和が何を求めても拒まない。少し怯えた顔をしながらも、最後には従順に受け入れる。そう思うと、無性にあの柔らかな身体へ触れたくなることさえあった。 一度、千温の存在を目にしてから、千鶴は何かを警戒するようになった。以前より優和の行動を気にかけ、ここ数日はほとんど彼のそばを離れようとしない。 今日も祐理から電話がかかってこなければ、優和が予定を切り上げ、千温を迎えに来ることなどなかっただろう。 それなのに、病院へ駆けつけてみれば、千温は見知らぬ男の病室で楽しそうに笑っていた。 自分は千鶴のために彼女を放っておいたくせに、別の男が千温のそばにいることだけは許せなかった。 こうして連れ出した以上、この数日間溜め込んでいた苛立ちも欲望も、すべて千温へぶつけるつもりだった。「んっ……」 狭い車内で、千温は優和に強く押さえつけられ、身を起こすことさえできなかった。 優和の動きには、普段のような余裕がまるでない。千温が苦しそうに身を捩っても、怯えた目で見上げても、少しも手を緩めなかった。 自分の欲求を満たすことしか考えていないのだろう。 千温は何度か逃れよう
千温は二人の間に漂う刺々しい空気に気づかなかった。ただ、今日会ったばかりの自分を気遣ってくれる祐理は、本当に親切な人なのだと思った。 千温は小さく首を横に振る。「大丈夫だよ。優和は、私に優しくしてくれるから」 口にした途端、優和がこの数日、一度も会いに来なかったことを思い出した。 この前告げられた言葉も、病室で子供を堕ろすよう命じられたことも忘れてはいない。それでも千温は、祐理に向かって優和のことを悪く言いたくなかった。 無意識に優和の顔を窺う。 優和は小さく鼻を鳴らし、祐理へ冷たい目を向けた。「千温は俺の女だ。赤の他人に心配してもらう必要はない」 千温の手を握る力が、わずかに強くなる。 祐理は何か言い返しかけたが、千温が二人の顔を交互に見ていることに気づき、口を閉じた。 優和はそれ以上祐理を相手にせず、千温を連れて病室を出る。 扉が閉まるまで、千温の手は強く握られたままだった。 廊下へ出た途端、その手が乱暴に振り払われる。 急に支えを失い、千温はよろめいて壁へ手をついた。冷たい壁の感触に驚きながら、優和を見上げる。「優和……」 返ってきたのは、怒りを含んだ声だった。「千温、俺が数日来なかっただけで、そんなに大人しくしていられないのか? よく知らない男に誘われるまま、病室までついていって。少し男と離れただけで、もう我慢できなくなったのか?」 千温は首をすくめ、顔から血の気を失った。 祐理とは、ただ話をして、シャボン玉を吹いていただけだ。 沢田へ電話をしても優和が来なかったことも、優和の声を聞きたかっただけだということも、伝えようと思えば伝えられる。 けれど、優和の険しい顔を見ると、言葉が喉につかえた。「ご、ごめんなさい、優和……。でも、祐理さんは悪い人じゃ……」 千温がその名を口にしただけで、優和の表情はさらに険しくなった。 病室で祐理と笑い合っていた千温の顔が、また脳裏に浮かぶ。自分が現れた途端に消えてしまった、あの無邪気な笑みも。 優和は何も答えず、千温を元の病室へ連れ戻した。 千温は退院してもよいのか、医師に確認を取る。優和が手続きを進めている間、千温はベッド脇に置いていたわずかな荷物をまとめた。 同じ部屋に戻ったのに、二人はほとんど言葉を交わさなかった。 病棟を出るとき、優和はまた千温の手を取った
この一年で、優和が千温に怒ることは増えた。 怒ったときの彼がどれほど怖いか、千温はもうよく知っている。これ以上、機嫌を損ねたくなかった。「優和……」 名を呼ぶ声は、自分でも驚くほど頼りなかった。 気づけば足は、命じられたとおり優和へ向かっていた。祐理の前から離れることに迷いはない。ただ、近づくほどに優和の険しい表情がはっきり見えて、胸の奥が強張っていく。 あと数歩というところで、優和が待ちきれずに千温の手首を掴んだ。 強く引かれ、千温の身体は彼の胸元へ倒れ込む。抱き留められたはずなのに、逃がさないために捕まえられたように感じた。 かつては安心できた腕の中だった。 優和の体温も、衣服越しに伝わる胸の硬さも覚えている。それなのに今は、そこに身を預けても、少しも温かいと思えない。 優和のもう片方の手が顎を捉えた。 千温が顔を上げた途端、唇を塞がれる。 驚いて息を呑んだ隙に、口づけはさらに深くなった。 押し当てられた唇の熱さに反して、顎を支える指は容赦がない。千温がわずかに身じろぐと、優和は手首を引き寄せ、二人の間に残っていた距離まで奪った。 祐理がすぐそばにいる。 そう思うと頬が熱くなるのに、優和は少しも気にしていなかった。むしろ見せつけるために口づけているのだと、千温にも分かった。 呼吸が乱れ、膝から力が抜けていく。優和の腕に支えられていなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。 唇が離れた。 千温がようやく息を吸い込む、そのわずかな間に、優和は祐理へ目を向けた。 怒りを露わにする顔が見たかった。だが、返ってきたのは呆れたような眼差しだけだった。 祐理は千温と今日知り合ったばかりで、特別な関係などない。優和を彼女の兄か保護者だと思い込んでいたから、二人が口づけを始めた瞬間は確かに驚いた。 けれど、それ以上に気になったことがある。 ここは祐理の病室だ。そして千温は、望んで口づけを受けているようには見えなかった。 この男は、いったい何を考えているのだろう。 優和が完全に唇を離すと、千温は浅い呼吸を繰り返しながら、熱くなった顔を彼の胸元へ伏せた。顎にはまだ優和の指の感触が残っている。 祐理が同じ部屋にいることを思い出すと、恥ずかしさと申し訳なさで、ますます顔を上げられなくなった。「千温。今から退院の手続きをして、一緒に
優和は病院へ駆けつけたものの、千温をなかなか見つけられなかった。 元の病室にも中庭にも、彼女の姿はない。院内をしばらく捜し回った末、先ほど電話をかけてきた男へ折り返し、ようやく病棟の最上階にある特別室へ辿り着いた。 千温はそこで、見知らぬ男と二人きりで過ごしていた。 優和の表情は、ひどく険しくなっていた。 ノックすらせず、目の前の扉を押し開ける。 その先に広がっていたのは、病室とは思えないほど豪華な空間だった。広々とした個室には、小さいながらも専用のリビングまで備えられている。 これほどの特別室へ入院している時点で、そこにいる男がただ者ではないことは一目で分かった。 優和が室内へ足を踏み入れたとき、千温の小さな声が耳に届いた。 その声は、彼が思いもしなかったほど、無邪気な喜びに弾んでいた。「わあ……きれい……」「はは、そうだろ? 陽の光に当てると、もっといろんな色が見えるよ」 病室では、祐理がシャボン玉を吹いていた。 いくつもの泡がふわふわと宙を漂い、窓から差し込む陽射しを受けて、虹色の光を浮かべている。 千温は顔を上げ、ゆっくりと舞い降りてくるシャボン玉を嬉しそうに見つめていた。 その表情は、無邪気な喜びに満ちている。 先ほどまで泣いていたことなど忘れてしまったかのように目を輝かせ、少し興奮した様子で指を伸ばす。触れた途端、薄い膜は小さく弾けて消えた。 千温は驚いたように目を瞬かせたあと、楽しそうに笑った。 優和の胸の奥に、形容しがたい苛立ちが込み上げる。 自分を待ちながら、病室で泣いているはずだった千温。 優和が見舞いに来たときでさえ、あれほど沈んだ顔をしていた千温が、見知らぬ男の前では何の翳りもなく笑っている。 その事実が、なぜか無性に気に入らなかった。 優和は後ろ手に扉を乱暴に閉め、わざと大きな音を立てた。 千温はそこでようやく、彼の存在に気づいた。「ゆ、優和……」 優和の姿を目にした途端、それまで楽しげに笑っていた顔から、すっと笑みが消えた。 笑みの代わりに浮かんだのは、今にも泣き出しそうな、ひどく悲しげな表情だった。 赤くなった目元が歪み、縋るような眼差しが優和へ向けられる。 その顔を見ても、優和の苛立ちは鎮まらなかった。 千温の隣にいる祐理へ、冷たい視線を移す。 祐理もまた、優和の全身を値踏
千温は長い間迷っていた。 それでも、優和の声を聞けるかもしれないという誘惑には抗えず、やがて小さな声で電話番号を読み上げた。 その番号は、これまで何度も何度も、心の中で繰り返してきたものだった。 この一年ほどで、優和の帰りがひどく遅くなる夜や、朝になっても帰ってこない日が増えていた。 そんな夜、千温は一人でリビングのソファに座り、物音一つしない広い部屋を見つめながら、心の中で優和の電話番号を繰り返し唱えていた。 連絡したい。 今どこにいるのか、何時に帰ってくるのか、尋ねたい。 そう思っても、実際に電話をかける勇気は持てなかった。忙しい優和を煩わせれば、嫌われてしまうかもしれない。 番号を唱えながら帰りを待つうちに、そのままソファで眠ってしまうことも多かった。 千温が目を覚ます前に優和が帰宅していれば、彼は眠っている千温を抱き上げ、寝室まで運んでくれた。 翌朝ベッドで目覚めるたび、優和が自分を大切にしてくれているような気がして、千温は嬉しくなった。 けれど、そうではない日のほうがずっと多かった。 朝になって目を覚ましても、千温は一人きりでソファに横たわったまま。 家の中には、優和が帰ってきた形跡すら残されていなかった。 愛されていないことには、最初からいくつもの兆しがあったのだ。 ただ、千温だけがそれに気づかなかった。 過去の記憶へ意識を奪われている間にも、祐理の行動は早かった。 耳も記憶力もいいらしく、千温が小声で一度読み上げただけの番号をすぐに覚え、その場で迷うことなく電話をかけてしまう。 千温の番号ではなかったため、仕事の連絡だとでも思ったのだろうか。 数度の呼び出し音のあと、優和は通話に応じた。「はい、宮長です」 聞こえてきたのは、祐理が想像していたよりもずっと若い男の声だった。 父親にしては若すぎる。 祐理はわずかに眉を寄せたものの、千温の世話を任されている保護者には違いないと思った。「千温の保護者だろ? 病人をこんなに長い間、一人きりで病院に放っておいて、どうして一度も顔を見に来ないんだよ」 祐理は、人の顔色を窺って言葉を呑み込むような性格ではないらしい。電話が繋がるなり、何の遠慮もなく優和を責め始めた。 千温がどんな理由で入院しているのか、祐理は知らない。 それでも、見るからに弱っている女の子が、







