LOGIN優和は泣き腫らした千温の顔を一瞥し、淡々と言葉を続けた。「何年も俺のそばにいたんだ。その分の面倒くらいは、最後まで見てやる」 ここまで来てしまえば、もう何を言っても変わらない。 千温は身体をかすかに震わせながら、渡された現金とカードを黙って鞄へしまった。 金銭に関してだけは、優和は昔から惜しみなく与えてくれた。 それでも千温は、優和一人に負担をかけてはいけないと考え、いつも節約していた。彼からもらった金を使うことに後ろめたさを覚え、必要なものがあっても我慢することのほうが多かった。 俯いたまま何も言わず、肩を小さく震わせている千温を見て、優和はまた泣いているのだと思った。 その声が、先ほどよりもわずかに柔らかくなる。「もう泣くな。これからも時間があるときには、俺が会いに行ってやる。……それに、俺に抱かれたくなったら、沢田を通して連絡すればいい」「……」「沢田、車を出せ」「かしこまりました、社長」 伝えるべきことは、これですべて伝えたつもりなのだろう。 優和は千温の返事を待つことなく、沢田へ出発を命じた。 新居の住所は、あらかじめ沢田へ伝えてあったらしい。沢田は行き先を確認することもなく、静かに車を発進させた。 優和は東京都内に、複数の不動産を所有していた。 そのうち二軒は両親から買い与えられたもので、ほかにも投資目的で自ら購入した物件がいくつかある。 今回、千温を一人で住まわせるために用意した部屋は、新たに購入したものだった。 高級住宅と呼べるほどではなく、都心からも、優和の別荘からも遠く離れている。 別荘を出てから一時間近く経った頃、車はようやく、閑静な住宅街にあるマンションの前へ停まった。 優和は今度ばかりは沢田に任せず、自ら千温の鞄を手に取った。 千温を連れ、マンションの中へ入っていく。 優和の感覚からすれば、ひどく狭い部屋だった。 それでも間取りは三LDKで、一人で暮らすには広すぎるほどだ。家族で住んでも、十分な余裕がある。 優和は鍵を使って玄関の扉を開けると、そのまま千温の手のひらへ鍵を置いた。「家具と家電は一通り揃えさせた。ベッドや寝具も、家政婦に頼んで用意してある。ほかに足りないものがあれば、自分で確認して、さっきのカードで買えばいい」 優和は自分なりに、千温のことを十分考えてやったつもりだった。
別荘へ入ったとき、千温の目はすでに真っ赤になっていた。 沢田は彼女の二、三歩後ろを歩き、そのまま寝室まで付き添った。 千温はどうすればいいのか分からない様子で、しばらく自分の部屋の入り口に立ち尽くしていた。やがて零れそうになる涙を懸命に堪えながらクローゼットを開け、普段よく着ていた服を取り出していく。「……小北さん、よろしければ、私がお手伝いいたします」 沢田も荷造りを手伝いたかった。 しかし、千温が片づけているのは身につける衣服だ。本人に頼まれてもいないのに勝手に手を出すわけにもいかず、少し離れた場所から見守るしかなかった。「……大丈夫です」 頬を伝う涙に気づいた千温は、沢田に見られまいと俯いたまま、小さな声で答えた。「では……私は部屋の外でお待ちしています。何か必要でしたら、いつでもお声がけください。よろしいでしょうか」「はい……」 沢田が部屋を出ていった途端、千温は力を失ったように床へ崩れ落ちた。 声が外へ漏れないよう両手で口元を押さえ、身体を震わせながら泣いた。 入院していた数日間、優和にどれほど残酷な言葉を浴びせられても、心の片隅では小さな期待を捨てきれずにいた。 もしかしたら、優和は本心から言っているわけではないのかもしれない。 自分を傷つけるために、わざと嘘をついているだけなのかもしれない。 けれど、違った。 優和の言葉は、すべて本気だった。 初めから千温を迎えに来るつもりなどなく、退院した今は、一刻も早く自分の家から追い出そうとしている。 それでも千温は、いつまでも泣いているわけにはいかなかった。 優和を長く待たせれば、また怒らせてしまうかもしれない。不機嫌にさせて、もっと嫌われてしまうかもしれない。 千温がこの家へ来たとき、持ってきたものはほとんどなかった。 もともと大した荷物を持っていなかったうえに、優和は千温が以前着ていた服を嫌っていた。 今この部屋にあるものは、当時、優和が買い与えてくれたものばかりだった。 千温は高価な品々には手を触れず、普段着にしていた服を数枚だけ鞄へ詰めた。 荷造りを終えて部屋を出ると、廊下で待っていた沢田へ頭を下げる。「すみません、お待たせしました、沢田さん。準備できました」 沢田は、千温が手にしている鞄へ何度か目を向けた。 中にはほとんど何も入っていないように
「わあ……」 思わず、小さな感嘆の声が漏れた。 先ほどまでの悲しみを忘れたように、千温は窓の外へ見入っている。やがて抑えきれないほど目を輝かせ、嬉しそうに優和を振り返った。「優和、ここ……すごくきれいだね」 何も知らない子供のようにはしゃぐ千温を見て、優和は小馬鹿にするように鼻で笑った。 それだけで、返事をしようとはしなかった。* 最後にいつだったか思い出せないほど長い間、千温は優和と外で夕食をともにしていなかった。 ましてや、これほど素敵な店へ連れてきてもらったのは初めてだ。 優和の家で暮らすようになってから、彼が千温を連れて外出することはほとんどなくなった。恋人らしいデートも、一度としてしたことがない。 二人の関係は、もう恋人とは呼べないほど曖昧なものになっている。ほんの数時間前まで、千温は悲しみに耐えきれず泣いていた。 それでも今この瞬間、胸が紛れもない喜びで高鳴っている。 美しい夜景を眺めながら、向かい合って食事をする。 まるで本当に、優和とデートをしているようだった。 食事の間、優和は終始気乗りしない様子だった。 食欲もないらしく、メインのステーキにはほとんど手をつけない。その一方で、料理に合わせて出された赤ワインだけは何杯も飲み続け、とうとう一本すべて空けてしまった。 千温は何度も優和へ話しかけようとした。 内容など何でもよかった。ほんの少しでも、彼と言葉を交わしたかった。 けれど、表情を失ったように冷たい顔をしている優和を見ると、声をかけるのが怖くなる。何度も唇を開きかけ、そのたびに言葉を呑み込んだ。 ようやく声をかけることができたのは、食後のデザートが運ばれてきてからだった。「優和……私、もうお腹いっぱいかも……」「そうか。もう食べられないなら、帰るぞ」 優和の前に置かれたデザートにも、まだ一口も手がつけられていなかった。 千温が本当にもう食べなくていいのか、せっかく運ばれてきたデザートを残しても構わないのか。そんなことを尋ねることもない。 千温が満腹だと言うなり、優和は迷いなく席を立った。 そばにいた給仕を呼び止め、ポケットから取り出したカードを渡して会計を済ませる。その一連の動作にも、食事の余韻を惜しむ様子は少しもなかった。 優和が酒を飲んでいたため、食事を終える頃には、車を運転するために沢
結局、優和は自分が満足するまで、千温を離そうとはしなかった。 彼女の身体に自分の子供がいることさえ、忘れてしまったかのようだった。 この数日間、満たされずにいた欲望をすべてぶつけるように、優和の動きには少しの容赦もない。 千温はついに耐えきれなくなり、身体を小さく縮こまらせた。 両手で下腹部を庇う姿を目にして、優和はようやく子供の存在を思い出したらしい。そこで初めて、彼女を押さえつける力をわずかに緩めた。 すべてを終えたあとも、優和の口から千温の身体を気遣う言葉が出ることはなかった。「千温、もう考えはまとまったか? 子供は諦めろ。お前一人でまともに育てられるはずもないし、俺も厄介事を抱えるつもりはない」 千温は何も答えなかった。 脚にはほとんど力が入らない。それでも震える手を動かし、乱れきったワンピースを慌てて整えた。 優和は手を貸そうともせず、千温が一人でどうにか身なりを整える様子を、黙って眺めているだけだった。 しばらく待っても、子供を諦めるという返事はない。 優和はそれ以上問い詰めず、無言のまま運転席へ戻った。 帰りの車内でも、優和は終始黙り込んでいた。重苦しい空気に押し潰されそうになり、千温も何一つ口にできない。 車が自宅へ向かっていないことに気づいたのは、しばらく走ってからだった。 やがて車は、高級ホテルの地下駐車場へと入っていく。 優和は千温をホテルの一室へ連れていき、シャワーを浴びて着替えるよう命じた。 レストランへ連れていくと約束した以上、このままの格好で店へ入らせるわけにはいかない。乱れた服をまとった女を連れて歩けば、自分が恥をかく。 彼が考えていたのは、千温の気持ちではなく、どこまでも自分の体面だった。 シャワーを終えた千温が部屋へ戻ると、優和の秘書が届けた新しい服が、すでに用意されていた。 用意されていたのは、真新しいワンピースだった。洗練されたデザインと上品な色合いは、先ほどまで千温が着ていたものとは比べものにならない。 床の隅へ無造作に置かれた紙袋には、千温でも知っている高級ブランドの名が記されていた。 優和が自分のために用意してくれたものなら、きっと今季の新作なのだろう。 そう思っただけで、沈みきっていた千温の胸に、ほんのわずかな温かさが灯った。 千温はワンピースを大切そうに手に取り、言われ
「……ああ、ある案件で問題が起きてね。現場を確認しに来てるんだ」「そうなの?」 千鶴の問いかけは、優和の言葉の裏を探っているようにも聞こえた。 優和の胸に、わずかな緊張が走る。どう説明すれば疑われずに済むのか、頭の中で素早く言葉を探した。 千温を迎えに来たことは、絶対に知られるわけにはいかない。 幸い、千鶴はそれ以上追及しなかった。少し間を置き、電話をかけてきた本来の用件を告げる。「今夜は家族と食事することになったから、優和とは会えないの。出かける前に顔くらい見たいと思ってたけど、仕事中なら邪魔しないでおくね」 疑われずに済んだらしい。 優和は悟られないよう、静かに安堵の息を吐いた。 傍らへ目を向ける。 千温は命じられたとおり、声一つ漏らさず座っていた。俯いたまま、小さな身体を縮こまらせている。 先ほど乱したワンピースから、白い肌が覗いていた。 それを目にした途端、優和の眼差しに再び暗い熱が灯る。 千鶴との通話を続けたまま、空いた手を千温へ伸ばした。近づいてくる指先に気づき、千温の肩が小さく揺れる。それでも逃げることはできず、唇を固く結んだまま身を強張らせた。 優和はそんな千温を弄ぶように触れながら、電話の向こうの千鶴へは、蜜が滴りそうなほど優しい声で囁いた。「分かった。今夜はゆっくり家族と過ごすといい。食事が終わって、それでも俺に会いたくなったら電話して」「それなら、私が電話する前に寝ちゃ駄目だからね」「もちろんだよ」 もともと今夜は、千鶴と夕食をともにする予定だった。その約束がなくなった今、優和には千温を相手にする時間が十分にある。「千温、服を脱げ」 千温へ向けた途端、その声は有無を言わせぬ命令へと変わった。 先ほどまで千鶴に聞かせていた甘く優しい声音とは、まるで別人のようだった。優和の頭にあるのは、一刻も早く自身の昂りを千温の奥深くへ埋めることだけだった。 それなのに、千温はすぐには従おうとしない。「ちっ」 苛立たしげに舌打ちし、自ら服を脱がせようと手を伸ばす。 俯いていた千温が顔を上げた瞬間、その手が止まった。 頬には、いくつもの涙の跡が残っていた。目元も赤く腫れ、今も新たな雫が睫毛の先で震えている。「……何を泣いてる」 優和が千鶴と話している間、千温はすぐそばで、彼のあまりにも優しい声を聞き続けて
ここ数日、優和はほとんどの時間を千鶴とともに過ごしていた。 長年想い続けてきた女が、今は手を伸ばせば触れられる場所にいる。眺めることも、抱き締めることも、唇を重ねることも許されていた。 それでも、最後の一線だけは越えられない。 千鶴はわざと優和を焦らしているようにも見えた。外国で暮らすうちに、男の心を弄ぶような駆け引きを覚えたのかもしれない。 優和をその気にさせては、彼の身体が自分に反応していることを確かめ、満足そうに笑う。それでいて、その先を求められると、決まってするりと腕の中から逃げていった。「優和も知ってるでしょう? 私、そういうところは古風なの。結婚するまでは、誰とも寝ないって決めてるから」「もちろん分かってる。結婚するまで、ちゃんと待つよ」 耐えるのは、決して楽ではなかった。 それでも千鶴は、優和がずっと大切に守りたいと願ってきた女だ。彼女の望みであれば、何もかも受け入れるつもりだった。 一人で昂りを鎮めるたび、優和は何度も千温のことを思い出した。 もし今も千温がそばにいれば、自分一人でこんな思いをせずに済んだのに――そんな身勝手な考えが、決まって頭をよぎった。 千温なら、優和が何を求めても拒まない。少し怯えた顔をしながらも、最後には従順に受け入れる。そう思うと、無性にあの柔らかな身体へ触れたくなることさえあった。 一度、千温の存在を目にしてから、千鶴は何かを警戒するようになった。以前より優和の行動を気にかけ、ここ数日はほとんど彼のそばを離れようとしない。 今日も祐理から電話がかかってこなければ、優和が予定を切り上げ、千温を迎えに来ることなどなかっただろう。 それなのに、病院へ駆けつけてみれば、千温は見知らぬ男の病室で楽しそうに笑っていた。 自分は千鶴のために彼女を放っておいたくせに、別の男が千温のそばにいることだけは許せなかった。 こうして連れ出した以上、この数日間溜め込んでいた苛立ちも欲望も、すべて千温へぶつけるつもりだった。「んっ……」 狭い車内で、千温は優和に強く押さえつけられ、身を起こすことさえできなかった。 優和の動きには、普段のような余裕がまるでない。千温が苦しそうに身を捩っても、怯えた目で見上げても、少しも手を緩めなかった。 自分の欲求を満たすことしか考えていないのだろう。 千温は何度か逃れよう