ANMELDEN結婚して三年間、安部怜央(あべ れお)が妻の清水陽咲(しみず ひなた)に触れることは数えるほどしかなかった。 それでも陽咲は、いつか自分の献身が彼の氷のような心を溶かせると信じていた。怜央に愛されるためなら、プライドを捨て、なりふり構わず尽くすことさえ厭わなかった。 しかし、ある冬の夜。偶然耳にした怜央の電話で、陽咲は残酷な真実を突きつけられる。怜央の心にいるのは、自分の妹の望月悠里(もちづき ゆうり)だけ。 自分との結婚は、単なる利用でしかなかった。 陽咲は現実から目を逸らし、何事もなかったかのように自分を欺き続けてきた。だが怜央はそのたびに、残酷なまでに迷うことなく悠里を選び続ける。 陽咲は海市中の物笑いの種となっていた。 悠里から送られてきた彼女と怜央がホテルでの睦み合う写真。そして、妊娠の告白。 積み上げられた裏切りの果てに、陽咲はついに自らを欺くのをやめ、離婚を切り出す。 もともと、怜央が自分を妻に迎えたのは愛などではなく、あの一枚の契約に縛られていたからに過ぎないのだ。 離婚後、陽咲は陶芸の世界に没頭し、瞬く間に業界の新星として頭角を現す。 そんな彼女を前に、かつての冷徹で孤高だった怜央が、初めてなりふり構わず取り乱した。 「陽咲、俺と一緒に戻ってくれ。契約を更新しよう……一生だって構わない。頼む」
Mehr anzeigen陽咲はきっぱりと首を横に振った。「無理よ」少し間を置き、彼女はさらに冷酷な言葉を継いだ。「たとえ死んでも、あなたとやり直すことなんて絶対にないから」そのあまりにも非情で決然とした言葉に、怜央は全身を震わせ、巨大な喪失感と絶望に飲み込まれた。彼は無意識に一歩踏み出し、陽咲の目を食い入るように見つめた。彼女の瞳の奥に、ほんのわずかでも、欠片ほどの躊躇いでも見つけ出そうと必死だった。だが、何も見出せなかった。陽咲の表情は最初から最後まで淡々としており、どこまでも冷ややかでよそよそしかった。今や怜央は、彼女にとって完全に赤の他人でしかなく、言葉を交わす気すら微塵も起こさせない存在なのだ。怜央は彼女と視線を交わし、その無言の拒絶を痛いほどに悟ると、力なく自嘲気味に笑った。「……わかった」陽咲は静かに視線を外し、振り返ることもなくエレベーターに乗り込んで上階へと向かった。夜になり、絃葉が陽咲の部屋へやってきて、彼女が荷造りをするのを見守っていた。「雲市は少し冷えるから、厚手の服を多めに持っていきなさいね。それから、もし向こうで何か嫌な思いをさせられたら、絶対に私に言うのよ。私がきっちり仕返ししてあげるから!」絃葉は心配のあまり、あれこれと口うるさくまくし立てる。「そうだ、雲市に着いたら私からもこまめに電話するわ。悠里が、またあなたに危害を加えないか心配で……」絃葉がここまで口やかましく世話を焼くのは初めてのことだ。陽咲は思わず吹き出し、「はいはい、わかったわ、絃葉。心配しないで」と笑い返した。荷造りを終えると、2人はベッドに腰を下ろした。陽咲はふと尋ねた。「そういえば絃葉、聡子たちはあなたがうちのお兄さんと付き合ってること、知ってるの?」絃葉は首を横に振った。「ううん、知らないわ。雅也もまだ話してないの。今はまだその時じゃないって」言葉を濁してはいたが、陽咲にはその真意がすぐに分かった。雅也は、聡子夫婦が事実を知ったら絃葉のところへ嫌がらせに行きかねないと案じ、だからこそずっと隠しているのだ。「でも、いつかは公にする日が来るじゃない。その時、もし聡子たちが反対したらどうするか、考えたことある?」陽咲は真剣な眼差しで尋ねた。絃葉は黙り込み、しばらくしてからぽつりとこぼした。「まだ考えてないわ。私にとっ
「何が足りないの?」陽咲がまだ言葉の意図を飲み込めないでいるうちに、蒼空がすっと身を乗り出して彼女の頬を両手で包み込み、その唇に大切そうにキスを落とした。唇が離れると、蒼空はゆっくりと体を離して元の姿勢に戻った。「君と離れるのが名残惜しいんだよ。他の男に言い寄られて、連れ去られちゃうんじゃないかって心配で仕方ないんだ」陽咲は少しおかしそうに笑った。「私、今はあなたしか好きじゃないわ」蒼空はその言葉のわずかな隙を鋭く突いて、執拗に食い下がった。「じゃあ、これからは?陽咲、僕にとってこれが初めての恋で……そして最後の恋だ。だから、すごく不安になるんだよ」彼は掠れた声で、真剣な眼差しを向けて言った。陽咲は小首を傾げて尋ねた。「どうして、最後なの?」「君と結婚したいと思っているからだよ」蒼空は静かに囁いた。陽咲は一瞬言葉を失ったが、やがて優しく微笑んだ。「……わかった。雲市に行ったら、毎日必ずあなたに電話するって約束する。ね?」蒼空は「うん」と短く頷いてエンジンをかけ、まずは陽咲を連れて食事へと向かった。食事を終えると蒼空は陽咲を家まで送り届け、2人は名残惜しそうに別れを告げた。翌朝、朝食の席で、陽咲は雲市へ行く件を絃葉に切り出した。絃葉はどのくらい行くのかと尋ねた。「すぐよ。1ヶ月くらい」と陽咲は答えた。絃葉はこくりと頷いた。「あなた1人で?」陽咲は笑って言った。「工房の女の子を1人連れていくつもりよ」「いつ出発するの?」「明日には行くわ」「わかった。帰る時は連絡してね、迎えに行くから」絃葉は穏やかな声で言った。陽咲は頷いた。朝はいつものように絃葉が車で海棠陶房まで送ってくれた。陽咲は中に入ると、まっすぐ2階の栞奈のところへ向かった。「栞奈、凛夢も一緒に雲市へ連れて行って、弟子入りさせたいの」栞奈は顔を上げ、不思議そうに彼女を見た。「凛夢は真面目でコツコツ頑張る子だし、陶芸にかける思いもすごく本気でしょ?だから、彼女も一緒に連れて行って成長させてあげたいの。ついでに少し指導もしてあげたいし」陽咲は真摯に語った。このところの凛夢の努力を、陽咲はしっかりと見ていたのだ。工房の中で、陽咲を除けば、彼女が一番真剣に陶芸と向き合っている人間だった。陽咲も祖父と同じく、
栞奈はこくりと頷いた。「蒼空と付き合うことになったのね。うん、それはいいことじゃない」少し間を置いてから、彼女はハッと我に返ったように声を上げた。「えっ、ちょっと待って。あなたが、あの周防蒼空と付き合うことになったの!?」驚きのあまり思わず声を張り上げ、目を丸くした。その驚愕ぶりとは対照的に、陽咲はどこまでも落ち着き払っていた。「うん、そうよ」「いつの話なの?」「つい昨日の午後よ」栞奈はパチパチと瞬きを繰り返し、明らかにまだ頭が追いついていない様子だった。「栞奈、この事はまだ他の人には内緒にしておいてね」陽咲は念を押した。栞奈も、陽咲が周防グループに悪影響が及ぶのを案じているのだと察し、頷いて了承した。ここ最近は工房への注文が激減しているとはいえ、陽咲は決して気を抜こうとはしなかった。一度怠けてしまえば、せっかく磨いてきた作陶の感覚が鈍ってしまうのが怖かったのだ。手が空いた時間に、以前絃葉と一緒に雲市で買った皿を思い出し、手持ち無沙汰のついでに6枚ほど成形してみた。綺麗に焼き上がったら家に持って帰るつもりだった。昼時になり、蒼空からメッセージが届いた。【志保に弁当を作ってもらったから、後で君のところへ届けるよ】陽咲は返信を打った。【ありがとう。蒼空はもうお昼食べたの?】蒼空は会議を終えて社長室に戻ったばかりで、音声メッセージを送ってきた。「今、会議が終わったところ。これから食べるところだよ」メッセージを再生すると、心地よい声が耳元に響き、陽咲はふわりと頬を染めて【わかった】と返した。昼食を終えると、陽咲は蒼空の顔を思い浮かべながら、彼のために赤い小魚の陶器の置物をひとつ作り上げた。夜になり、蒼空が車で迎えに来た。陽咲は目をきらきらと輝かせながら助手席に乗り込むと、意味ありげな笑みを浮かべて言った。「私があなたに何を作ったか、当ててみて」蒼空はくすりと笑った。「何を作ってくれたの?」陽咲は先ほどの小魚の置物を取り出し、少し得意げな視線を向けた。「あなたに作ったのよ」蒼空はそれを受け取ると、彼女の手の温もりが微かに残るその小さな置物を指の腹でゆっくりと撫で、ひどく優しい笑みを浮かべた。「可愛い小魚だね。でも僕は、小魚を愛でるだけじゃなく……『いただく』のも大好きなんだ」なんてことのな
静香は少し寂しそうに口を尖らせた。「蒼空ったら、碧海荘にマンションを一部屋持っているのよ。ちょうどあなたたちの上の階だから、明日から私がそこに引っ越してもいいかしら?家で暇を持て余しているし、あなたや陽咲ちゃんにご飯を作って持っていってあげられるじゃない」静香の瞳は期待に満ちていた。清子は考える間もなく即座に却下した。「駄目よ。あなたの精神状態はいくらか良くなったとはいえ、決して油断はできないんだから」静香は不服そうに唇を噛んだ。2人が言い争いになりそうなのを見て、絃葉は慌てて割って入った。「お母さん、まずはおばあちゃんの言うことを聞いて。前にお兄さんにも話したんだけど、私、精神疾患の治療でとても腕の立つ先輩医師がいるの。今度、私がお母さんをそこに連れて行くから」清子は「わかったわ」と頷いた。陽咲は絃葉の胸元に寄りかかりながら、3人のやり取りを聞いていた。絃葉の穏やかな声を聞いているうちに、だんだんと眠気が差してきた。まどろみの中で、ふと清子が自分の名前を呼ぶのが聞こえ、陽咲はハッと目を開けて画面を見つめた。「今村おばあさん」陽咲は素直に返事をした。清子は微笑んで彼女を見ると、単刀直入に尋ねた。「陽咲ちゃん、うちの蒼空とは今どういう関係なの?」陽咲は、蒼空と付き合い始めたことを2人に打ち明けるべきか迷い、どう返事をすればいいか言葉に詰まった。清子はさらに言葉を続けた。「三浦家のあのお嬢さんが蒼空のことが大好きでたまらないみたいなのよ。陽咲ちゃん、うかうかしてないでちゃんとチャンスを掴まないと駄目よ」陽咲はこほんと咳払いし、少し考えた末、思い切って清子に伝えることにした。彼女は背筋を伸ばし、照れくさそうに言った。「今村おばあさん、あの……私、蒼空とお付き合いすることになったんです」その言葉を聞いた瞬間、清子は口元を綻ばせた。たった1日のうちに、生き別れだった愛しい孫娘が戻ってきただけでなく、孫の嫁までできたのだ。まだ籍を入れたわけではないにしても、これほど喜ばしいことはない。静香も驚きと喜びに満ちた声を上げた。「初めて会った時から、あなたと蒼空はお似合いだと思ってたのよ。まさか本当に結ばれるなんて!陽咲ちゃん、もし蒼空があなたをいじめるようなことがあったら、遠慮なく私に言いなさい。私がきっ
言い捨てて、陽咲は背を向けた。それを見届けると、悠里はノートパソコンを閉じ、怜央の元へ歩み寄った。「怜央さん、一緒にご飯食べに行くって言ってたよね。いつ行くの?」そう言うと、彼女は陽咲をちらりと見て誘った。「お姉さんも一緒に行く?」陽咲は静かに微笑み、誘いを断ってそのまま社長室を後にした。彼女が去った後、怜央はその背中をじっと見つめ、何を考えているのか沈黙していた。悠里に何度か呼ばれ、ようやく彼は我に返った。陽咲は社長室を出た後、弁当箱を持って昼食を温めに行った。食事中、スマホが振動した。蒼空からのメッセージだった。【清水さん、あのカップの購入リンクを教えて
写真に写っているのが蒼空だと分かると、怜央は安堵の息を吐き、悠里に事情を説明した。悠里の瞳の奥に、一瞬だけ落胆の色がよぎった。だが彼女はすぐに白々しいほど安堵した表情を作り、陽咲を気遣うふりをした。「よかった、ただの誤解だったのね。でも、もしお姉さんが本当に質の悪い男に絡まれてたらと思うと、ぞっとするわ」その言葉に含まれた「不幸になればよかったのに」という本音を敏感に察知し、陽咲は冷ややかに鼻で笑った。「余計なお世話……それより、自分の心配でもしたら?こんな夜更けに姉の夫の家へ上がり込むなんて。世間に知られたら、『お里が知れる』って後ろ指を指されるだけよ」悠里の顔から血
陽咲は足を止め、背後の車に乗る男を、露骨な警戒心を持って凝視した。男の顔立ちは、息を呑むほどに整っていた。その眉の下に落ちる深い影が、彼の瞳をいっそうミステリアスに、そして官能的に縁取っていた。底知れぬ泉に沈む黒曜石のような瞳は、冷たく澄み渡り、一切の揺らぎを見せない。だが、その静謐な眼差しに見据えられると、心の深淵までをも無遠慮に暴かれてしまうような、不思議な圧迫感があった。男はシートにゆったりと身を預け、口元をわずかに綻ばせて彼女と視線を合わせた。「……どなたですか?」陽咲は悟られないよう、静かに半歩後ろへ下がった。淡々とした問いかけの中には、明確な拒絶と疎遠な響きが含
陽咲は静かに怜央を一瞥しただけで、何も答えなかった。代わりに口を開いたのは、聡子だった。その声には、隠しきれない嘲笑が混じっている。「ええ、あの子の祖父は確かに清水正雄という名前だったわ。でも、ただの田舎者よ。土いじり以外に何の取り柄もない男で、二年も前に死んだわ」二年前――それはちょうど、陽咲が望月家に引き取られた年だった。そこまで言うと、聡子は忌々しげに陽咲を睨み、ため息をついた。望月家に引き取られて以来、陽咲は頑なに「清水」の名字を変えようとしなかった。「血の繋がりは、名字ひとつで証明するような薄っぺらいものではないでしょう」というのが彼女の言い分だった。聡子も頭
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