三年の冷遇、離婚の夜に夫は狂う

三年の冷遇、離婚の夜に夫は狂う

作家:  閑雲たった今更新されました
言語: Japanese
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概要

現代

強いヒロイン

浮気・不倫

財閥

後悔

逆転

傲慢

結婚して三年間、安部怜央(あべ れお)が妻の清水陽咲(しみず ひなた)に触れることは数えるほどしかなかった。 それでも陽咲は、いつか自分の献身が彼の氷のような心を溶かせると信じていた。怜央に愛されるためなら、プライドを捨て、なりふり構わず尽くすことさえ厭わなかった。 しかし、ある冬の夜。偶然耳にした怜央の電話で、陽咲は残酷な真実を突きつけられる。怜央の心にいるのは、自分の妹の望月悠里(もちづき ゆうり)だけ。 自分との結婚は、単なる利用でしかなかった。 陽咲は現実から目を逸らし、何事もなかったかのように自分を欺き続けてきた。だが怜央はそのたびに、残酷なまでに迷うことなく悠里を選び続ける。 陽咲は海市中の物笑いの種となっていた。 悠里から送られてきた彼女と怜央がホテルでの睦み合う写真。そして、妊娠の告白。 積み上げられた裏切りの果てに、陽咲はついに自らを欺くのをやめ、離婚を切り出す。 もともと、怜央が自分を妻に迎えたのは愛などではなく、あの一枚の契約に縛られていたからに過ぎないのだ。 離婚後、陽咲は陶芸の世界に没頭し、瞬く間に業界の新星として頭角を現す。 そんな彼女を前に、かつての冷徹で孤高だった怜央が、初めてなりふり構わず取り乱した。 「陽咲、俺と一緒に戻ってくれ。契約を更新しよう……一生だって構わない。頼む」

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第1話

第1話

海市、ある冬の夜。

「陽咲なんて、俺には不釣り合いだ。彼女との結婚は単なる責任感からに過ぎない。

でも安心して、悠里。三年という契約期間が終われば、俺から離婚を切り出す。そうしたら君を妻に迎えるよ。いいだろう?

信じられないのか?」安部怜央(あべ れお)は小さく笑った。「俺が愛しているのは、一生君だけだ。疑うなら、俺の心臓を抉り出して見せてやってもいい」

書斎の中から漏れ聞こえる甘い睦言が、清水陽咲(しみず ひなた)の耳を刺した。

結婚して二年、怜央が自分に対してこれほどまでに情熱的で優しい言葉をかけたことは一度もない。

ドアの外に立つ陽咲は全身が凍りついたようになり、手に持っていたペアのカップを指が白くなるほど強く握りしめた。

夫である怜央が、陰で自分のことをそんな風に言っていたなんて信じられなかった。

五、六日もかけて丹精込めて焼き上げた陶器のカップに涙がこぼれ落ちる。その情熱が、今はひどく滑稽で皮肉に思えた。

陽咲は顔を上げて涙を拭い、自嘲気味に微笑んだ。

怜央が言ったことの中で、一つだけ正しいことがある。彼女は確かに田舎者だった。

生まれた際、看護師のミスで取り違えられ、男尊女卑の激しい女の元へ送られた。

その女は赤ん坊が女の子だと知るや否や、夫と相談して自分の義父に押し付けた。

神様の助けか、陽咲が清水正雄(しみず まさお)に引き取られた三日後、その夫婦は交通事故で亡くなり、それ以来、彼女は正雄と二人きり、肩を寄せ合うようにして生きてきた。

二十二歳の時、正雄が他界し、望月家の人々が彼女を見つけ出した。彼女こそが長年行方不明だった望月家の真の令嬢だという。

しかし、戻った陽咲を待っていたのは血のつながった両親の冷淡な態度だった。実の兄も彼女を歓迎せず、望月悠里(もちづき ゆうり)への愛情が奪われることを恐れていた。

だが、陽咲はそんなものを奪おうなどと考えたことはなかった。彼女はただ、温かい家が欲しかっただけなのだ。

家族への渇望を見透かした実の両親は、彼女に安部家との婚約を履行するよう命じた。それは数十年前、双方の祖父の間で交わされた約束だった。

当時の安部家は激しいお家騒動の最中にあった。二十年以上も手塩にかけて育てた悠里をそんな苦境に嫁がせたくない両親は、陽咲を身代わりに差し出した。

結婚前、怜央とは契約を交わした。結婚から三年が経過した後、性格の不一致を理由に離婚するという内容だった。

二人の結婚生活は、波風一つ立たない穏やかで節度あるものだった。

陽咲はその心地よいまやかしにいつしか絆され、怜央に対して底なしの愛を抱くようになっていた。

だが、二年間も睦み合ってきた夫が愛していたのは、名義上の妹であり、望月家の偽物の令嬢だったとは思いも寄らなかった。

部屋の中では、怜央の電話が続き、次第にその呼吸が荒くなっていった。

電話越しに女性の艶めかしい喘ぎ声が聞こえ、やがて卑猥な響きが書斎を満たす。

陽咲は涙に濡れた顔で口を抑え、絶望に突き動かされるように一歩後退した。

「悠里、いつになったら俺たちは一緒になれるんだ……」

部屋の中から、欲望を隠しきれない怜央の熱を帯びた、荒い吐息が漏れてくる。

彼はそれほどまでに悠里を深く愛していたのか。自らを慰めるその最中でさえ、うわ言のように彼女の名を呼び続けていたなんて。

受け入れがたい現実に陽咲の頭が真っ白になり、手から滑り落ちた陶器が床に激突して砕け散った。静まり返った深夜に、耳を刺すような音が響き渡る。

数分後、情欲の残滓を瞳に宿したまま、怜央がドアを開けた。そこにいたのは、慌てふためいて床に這いつくばり、破片を拾い集める陽咲の姿だった。

「どうしたんだ、陽咲?」

彼女の姿を視界に捉えた刹那、怜央の顔から蕩けたような熱が引き、その眼底には射貫くような冷徹さが走った。

怜央はしゃがみ込むと溜息をつき、破片で傷ついた陽咲の手を握った。「痛むか?海田先生を呼んで手当てをさせよう」

陽咲は顔を上げ、彼の漆黒の瞳を見つめた。

心配そうな眼差し。けれど、その奥に潜む疎外感が、陽咲の心を深く突き刺した。

胸を掻きむしるような苦痛を抑え込み、彼女はそっと手を引き抜いた。「大したことないわ。海田陽斗 (かいだ はると)先生を呼ぶほどじゃない。自分で絆創膏を貼るから大丈夫」

彼女は立ち上がり、どこか惨めな背中を見せながら、逃げるようにその場を去った。

遠ざかる彼女の後ろ姿を見つめ、怜央の表情に複雑な色が浮かんだ。

陽咲が悠里との会話を聞いていたのかどうか、確信が持てなかった。

聞いていないのならそれでいい。もし聞いていたのだとしても、どう説明すべきか分からなかった。なにしろ、結婚して二年の間、彼女は完璧な伴侶だったからだ。

もし彼女がこのまま分をわきまえて過ごすなら、情けをかけて契約をあと三年更新してやってもいいと、怜央は考えていた。

陽咲は彼の胸中を知る由もなく、身の回りを整えてベッドに横たわり、重い溜息を吐き出した。

そこへ怜央が部屋に入ってきて、彼女を抱きしめた。甘く低い声が耳元で響く。「どうして急に、陶器のカップなんて作ろうと思ったんだ?」

触れるような熱い吐息を受け流すべく、陽咲はわずかに身を乗り出した。そして、穏やかな声で言葉を返した。「……今日は、あなたの誕生日でしょう。ペアのカップを贈りたくて焼いたの。でも、手が滑って割ってしまったわ」

怜央は安堵し、喉元までせり上がってきた蔑みを必死に抑え込んだ。「構わないよ。陶器が割れることより、君が怪我をする方が問題だ」

その上辺だけの優しい言葉を前にして、陽咲は初めて心が凪いでいくのを感じた。

彼の声に含まれた微かな蔑みを、今の彼女ははっきりと聞き取っていた。

「本当は、わざわざ陶器なんて作る必要はないんだよ。欲しいものがあれば使用人に命じればいい。そんな大層な真似はしなくていいんだ」

怜央の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。

安部家の人々は、陽咲の田舎育ちという出自を常に見下しており、彼女に陶芸の技術があるなどとは微塵も信じていなかった。

彼らの目には、陽咲が持ってきた陶器など、どこかで高値で買い付けてきた品を「自分で作った」と嘘をついているようにしか映っていないのだ。

「……あなたが、ペアのカップが欲しいって言ったから」陽咲は背を向けたまま、静かに呟いた。

その言葉に、怜央の顔に驚愕の色が走った。

それは少し前に彼がこぼした寝言だった。あの時、悠里が「ペアのカップを使いたい」とねだったのだが、怜央は仕事が忙しく、また陽咲に怪しまれるのを恐れて断った。

悠里がへそを曲げ、機嫌を取るのにひどく苦労した。

まさか、陽咲がそれを本気にし、俺が彼女と使いたがっていると誤解していたとは。

月光が陽咲の細い背中を照らし、その姿はひどく寂しげに見えた。

怜央の喉仏が、何事かを堪えるように上下に揺れた。

彼が何かを言いかける前に、陽咲はベッドに横たわったまま「おやすみなさい」とだけ告げ、目を閉じた。

眠りにつけるはずもなかった。脳裏には先ほどの怜央と悠里が睦み合う声がこびりつき、心臓が鉛のように重く、鈍く疼いている。

わずかに首を振り、忌々しい情景を無理やり意識の外へ追い出した。ようやく微睡みの淵に沈みかけた、その時だった。

背後から強靭な腕が伸び、抗いようのない力で彼女の腰を抱き寄せた。すぐ耳元で、怜央の熱を帯びた、荒い鼻息が響く。

「陽咲……」

掠れた、艶めかしい声。

彼が何を求めているのか、陽咲には痛いほど分かった。

胸の内に、猛烈な嫌悪感がこみ上げる。

陶芸をする際、彼女は土にわずかな不純物が混じることさえ許さなかった。

人に対しても、物に対しても、それは同じだ。

彼女は自分を這い回るその手を、力強く振り払った。

「触らないで」

――反吐が出る。その言葉を、彼女は必死で飲み込んだ。

突き放すような、あまりに余裕のない響き。その鋭さに虚を突かれたのか、怜央は一瞬動きを止めた。だが次の瞬間、彼は弾かれたようにベッドの上に身を起こし、陽咲の背中を射抜くように見つめ、問いかけた。

「……君、今のを聞いていたのか?」

その声は、確信に満ちていた。
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第1話
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第2話
陽咲は、聞こえないふりを突き通した。どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。怜央のスマホが震え、彼はベッドを抜け出すと、ドアの外で通話に応じた。ドア越しに、彼が相手を慈しむような甘い声が漏れてくる。「悠里、大丈夫だ。ただの悪夢だよ、怖がることはない。そこで待っていてくれ。すぐに行くから」ベッドに横たわったまま、陽咲は鼻の奥がツンとし、熱いものが込み上げてくるのを感じた。結婚して二年。自分に対しては常に冷ややかな態度だった彼が、これほどまでに優しい声を出すことがあっただろうか。唯一の例外は、一年前、彼女が妊娠した時に彼が放った言葉だけだった。当時の怜央は、妊娠の事実を知らされても、父親になる喜びなどその瞳のどこにも宿してはいなかった。陽咲はただ、彼にまだ心の準備ができていないだけなのだと自分を納得させようとしていた。しかし、彼から告げられたのは、あろうことか「おろしてくれ」という、あまりに残酷な一言だった。その時の怜央のとろけるように優しい声と、情愛に満ちた眼差しを、陽咲は今でも鮮明に覚えている。「陽咲、今は会社が急成長している大事な時期なんだ。俺も手が離せない。この子は……今回は諦めてくれないか?君は聞き分けのいい子だろう。落ち着いたら、また改めて授かればいいんだから」それが、彼が自分に見せた唯一の「優しさ」だった。陽咲はその甘い毒に絆され、同意してしまったのだ。翌日、怜央は彼女を病院へ連れて行き、子供を堕ろさせた。その一度の手術で彼女の体は深く傷つき、再び子供に恵まれることは、もはや叶わぬ夢に近いほど難しくなってしまった。妊娠の事実は二人だけの秘密だった。義母である安部明美(あべ あけみ)から「子供も産めないのか」と陰に嘲笑されても、怜央はそれを聞き流し、一度として彼女を庇うことはなかった。思考が現実に引き戻されると、胸がぎゅっと締め付けられるような痛みに、涙がこぼれそうになった。電話を切った怜央が、探るように彼女を呼んだ。「陽咲、寝たのか?」返ってきたのは、陽咲の静かな寝息だけだった。やがて、傍らで衣擦れの音が響く。ドアが閉まる。部屋には再び静寂が戻ってきた。陽咲は起き上がり、カーテンを開けた。夜の闇の中に、怜央の車が走り去っていくのが見える。それはまるで、囚われの姫君を救いに
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第3話
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第4話
陽咲は静かに怜央を一瞥しただけで、何も答えなかった。代わりに口を開いたのは、聡子だった。その声には、隠しきれない嘲笑が混じっている。「ええ、あの子の祖父は確かに清水正雄という名前だったわ。でも、ただの田舎者よ。土いじり以外に何の取り柄もない男で、二年も前に死んだわ」二年前――それはちょうど、陽咲が望月家に引き取られた年だった。そこまで言うと、聡子は忌々しげに陽咲を睨み、ため息をついた。望月家に引き取られて以来、陽咲は頑なに「清水」の名字を変えようとしなかった。「血の繋がりは、名字ひとつで証明するような薄っぺらいものではないでしょう」というのが彼女の言い分だった。聡子も頭では理解していた。だが、目の前の娘が「望月」を拒み、「清水」という名字を背負い続けている事実は、家族の中に消えないしこりを残していた。それが、彼女が陽咲を心から愛せない理由の一つでもあった。正雄を愚弄されることだけは、陽咲にとって絶対に譲れない一線だった。彼女は聡子の嘲るような視線にも怯まず、凛とした態度で正雄を庇った。「おじいさんは確かに田舎の人間でしたが、男手一つで私を不自由なく育て上げ、人としての道理とわきまえを教えてくれました。私にとって、おじいさんは決して、お母さんが仰るような『土いじり以外に何の取り柄もない男』ではありません」聡子は陽咲の性格を熟知していた。一見おっとりとしていて従順そうに見えるが、その実、理不尽なことには決して屈しない、頑固な芯の強さがある。怜央の前でこれ以上醜態をさらすわけにもいかず、彼女は苦々しげに陽咲を睨みつけると、口をつぐんだ。陽咲の祖父が「ただの田舎者」だったと聞き、怜央の瞳には複雑な色がよぎった。それは、「救われた」という思いと、拭い去れない「失望」だった。もし彼女が本当に、あの伝説の陶芸家、正雄の孫娘であったなら、これまでの冷遇を思えば、自分はどんな顔をして彼女に向き合えばよかったのか。そうならなかったことに安堵する一方で、彼女がビジネスの助けにはならないという事実に、怜央は内心で重い溜息をついた。あの厄介な取引先を、結局は自分の力だけで口説き落とさなければならないのだ。怜央はそんな内心を微塵も表に出さず、静かに立ち上がった。「お義母さん、もう九時になります。今日は陽咲を連れて帰りますね。また折
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陽咲は足を止め、背後の車に乗る男を、露骨な警戒心を持って凝視した。男の顔立ちは、息を呑むほどに整っていた。その眉の下に落ちる深い影が、彼の瞳をいっそうミステリアスに、そして官能的に縁取っていた。底知れぬ泉に沈む黒曜石のような瞳は、冷たく澄み渡り、一切の揺らぎを見せない。だが、その静謐な眼差しに見据えられると、心の深淵までをも無遠慮に暴かれてしまうような、不思議な圧迫感があった。男はシートにゆったりと身を預け、口元をわずかに綻ばせて彼女と視線を合わせた。「……どなたですか?」陽咲は悟られないよう、静かに半歩後ろへ下がった。淡々とした問いかけの中には、明確な拒絶と疎遠な響きが含まれている。彼女の強い警戒心を見て取り、蒼空は低く笑った。深い瞳にわずかな笑みが宿ると、張り詰めていた空気がふわりと和らぐ。「こんな夜更けに、清水さんがお一人で歩いているとは。どうされたのですか?」陽咲は唇を強く引き結び、答えなかった。今ここで走り出したとして、逃げ切れる確率はどれくらいか――頭の中で必死に計算していたのだ。その思考を読み透かしたように、蒼空は苦笑した。「変な勘違いはしないでください。僕は安部さんの取引先ですよ。夜も遅い。女性の一人歩きは危険です。お送りしますよ、乗ってください」陽咲は知る由もなかったが、この一連のやり取りは、偶然通りがかった悠里の友人によって盗撮され、即座に悠里の元へと送信されていた。陽咲は動かなかった。彼女は大きく息を吸い込むと、突然、全力で前へと走り出した。「怜央の取引先」だなんて。証拠もないのに、そんな言葉を鵜呑みにできるはずがないわ。正雄の教えを、彼女は片時も忘れてはいなかった。「外にいる時は、常に警戒心を怠るな。決して隙を見せるんじゃないぞ」だが、いくらも走らないうちに、背後からクラクションが響いた。蒼空は車を徐行させて彼女を追い、窓を開けた。「清水さん、なぜ逃げるんです?取って食ったりしませんよ」陽咲は足を止め、さらに数歩後ずさった。そして、自分が街灯のすぐ隣にある防犯カメラの死角に入っていないことを確認してようやく一息つくと、鋭い眼差しで彼を威嚇した。「これ以上ついてくるなら、警察を呼びます」スマホは怜央の車に置き忘れてきたため、単なるハッタリに過ぎなかったが
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第6話
写真に写っているのが蒼空だと分かると、怜央は安堵の息を吐き、悠里に事情を説明した。悠里の瞳の奥に、一瞬だけ落胆の色がよぎった。だが彼女はすぐに白々しいほど安堵した表情を作り、陽咲を気遣うふりをした。「よかった、ただの誤解だったのね。でも、もしお姉さんが本当に質の悪い男に絡まれてたらと思うと、ぞっとするわ」その言葉に含まれた「不幸になればよかったのに」という本音を敏感に察知し、陽咲は冷ややかに鼻で笑った。「余計なお世話……それより、自分の心配でもしたら?こんな夜更けに姉の夫の家へ上がり込むなんて。世間に知られたら、『お里が知れる』って後ろ指を指されるだけよ」悠里の顔から血の気が引いた。彼女は唇を噛み締め、潤んだ瞳で怜央を見上げた。「怜央さん……私、そんなつもりじゃない……お姉さん、何か誤解してるみたい……」その姿に、怜央の胸が締め付けられる。彼は悠里を庇うように声を荒らげた。「陽咲、悠里になんて口を利くんだ。これでも君の妹だろう」陽咲は冷たい目で彼を見返した。「血の繋がりもないのに、どこの誰が私の妹だって言うの?」怜央が怒りで顔を赤くし、さらに怒鳴り散らそうとする気配を察して、陽咲は会話を打ち切った。これ以上相手にするのは時間の無駄でしかない。彼女は二人に背を向け、さっさと二階へ上がっていった。悠里をひとしきり慰めた後、怜央は理玖に命じて彼女を送り届けさせた。その夜、怜央はまたあの日の夢を見た。十歳の冬。彼は拉致され、山中へと連れ去られた。犯人たちの要求は身代金十億円。当時、両親は海外出張中で連絡が取れず、指定口座への入金が期限に間に合うことはなかった。「親に見捨てられた」と判断した犯人たちは、怜央の始末を決めた。だが、直接手に掛けて殺人の罪を背負うのを恐れた彼らは、怜央の片足を無残にへし折ると、そのまま雪山に放り出したのだ。――ここで野垂れ死ね。そう言い捨てて。怜央は砕かれた足を引きずり、凍てつく山林を一晩中彷徨った。体温は奪われ、指先の感覚はとうに消えている。極限の飢えと激痛の中、彼は死を悟り、雪の上に力なく倒れ込んだ。絶望が彼を飲み込もうとしたその時。一人の少女が現れた。ガタガタと痙攣する彼を見るなり、少女は迷うことなく自分の上着を脱ぎ、凍えきった怜央の体にそっと被せた。朦朧とする意
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第7話
言い捨てて、陽咲は背を向けた。それを見届けると、悠里はノートパソコンを閉じ、怜央の元へ歩み寄った。「怜央さん、一緒にご飯食べに行くって言ってたよね。いつ行くの?」そう言うと、彼女は陽咲をちらりと見て誘った。「お姉さんも一緒に行く?」陽咲は静かに微笑み、誘いを断ってそのまま社長室を後にした。彼女が去った後、怜央はその背中をじっと見つめ、何を考えているのか沈黙していた。悠里に何度か呼ばれ、ようやく彼は我に返った。陽咲は社長室を出た後、弁当箱を持って昼食を温めに行った。食事中、スマホが振動した。蒼空からのメッセージだった。【清水さん、あのカップの購入リンクを教えてもらえませんか。すごく気に入ってしまって】続けて、黒猫が愛嬌を振りまくスタンプが送られてきた。本人の印象とは少しギャップがある。陽咲はふっと笑みをこぼし、ショッピングアプリを開いてリンクを共有しようとした。だが、指が滑り、習慣でトーク画面の最上部にピン留めしていた怜央に送信してしまった。今は彼と余計な関わりを持ちたくない。陽咲は即座に送信を取り消した。それから蒼空にリンクを送り直し、トーク画面を閉じると、怜央のピン留めを解除した。蒼空は仕事の最中だったが、彼女から届いたリンクを目にすると、寄せていた眉がすっと解け、瞳に柔らかな笑みが浮かんだ。画面を軽快にタップし、短く礼を返す。陽咲は【気にしないでください】と返し、スマホの画面を消して食事を続けた。一方、怜央は車内でスマホに通知が表示されたのを見た。タップして開くと、そこには「メッセージの送信が取り消されました」という無機質な表示が残っているだけだった。陽咲が後悔して、俺に食事に連れて行ってほしいと思ったものの、からかわれるのを恐れて取り消したのだろうか。彼は鼻で笑うと、特に気にする様子もなく視線を窓の外へ移した。午後三時、聡子から陽咲に電話がかかってきた。かつての記憶を辿れば、聡子が電話をしてくる理由といえば、新しいジュエリーをねだるか、ブランドバッグを買わせたいかのどちらかだ。彼女は煩わしく感じ、電話には出ず、自動で切れるのを待った。三十分後、彼女はようやく聡子にメッセージを送った。【先ほどは取り込んでいました。何かご用でも?】丁寧な言葉遣いではあるが、
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第8話
「陽咲、お母さんも小言は言いたくないけれど。家族の食事会に、夫を一人で来させるなんて聞いたことがないわ。外聞が悪いと思わないの?」聡子の言葉に、陽咲は箸を動かす手を止めた。聡子が何を企んでいるのかと内心で警戒した。悠里がすかさず同調し、箸を置く。「そうよ、お姉さん。仕事が家族団らんより大切だなんてこと、あるわけないじゃない。怜央さんが心が広くて、お姉さんを責めないからよかったものの。世間に知られたら、望月家はしつけがなってないって笑われちゃうわ。でもね、お姉さん。怜央さんだって立派な大人なんだから、分別くらいあるわ。いつまでも彼を監視するのはやめたら?」陽咲は冷ややかな目で彼女を見つめた。そもそも陽咲が外で働くことを選んだのは、男にすがるだけの女だと思われたくなかったためである。それが悠里の目には、怜央を監視するための口実に映っているらしい。あまりに滑稽で笑いが込み上げてくる。陽咲は意図的に先ほどの話題を蒸し返し、呆れたように口を開いた。「お母さん。先ほども申し上げましたが、私はあなたにブロックされていたため連絡ができなかったのです。それに、私にとっては家族も仕事もどちらも重要で、優劣をつけるものではありません」聡子は顔面を蒼白にした。なぜまた自分に火の粉が降りかかってくるのか。彼女が慌てて弁解しようとした矢先だった。雅也が顔を上げ、冷ややかな視線を聡子に向けた。「お母さん。こっちは一日中働いて疲れているんだ。静かに飯を食わせてくれ」聡子は昔から雅也には甘く、彼に苦労をかけることを何より嫌う。その言葉を聞くや否や慌てて口をつぐみ、それ以上は何も言わなくなった。悠里はまだ何か言いたげだったが、大輔の「食事中は黙りなさい。食べろ!」という一喝で遮られた。食事は重苦しい沈黙の中で終わった。食後、大輔は仕事の話があると言って雅也を書斎へ呼んだ。聡子や怜央たちはリビングのソファに座り、テレビを眺めていた。「陽咲、あなたたち、結婚してもう二年になるわよね。子供はいつ作るつもりなの?」怜央は口を開かなかった。彼が答える気配がないのを見て、陽咲が口を挟んだ。「まだ急いではいません。今は私も怜央も仕事が忙しい時期ですので、子供のことは後回しにしています」聡子は納得がいかない様子で食い下がる。「あな
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第9話
怜央には彼なりの思惑があった。悠里が同居すれば、彼女との関係を深められるだけでなく、雅也からの支援も得やすくなる。これほど都合の良い話はない。「俺は構わない」怜央は口を開いた。「俺ももう二十六歳だ。そろそろ子供を持つべきだろうし、いつまでも仕事ばかりにかまけてはいられないからな」怜央がこれほど物分かりが良いのを見て、聡子は顔をほころばせ、勝ち誇ったように陽咲を一瞥した。「何の話だ?ずいぶん楽しそうじゃないか」書斎から出てきた雅也が、階段を降りながら尋ねた。聡子は雅也にどう説明すべきか言葉に詰まった。雅也は悠里を可愛がってはいるが、彼女が他人の利益を損なうことだけは絶対に許さない。ましてや、夫婦の邪魔をするような非常識な真似など言語道断だ。聡子が口ごもっていると、陽咲が代わりに口を開いた。「お母さんが、悠里を私と怜央の家に住まわせて、仲を深めさせたいんだって」「馬鹿げている!」雅也は不快感を露わにし、鋭い視線を悠里に向けた。「夫婦の生活に割り込んで、一体何を考えているんだ」彼は悠里を溺愛してはいたが、悪いこと、特にこうした道義に反するような行いだけは決して許さなかった。望月家において、雅也は父親の大輔以上に悠里に対して厳格だったのだ。皆の前できつく叱られ、悠里の瞳に涙が浮かんだ。怜央が自ら助け舟を出した。「お義母さんが、悠里と陽咲の姉妹の絆を深めさせようと、同居を提案してくれたんだ」聡子が子供を急かしたことには、一言も触れなかった。雅也が陽咲を見ると、彼女が頷いたため、彼はそれ以上何も言わず、悠里に謝って自室へ戻っていった。こうして、この一件はあっさりと決まってしまった。陽咲はこれ以上ここに居たくなく、時間も遅いことを理由に席を立ち、帰る準備をした。家を出る時、陽咲が先頭を歩き、怜央と悠里はつかず離れずの後ろをついてきた。車に乗る際、陽咲は後部座席のドアを開け、さっさと乗り込んだ。悠里は外に立ったまま、いかにも白々しく言った。「お姉さん、私が後ろに座って付き合おうか?」怜央がそれを制した。「君は車酔いするだろう。助手席に座りなさい」悠里は得意げに陽咲をちらりと見ると、いかにもしおらしい態度で助手席に収まった。車に乗り込むと、悠里はわざとらしく言った。「怜央さん、
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第10話
帰宅後、悠里は陽咲が現在使っているゲストルームを寄越せと言い出した。陽咲が使っている二階のゲストルームは日当たりが良く、広々としており、主寝室に次ぐ良い部屋である。「駄目」陽咲は即座に拒絶した。悠里がその部屋に入れば、自分はどうなるのか。怜央と同じベッドで眠るなど、死んでも御免だった。悠里は哀れみを誘うような視線を怜央に向け、口を開いた。「怜央さん、大丈夫。私、寝る場所さえあれば、使用人の部屋でも構わないから」陽咲は冷笑し、一切甘やかさなかった。「嫌なら実家へ帰ればいい。ここで無理に我慢する必要なんてない」ここは陽咲の家であり、どんな罠を仕掛けられるか分からない。悠里は奥歯を噛み締め、屈辱を飲み込んだ。怜央は顔色一つ変えない陽咲をちらりと見て、自分と同室で寝ることを提案した。陽咲は断固として拒否した。「あなたはいびきもかくし、歯ぎしりもする。うるさいから嫌。一階にもゲストルームがある。彼女はそこに泊まらせて」氷のように冷たい口調である。怜央は少し腹を立てた。だが、悠里の前で口論するわけにもいかず、譲歩するしかなかった。「分かった」彼は悠里の方を向いた。「悠里、一階のゲストルームにしてくれ。あそこも結構広いから」悠里は熱を帯びた視線で彼を見つめ、頷いて承諾した。怜央は幸子に一階のゲストルームを片付けさせ、悠里のスーツケースを運び込んだ。自分の用事は済んだと判断し、陽咲はさっさと二階へ上がった。陽咲が二階へ行くのを見届け、悠里は怜央に歩み寄った。彼の首に両腕を絡ませ、しなだれかかるように色っぽい視線を送る。「悠里、手を離せ」怜央は瞬時に耳の先まで赤くし、視線を泳がせ、どうしても悠里の顔を見ることができなかった。「怜央さん、あなたも私のことが好きなはずなのに。どうして拒むの?」悠里は甘い吐息を漏らし、その熱を帯びた息遣いがさらに彼の顔を赤くさせた。「筋が通らない」怜央は声を低くし、体を強張らせた。「悠里、聞き分けろ。陽咲と離婚するまで、君には手を出せない」怜央は逃げるように悠里の部屋から出てきた。二階へ上がる時、彼は無意識に扉の閉ざされたゲストルームへ目を向けた。自分の自制心が強く、悠里に惑わされずに済んで良かったと安堵した。五分後、陽咲のス
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