INICIAR SESIÓN「東堂グループの内部は現在、極めて不安定な状況にある。親族間の派閥争いが激化しており、俺の失脚を狙う連中が虎視眈々と隙を窺っている。俺には冷泉院の後ろ盾が必要だ。冷泉院もまた、俺を支援するだけのメリットが有る。だが冷泉院家は、その火の粉が自分たちの手元で育てた娘に降りかかるのを嫌い、君を身代わりとして寄越した。……違わないな?」
「はい。伺っております」
透子は視線を逸らさず、穏やかに肯定した。
感情を荒らげることも、哀れみを乞うこともない。その淡々とした態度に弦也はわずかに眉を寄せたが、すぐに冷ややかな表情を取り戻した。
「結構だ。話が早くて助かる。だからこそ、君に明確な境界線を引いておく」
弦也はテーブルの上に置かれた書類を一瞥した。
「この結婚は、両家の利害関係が一致したことによる形式的な契約にすぎない。君に東堂家の妻としての特権を与えるつもりはないし、俺の私生活に干渉することも許さない。もちろん、俺も君の生活に口を出すつもりはない。寝室も普段は分ける」
ここで弦也は小さく息を吐いた。
「だが、君の最大の価値は『冷泉院家の血を引く』ことだ。だからこの結婚で、最低でも1人の子供を作らなければならない。これはこの契約の義務だ。生まれた子は東堂で引き取る手筈になっている」
「……承知いたしました」
透子はさすがに目を伏せた。
愛していないどころかろくに知らない男と夜を共にして、義務として子を産む。これほど残酷な話はない。
しかも生まれた子を育てることすら叶わない。透子の手には何も残らない。
口を閉ざした透子に、弦也は淡々と『契約』の内容を続けた。
「契約の期間は3年だ。3年が経過し俺の足場が固まった段階で、両家の合意のもと正式に離婚する。慰謝料と当面の生活費は相応の額を用立てる。それまでの間、東堂の看板に泥を塗らないよう、静かに暮らしてもらいたい」
一方的に告げられたのは、新婚の甘やかさとは無縁の条件だった。
子を生む契約と相まって、普通の女性であれば涙を見せてもおかしくない状況だ。
だが、透子の心は静まり返っていた。
東京の高度医療センターへ移送され、無事に最先端の手術を受けられた祖母の顔が浮かぶ。
数千万円を超える莫大な医療費をすべて負担してもらい、祖母の命を繋ぎ止めることができたのだ。 それに比べれば3年間の冷遇など、支払うべき対価として安いくらいだった。唯一心に引っかかるのは、子を産む条件。
(子供のことだって……この裕福な家で育てられれば、きっと幸せになれる。当主の弦也さんの実子であれば、冷遇されることはない。そう信じて送り出してあげなければ……)
「分かりました」
小さく痛む心を押し殺して、透子は深く頭を下げた。
「東堂家のご迷惑にならないよう、弁えて生活いたします。3年後の離婚についても、異存はございません」
「……反論はないのか」
あまりにも素直な承諾に、弦也は拍子抜けしたように目を細めた。
冷泉院家からの間者として、何か条件を吊り上げたり、取り入ろうとしたりする気配すら感じられない。「ございません。私には、祖母の命を救っていただいたことだけで十分な恩義があります。ここで求められる役割を果たすだけです」
「そうか。ならば、今の言葉を忘れるな」
弦也はそれ以上言葉を重ねることなく、手元の時計を確認した。
「部屋は2階の東側に用意させてある。必要なものがあれば相良に言え。俺は会社へ戻る」
背を向けて足早に部屋を出ていく弦也の背中を、透子は静かに見送った。
重い扉が閉まる音が、これからの3年間の始まりを告げていた。◇
◇ 新婚生活と呼ぶには、あまりにも静かで隔離されたような日々が始まった。弦也は毎朝、透子が起き出す前の早朝に屋敷を出ていき、深夜を回ってから帰宅する。
週末も書斎に籠もるか、社外での会合に追われてばかり。 同じ屋敷の中にいながら顔を合わせる機会は数日に一度、廊下ですれ違う程度だった。透子は『夜の生活』を強要されるかと身構えていたが、弦也にとっても見知らぬ女との同衾は気が進まないらしい。
寝室は分けられたままで、呼び出されることも彼が訪れることもなかった。
透子にあてがわれた部屋は、日当たりの良い広々とした客間だった。調度品は必要最低限で、生活感はない。
(静かすぎる)
弦也はもちろん、数多い使用人たちも透子へ積極的に近づこうとはしなかった。
身の回りの品を揃えたり、食事を出したりはしてくれる。
ただ遠巻きに、薄っすらとした隔たりと檻の中の動物を見るような好奇心を感じた。
透子は毎朝決まった時間に起きて、身の回りの片付けを自分で行おうとした。
「奥様、お部屋の清掃は私どもの仕事でございますので、どうかそのままで」
朝、ゴミ出しをしようと廊下に出た透子に、家政婦が慌てて駆け寄ってくる。
家政婦は50代半ばのベテランで、素早く透子の手からゴミの袋を奪い取ってしまう。「おはようございます。自分の使った部屋くらいは自分で整えたいのです。ずっとそうして暮らしてきましたから、体を動かしていないと落ち着かなくて」
「いいえ、どうぞそのままで。雑事は私どもの仕事でございます」
「大丈夫ですよ。弦也さんにはご迷惑をおかけしません。それよりもシーツの替えの場所だけ教えていただけませんか? 自分で替えますので」
透子は穏やかに微笑むが、家政婦は表情を消したまま首を振った。
「奥様の手を煩わせたと知られたら、私どもが叱られるのです。だからどうか、手をお離しください」
「…………」
ゴミ袋を奪われて、透子は立ち尽くす。
家政婦はすぐに立ち去った。再び部屋に静寂が戻ってくる。
透子は自らの両手を見た。祖母とともに技術を磨き、職人として働いてきた手を。
――何もできない。何もさせてもらえない。
無力感がちくりと胸を刺した。
8月の終わりが近づき、吹き抜ける風にほんの少しだけ秋の気配が混じるようになっていた。 東堂グループ本社ビルの会議室では、月例の取締役会が開かれていた。 長テーブルの端に座る弦也の叔父・東堂義隆が、手元の資料を机に叩きつけるようにして声を張り上げた。「いいか、今はグループ全体の利益率を最優先で引き上げるべき時期だ。地方にある採算の合わない関連工房や、昔からの付き合いだけで続いている古い取引先は、今期中にすべて契約を打ち切る。この合理化案に異論はないな」 義隆は周囲の役員たちを威圧するように見回した。 切り捨ての対象として挙げられているのは、先代である弦也の祖父が長年大切にしてきた伝統工芸の工房や、地方の老舗建材メーカーなどだった。いずれも高い技術を持っているが、近年は大量生産品の波に押されて利益が落ち込んでいる。 義隆の派閥に属する役員たちが、次々に賛同の声を上げた。「東堂専務のおっしゃる通りです。過去のしがらみにとらわれていては、株主への説明がつきません」「古い取引先を整理して、コストの安い海外の業者に切り替えるのが妥当でしょう」 会議室の空気が義隆の提案で決まりかける。 これまでの弦也であれば、全体の数字のデータだけを突きつけて義隆と真っ向から対立しただろう。 結果として中立派の役員たちから「若い社長は強引すぎる」と敬遠されていた場面だった。 だが今の弦也は違った。 弦也は落ち着いた動作で立ち上がり、プロジェクターに新しい資料を映し出した。「採算性の改善が必要だという点には同意します。ですが、それらの取引先を切り捨てることには反対です」 義隆が眉をひそめる。「ふん、また先代の思い出話でも持ち出すつもりか。経営に感傷は不要だぞ、弦也」「感傷ではありません。私は先週、リストに挙げられた7つの工房と取引先をすべて直接訪問し、現場の職人や責任者の方々と話をしてきました」 弦也の言葉に会議室の中がわずかにざわめいた。 多忙を極める社長が、自ら地方の小さな工場まで足を運んだとは思っていなかった
『弦也へ。 この手紙をお前が読む時、私はもうこの世にはいないだろう。 お前には、東堂の跡取りとして厳しい教育を強いてきた。 憎まれても仕方がないと思っている。それが東堂を背負う者の宿命だからだ。 だが、お前が重責に押し潰されそうになった時、この庭の光を思い出してほしい。 一緒に泥だらけになって遊んだ夏の日のことを。 私は東堂の跡取りとしてではなく、お前自身の健やかな笑顔を何より愛していた。 どうか、自分をすり減らすだけの人生は送らないでくれ。 お前の幸せを、心から願っている。』 ――お前の幸せを、心から願っている。 その一文を読んだ瞬間。 弦也が長年身にまとっていた冷たく分厚い鎧が、音を立てて崩れ去った。 自分は駒などではなかった。 祖父は、自分を道具として見ていたわけではなかった。 厳しい態度の裏でずっと彼のことを案じ、愛してくれていたのだ。「……ああ」 弦也の口から、くぐもったような声が漏れた。 彼は両手で顔を覆った。 ずっと押し殺していた感情が、行き場を失ってあふれ出す。「俺は、自分自身が東堂の駒としてしか価値がないと……そう思っていた」 弦也の肩が、小さく上下に揺れた。「だが……違ったのか」 嗚咽が室内に響く。 東堂の当主として、決して見せてはならない弱さ。 けれど涙をこぼすのと同時に、弦也の中で失われていた生きる気力と人間らしい感情が急速に満ちていくのを感じていた。 孤独な戦いの中で見失っていた、自分自身の存在価値。 それを祖父の言葉が救い上げてくれた。 しばらくして、弦也はゆっくりと顔を上げた。 充血した目で、透子を見る。 彼女は何も言わず、ただ静かにそこに立っていた。「君が……祖父の心を、救い出してくれたのか」 弦也
長年荒れ果てていたはずの庭。それがいつの間にか、夏の花々が咲き誇る美しい姿に変わっていた。 ひまわりが西日を受けて黄金色に輝き、サルスベリの鮮やかな花が風に揺れている。 その光景を見た瞬間、弦也の胸の奥で何かが小さく動いた。 理由のわからない郷愁が心の奥底にある。喉の奥が詰まるような切なさがこみ上げる。 この景色を知っている。どこかで、こんな風に咲く花を見た記憶がある。 けれど心を固く閉ざしすぎた弦也には、それがいつの誰と過ごした記憶なのか、具体的に思い出すことができなかった。 ただ、その景色がひどく温かいものだったという感覚だけが、空虚な心の中に取り残されていた。 コンコン、と控えめなノックの音がした。「……入れ」 弦也が窓辺から振り返ると、ドアが開いて透子が入ってきた。 両手で平らなボードのようなものを抱えている。「仕事中だ。用件は手短にしろ」 弦也は冷たい声を出した。 透子は足を止めて、弦也を正面から見つめた。「絵の修復が終わりました」 その言葉に、弦也はわずかに目を細めた。「終わった? 予定よりも早いが、こんなに短期間でか」「はい。汚れを落とし、元の色を取り戻すことができました。弦也さんに見ていただきたくて」 透子は抱えていたボードをデスクの上で裏返す。 弦也はゆっくりとデスクに近づいた。 あの黒ずんでひび割れていた廃品のようなキャンバス。 弦也の凍えた心を現すようで、本当は手元に置いておきたくなかった。 いっそ捨ててしまいたかったけれど、どうしてかそれもできなかった。 そこに現れた光景を見た瞬間。 弦也は、足が床に縫い付けられたように動けなくなった。 眩しい夏の光の下、鮮やかなひまわりとサルスベリが風に揺れている。(この風景は) それは、つい先ほど窓から見下ろしていた庭の景色そのものだった。 そして同時に、弦也の脳内にひ
透子は作業台の上で鮮やかに蘇った絵画に視線を向けた。(でも、あれほど美しい庭の絵を遺した人だもの。きっと悪い内容ではないはず) 眩しい夏の光と、生き生きと咲く夏の花々。 こんなにも温かい風景を大切にしていた人が、孫を傷つけるような言葉を遺すとは思えなかった。「大旦那様は、どのようなお気持ちでこの手紙を忍ばせられたのでしょうか」 相良が折りたたまれたままの和紙を見つめて、静かな声で言う。「弦也様は、大旦那様から厳しく接せられた記憶ばかりを抱えて、誰にも頼らず心を閉ざしてしまわれました。この手紙に何が書かれているかは分かりませんが、大旦那様の本当の思いが記されているのかもしれません」「ええ、私もそう思います」 透子は頷き、顔を上げた。「相良さん。私、これを弦也さんに届けます。今すぐに」「奥様……」「絵の修復は終わりました。木枠の調整は後でもできます。でも、この手紙は私たちが中身に触れることなく、1日でも早く弦也さんご自身の手で開いてもらわなければならないと思うのです」 相良は深く頷いた。「おっしゃる通りです。旦那様は本日、休日ですが書斎でお仕事をされています。どうか、そのままお持ちください」 透子はキャンバスを仮のボードに固定し、未開封の手紙をその横に添えて抱え上げた。 アトリエを出て2階の書斎へと向かう。 彼の固く閉ざされた心の扉を、この手紙と絵が開いてくれるかもしれない。 そんな淡い期待を胸に、透子は階段を上っていった。◇◇ 書斎の空気はひどく重かった。 東堂弦也はデスクの前に座り、スマートフォンを耳に当てていた。「……だから、その提案は却下だと言っている。親族の意向など関係ない。市場の動向を無視した投資は、会社の寿命を縮めるだけだ」 電話の向こうで、叔父の1人が声を荒らげているのが聞こえる。 弦也は冷ややかに言い放った。
さらに数日後。 画面全体のクリーニングが完了し、絵は描かれた当時の鮮やかさを完全に取り戻していた。 その絵は夏の東堂邸の庭を描いたもの。 ひまわりやサルスベリが咲き誇り、生命力に満ちている。 画家ではない弦也の祖父の筆だが、生き生きとした筆致は庭と植物を愛しているのだとよく伝わってきた。(素敵な絵……。この風景をなくしてしまわないで、本当に良かった) 透子は絵画を眺めて、ほうと息を吐いた。 早く弦也に見せてやりたかったが、修復はこれで終わりではない。 キャンバスを張っている木枠が長年の湿気で歪んでいるので、このままでは再びキャンバスの張りが緩んでしまう。 そうなれば絵の具に亀裂が入ってしまうだろう。取り返しがつかなくなる。 透子は木枠の歪みを補正するため、キャンバスを木枠から一度外すことにした。「相良さん、少し手伝っていただけますか?」 修復の様子を見に来た相良に声をかける。「はい、奥様。何をすればよろしいでしょうか」「キャンバスを留めている釘を外すので、絵が動かないように軽く押さえていてほしいのです」「承知いたしました」 相良が作業台の向かいに立ち、キャンバスの縁を慎重に押さえる。 透子は専用の釘抜きを使い、古い釘を一本ずつ抜いていった。 長年打ち込まれていた釘は錆びており、力を入れる角度を間違えればキャンバスを傷つけてしまう。「かなり古い釘ですね。錆が深く回っています」 相良が言う。「ええ。木枠も随分傷んでいますから、新しいものに交換した方がいいかもしれません。でも、できるだけ元の部品を残したいので、まずは歪みを矯正してみます」 最後の釘を抜き終えて、透子はキャンバスを木枠からそっと剥がした。 その時だった。 キャンバスの裏打ち布と木枠の内側のわずかな隙間に、何か薄いものが挟まっているのに気がついた。「あら……これは?」
「……よし、この配合でいけるわね」 透子は小さく呟いて、本格的な除去作業に取り掛かった。 作業は1センチ四方ずつ、気の遠くなるようなペースで進められた。 溶剤を含ませた脱脂綿で軽く拭い、すぐに乾いた脱脂綿で余分な溶剤を吸い取る。その繰り返しだ。 数日が経過する頃には、画面の半分ほどから黒ずんだ汚れが消え去っていた。 透子は作業の手を止めて、全体を見渡した。「本当に、きれいな色……」 汚れの下から現れたのは、驚くほど鮮やかな色彩だった。 眩しい夏の太陽の光が描かれている。空はどこまでも青く澄んでいる。 画面いっぱいに咲き乱れるのは、夏の花々。 大輪のひまわりが太陽に向かって顔を上げて、サルスベリの鮮やかなピンク色の花が枝を彩っている。 木漏れ日が地面に柔らかな模様を描く。その光の描写は、描いた画家の温かい眼差しを感じさせるものだった。 ふと。透子は、この風景に見覚えがあることに気がついた。「これは、もしかして……?」 彼女はアトリエの窓から、外の庭を見た。 使用人の青年が、額の汗を拭いながら芝生に水を撒いている。最近の彼はすっかり庭師業が板についてきた。「あ、奥様! 今日もいい天気ですね。ひまわり、すごく元気ですよ!」 青年が窓の向こうから手を振った。 彼の向こう側には花壇が整えられていて、ひまわりが夏の太陽をいっぱいに浴びていた。「ありがとう。お水やり、ご苦労様」 透子も笑顔で手を振り返した。 東堂邸の庭は透子が自ら草を抜き、剪定し、手入れを続けてきた。 改めて絵を眺める。 絵の中に描かれているサルスベリの木の位置と、ひまわりの花壇の配置。 ゆるい弧を描き庭の奥へと続く、石畳のカーブ。 木々は育って大きくなり、花の種類も少しだけ変わっているが、それは透子がこの数ヶ月で整えた現在の庭の風景と重なっていた。







