Masukスタジオはまだ準備の途上にあったが、紬は病院で時間を無駄にすることを惜しみ、その日のうちに退院の手続きを済ませた。遊園地の責任者が賠償の合意書に署名を求めて病院を訪れた時には、すでに彼女の姿はなかった。あまりに突然の惨事に、現場に居合わせた子連れの親たちは、今なおその恐怖から抜け出せずにいた。遊園地側が被った損失もまた、甚大なものであった。紬には、どうしても腑に落ちないことが一つだけあった。「なぜ、閉まっていたはずの窓が、勝手に開いたのだろう」あの観覧車は一般的な遊覧用のものとは違い、窓はスタッフが遠隔で操作しない限り開かない仕組みになっていた。事故当時、完全な制御不能に陥ったのは、紬と芽依が乗っていたゴンドラだけだったのである。「綾瀬様、この件につきましては必ず厳正に調査し、結果をご報告いたします」責任者は紬に向かって深く頭を垂れた。その謝罪には、偽りのない誠意が滲んでいた。双方が賠償金の支払いについて合意し、署名を交わした上で、紬は調査の結果を待つことにした。六月の末、スタジオの準備が万端に整った。紬はそこに自らの希望のすべてを託し、スタジオを「Nirvana(ニルバーナ)」と名付けた。その間、成哉は頻繁に悠真を連れてスタジオに顔を出した。「お前の息子だ。責任を持って面倒を見ろ」幸いなことに、今の悠真はすっかり聞き分けが良くなっていた。以前のように騒ぎ立てることもなく、望美のことに至っては一言も触れようとしなかった。紬はスタジオで悠真に宿題をさせながら、共に時間を過ごした。新しく採用されたスタッフたちも、皆こぞって彼を可愛がり、何かと気にかけた。そんな日々が続くうち、成哉が自ら送り迎えに現れる頻度も、次第に増えていった。「Nirvana」が正式に開業する前夜、理玖は紬を月汐岬へと誘った。「開店祝いのプレゼントを用意したんだ」「プレゼント?」紬は、ただ食事に誘われただけだと思っていた。二人はレストランの海に面したテラスに立っていた。次の瞬間、夜空を無数の花火が駆け上がり、息を呑むほど美しく咲き誇った。紬は思わず口元を押さえた。三日月のように細められた瞳が、またたく間に驚きと感動に見開かれる。花火の宴は十分間にもわたって続き、最後は夜空に大きなハートが描かれて
悠真は焦燥に駆られ、成哉の腕を掴んだ。――火に油を注いでどうするんだよ、パパ!成哉の身体が微かに震えた。「……今、何と言った?」悠真は、事の顛末を必死に説いた。「ママは芽依ちゃんを喜ばせたくて、一緒に観覧車に乗ってあげたんだ!それに、芽依ちゃんが落ちそうになった時、支えてくれたのはママなんだよ!どうしてそんなふうに、何もかもママのせいにするのさ!」悠真は今にも泣き出しそうな剣幕だった。「芽依ちゃんだってママが産んだ子なんだ。ママが芽依ちゃんを傷つけるわけないじゃないか!」「成哉!」望美が血相を変え、足早に駆け寄ってきた。「紬さんも、ただ芽依ちゃんを遊びに連れて行きたかっただけなのよ。大丈夫、まずは芽依ちゃんが目を覚ましてから、状況を確認しましょう」成哉は押し黙った。だが、その視線は依然として、紬と理玖が握り合ったままの手に注がれている。望美は、悠真の最後の言葉が成哉の胸にどこまで届いたのか測りかね、内心穏やかではいられなかった。「……二度とこのようなことは起こすな」成哉は冷ややかに言い放つと、悠真を伴ってその場を去った。「紬さん、成哉は今、心身ともに本調子ではないの。彼の前であまり余計なことを吹き込まないでちょうだい!」理玖がいる手前、望美の言葉はあからさまな脅しではなかったが、その声には紛れもない棘が潜んでいた。言い終えると、望美もまた急いで二人の後を追った。紬は深い徒労感に包まれた。だが、ふと掌に残る温もりに気づき、頬を染めて反射的に手を引いた。「……芽依ちゃんの様子を見てくるわ」そう言い残し、彼女は逃げるように病室へ駆け込んだ。理玖は彼女の赤くなった耳朶を見つめ、口の端を微かに綻ばせた。――非常階段の踊り場で、望美は成哉たちを追うのをやめた。彼女の胸には、拭い去ることのできない不安が渦巻いていた。紬に言われた通り、成哉に真実を隠しおおせる時間は、もはや長くは残されていないだろう。彼女は治に電話をかけた。「計画を早めて。もう一刻の猶予もないわ」一方、成哉は悠真を連れて病院を後にした。「パパ、ママにあんな態度を取っちゃダメだよ!このままじゃ本当に離婚しちゃう。パパはあんなにママを大切にしていたのに、記憶がないからって、どうしてそんなに冷たくできる
密集した地上の群衆の中に、駆け寄ってくる一人の男の姿が見えた気がした。紬は最後の力を振り絞り、芽依の身体をゴンドラの内側へと押し戻す。意識を手放す直前、耳を裂くような「ママ!」という叫びが響いた。――紬が再び目を覚ましたとき、視界に広がっていたのは見慣れた病室の白い天井だった。そっと手首を動かした瞬間、「……いたっ」と思わず痛みに息を漏らす。「気がついたか?」そのかすかな動きに反応して、一人の男がすぐさま歩み寄ってきた。理玖だった。その表情には、珍しく張り詰めた緊張の色が浮かんでいる。「神谷……さん。私、たしか遊園地にいたはずじゃ……」紬の声は乾ききっていた。理玖は手際よく水を注ぎ、コップを差し出す。「ああ。観覧車で事故が起きた。君と娘さんが乗っていた最後の一台だけが、取り残されたんだ」紬は水を一口含み、不安げに周囲を見渡した。「芽依ちゃんは……?」「救出された時、ショックが大きくて気を失っていたが、命に別状はない。もうすぐ目を覚ますはずだ」理玖は努めて冷静に説明した。紬は小さく頷く。あの極限の光景が、脳裏に鮮明によみがえった。芽依にどれほど失望していようと、母としての本能は、死に物狂いで娘の命を救うことを選んでいた。後悔するかどうかは分からない。けれど、あの瞬間、迷いは一切なかった。自分が手塩にかけて育てた子どもが、目の前で死んでいくのを、ただ見ていることなどできるはずがない。――あまりにも残酷すぎる。あの子は、まだあんなに小さいのだから。紬は密かに息を吐き、布団をめくった。理玖が慌てて駆け寄る。「どうした?」「あの子の様子を見に行きたいの」蒼白な顔で、それでも紬は微笑んだ。理玖は観念したように肩をすくめる。「……分かった。俺が付き添う」断ろうとも思ったが、この体調では途中で倒れてしまうかもしれない。紬は素直に彼の腕に身を預けた。「ええ、お願い」病室へ向かう途中、理玖がまだこの件を祖父に知らせていないことを知り、紬は胸を撫で下ろした。「伝えないでいてくれて、ありがとう」そう微笑むと、祖父の顔が脳裏に浮かぶ。きっと知れば、また心配で白髪を増やしてしまうに違いない。少し離れた場所で、成哉が医師から芽依の容態を聞き終えたとこ
「そうそう、暑い日はね、悩みなんて全部アイスクリームが解決してくれるのよ」唯は夢中でそれを頬張っている。小さな口のまわりは、溶けたアイスでべたべただ。紬はその様子に目を細め、持ち歩いていたティッシュを取り出すと、そっと口元を拭ってやった。「ゆっくり食べなさい。ほら、口のまわりが大変なことになってるわよ」唯は「えへへ」と無邪気に笑った。悠真と芽依の兄妹は、その光景をぼんやりと眺めていた。以前、母もああして自分たちの世話を焼いてくれていた気がする。二人は手にしたソフトクリームへと視線を落としたが、どこか上の空で、味すらよく分からなかった。園内のアトラクションをほとんど遊び尽くしたあと、芽依が観覧車に乗りたいと言い張った。一方で、悠真と唯はバンパーカーを望んでいる。結局、紬が公平を期して、じゃんけんで決めることになった。勝ったのは芽依だった。「やったあ!みんな、私の言うことを聞いてよね。観覧車に行くわよ」「ふん、僕は行かないよ」悠真はそっぽを向いた。「勝った人が決められるってだけで、一緒に行かなきゃいけないなんて言ってないだろ」「お兄ちゃん、ずるい!」芽依は納得がいかない。唯は目をぱちくりさせながら、ひょいと手を挙げた。「物乞いのお兄ちゃんが行かないなら、私も行かない」芽依は唯を睨みつけ、悔しさのあまり今にも泣き出しそうになった。「みんな嘘つき!約束を守らないなんて!」紬が子どもの日のプレゼントを買い終えて戻ってくると、三人が言い争っているのが目に入った。悠真が昔から高所恐怖症であることを知っている紬にとって、観覧車を嫌がるのも無理はない。だが、悲しげにうつむく芽依の姿を見て、彼女は小さくため息をついた。結局、スタッフに悠真と唯を見守ってもらうよう頼み、自分は芽依を連れて観覧車へと乗り込んだ。だが、芽依は思ったほど嬉しそうではなかった。道中、ずっと黙り込んでいる。観覧車が頂上に差しかかったとき、芽依は盗み見るように紬を見やり、小さな声で問いかけた。「ママ、私のこと、可哀想だって思ってるんでしょ」「ないよ」紬はポケットに手を入れたまま、窓の外の景色を見つめていた。「嘘つき。ママは昔、約束は絶対に守るものだって言ってたのに、お兄ちゃんのわがままは許す
「僕だって、芽依ちゃんに来てくれなんて頼んでない!そんなに嫌なら、凛花おばさんと一緒に帰ればいいだろ!」悠真も負けじと声を荒らげた。妹が自分を愚か者だと見下していることはわかっている。だが、自分は決して愚かではない。無条件に味方でいてくれるのは、いつだってママだけだ。望美という女が優しいのは、ただパパがいるからに過ぎない。あんな人間を善人だと信じているのは、妹のように単純な人間だけだ。自分もかつては一時、目が眩んだこともあったが、今はもう違う。「……最低!お兄ちゃんなんて、大っ嫌い!」芽依は言葉を詰まらせ、みるみるうちに瞳を潤ませた。こみ上げる怒りと悲しさに、その場でわっと泣き出す。だが、以前なら泣けばすぐに駆け寄ってくれたはずの母親は、ただ黙って佇んでいるだけだった。「いつまでも泣いているなら、先に行くわよ」紬は悠真の小さな手を引き、凪いだ海のように静かな表情で告げた。芽依は慌てて涙を拭い、文句一つ言えず、しゃくりあげながら後を追うしかなかった。玄関を出ると、紬は向かいの部屋のチャイムを鳴らした。「はーい!」弾むような少女の声がして、すぐにドアが開かれる。小さなリュックを背負った唯が、二つに結んだおさげを揺らし、屈託なく挨拶した。「きれいなおねえちゃん!もう行くの?」「ええ、そうよ」紬は優しく微笑み返す。もともと今日は遊園地へ行く予定はなかった。だが、こどもの日だというのに唯が一人で寂しく留守番をしていると知り、放ってはおけなかったのだ。それならば、帰国したばかりの双子も一緒に、と考えたのだった。唯は紬の陰からひょっこりと顔を出し、悠真に声をかけた。「やあ、物乞いのお兄ちゃん。久しぶり」悠真がはにかみながら返事をしようとしたその矢先に、芽依が堪えきれずに声を張り上げたのは。「ちょっと、失礼でしょ!どうして勝手に物乞いなんて呼ぶの!それに、彼は私のお兄ちゃんであって、あなたのお兄ちゃんじゃないわ!」「きれいなおねえちゃん、この子、すごく怖い……」唯はか弱い仕草で紬の背に隠れた。紬は眉根を寄せる。「……芽依」「これは僕と唯ちゃんの合言葉なんだ!彼女が僕をなんて呼ぼうと関係ないだろ!芽依のほうが失礼だよ!」悠真も不満を滲ませた声で言い返した。誰一人、自分の
芽依は呆然とした表情を浮かべた。「まずは手を洗って」紬は二人を洗面台へ連れていき、袖をまくって蛇口をひねった。芽依は唇を尖らせる。――ほら、始まったわ。ママはいつもこうして、あれこれ口うるさく決まりごとを押し付けてくる。心の中で毒づきながらも、その手は無意識に石鹸を取り、これまで紬に教え込まれてきた通り、三分間かけて丁寧に手をこすり合わせていた。「手、洗えたわ」芽依は小さな手を高く掲げた。以前なら、手を洗い終えると、紬は決まって頬にキスをして、「よくできたわね、いい子ね」と褒めてくれた。けれど今回は、どれだけ手を掲げても、紬が動く気配はない。紬はふとした合間に彼女を一瞥し、淡々と言った。「ええ、それでいいわ」芽依の瞳に、かすかな失望がよぎる。だがすぐに、そんなのどうってことないと自分に言い聞かせた。「いつ遊園地に行くの?まさか子供だましみたいな場所じゃないでしょうね。あんな幼稚なところ、私は行きたくないわよ」芽依は腕を組み、つま先立ちになってみせた。子供でありながら、大人びた態度を装う。紬はわずかに口角を上げた。「もう一人来るから待っているの。すぐに出発するわ」芽依は眉をひそめ、問い詰める。「他にも誰か来るの?託児所でも始めたわけ?」「もし嫌なら、凛花おばさんはまだ遠くへは行っていないはず。一緒に帰ってもいいわ」紬はペーパータオルで手を拭きながら、さらりと言った。芽依は顔を背け、唇を突き出して不機嫌さを露わにする。今にも癇癪を爆発させそうな様子だったが、必死にこらえている。紬はそれを、あえて見て見ぬふりをした。一方で、悠真は終始けなげに振る舞っていた。「ママ、この前の母の日は国内にいなかったから、手作りのプレゼントを持ってきたんだ。夜に開けて見てね!」悠真は小さなリュックから、丁寧にラッピングされた箱を取り出した。紬は一瞬、言葉を失った。息子から最後にプレゼントをもらったのは、彼が三歳の時のことだ。その年、彼は託児所に預けられたばかりだった。初めての母の日の贈り物は、オイルパステルで描いたママの似顔絵。決して上手とは言えなかったが、その絵を紬は今でも大切に保管している。妹の芽依もそれを見習い、負けじと粘土で小さな人形を作ってくれ